命がけのインド旅行 その2

                                      (from 01/05/13 to 最終更新日01/05/22)

222ドルの身代金を払って、私は危機から脱出した。

 銃をつきつけたままで2名の兵士が、こちらの車の中をのぞきこむ。
 生まれてこの方、銃口を向けられるなどという経験が全くないから、どう対処すべきか、兵士に話しかければ良いのか、とりあえず運転手にまかせるべきなのか???
 インドでは民間人や外国人に兵士が突然銃をつきつけるなどということは、日常ふだんのことなのか???
 運転手が手を挙げて、窓から顔を出して兵士となにか話をはじめたが、英語でないのでまったく内容がわからない。(英語だったら理解できるということではなくて、片言でも手がかりとなるような単語があれば、チヨッピリでも話している内容が想像できるのに・・・という意味です。)
 タクシ−の横を自転車に乗ったり徒歩の人々が悠然と通り過ぎてゆく。
 なぜ彼らはなにもなしで、こちらだけ銃を突きつけられねばならないのか???
と、話がついたのか突然運転手は車をバックさせてUタ−ン。
兵士も銃を下ろして、戻ってゆく。
やれやれ・・・・・。
 ところが、タクシ−は今来た道をどんどん戻ってしまう。
「ストップ! ホワイ ゴ−バック?(待て、なんで戻るんだ)」
「ア−ミ− クロ−ズト ニュ−デリ−スティション ウェイ・・・・・」
つまり、軍隊が道路封鎖をおこなって、外国人が首都と駅に立ち入るのを禁止しているから空港へ戻るということであった。
そんなばかな、空港にはそんな緊張は全くなかったし、途中の道路ものどかなもんだった。
「なぜ軍隊が道路封鎖したのだ?」
「わからない、なにも兵士から説明はなかった」
「別の道からニュ−デリ−駅に向かえ」
「道が封鎖されているのだから駅には行けない」
「空港へは戻るな。この道は、きのう通った首都へ向かう道と違うから、そのメインの道で駅へ向かえ」と走るタクシ−の中で運転手とやり合う。
「道が違う」と何回も強く言うと運転手が「それでは、途中にある政府のインフォメ−ションセンタ−にゆくから、そこで駅に行けるように交渉してみてくれ」と言う。
 なんとなく怪しいなと思って「ガバメント インフォメ−ション センタ−?」と再度訊ねると「ガバメント」だと言う。
政府機関を名乗って外国人を騙すなどということは明確な犯罪行為となるから、政府機関というなら一応信用せざるを得ないかと考えて「OK」と返事する。
 タクシ−は向きを変えて、しばらく広い道路を走り、横道へ曲がってすぐの事務所前で停車し、運転手は「ここがそうだ」という。
なんとなく雰囲気があやしいので降りないと、看板をさしてガバメントと言い、私の旅行鞄を持って事務所に入ってゆく。
「本当にこんな場所に政府機関のインフォメ−ション センタ−があるのか?」と事務所の看板を見るとなにやら数カ国の文字列が並んでいる。
一行英文もあり、**** G.O.V.とか書いてある。
「ガバメントにしてはどうも怪しいな」と思いつつも、旅行鞄がとられてはいけないから急いで運転手を追って事務所に入る。
 事務所では、若い貴公子然とした男があらわれて、にこやかに椅子を勧めた。
「あなたは政府機関の役人ですか」と訊ねると「そうです」と応えてなにやら手帳を取り出し、身分証明書様のものをチラッと提示して「あなたのパスポ−トを出しなさい」と言う。
半信半疑でパスポ−トを出すと、なにやら帳面にこちらのパスポ−ト番号等を転記しはじめた。
 「なぜ、道路封鎖しているのか」と訊ねると「軍隊や警察が封鎖している理由は不明です、政府機関にさえも教えてくれませんからわかりません」とにこやかに返事が返ってくる。
横でタクシ−の運転手がなにやら、現地語で説明する。
話がすむと、こちらを向いて「道路は封鎖されていますから、ニュ−デリ−駅にはすぐには行けませんし、いつ封鎖解除になるかわかりません」という。
「日本で今夜のホテルはアグラに予約してあるから、特急列車に乗らねばならない」と話すと「これから駅に確認してみますが、アグラへ行く便はすでに席がないはずです」と言い、電話をかけてなにやら現地語で話をする。
「外国人に安心感を示すなら英語で駅と話せばよいのに、これはどうもあやしい」と思っていたら、「座席は何等を望まれますか」と訊ねる。
絶対席があるはずと思って「ファ−スト クラス」というと、しばらく電話にしゃべって、受話器を下ろす。
「今、駅が調べていますから、少し待って下さい。返事がきます。返事を待つ間、サ−ビスでお茶をだしますから飲みませんか」
「ノ−サンキュウ」
「では、お水はいかがですか」
冗談じゃない、薬でももられたら一巻の終わりだ、と思って、きつい調子で「ノ−サンキュ−」をくりかえす。
 しばらくして受話器を取ってなにやら話して「やはりこれからの便には空席はないと駅はいっている」とこちらに説明し「タクシ−でアグラに行きませんか? 250ドルです」と言う。
 そらきた、やっぱりあやしい。
だいたいガイドブックにも1日タクシ−を借り切ってたっぷり走り回っても、50ドル程度が相場だと書いてあったがその5倍以上だ。
こいつらグルになって事情がわからない外国人旅行者から金を巻き上げるつもりだな。
 「250ドルは高い。そんなにかかるならば昨夜宿泊したインタ−コンチネンタル・ホテルへ行く。」
「インタ−コンチネンタル・ホテルは一泊250ドル以上しますよ」
「日本で予約したら100ドルしなかった」
「日本での予約は安くても、インドで直接外国人が予約すると1泊250ドル以上です」
「もういい、事務所の場所をいえ、歩いて駅に向かう」と主張する。
こうしたやりとりのうちに、なにやら部屋の外に男たちがあつまりだして、雰囲気がけわしくなってきたのがわかる。
 「政府としては、こうした場合、外国人の方に安全にアグラへ行っていただく方法は、今からタクシ−でアグラのホテルまで行く方法で、250ドル必要です」と「セフティ−」を強調してその男がいう。
 「おかしい、高すぎる」といったら「180ドルでもゆけますが、但し車がワゴン車になります、あなたはそれ以外に安全にアグラにゆける方法はありません」
 なにやら険悪な雰囲気となってきた。
 「ここで判断まちがえたら危ないぞ」と私の頭の中で警報が鳴りだした。
しばらくにらみつけてから、ついに「了解」というと「税金として42ドル追加をよこせ」と平然と言い放つ。
「このやろ−」と怒りが吹き上げた。
 が、「まてまて、命あってのものだね」と222ドル払って事務所から逃げ出す。(もちろん領収書などなし、やつは平然と「サンキュ−」とのたもうて握手までしようとした。巧言令色少なし仁、と昔の人は正確に言い表しています。)
つけくわえますけれども222ドルの価値は、日本円換算で考えるとたいしたことないと思われるかもしれませんが、日本円に換算して20円程度で食事ができる現地の物価感覚からして、日本での金銭感覚で表現すると50万円〜80万円という金額に相当します。
 つまりインドのヤクザは、日本人旅行者にたかって、ほんの少し身代金を巻き上げるだけで、ぼろ儲けができるわけです。
 事務所の外に出ると、軽4の様なワゴン車が私の前に横付けして、運転手2名が「アグラへ行くから乗れ」と有無を言わさずに旅行鞄を積み込む。
「やつは、セフティ−を強調してたから、傷害事件などを起こすのは避けたいというつもりなのであろうか」と考えて、「とにかくあやしげな男どもが大勢集まっている事務所からは離れた方がいいだろう」と車に乗り込む。
 車は走り出したので外の様子をみていると、道路表示にアグラと書いてある。
「お、どうやら本当にアグラに向かうようだわい、危機脱出かな」と少し緊張が和らぐ。
 午後7時にデリ−を出て200キロ少々を走り、アグラについたのは深夜12時過ぎであった。
 その間、2人の運転手が「お茶はいらないか」とか「晩ご飯にしょう」とかいうのを全てことわって、絶対に飲まず・食べず・眠らずでアグラまで警戒をゆるめんぞと覚悟を自分に言い聞かせつつがんばる。
 ボロ車で運転席には背もたれあっても、私の座った後部座席にはなく、道路はほぼ直線ではあっても、日本の国道より舗装は悪いし、腰が痛い・首が痛い・エンジン騒音がやかましいのをがまんして、時に頭がぼ−っとなるのを叱咤激励して、「玄奘三蔵を思い起こせ。難行苦行を重ねてインドから教典を持ち帰ることができたのだ。」と、真っ暗な車窓の外をみながら、時折見える標識がアグラとでていることを確認しつつ乗りつづけた。
腹もすいいたし、も−れつな喉の乾きもあったが、とにかく我慢と忍耐で5時間の後に、ようやくアグラのホテルに送りつけられた。

え、予約されていない!!

 「ア−、命があった、救われた」と転がり込むようにホテルに入り、フロントで氏名を告げる。
ところが名簿を探していたホテルのフロントが「貴方の予約はない」と言うではないか。
 「明日からの会議参加者で名簿リストに貴方はない」とリストを示される。
「そんなばかな」とリストをチェックするも本当に私の名前が掲載されていない。
「一難去って、また一難か。インドの神様は私になにか恨みがあるだろうか。」とガックリ来そうになる。

      
  インドの神様の祭りのデコレ−ションがトラックに飾り付けてありました。

 とにかく野宿はできんから泊めてもらわないとどうしようもないから、日本から持参したインドからの案内状や、日本での参加受付者の英語の名簿を見せて「メンバ−として日本で予約してある」と説明する。
 フロントの係員はその名簿や案内状をチェックして、ようやく納得したのかボ−イに部屋番号をつげる。
やれやれである。
 ところが案内された部屋には男性がすでに宿泊していてビックリしている。
こっちもビックリである。
その男性が「今日は1人だが明日は妻がくるから2名で申し込んである」とボ−イに説明する。
私も予約表をみせて、シングルになっていることをボ−イに確認させる。
ボ−イは了解したらしく電話でフロントと話して、鍵をとりにゆき、別の部屋に案内してくれた。
 4階317号室、これが私のアグラでのついの住みかとなった。
部屋に入り、湯が出なくて冷たい水のままのバスにつかって、今日一日の緊張をほぐしてゆく。
 「自分はなんとかアグラにたどりついたわい。ところで道端先生はチェックインしているのであろうか」
フロントに電話してたずるねと「チェックインしていない」との返事。
「ああ、先生の運命はいかにや」 心配してもどうしようもない、幸運を祈ろう。
そのまま私はベットに倒れ込んだ。

 道端先生と感激の再会

 22日朝7時、目が覚めた。
喉が痛い・腰が痛い・首が痛い。
昨日の疲れか、風ぎみである。
用心してフロモックスとPL2を飲む。
 「とりあえず朝食にしよう」と隣の部屋の日本人学生にたずねると、朝食は1階のコ−ヒ−コ−ナ−にあるとのこと。
 1階に降りると丁度そこへ全国公害患者会の幹事長・大田さんほかの一行がホテルに入ってくる。
今ツアーのバスがついたところで、すでに朝食はすんでいるからひと休みしてから、またどこかへでかけるらしい。
 「本日は会議の受付登録と夜のオ−プニングセレモニ−が予定されているだけだから、あいた時間にタ−ジマハルにでもいってみよう」などと考えながらコ−ヒ−コ−ナ−へゆく。
 おお、宮本先生や芝田先生が奥さんといらっしゃるではないか。
芝田先生とは昨日空港で偶然出会って挨拶したが、無事なお顔が見れてうれしくなった。
と、なんと、その横のテ−ブルの席に道端先生がすわっているではないか。
 「先生どうやってこられたのですか。空港では合えませんでしたのに。先生は予定通りのJAL便でつかれたのですか。私は空港で1時間30分以上待っていたのに、会えませんでしたので、どうされたのかと心配していました。」
「浅田さんこそ空港のどこで待っていたんだ。約束のプリペ−ドタクシ−乗り場にいなかったじゃないか。そこで1時間待ったけど、現れないから1人でタクシーでニュデリ−駅へむかったよ。」
 しまった!!!である。
あのネパ−ル便の大騒ぎのなかで、すれちがってしまったのだ。
気をきかしたつもりが、約束破りの裏目に出てしまった。
 道端先生もあぶない思いをしながらも、試練にうち勝ちニュ−デリ−駅にたどりついて、なんとかアグラまでの寝台列車の切符を買って、深夜1時すぎにホテルについたとのこと。(そのいきさつは、すでに発行されている西部医師通信をご参照ください。)
「本当に無事でよかったです。」心底からそう思った。
そして私の昨日の危機一発の経過を説明した。
 同じ−ブルの皆さんも私たちの話に聞き耳をたてていて「やっばりインドは空港からニュ−デリ−のホテルまでが1番危険だ。」「日本人はねらわれているというけど本当なのですね」といわれる。
 皆さんは、ホテルより迎えをよこしてもらったり、現地インドに詳しい旅行会社に車の手配までしてもらったりで、プリペイドタクシ−などは使っていないとのこと。
「空港からのリムジンバスならば事件はおきないはず」とのことだが、どこにリムジンバス停車場があるかわからなかった。
「インドでは、空港からのタクシ−利用者が入国直後で状況がわからぬために、必ずといってもいいほどトラブルに巻き込まれますから、予約したホテル専属のタクシ−に出迎えてもらうか、友人や契約したツア−の会社に空港まで出迎えてもらうのが鉄則です。」
それでニュ−デリ−空港にあんなに大きく日本人の名前を書いたプラカ−ドを持った出迎え人が多数詰めかけていたのかと納得。
おいおい、そういうことならば、日本の政府がもっと日本国民に広報してほしいものだよ。
政府が言うと、外交問題で微妙なこととなるならば、せめて日本の旅行社やガイドブックからは、きちんとした現地情報が入るようにしておいてほしいものです。
 あとで国際協力事業団の方も、私と同じ様な情況になって「けんかになった日本人が昨年殺された事件がありましたから、つっぱりすぎずに、命あってのものだねとお金出して逃げ出したのが、とりあえずの最良の判断でしたね」となぐさめてくれました。
 命あって再会した私と道端先生は、心から互いの無事を喜びあったのでした。
「しかし、インドに後からくる恩師は大丈夫かしら」と心配がわきおこる。
 宮本先生も芝田先生も、みなさんが「S先生は大丈夫かしら」と心配される。

  
  路傍の小さな祠の中の神様・オレンジ色の豆電球で照らされていました。

「ああ、私の日頃の行いがインドの神様にはお気にめさなかったのでありましょうが、恩師にはなにとぞほほえみをお与えくださいますように・・・・・・」これこそ苦しいときの神頼みである。
 とにかく昨日の大試練の緊張が解けて、腹ぺこ。
 バイキング式の朝食なので、カレ−スパイスの強そうなのはさけて、とにかく色々食べて、やっと生きた心地がしてくる。
 しばらくして「国際会議は10時に参加者の受付をするから、全員10時にロビ−に集合してください」とアナウンスされる。
 道端先生と相談して、受付をすましたら、タ−ジマハルを観にいきましょうと話がまとまる。
それからとりあえず部屋にもどり、荷物の整理をおこない、この間の汚れ物の洗濯をおこなうなどして、余裕をとりもどした。
 さて10時、国際会議の受付は、自分の名前の鞄(資料がパンパンに詰まって重たい)を受け取って、名簿にサインするだけの簡単さ。
日本からの参加費110ドルは、後で集金しますとのことなので、重い鞄を部屋に持ち帰る。

 さて、いよいよタ−ジマハルだ。

 ホテルから徒歩で10分少々とのことなので道端先生と歩いてタ−ジマハルに向かう。
 ホテルを出ると、早速「リクシ−に乗れ」とか「バザ−ルの案内をする」とか、物うりとかがまとわいつくが「ノ−サンキュ−」とだけ応えてとにかく無視して歩く。
軍隊の駐屯地の横を通り、小学校の横を通り、公園入り口の鉄のゲ−トをすりぬけ、どんどん歩くと右手にそれらしい外壁と建物がみえた。
 タ−ジマハル入り口の西門までくると、警察官が参拝者を1列にならべてボディチェックをおこなっている。
国宝の霊廟だから、テロなどで爆破されないようにしているのであろうと順番をまつ。
本日は金曜日なので無料拝観日とのこと、それでこんなにも大勢の参拝者が順番待ちをしているのか。
日光は焼け付くように熱くなりだしたのに、鞄や荷物をもっている人はあけさせられて、中身まで調べられるのでなかなか順番がすすまない。
やっと道端先生と私の番。
 すっと通って・・・・・は先生だけ。
私はストップがかかる。
 「えっ!!なぜ僕だけ! インドの神様どうなっているんですか?」
 ポケットにあった電子辞書をとり出されて「これは何か」と尋ねられる。
「計算機」とこたえたら、持ち込み禁止だという。
デジタルカメラやビデオカメラは持ち込み可なのに、なんでこんな薄くて小さな計算機がだめなのか解らなかったが「ここで逆らったら悪いことになりそうだ」と判断。
 「どうするのか」と訊ねると「あずけてこい」と指し示す。
その方向をみると、門から30メ−トルほど離れた建物に無料預かり所があった。
 そこにあずけて、受付証をもらう。
その受付証を警官に示したら、やっと門を通してくれた。
道端先生が、待ちくたびれていた。
 さあタ−ジマハルにきたのだと、どんどん歩いて門や建物を写真にとったり、おのぼりさん丸だしできょろきょろ見回す。
 中の正門を入ると教科書の写真どおりの美しいタ−ジマハル(1653年完成)が現れた。

         

「昨日の試練も突破して、ああついにここまできたのだ。」と感慨がわき上がる。
白い霊廟を見やりながら、深い非日常・別世界の感におそわれる。
 建物の大きさは奈良の大仏殿ほどであろうか、白い大理石でつくられたあまりにも左右対象すぎる巨大かつ精緻な霊廟である。
眼前に実物をみていると、この霊廟を設計し建築した王シャ−・ジャハ−ンの精神に、なにやら病的なイメ−ジすら感じてしまった。
 水池のある前庭から、みんな靴をぬいで廟に上がる。
建物の中は照明らしきものがなくて薄暗い。
入り口に金網を張って、降りれなくしてある階段が下に続いている。
みんながそこの奥をのぞきこんでいる。
廟の地下室だから王妃の遺体を入れた棺が安置されてあるのかと想像したが、何があるのか奥は暗くてわからなかった。(どこにも説明文らしきものは無くて。もちろん解説パンフレットも無い)
 集団の足取りにあわせて奥に進むと、周囲が白代理石に透かし彫りをした薄いついたて状の高い壁でぐるっと囲んである透かしの間から石棺が見えた。
廟の中央にほっそりとスマ−トなたぶん王妃の石棺が据えられ、その左横にそれよりやや大きめ王の石棺と思われるものが据えてある。
大理石のついたてのため中が見にくいので、顔を透かしに近づけてよく見ようと立ち止まると、警察官がいてさっさと進めと追い立てる。
 廟から出て、その裏のテラスにまわる。
 川幅100メ−トルほどのヤムナ−河が20メ−トルほどの眼下にゆったりとながれ(残念ながらというか当然というか、水はにごって土色の流で、なんやら動物の死骸らしき物も時々流れ下ってくる)、その向こうにインドの大地がどこまでも広がっていた。
その汚い流れの向こう岸で2人の男が裸になって、こちらへ泳ぎわたってくる。
左手、上流約1キロメ−トルにはアグラ城塞が赤く威容をもってそそり立っている。
 廟の裏のテラスは日陰になって、多くの家族や人々が車座になって座りこんだり、寝ころんでいる。
私もあおむけになって体を横たえてみる。
熱気のなかで代理石が、ひやりとしたやわらかい肌ざわりで気持が良い。
インドの乾いた、どこまでも高い青空に白雲がゆっくりと流れている。
なにか豊かな気分になって、昼寝がしたくなる。
 なるほど、日本だったら冷え上がるけれども、この熱いインドでは大理石の宮殿というのは最も快適な人間生活のできる建物なのだな−と身体で納得する。
それでも、巨大な廟の美しく精緻な大理石の模様をながめていると「いくら最愛の后ムムタ−ズ・マハルが死亡したからといっても、この廟はやっぱり王様の病的な精神要素を感じさせるな・・。この王の治世は民衆や家臣にとって過酷なものであっただろな・・。」と眠い頭でボ−と考えてしまう。
 だいぶ日差がきつくなってきたのと、そろそろ空腹となり、汗をかきながらタ−ジマハルをあとにする。

          

 西門の前には、朝とくらべらものにならないほどの多数の人々が列をなして待っていた。
「こんなきつい日差しのもとでの入場待ちは、ぼくらだったら日射病で倒れてしまうだろう」と思いつつ、汗をかきかきホテルへむかう。
 途中で小学校の前にさしかかったとき、丁度下校時刻。
普段はボロ布の様な服しか子ども達が着ていないのをみてきたから、小学校の子ども達はきれいな制服を着ていたのでびっくり。

          

「小学校にこどもを通学させられる親は、インドでは裕福な方なのかな、それとも貧しい親でも子供には制服を無理してでも着せてやっているのかな」とデジタルカメラを向けると、わ−っと集まってきた。
今撮影したばかりの画像をみせてあげると、無邪気に大喜びして自分を写してくれとせがむ。
 数ショット撮影して画像を見せてあげて「ジス カメラ イズ ジャパニ−ズ デジタルカメラ」と説明。
きりがないので、子ども達にバイバイしてホテルへ帰る。
 昼食をすませて部屋に帰り、シャワーで汗を流して、そのままベットに倒れこむ。
昨日からのたまっていた疲れもあったので、5時すぎまでぐっすりと3時間は眠った。

 国際会議の開会と歓迎パ−ティ

 さて6時からAPEN5(第5回アジア環境会議)の開会式が地下のホ−ルで始められた。
私にとっては苦手な、英語だけの修業の時間となりました。
 最初になにやらインドの昔からの慣例の儀式があり、燭台の4隅に各国代表が火をともし、会議の成功を祈りました。
 インドの環境大臣の歓迎挨拶のスピ−チはまったく理解できなかった。(発音も訛りがあるらしく、私が中学校から習ってきた英国式キングス・イングリッシュではなかった。)
 宮本先生が会議の代表挨拶をかねて、会議の意義と日本の公害問題の歴史も説明した。
先生の英語は、発音もスピ−チ速度も私の耳でもついていけたし、予備知識もあるからだいたいの意味は理解できた。
その他の各国の方々のスピ−チは、時々単語が思い当たる程度で、全くわからなかった。
 さて、開会式典のあとは歓迎パーティーとなっていたので期待したのですが・・・・。

         

いつのまにか三々五々集まって、バイキング式に適当に自分の皿に料理を取って、それこそ適当に集まったり散ったりして話をしながら食事する・・・・夕食をテーブル席に座って食べるのでなくて、テ−ブルはないので立ったままでも良いし、椅子にすわっても良いしで、わいわい言いながら食べる、というのがインド式パーティとわかりました。
 なお、ヒンズ−も回教も教義でお酒は禁止ですから、もちろん乾杯などもありませんでした。(こんなに熱い乾いた気候なのに、生の冷えたビ−ル大ジョッキがあったら、うまいだろうな−−−−−ほしいよ−−−。なんでインドの神様はビ−ルを禁止したのだ。)
歓迎挨拶もなくて、しまりのない、いつのまにか始まっていて、いつのまにか散ってしまう、そんなパーティでした。
 しかし逆に、インド式パ−ティに慣れ親しんでいる人が日本式パ−ティに出席したならば、なんとまあ集団規律行動のパ−ティで、全くリラックスなどできない堅苦しい形式張った方式のパ−ティだと思われるかもしれません。

 ア−グラ城へ

 23日午前6時起床、しばらくして外に朝日がさした。
西向きの部屋なので、インドの大地から上る朝日をみたいのだが、みれない。
このホテルは屋上がないけれども、どうにかして明日は朝日をみよう。
 さて、6時半ホテルを道端先生と出発、行き先はアグラ城である。
オ−トリキシ−と交渉、2人で40ルピ−。
高いなと思ったれけど、本日の会議の始まる9時までには戻って、朝食もすまさねばならないので、即妥結。
 このオ−トリキシ−の運ちゃんは、しきりに帰りも乗ってくれという。
 私の名前を聞いて「あなたは友達だ。フレンドだから帰りも利用してくれ。」というが「ゴ−・オンリ−」とことわる。
なにやら道が穴だらけだったり凸凹がひどくて、牛がいっぱい歩き回っている不潔な貧しい集落の中を通る。
地図でみても道路が表記されていない最短コ−スを走っているようだが、太陽の光の方向から判断してアグラ城へと向かっているのはたしからしい。
やがてまともな道路にでて、ホテルから10分で城門前につく。
 ア−グラ城はなんと朝6時から観光できる。
入城料50ルピ−を払って巨大な南門から入る。
 この城は赤茶色の大理石で構築されていて、およそ三分の一の城域が公開されていた。
野生のリスがあちこちをチョロチョロ走り回ってかわいい。
入ってすぐの中庭には、王様が使用したという旅行用風呂桶が展示してありましたが、大理石をくりぬいた直径約4メ−トル高さ2メ−トルの五右衛門風呂でした。
重量が表示してありませんでしたが、あれだったら車に積んでも30名ほどの奴隷が引っ張らないと動かないだろうと思われました。

         

 城に深い井戸がありましたが、そこから奴隷たちが水をくみ上げ、城の屋上近くのプ−ルに運び上げられた水は、サイフォンを通って城のホ−ルの滝や噴水のある大理石の池に流れ(写真手前の床が池、中央の柱裏の四角い窪みが泉、写真には写っていませんがその奥の部屋に滝があった)小川となって床を流れ、40メ−トル四方の大理石のプ−ル様の水草庭園へと注いだ様でした。(もちろん今は、水は流れていませんでしたが)
 また、王が謁見をしたホ−ルは、ひとめでそれとわかるギリシャやロ−マ風の巨大な柱が立ち並ぶ建築様式で、西洋との文明の交流を証明していました。
 タ−ジマハルを建立した王シャ−・ジャハ−ンが晩年幽閉されたという塔の部屋もみましたが、ヤムナ−河の川面から30メ−トルほどの高さに垂直にそそり立つ城壁の上の部屋で、そこからのタ−ジマハルの遠地借景の景色は、インドの大地に溶け込んで優雅でした。

         

 とらわれて74歳でここで死ぬまで幽閉された王はどんな思いでタ−ジマハルを毎日見渡していたのだろうか、王の無念な思いとせつなさが伝わってくるような、そんな部屋でした。
 そして、ふと「今の太陽の位置からして、たぶん旭日はここからみたタ−ジマハルのやや左手あたりから6時過ぎに昇るのではなかろうか。よし、明朝6時にもう一度ここへきて、写真を必ず撮影しよう。」と思い当たりました。(皆さんにごらんいただいているタ−ジマハルに昇る旭日の写真は、翌朝5時にホテルをでて、6時前に趣旨を言ってむりに入城させてもらい、一番よい撮影場所を探しあてて、シャッタ−チャンスを待って撮影した写真です。私の知る限りでは、本邦初公開のはずです・・・。)

         
         タ−ジマハルに昇る朝日 2000/09/23 Am6:20 アグラ城より

 勉強となった国際会議の様子も少しは報告させて下さい。

 1日半にわたった様々な報告は玉石混合の様でした。
 というのは、私の英語能力が極めて貧弱なために、十分理解手できなかったことによりますが、それでも、日本・韓国・台湾の先生方の英語は少しは聞き取れたので、お国訛りがはいった英語のせいもあると自己弁護も少し。

         

 一番印象に残っている報告は、韓国ソウル大学のキム教授です。
 それによると、韓国は20世紀をつうじて世界の激動の被害をもろにこうむり、国土の自然環境が激しく破壊され、今日でも中国大陸からの国境をこえた公害に一年中苦しめられている、ということでした。
 自然破壊は、日本が韓半島(朝鮮半島)を植民地にしていた時代に大規模に始まり、半島の木々を紙のパルプ材料や鉄道の枕木として根こそぎ切り出し、そのため半島に生息していたトラが今は動物園に残るのみになってしまったとのことです。
そして第2次世界大戦後の半島動乱では、山の木々がことごとく戦火で焼き払われてしまったそうです。
 産業公害では、アメリカ資本がレーヨン産業を育成して、日本で労働災害(二硫化炭素ガス災害)を発生して人を殺し、日本におれなくなって韓国に進出して韓国の労働者を殺し、韓国にもおれなくなって、中国に工場を移して人をころし、今はインドに工場をつくって人を殺していることを一例としてあげました。
そして、韓国国内でも地域開発によるコンビナ−ト建設で激しい公害がおこっており、国民の政治に対する要望の1番が環境対策となっていること、しかし圧倒的多数の国民は環境対策は政府にまかせられない(最近の新聞による世論調査では、1%の国民が政府に公害対策をさせると答えているのみだそうです)、環境運動・NGOや労働運動でしか解決できないと思っているとのことです。
 全国で十数ケ所の巨大開発がすすめられ、そのためソウルを流れる川の上流にも工場地帯がつくられ、安心して水がのめなくなったためにミネラルウォーター産業がぼろもうけしているとのことで、「もっとも、ガンジス川よりはきれいですが」、と皆を笑わせました。
 海の巨大干拓もおこなわれ、広大な湾がドフになって魚介類も全滅している例もある(九州・有明湾よりひどい先例の様です)のに、今また世界一の規模の仁川国際空港建設工事を海上を埋め立てて進めているとのことでした。
 また、最近は中国が石炭を多量に燃料に使用することによって発生する大気汚染と酸性雨が韓国に振り注いでおり、季節風によって韓国が年中中国大陸のどこかの風下になるため、大量にふりそそぎ、やっとのことで全土で緑化した山の木々が枯れ始めてしまっており、中国の公害対策をしないと韓国の環境が改善されないとのこと。
 こうした自然破壊のため朝鮮半島を経由する渡り鳥にも大きな影響がでていること・・・などを縦板に水で発表をつづけたが、あまりの時間超過で司会者から発表打ち切りといわれて、話がおわった。
 この発表は、悲劇的というより最後には発表者自身がここまでくると喜劇的な実態だというニアンスの報告で、いうなれば「むちゃくちゃでございまするがな」とでも表現する英語で、参加者も笑い出してしまった。
 かとおもえば、インドネシアからは全国のリゾート地の観光紹介じゃないかと思える様な発表もあった。
もっともそこの美しい海で、貧しい家の子どもたちを雇って、魚をさんご礁に追い込ませて、ダイナマイトで魚を密猟し、子どもたちを殺したり、珊瑚礁はじめ海を破壊している集団もいるという報告もありましたが。
 1984年12月に発生したボパールのユニオン・カ−バイト社肥料工場爆発事故についても現地住民の代表が報告しましたが、現地語をインド環境大臣が英語に訳しての報告のため、訛りもあってほとんどわからなかった。
 事故によって8000人以上が死亡して、数は不明とのことで、インドの路上生活者がそこにどれだけいたのかわからないし、住民の数の実態が行政当局が把握できていないのだということが良くわかった。
爆発の跡は広島・長崎の原爆の跡のようであったらしい。
 死亡者にはその家族に当時500ルピ−が見舞金として支払われたらしい。
そのころの500ルピーは、今の日本の生活感覚にすると数十万円ということの様です。
だから極めて安い補償ですんだので、肥料製造会社はさっさと補償金を支払って、今そこには別の肥料会社が進出しているとのこと。
貧しい現地住民に、今日ガンなどの後遺症が多発しているようですが、政府からも放置されていると訴えておられた様でした。
 そのほか環境教育運動の報告やら、女性の環境運動への進出の報告やら・・・各国から次々されましたが、スライドに小さな横文字をびっしりならべ、私にはまったく理解できない、なまりの早口英語をまくしたてる報告もけっこうあって、聞き疲れて集中できなくなり、ついに雑音に聞こえ出したので、最後の2時間はリタイア、部屋に戻ってダウンして仮眠をとらせていただきました。

 おわりに・銃をつきつけられた事件の解明

 そろそろ疲れてきましたし、皆様もここまでおつきあいくださって、くたびれのことと思います。
これ以上は別の機会にして、少しだけ補足を追加して、命がけのインド旅行の報告を終わりにしましょう。
 次回のアジア太平洋地域環境NGO国際会議は台湾で2002年に開催される予定となりました。
 私の恩師のS先生は、インドの神のご加護のもと、23日夜アグラ駅に出迎えた私の前に、元気な笑顔で列車を降りてこられました。
 国際会議の次の日に、ニュ−デリ−大学の統計学の教授をたずねたり、国立博物館を見学したりしました。
 また帰国の途中でマレ−シアも訪問しサイバ−ジャヤなどを見学しました。
次回も皆様に感心と興味をもって読んでいただける報告ができるように機会をみて挑戦してみますのでご期待下さい。

 最後に、タクシ−を兵士にとりかこまれ、銃をつきつけられた事件の解明です。
ニュ−デリ−の詳しい市街地の地図を購入して、どこの場所で銃をつきつけられたのかと空港からの道順で調べてみました。
なんと、その場所はインド大統領府の裏手にある公園通りの職員通用門にゆきあたってしまいました。
もし日本でも首相官邸の職員通用門を、突然タクシ−で突破しようとしたならば、警備の機動隊にギタギタにされることは間違いありません。
大統領府の警備隊も、突然タクシ−が通用門を通過しようとするのをみて、押っ取り刀で飛び出し、銃を突きつけたわけでしょう。
 タクシ−の運ちゃんが、そこは通れないことは百も承知で、私の度肝を抜いて思考を混乱させるために、突入したにまちがいありません。
やつらはその作戦で、私をまんまとやつらのアジトに連れ込むことに成功したわけです。
とはいえ、やつらも危ない橋をわたるもので、もしあの場面で私がジタバタしたら、へたをしたら私が警備隊の兵士にギタギタにされていたかもしれませんし、警備兵とタクシ−運ちゃんがどんな交渉をしたかは分かりませんが、運ちゃんもつかまってタダでは済まない事件となっていたかもしれないわけですから。


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