命がけのインド旅行
(from 00/11/21 to 最終更新日01/05/15)
突然の怒声があがり5丁の自動小銃の銃口は、私にむけられた。
222ドルの身代金を払って、私は危機から脱出した。
この題をみて「大げさな」と眉をひそめる方もいらっしゃることでしょうが、でも本当に「命がけ」の事件にまきこまれたのです。
決して、いじきたなくなにやかや食べて、インドの強烈な病原菌でひどい下痢にでもなったんだろう・・・・などというような話ではありません。
「インドの神が下した天罰だろうと」いう説も流布されているようですが、私はりっぱにこの試練を切り抜けた自分をほめてやりたい。
スリルとサスペンスのスペクタクルは読んでのお楽しみとします。
なぜ海外旅行なのか
で、なぜインドに旅したのかということでありますが、大きな2つの理由があります。
その1 水島協同病院のコンピュ−タ−システムの管理を業務として以来、常に精神的緊張状態が続き、メンタルヘルスに問題があることを自覚しています。
つまり、いつシステムが故障するのか・どこが故障してシステムが作動しなくなるだろうか・どう対処すべきか・あの業務処理システムのロジックはどう組み立てようか・・・・というようなことを寝ても覚めても頭のどこかの隅でいつも考えていて、実際に出張先に「今、動かなくなっています。どうしましょうか。帰ってきてくれませんか。」などという電話がかかったこともあるわけです。
つまり、未知との遭遇状態が常に想定される毎日であり、そのミゼラブルな現実からヘドロが蓄積してしまうので、これを除去してやらないと脳みそと精神活動が腐乱しかねません。
というわけで、年に1回は、メンタル・ヘルスのために、コンピュ−タ−・システムについて全く考えなくても良い日、たとえシステムが故障しても私にその対処について連絡しようのない日(この間は、病院のレスキュ−チ−ムを信頼してゆだねる)を数日間つくることとしています。
つまり海外旅行(極貧旅行ですが)で異文化にひたり、精神的クリ−ンアップをはかるということです。
中古車も買わずに、車検2年つきで7〜8万円の本古車を買って、浮いただろうと想定されるお金を活用すれば、貧乏な海外旅行ができる算段です。
ちなみにこの度の9日間のインドなどへの旅費とNGO会議参加費は、身代金222ドルの支払いも含めて約25万円かかりましたが、とんでもない異文化世界の危険を味わうことができました。
なぜインド旅行なのか
その2 なぜインドなのかということですが、実はアジアの環境NGOの国際会議がインドのアグラであったからです。
海外旅行を観光だけにしてしまっては、もったいないし、日本のその道の一流とされる方と知り合いになれて、アジア各国のその国の一流の方とも親しくなれて(今回は、タイの女性の大学教授で環境法学を専門とする方と親しくなれたので、今度タイを訪問したらおいしいタイ料理を御馳走してもらえる約束になっています)、世界の方々との交流や文化の相互理解を深めることができ、しかも経費も安くつくのは、こうした会議に参加するのが一番良い方法だと思っていたからです。
アグラといえば、あの美しいタ−ジマハルのある町です。
タ−ジマハルを実際にみれるだけでもワクワクしそうなのに、勉強までさせていただけて、お知り合いの人脈をひろげさせていただけて、こんなお得な海外旅行はない、ということで、岡山大学時代の恩師をおさそいして(日程は、都合が悪くて旅の後半で一緒となった)インドへと乗り込んだわけです。
出発は9月20日
朝5時半に家をでて、倉敷駅から電車にのる。
さあ、これで自由の天地だ。
しっかりみてやろうと好奇心と期待が、そしてなにより開放感が全身にみなぎってくる。
岡山駅より「こだま」、新大阪より「はるか」で関西国際空港へ。
インド直行便ではないけれどシンガポ−ル航空は、安いのと安全性で利用することとなった。(この時点では、航空機事故のない世界的にも優秀安全な会社であったが、このあいだの2000/11/01に台湾で離陸失敗でジャンボが大事故をおこした。)
ちなみに関空〜シンガポ−ル、シンガポ−ル〜ニュ−デリ−、ニュ−デリ−〜シンガポ−ル、シンガポ−ル〜クアラルンプ−ル、クアラルンプ−ル〜シンガポ−ル、シンガポ−ル〜関空のコ−スで15万円程度。
直行便なら関空から8時間でニュ−デリ−に着くのに、シンガポ−ル経由のため最低でも12時間はかかるという不便はあるが、帰りにマレ−シアも訪問する計画なので、その点では都合が良い。
「出発の2時間前までにシンガポ−ル航空のカウンタ−で搭乗手続のチェックインを済ませるように」とあらかじめ連絡もらっていたので、さっさと手続きして、荷物はニュ−デリ−空港送りにして、やれやれとスタンドで紅茶とサンドイッチの朝食。
少々早いけれども、と出国手続きに入ったところ、長蛇の列で大混雑となっていた。
私の番になるまでに30分以上かかった。
台湾行きの団体客が、出発時間になっても出国手続きの順番がこないと、赤くなったり青くなったりしていたが、航空会社の係員が探しに来て、待っている人に頭を下げて、列の先頭にさせてもらって、やっとのことで団体を搭乗口の方にひきつれていった。
ということで、搭乗口の待合についたときには、出発の50分前、決して早すぎる時間ではない。
関空の出国手続それのみで、安全パイをみこして1時間かかる場合もあると想定しておくこと、今後の教訓としよう。
さて、搭乗して一番に感じたこと、スチワ−デスさんの体型の違い!。
とにかく、超なで肩でウエストが超引き締まって、ヒップは丸くパンと張って、ボインでという「スマ−トでグラマ−で丸みががって」、これは日頃見慣れている日本人の体型とは違いすぎたので、人種の違いを意識させられました。
よくバリ島などの宣伝写真やジャワ島の神につかえる巫女さんの踊り姿というような写真にでてくるのとそっくりの柔らかそうな体型。
アジア南方の女性はなるほどこんな体型なのかと、認識を新たにして、なにか胸がワクワクしてきました(僕もまだ若いな−)。
いよいよ日本脱出とうれしくなる。
12:00関空を離陸した機は淡路島上空〜高知市上空をへて足摺岬上空は30分後に通過、そこからやや左に、約1時間で奄美大島と思われる上空を通過、沖縄本島の南を通過してフィリピン上空を通って(フィリピンの島影は、雲の層の下で残念ながらみえなかった)シンガポ−ル空港ヘは日本時間18:10頃着陸した。
機中で家に忘れ物をしてきたことに気付く。
飛行中の座席で首に巻いて頭を安定させて、睡眠中の首や肩の疲労をなくす便利グッズの空気枕とホテルではくスリッパである。
今回の旅は、安上がりにするために、帰りのインド〜シンガポ−ルとシンガポ−ル〜関空は飛行機泊が2回で、ホテル代を浮かせる日程になっているから、あの便利グッズは必需品として準備してあったのに・・・・。
機内の昼食は14:00。
とりあえず飲みものは、今回の旅の成功を願ってシャンペンとして、トマトジュースを追加した。
メニューは和食を食べ納めとして選んだが、牛肉の味付け煮物の塩味が濃すぎたこと、ソバもパサパサ、残念ながらあまりおいしくなかった。
デザートはアイスクリームだった。
シンガポール手前でもなにやらオヤツが出されたが、6時間近く座りっぱなしで体を動かしてないので食欲がなくことわった。
隣と付近に座った堂々とした体格の中年の関西の女性数人のグループは、よくまあ話がつきんことだとうんざりするほどしゃべりあって、ゲタゲタクツクツと笑いあっていたが、食事もパクパクと勢いよく平らげて、オヤツもきれいに平らげて、なんとま−元気なこと。
私は、飛行機はブロイラーのゲージに入れられている気分なので、食欲もわかないし、いつ墜落するかと憂鬱で(だいたい飛行機などというものは、空気より重たいものが、エンジンの推力と空力バランスでたまたま上空に強引に押し上げられているだけで、エンジンが故障するか空力バランスがくずれれば、絶対に墜落し100%確実に全員死亡できるという危険きわまりない乗り物なので、できるだけ乗らない人が賢者である)元気がでない。
気分が悪いから早く逃げ出したいのが飛行機旅行であるが、他に方法がないし貧乏だからエコノミ−クラスであきらめている。
もっともファーストクラスにでも乗ったら、とたんに飛行機旅行が好きになるかもしれないが。
シンガポ−ル空港手前の上空からは、広大な面積にきちんと木の植えられたプランテ−ション(なるほど、たぶんこれが中学校の地理で勉強したプランテ−ションなのだろうなと、初めて観て納得)と川ぞいのエビか何かの広い養殖場をみることができた。
さあインドだ
夕暮れをインドへむけてのフライトはシンガポール発18:53。
私にとっては苦痛きわまりないまたまた6時間のフライトである。
今度は隣の外人の女性数人が、これまたしゃべりづめにしゃべる。
女性集団のおしゃべり好きは世界共通と認識する。
夕食も特別に早く注文して、勢いよくぱくっと食べてしまう。
元気なこと、こちらとは雲泥の差である。
女性は、こんな環境でも群れて楽しんでいるのに、だいたいの男性はみな本や雑誌を読んでいるか、眠っているかで、おとなしくじっと飛行に耐えている。
ま、男がバタバタしたり騒ぎ出したら、ハイジャックかろくなことがおきないから、平和と安全のためには、じっとおとなしくしているのが一番であろう。
20時の夕食は「刺激的な味で、少しは食べれるかな」と試してみるつもりでインドタイプを選んだ。
棒状の外米のバター炒めとチキンのカレー味の煮つけ、硬い豆腐様のチーズの角切れがレタスにのっかったのなどが出たが、ようやくの思いで少しだけ食べてみる。
ヨーグルトは口をつけてみたがあまんどろくてやめた。
トマトジュースを飲んでひたすら早くデリーに着くことを願う。
首や肩が痛い、五十肩だから特に右肩が痛い。
前席の背に付けてある液晶ディスプレーで現在の飛行位置をときどき確認して、あとは鬱ら鬱らですごす。
ただただ修業の時間である。
シンガポ−ル時間で0:05デリー着。
大きい空港で、滑走路が長いためか着陸時にエンジン逆噴射によるブレーキをかけなかったし、着陸してから空港ビルに止まるまで10分もかかった。
入国審査はスムースであったのに、なぜかもう一度、全員が審査出口でパスポートのチェックをされた。
航空機の座席での苦しい12時間の修業は卒業、さあインドだ。
第一回目の試練を突破
まずはインド紙幣へのチェンジをしようかなと立ち止まって見回すと、早速「タクシ−がいるのか」の声と「ここの交換窓口へこい」と勧誘がされる。
さそいの声はことわって、係員がだまって座っているだけの左端の銀行窓口で1万円をチェンジする。
4140ルピ−であるから1ルピ−約2.4円の交換レ−トの計算となる。
空港出口に群をなして待ちかまえているタクシ−の客引きのすさまじい勧誘攻勢を突破して、出口右側のプリペ−ド・タクシ−のカードセンタ−で、ホテルの予約ファックスをみせて警察官に170ルピー払ってタクシ−番号のついた領収書を受け取る。
つまり行き先を決めて、先払いで料金を払ってしまう。
ちゃんと目的地についたらこの領収書を運転手に渡せば、それでおしまい。
なにも事情のわからない外国人が、あくどい運転手にかかってトラブルにまきこまれるのをさける目的で始められた制度とのことである。
タクシ−番号の案内人が待ちかまえていて、私を軽四様ワゴンへつれてゆく。
プレ−ト番号がカ−ドと合っていることをたしかめて乗車。
このタクシ−、運転手と助手が前に座った。
行き先を聞かれたのでホテルの予約のファックス用紙を示して、このホテルへつれていってほしいと運転手にたのむ。
そのうちに、助手席からなにやかや英語でこちらに問いかけだした。
コリア(韓国)かと聞くから思わずジャパンと応える。
ビジネスかサイトシ−イング(観光)かときたからサイトシ−イングと答えて「しまった、ビジネスにしとけば後でうるさくなかっただろうに」と思った。
「何日インドに滞在するのか、明日はどへ行くのか、アグラか」とうるさい。
「ホテルは日本で予約して支払いはすんでいるのか」とか「安いホテルがあるから紹介するから」とか、やかましいのでダンマリを決め込む。
空港から約25キロメ−トルほど走ってデリ−の町中にはいったが、どうもホテルがみつからないらしい。
たびたびあちこちで停車してたずねる。
ついにインフォメ−ションセンタ−へ行こうと言い出した。
「地球の歩き方・インド編(ダイヤモンド社)」は「インドの事情を知らない旅行者は、空港からのタクシ−ドライバ−とグルになっての、高額なツア−をふっかける悪質な詐欺にひっかかりやすいから注意するように」と警告し、その危険な被害を被った実例が繰り返し書かれて「カモにされるな」と強調してあった。
「ひょっとするとこいつらも、その一味かな」と思ったけれども、本当にわからんらしい様子もあったので、「とりあえず出たとこ勝負」と覚悟して、しかたなく同意。
ドライバ−も案内人も車を降りたのが細い路地を入ったあやしげな事務所。
若いお兄さんが英語で「明日はどこにいくのか、アグラのあと日本に帰るのか」とか「アグラのホテルは手配してあるのか、何日旅行するのか」とかしつこくたずねる。
「そらきた、こっちはホテルの場所を教えてもらうために来たのに、あやしげなツア−を売り付けたいのだな」と用心して「アグラ以外はいかない、5日して日本に帰る。すでにアグラのホテルも日本で予約して支払ってある。」と応答し「今日の予約のホテルの場所を教えてくれ」と突っぱねる。
そのうちに、なにやら変なイントネ−ションの日本語を話す男まで出てきて、隣に座って日本語で「安心してください、何日いますか」とか「旅行の予定はどうなっていますか」とか言いだしたが断固として無視する。
「このホテルだ」とホテルの予約のファックス用紙をみせたら一人が奥へ持っていってしまったが、どっこいもう一枚こちらにはあるんだ。
なんやかんや安いホテルがあるとか喧しく言うから、もう一枚の予約用紙とFAXしてもらっていたホテルの地図をポケットから取り出す。
「このホテルだ」と断固として言うと、ついにあきらめたのか電話をしたり地図をみたりしていたが「ホテルが判った・この近くだ」という。
そうと決まれば長居は無用、直ちに事務所を出て、タクシ−はホテルへ1分とかからずに到着。
「追加料金100ルピ−くれ」とタクシ−の運ちゃんが言うから「ゴチャゴチヤとホテルの前でもめるのも面倒だ」と思ったので、やっかい祓いと思って支払った。
予約のしてあったインタ−コンチネンタルホテルはデリ−の中心街にある本当にでかい超一流のホテルだった。
こんなホテルがタクシ−の運ちゃんにわからないはずがない。
やっぱり危なかったのだ。
やれやれ危機脱出とチェックインする。
超高級ホテルにて
部屋のベットは3人用(枕が3つ並んでいた)の大きさで、たたみ4畳分位あるベット。
3人用ベットなんて生まれて初めて見た。
街は気温30数度というのに、部屋は冷房もがんがん効いていて寒い。
テレビをつけたら深夜のインド時間11時30分、丁度オリンピック放送で日本がサッカ−でブラジルに1対0で負けていた場面が映し出された。
なにやら今回の旅の予感がよくない。
朝7時のモ−ニングコ−ルを頼んで、バスで今日一日の汗と埃を落とす。
洗濯をして就寝、日頃堅い枕と煎餅布団だから枕がやわらかくて寝にくい。
「こんな広い3人用ベットに1人寝るとは、どこかの王様にでもなったようだ・・・・安上がりの王様だな。」と、自分に苦笑い。
「どうも独り寝にはベットが広すぎる・・・・」と一瞬思いましたが、そのまま眠り込んでしまいました。
翌21日朝、ふと目覚め「そろそろ時間かな」と思っていたらモ−ニングコ−ル。
窓の外は曇り空で、太陽は雲のなかから赤黒く輝いていた。
窓の外の風景写真を1枚、それからテレビの時報にあわせて腕時計の針をインド時間に変更した。
「朝食にしよう」とブレックファストの券をみたが時間と場所が書いてない。
ホテルの分厚い案内書をめくる。
ブレックファストの項目には、「豊富なルームサービスメニューをお楽しみ下さい」と書いてある。
ルームサービスの朝食のメニューをみると、コンチネンタル・インターコンチネンタル・インド・ジャパン・フィットネスとコースあり、そのなかでさらに細かく選択して注文することとなっている。
「ものは試し、インドにきたからインド式の朝食をル−ムサ−ビスして、なにかの映画でみたカッコイイ気分を味わってみよう」と浮ついた心で電話する。
ところが、電話の向こうから女性がインドの食事の内容について「どれを選ぶのか」と機関銃の様に次々問いあわせをする。
「こちとら食べたことがないから試しに」と思って注文したのに、言われてもどんな食べ物なのかちんぷんかんぷん。
「アイアム・ノット・アンダスタンド・インド・イイト」としどろもどろで答えるのが精一杯。
とたんに「ジュースは」ときくから、どんなジュースがあるのか知らないままに「トマト」とこたえる。
エッグについてはオムレツにして、「ティーかコーヒーか」というので「ティー」。
電話のむこうから「これはインド式でないがインターコンチネンタルだか良いのか」とまくしたてられる。
「イエス」としか答えようがないではないか。
「インド式などわからんくせに注文して、質問がチンプンカンプンわからんで、とたんに頭の中が真っ白けになってオドオドしてしまってだらしない、こんなことならジャパン式にしておけば良かった」と浮ついた心がけであったことを後悔する。
ま、これも旅の小さな冒険となぐさめる。
こうしたストレスを味わうのも海外旅行です。
さてボーイが部屋に運んできた、ル−ムサ−ビスの朝食は、器だけがりっぱすぎて、なさけないことに食べるものはチョッピリである。
「いつ回収してよろしいか」と聞かれたので「30分後」とこたえたら、もう一度たしかめられた。
30分で食事を済ませる感覚がわからなかったらしい。
ほんとに30分なのかという顔で「日本人はなんてせっかちな朝食のとりかたをするのか」とあきれたのか、実はチップの催促だったのだろうか。
私も「1時間後といえばよかったな」と後で思いましたが、とっさの時にはついお郷がでてしまうものです。(貧乏農家の息子でしたから、いかに素早く食事をすませて、田畑にでて働くのかと訓練されてきたのが、身に染みついています。)
おいしかったのは、トマトジュースについていたレモン。
小さなレモンがコップにはさんで合ったので絞ってのんでみた。
レモンの香りと味の良いこと、こんなトマトジュース初めてである、あわててもう一度しぼり残しのレモンを絞る。
見てくれは悪かったがこのレモンの味と香りは超超一流であつた。
あんな美味しいレモンなら何個でも丸かじりしたい。
それとジャムはスモモとオレンジをためしてみたが、日本よりジュ−シ−で良かった。
ティーは我が家で飲んでいるウバ・ティ−の方が味も香りもはるかによろしい。
約10分で朝食は終わり。
さて、チェックアウトするとしよう。
しかし荷物をいつまで預かってくれるのかたしかめねばならないが、英語の語学能力のな私にはこうした何気ない問い合わせをどう英語で表現するのか、ストレスであります。
チェックアウト・カウンタ−で朝食のル−ムサ−ビスにいくらとられるかな、と請求書をみたら324.5ルピ−。
なんと、空港からホテルまでのタクシ−代金の2倍以上する。
ル−ムサ−ビスとは高価なのですね、庶民はとてもじゃないが手軽にたのめませんね。
「324.5ルピ−は日本円で800円程度だろうが、高いことはないが」と思われる方は、インドの生活感覚ではありません。
日本の生活感覚に変換するならば、水島と岡山をタクシ−で往復した料金よりも高額なホテルのル−ムサ−ビス料金と思ってください。
街頭では3ルピ−くらいで、チャパティ−というインド式パンを売っていたんですから1食20円位での食生活もザラの様で、おかずも含めて7〜8品目のタ−リ−というごちそうが70ルピ−(160円程度)なのですから。
ニュ−デリ−を歩く
さて、旅行鞄をあずけホテル玄関を左に出て、道路に出てからおもむろに地図とコンパス(磁針計)をみる。
平地ばかりで山が見えない土地感のないインドでは、地図とコンパスなしにはまったく歩けないだろうと考えて日本から持参してきた。
ところが地図上の距離感覚と歩いた実感が一致しないで歩きすぎてしまう。
というのは、地図とコンパスで現在地点を確認して、地図を頭にいれてある程度歩いてから、また地図で現地点を確認するということで日本では迷わず歩けるのであるが、インドではいつも歩きすぎて、地図上で目標とした地点を通過してしまった。
日本ではそんな距離感覚や方向感覚になったことないのに、なぜかインドは私の感覚を狂わせてしまう。
それと、とにかく町中の大通りを少し横にはいると、どこでも臭うのが小便の腐った臭いである。
どの通りにも樹木は多いが、その木の下や歩道や空き地に赤ちゃんから女性、老人までが寝ていたり、煮たり焼いたりして食べていたり、時には片足がない人が横になっていたり、牛がいたり、まともな服を着ていないというより布きれ1枚で垢まみれで、道の横の溝を男も女も人前の遠慮なくトイレにしていたり、そこら中が不潔な貧民窟のようなありさま。
こんな様子は、とてもじやないがカメラを向ける覚悟ができなかった。
(後でとおった農村地帯もどこも極貧で、4本の柱で屋根にワラかなにかでフタをしたようなほったて小屋ばっかりだった。)
昨夜泊まったホテルは立派な建築であったが、デリ−の中心街というのに事務所ビルもふくめて廃墟かとみまちがいかねない建物が並んでいたりする。
貧富の差がどうしようもないほど極端に激しいことがこれだけでもわかる。
昨夜のタクシ−もそうであったが、ほとんどの車は日本だったら廃車になっているボロ車で、もうもうと黒い排気ガスをまきちらす。
その中を時々ベンツの高級車が場違い感を発揮しながら通過する。
オ−トリクシャ−と呼ばれるオ−ト三輪をもっぱら人を乗せて運搬できるようにした車や、エンジンがなくて人間がこぐリクシャ−と呼ばれる三輪自転車があふれて、それこそ10メ−トル歩くと1台が「乗らないか」としつこく声をかけてくる。
「ノ−サンキュ−」を連発し、それでもしつこいのは無視することとする。
ものごいに子供や大人が手をさしだすこともたびたびである。
ニュ−デリ−の中心部、町がロ−タリ−状に整備されているコンノ−トプレイスの一番外周を歩く。
とにかく車が多く、途切れることなく次々と警笛を鳴らす騒音(「遠慮」などという単語はないのであろう、とにかく全部の車が鳴らしまくる)が沸いている。
そして様々な身なりの人の流や、人と車のその喧噪の中でさえも横たわっている人がいるなどなどで、その混乱で神経が疲れてまいってしまう。
この喧騒と混乱・声をかけてくる人々・埃と臭気と35度以上の高い気温と太陽光線が私の土地感や方向感覚・距離感を狂わせる原因であっただろう。
どの車も割り込み運転ばかり、ぶつからない様にいかにぎりぎりに割り込んで前につめまくるのか、そのために警笛を鳴らしまくる、これがインド流運転マナ−の全てであって、女性ドライバ−はまったくみなかった。
サイドミラ−もない車ばかりなのに「強引な割り込みをしあって、よく衝突しないな−」と関心する。
なにかの理由で前に進まないとすぐに警笛の嵐がまきおこる。
とにかく、臭くて不潔で、やかましくて、多彩、いや混沌として、肌の色も白から黒までの人間集団が無秩序に集まって渦を巻いている町がニュ−デリ−であった。
ニュ−デリ−駅へ
とりあえずニュ−デリ−駅へ向かって歩く。
地図上ではホテルから1キロ少々のはずである。
喧騒と混沌の中をあるいて「さてこのあたりがニュ−デリ−駅へ向かう道のはず」と地図とコンパスと風景とを対比させてみると、どうも通り過ぎてしまっている。
地図を見ながら戻る途中、またもや外国人旅行者とみて次々といろんな人が話しかけてくる。
ツ−リストセンタ−へ案内しようとか、ニュ−デリ−駅へ案内するから車に乗れとか、親切心の人もいるのであろうが、なかにはつきまとってコレア(韓国人)かとか・何日滞在するのかとか・どこへいくのかとか、実にしつこいやつまでいる。
つまりこうしてまとわりつかれるのを、ことわりつつ歩くために冷静に現在地点を判断して歩く、ということができなくなってしまう。
今度は、またもや戻りすぎてしまった。
やっと「この道だろう、ガイドブックには駅裏に出ると書いてある道のはずだが」と歩を進める。
人通りも車の量も一段と少なくて、やれやれ歩きやすい道になった。
「駅裏といったって、日本と違い駅構内への出入りは柵なんかあってないみたいで、どこからでも入れてどこからでも出れるはずだ」と、どんどん歩く。
なるほど道は駅舎の手前で建物にぶつかってゆきどまりとなっている。
横はすでにレ−ルが敷かれ、ぼろぼろの貨車やきたない客車が放置されている。
プラットホ−ムの端のようなので土手をあがって前方をみると、やっぱり駅のプラットホ−ムのはずれであった。
このあたりも、ホ−ムレス集団の巣窟の様子。
放置停車して、あいている客車や貨車のなかでも生活しているようで、車中で煮炊きもしていた。
駅舎のプラットフォ−ムにくると、ここもまた人のうず。
たぶん屋根があるから、プラットフォ−ムをねぐらにしているのだろうと想像できる集団、本当に列車を待っているらしい人、その中を短機関銃を肩から下げた警察官か兵士が歩きまわっている。
ところが、インドの最下層には、駅にも入れてもらえぬ人もいるらしい。
汚れたみすぼらしい身なりの女性かと思われる年寄りが、プラットフォ−ムから駅員に足蹴にされて駅舎の外まで追い出されていた。
白の背広のなにやら公安官かそれらしき数人が、一人をつかまえて尋問をしている。
パキスタンや中国との領土問題で準戦争体制なのだと思い知らされる。
待ち合い室も庶民(2等客?)とハイクラス(有料なのか切符で区別しているのか、入り口におばさんが机をおいて座って、名簿チェックをしている、エアコンの効いた部屋)があり、駅のトイレは庶民の待ち合い室の奥にあった。
だから庶民の待合室の小便臭いこと。
プラットフォ−ムの連絡階段を上って連絡通路から全体をみわたす。
この駅にはディ−ゼル機関車が黒煙をはきながら走りまわっている。
電気機関車は少なく、電車はみえなかった。
ガイドブックに紹介されていた特急列車といっても車体は古びてきたない。
「客室内はどうなっているのかな、夕方乗車するから楽しみにしておこう」と思っていたのですが、・・・・・後で書きますが、命がけの事件に巻き込まれて、特急には乗れなかった。
たまたまどこかからの列車が到着したが、家畜運搬車の様な窓ガラスのない鉄格子だけの客車からは手が何本も外に差しだされていたり、デッキにぶらさがっていたり、さすがに屋根にはだれもいなかった。
まだ停車していないのに、デッキからホ−ムの反対側の線路にどんどん飛び降りる。
ほかの列車や機関車の動いている線路の上をそれぞれ思い思いの方向へ、蜘蛛の子を散らすようにみな散って行く。
機関車の警報が次々にやかましく鳴り響く。
そんななかを、客車のデッキから次々といくつもの包みを線路際になげおろす運びやの旅客もいる。
さて駅の裏に出る。
オ−ルドデリ−もみてやろう。
道がごちゃごちゃしてわからなくなるから、広い道路で三角形の二辺になるけどデリ−門からデリ−城へ向かい、あの有名なバザ−ルをとおってニュ−デリ−駅に戻るコ−スで歩いてみようと決定。
ところがである、駅表よりこちらは余計に汚いうえに、リクシュ−・オ−トリクシュ−がしょっちゅう声をかける。
無視して振り払うのにいそがしくて、だいぶ歩いてから「さてそろそろデリ−門のはずだが」と地図と街の様子を見比べてみたところ、向こうに電車の陸橋がみえる?。
なんと90度方向をまちがえて、さらに遠ざかる方向へ歩いてきてしまっているではないか。
もうれつに暑いし、汗が流れ出てくるし、それでも気を取り直してデリ−門の方向に歩き出す。
30分ほど歩いて、腹もからっぽで体内の水気も切れた。
まだまだ地図で確認するかぎりデリ−門までの半分も歩けていない。
「これでは先が思いやられる」と、ついにあきらめて途中から駅にひきかえす。
ガックリしながらニュ−デリ−駅へやっと歩いて戻って、売店でミネラルウォ−タ−を10ルピ−とアメリカンバ−ガ−10ルピ−で購入して食べる。
みんなが食べている他の食べ物は、どんな味かわからんし、腹にあたってもいけないので、用心した。
2階の外国人予約センタ−へゆく。
この部屋はうれしいことに冷房が効いていて、少し休んだら元気がでてきた。
夕方の列車の予約方法を確認して、道端先生ときたときに直ちに切符が手に入るようにしておこう。
キップの申し込み用紙は中央の机においてあるのですぐにわかった。
片面が英語、片面がアラビア語である。
記入が必要な項目は、列車ごとに、出発駅・当着駅・日付・列車名と列車番号・自己の名と氏・性別・年齢・パスポ−ト番号・国籍それとサインとインドでの住所(滞在ホテル名)である。
列車時刻表を探して、といってもアグラ行きがなかなかみつからない。
やっとのことで、壁一面の時刻表の一番下の段の右隅にあるのを発見して、申込用紙に道端先生分も含めて間に合いそうな3列車分を記入する。
夕方にニュ−デリ−空港でうまいぐあいに道端先生と落ち合えて、早く駅に来れたらこの列車、通常の予定ではこの列車ならまにあう、ごたごたしての最悪を想定して3番目のこの列車。
3枚の用紙を持って外国人用列車予約センタ−を後にする。
道端先生を出迎えにニュ−デリ−空港へ、そして銃口がつきつけられた
「さてこれでだいたいの様子はわかったし、少々バテぎみだからホテルに帰って、預けてある旅行ケ−スを受け取って、少々早いが道端先生を空港へ迎えに行こう」と駅からホテルへの戻り道を歩きだす。
どうやらこの頃になると余裕もでてきて、人間以外の生き物もみえるようになった。
からすと鳩は日本と同じ姿形だ。
でもカラスはやや小ぶりだし、鳴かないし、動きもゆっくりで日本よりおとなしい。
「黒いから暑さに弱いのかな」なんて思ってしまう。
スズメは日本のスズメよりも色が薄く、くちばしが灰色である。
かけすであろうか黒っぽい色で羽を広げると、白い帯が観察できる。
「ガ−ガ−」と鳴いてやかましい。
駅の横手の樹木には、リスの集団が生息していた。
大きさは、家ネズミをひと回り大きくした位で、灰色に黒っぽい島の帯模様のリスが、人間が1メ−トルほどにに近づいても逃げようともせずに木の実を拾って食べている。
樹木と地上を行き帰して、追っかけっこをしている元気集団である。
こちらは、もうれつな暑さにまいって「インドで動けるのは、午前中だけだな−」なんて感じているのに。
さてホテルへ帰り道、あの廃墟みたいだった町が全部なにがしかの商店や事務所になって開いている。
電気屋街もあるが秋葉原でも日本橋でもあんなきたないジャンク屋はない。
自動車の修理工場街もあって、道路でエンジンを全部バラし、シャフトのベアリングをたがねとハンマ−ではずしていた。
なんと繊維街もあるではないか。
20軒くらいが軒を連ねている。
早速入ってみる。
サリ−とインドの女性の服か、パッチワ−クの端切れを選ぶつもりである。
いろいろみて日本円にして3000円くらいの服地(サリ−用か)を買う。
「これは柄がインド風で細かくて、色が鮮やかなトロピカルブル−で若向だから、娘にあうだろうか。」
「他には何かないかな」、とある店に落ちついたうす茶系の配色のレ−ス模様の服がある。
デザインもまあ良い感じ、ということで2500円。
留守宅献上用の、特別高価な買い物をしながら「女性用のみやげは世界のどこにいってもあるのに、男性用は無いもんだな−」と思った。
さてホテルにもどり、あずけておいた荷物を受け取って、空港にむかう。
道端先生の搭乗している16:20着のJAL便を待つとしよう。
少々早くついたのでビジタ−ラウンジをさがすと、ガイドブックの説明とはとちがって、空港ビル内の入国通路の周囲が15ルピ−の有料ラウンジ兼用となっていた。
先生と落ち合う約束であった、プリペイドタクシ−カウンタ−前は、どうしたことか楽団がいたりタクシ−タクシ−ドライバ−や客引きが群をなしていたりで喧騒がうずをまいていた。
こんなところでは人混みで会えないかもしれないと、15ルピー払って中にはいる。
うれしい、冷房もきいている。
ここなら柵を境に、目前を乗客が通るから絶対見落としはないだろうと安心する。
到着を待っている間に腹ごしらえと、売店でジャガ芋を丸みのあるひし形に固めた様なものと、三角形のクロワッサン風のパンをかう。
それとミネラルウォーター1本。
ジャガイモ固めはしょっぱかったし、パンは中にカレーがはいっていて辛かったが、とりあえず腹はふくらんだ。
JAL便の直前に着くネパールからの便の乗客が目前を通り過ぎて行きだした。
外では楽団がピ−キャ−バリバリとやりだした。
なにかの団体の賓客が到着したらしく、柵の外で待っている私の前で、待ち合いの大集団が乱入し、花びらをまきちらして、床にひざまずいてあいさつしたり、大混乱が始まった。
「JALが着いている時間なのに到着合図がでないな−」と思っていたら、こちらがわの表示板は故障中で向こうの表示はついている。
「アチャ−、この大混乱で先生を見落してはならん」と必死に探す。
遠くに先生らしき人かげをみつけて近寄ると人違い。
実は後でわかったことであるが、このころネパ−ルからの賓客を集団で出迎えての混乱の人ごみのなかで、先生は一番に私の前を通り過ぎた様であった。
それからず−と1時間30分にわたって「まだかまだか、ひょっとして当初約束のプリペ−ド・タクシ−の所で待っているんではなかろうな−」と思いつつも待ちつづける。
なにしろ同便に乗ってきた日本人がけっこう次々と目の前をと通って行くので「おかしい、遅すぎる」と思いつつも「荷物がうまくひろえなかったのか、まさか税関にひっかかったのか」と心配しつつ待ちつづけた。
とうとうたまりかねで、目前を通過する日本人乗客に聞くと「自分たちがなぜか税関で調べられた最後の組で、もう日本人はいない」とのこと。
「あちゃ−、まさかすれ違ったのか、まさか乗っていなかったのか、わからないが、1人でアグラへ向かわねばならんな」と道端先生を心配しつつプリペイドタクシ−に乗る。
ニュ−デリ−駅へとむかう途中から、例によって「観光かビジネスか」とやかましい。
「今夜はアグラにホテル予約してあるから駅に向かうんだ」とだけ応えて、あとは無視する。
なにやら、途中から昨日と今日通った道と違うので「道が違う」と言ったら「ラッシュアワ−なので、それを避ける道だ」と答えが返ってきた。
人通りのあまりない、森の中の道にきた。
「道端先生どうしているかな−・インドへは着いたのだろうか・それにしてもこんな公園の様な静かな所もニュ−デリ−にあるのだな」とボ−と外をみていた。
突き当たりを左に曲がると、街の門の様なところで、いきなり車が急停車。
怒鳴り声が聞こえ、きびしい顔つきの兵士らしき5名が短機関銃の銃口ををこちらに突きつけて、綱をはって赤くSTOPと書いてある板を表示している。
「なにが起こったのだ!!」
つづく
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