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専光寺の成り立ち


専光寺のあるところは、旧国名は備後の国です。親鸞聖人の弟子で、明光上人という方がおられて、遠く鎌倉から備後に派遣され、海岸に近いところを拠点にして、布教伝道活動をされました。その教線は内陸部に急速に広がり、数多くの傘下寺院を建立していきます。お陰で津之下もご法義が大繁盛をしていきます。やがて、戦国時代や安土桃山時代を経て、徳川の時代となります。すでに落城した神辺城や地元明智城主の血を引き「藤井」姓を名乗る者達が、幾つかの寺院を創建し、信仰を深めつつありました。将軍家康の従弟水野勝成が宰地備後に入国し、福山城下町を造るに当たり、近郊の有力寺院を寄せ集めました。城下町へは2里近くありましたが、信仰の拠点を奪われた「藤井」一族が、このことを残念に思い建立したのが、専光寺です。隣にあった城山の中腹、館跡が専光寺境内となりました。石垣はその遺構です。今から約400年前のことです。よって専光寺の存在意義は「信仰」第一であったと言って良いでしょう。周りを真言宗寺院の教線に取り囲まれ、苦労しながら、信仰の純粋性を保とうとしてきた寺院です。いきおい寺中心の生活があったと考えられます。「津之下門徒」の発生です。専光寺への聴聞は当然ですが、城下町のお寺への聴聞も、夜な夜な2里の道を厭わず、通い詰めた歴史を持っています。もともと「藤井」一族は春日神社を、近くの島に創建していましたが、神仏は分離されて、混淆していなかったので、廃仏毀釈の影響は受けませんでした。しかし、明治4年の「学制頒布」の折には、今まで浄土真宗門徒だけで、純粋培養的に経営されていた「寺子屋」を閉鎖させられ、真言宗地域の児童達と一緒に通う義務教育制が布かれたが、津之下門徒は、これに対し「同盟休校」をもってし、強烈に反対しました。真言宗檀家の生活の仕方と純粋教化された浄土真宗の門徒の生活はまるきり違っていたのでしょう。浄土真宗部落の津之下と他宗派(とくに真言宗)部落との婚姻が、宗旨の違い、よって生活様式の違いを理由に為されなかった歴史を持っています。もちろん現在はそういうことはありません。第二次大戦中は梵鐘を供出しましたが、戦後、昭和40年、新造しました。専光寺は地主的な面も持っていたようで、農地解放で農地の大半を失い、財政的には困難な状況となりました。戦後、先々代が、それまで勤務していた司法省(教戒師)を退職し、ついで小学校教師の前住が養子として入寺し、日曜学校や法座も栄えて、境内の松に登って、聴聞するものも出るくらい、ご法義が繁盛した時期もありました。昭和40年頃から、日本鋼管が進出して、世界一の生産を誇る福山製鉄所が出来、人口は8万人から約50万人(平成22年)に膨れあがりました。専光寺の位置する大門町には、日本鋼管の団地が間近に建ち並び、初期の造成団地の住民は同じ小学校の区域だったり、中学校が同一になったりしました。これによって、福山中央からは郊外的イメージのある町であった大門町も、日本鋼管(現JFE)の町に変わりました。お寺の門信徒も少しずつ増加し、今では出入りも激しいので、定着的な数字はあげられませんが、相当数は増加し、境内も人の出入りで賑わっています。現在の法座は年間20回以上開かれ、多くの聞法者に参詣していただけるようにしております。また仏教讃歌隊など大人中心の集いを月15回以上、子育て支援や子供のコーラスなど子供対象の集いを月10回位しております。

現在の伽藍はいつできたものでしょうか。

現在の本堂は、昭和6年に築造されました。今は取り除かれてほぼ平たい団地の中になりましたが、昭和45年頃までは本堂の左側と後ろ側は切り立った山地で、本堂にぎりぎりに接していました。本堂の前、つまり東南側は崖で、本堂の右、東側に庫裡があります。庫裡の右、東側は深い崖となっています。つまり、2方面を山で囲まれ、残る2方面を崖で切りたてられていました。そういう境内地に、現在の本堂が新築されました。当時200軒弱の門徒が、未曾有の経済的危機の最中に、自ら出せる材木は寄付をして、門徒総出で本堂を建てました。この本堂は他の寺院と違って、村中の地方大工、しかも門徒だけが集まって、あちこちの寺院を精細に観察・勉強し、自ら図面を引いて、技術を練り、門徒中挙げて労力を提供し、完成したのです。昭和4・5・6年、3年かかって出来上がりました。彫刻は大工の某が、勉強にいって、自分の納屋に本材を持ち帰って、夜な夜な彫り上げていったのです。門徒中、総揚げで、手作りの伽藍です。

本尊と寺報について

本尊は阿弥陀如来像です。木造の立像です。浄土真宗は、明治以後は本末関係を解消し、全寺院が平等な形で、京都の本願寺に直結し、全て本願寺末となりました。専光寺の本尊と由緒が書かれた、木像の阿弥陀如来様が福山市内中央の有力寺院にあるそうです。理由は分かりません。

寺報は「平等覚」という名前で、専光寺新聞として、不定期に発行していましたが、現在休止中です。テレフォン法話は、平成元年6月頃から現住職が開始し、平成3年夏頃から現副住職が現在に至るまで、放送し続けています。毎週月曜日に、新しい法話に吹き替えています。一週20度数から40度数の電話聴聞者がいます。最大の電話聴聞数は開始した頃の約100度数の聴聞者です。

常例布教は、8月と10月を除いて、毎月10日午前中のみ行われています。大体20から35名くらいの聴聞者があります。

浄土真宗本願寺専光寺(音楽寺)ゆえん

浄土を現した経典によりますと、浄土とは光と音楽の世界であると述べているようであります。光とは智慧のことであり、具体的には仏が示してくださるあたらしい価値観であります。人間的な愛と憎、有用・無用、経済的価値の有無などによる価値観とは異なった、たとえば病気にせよ、死別の悲しみにせよ、それらすべてのものを肯定する価値観のことであります。

音楽といいましても種々様々でしょうが、音楽は人の魂をその世界に導く働きをします。故郷の歌を歌えば、幼き日々の数々の懐かしい思い出に浸りますし、恋の歌を歌えば切なさに胸が締め付けられます。そのように清らかな讃歌を歌えば仏の慈悲にこころがなごみます。

また浄土は「宮・商自然にあい和す」と表現されています。宮や商は東洋音階の不協和音ですが、この世では調和しない宮と商でも浄土では美しいハーモニーを奏でる、そういう世界が浄土であるというのです。

古来宗教は音楽と深く結びついているようです。崇高な音楽を奏で、聖なる歌を歌って聖なる世界にこころ遊ばせ、そのような音楽を聴いて、清浄な世界に共鳴するのです。そういう世界として浄土は語られていますが、その光や音楽は浄土だけでなく、仏の働きが機能するここにも同じようにはたらいているのです。

勧学 霊山勝海 和上