訪韓(旅行前)私たちは
そこの ちゃらちゃらした奴
だったかも知れないが ・・・
私たち二人は韓国の人々に温かく迎い入れて貰うべく、手続きを行う
その時のパスポート
&
超苦労して手に入れたVISA
旅券発行は7月13日 査証が下りたのは
なんと 出航(船)の前日
8月10日だった
その他やらねばならぬ事多し 種痘の予防接種(3年間有効)及び、
コレラの予防接種(6ヶ月間有効)
海外渡航のための外国へ向けた支払い承認、許可申請書 日本交通公社 下関営業所で作成してもらう(7月6日)
この時代 持出し限度額 500米ドル レート 1米ドル 365円? 360円?
最近知った?情報 1年が365日だからレートが365円とは・・
他の情報では”円”が360度だから1ドル 360円と云う説もあるが
そっちの方が信ぴょう性が高いかな
爺チャン豆辞典
何故、円は360度なの?
360の部屋
と云う卒論のサイトに詳しく、解り易く載っていました
Roger !
私の時のRateは365円だった。安月給から36500円(何か月分の給料?)を捻出し、
山口銀行で100米ドルに換えた
小さな情報
貨幣換算比 1967年 100ウオン
約 140円
2006年 100ウオン
約 11円 約 13倍
と変動
その当時の5ウオン紙幣です
サイズ確認、及び偽造防止の為、xD-Picture Card を重ねて撮影しました
こんな古銭 コピーする奴いないやろー
チッチキチー
とっても可愛いオモチャの様なお札です
皆さんのパソコンにてだいたい原寸大で見えるでしょうか?
硬貨のひとり言
40年も経って旅行に行った時の1967年製 10ウオン硬貨
(2種類あって双方のサイズが大幅に異なる)
・・以前日本の50円硬貨も穴の開いてない大きいサイズのものがあったが・・
を見ている時ふと気が付きました
あれぇ何か変だよ 日本のコインとは違うぞ
1967年製の10ウオンが余りにも汚いので1991年製をサンプルとして撮影しました
マウス
をコインの上に乗せて見て下さい 上下が逆転します
手持ちの 1スイスフランでも同様でした
画像をわかり易くする為、ほんの少し拡大しています
爺チャン豆辞典
表と裏と上と下
スイス というサイトに詳しく載っていました
硬貨にはメダル・アラインメント と コイン・アラインメントとの2種類があるとの事
へえぇ
爺には初めて聞く言葉だ
手持ちの韓国硬貨 1ウオン(2種類) 5ウオン(2種類) 10ウオン(2種類)
50ウオン(2種類)
全て同様に裏表の上下が逆でした
但し、光復30周年記念
硬貨の100ウオン(1998年旅行時に入手)は
日本の硬貨と同様に裏表の上下が同じでした
さて、話を本筋に戻します 旅行の計画はどの様に立てたのだろうか?
今、考えれば殆ど行き当たりばったりだった
大まかの行く先を Seoul(ソウル) と Gyeongju(慶州) と決めていたが交通手段、宿泊の事などは全く無計画
それだけ韓国の情報が日本にきてなかった
なんせ、Seoul(ソウル)では夜間外出禁止
だったのだから
小さな情報
その当時(1967年)の大韓民国の人口
2795万 8千人 (私の記録)
その後に行った1998年(31年後)の人口が 約 4600万人位
だから
1.6倍以上
と大幅に増えている 考えて見れば31年の歳月が流れている
とりあえず、往復のチヶット ( 船+飛行機 ) だけは準備する
$ 小倉から” 九州郵船 ”で釜山へ 26.6ドル 円貨換算額 9,576円
勿論、大部屋の一番安いチケット?を手配
アルバムの記録では船名は”アリラン丸”で 17時小倉発 翌朝3時釜山着 9時上陸
小さな情報
39年後の2006年同航路2等室が8500円とは驚き驚き・・安くなってる な・なんと
$ 帰りは Busan(釜山)から Fukuoka(福岡)へ飛行機代が 24.2ドル
日本航空のプロペラ機(ダグラス社製?だった)
結果、飛行機代より船賃の方が高かった・が
船には船の魅力あり、地球が丸い事を実感出来た
所要時間比 10時間 対 1時間 長ければそれだけ楽しい時が長いんじゃよ
九州郵船のチケット
JALのチケット
●出会いその2
小倉港の待合室で韓国に戻る留学生と知り合う
左側はS君その右側は留学生のKさん 右の写真は船の中で知り合った韓国合唱団の少女と筆者
・・・ この留学生Kさんと短い時間だが知り合った事で色々ラッキーな事があり ・・・
私とS君が待合室でにわか仕込みの韓国語で
ムル プタックハムニダ
(水をお願いします)
とか
チョヌン イルボンサラムニダ
(私は日本人です) 等と会話?をしていたら
ニコニコと寄ってこられ、ハングル(だったかな?)で話かけて頂いたのが日大に留学されて久しぶりの里帰りのKさんだった
またもや若者同士は意気投合し、話は弾んだ Kさんは日本語が得意だったので同じく日本語の得意な私も会話に参加できた
又、客室内には英国人の青年もおられたが彼とS君は得意の英語でジョークを交え会話をして、私は羨ましかった
10時間の船旅、そして6時間の待機時間(税関が開かない為)を ”国際的な交流”、 合唱団の少女との写真、
水平線の確認等?で楽しみ、午前9時に上陸、生後22年に大陸の土を踏んだ
感動
● 文化の違い
釜山駅のトイレに行ったが日本では体験した事の無いトイレ
(詳しくは忘れた)なので韓国
に上陸したばかりの私たちは恐れをなし? Kさんにヘルプ ミー
Kさんは早速、釜山駅前の散髪屋さんに頼んでくれて用を済ます事が出来た
Kさん、そして親切な散髪屋さん、その節はお世話になりました
カムサハムニダ
釜山の中華料理店で食す、KさんとS君
Kさんは うどん S君と私は チャーハン を食べたのだがすごく量が多かった
若かったとはいえ、油っぽいものを朝飯に食べたものだ じゃが美味かった
こんな事を書いて良いか否か?
● 驚き 店に入って来た少年に突然片側の靴を奪われた?
目的は積極的な靴磨き
なのだが少し前の日本でもよくあった事だろう
さて、次の目的地の 慶州 (Gyeongju) にはどうやって行けばよいのか ?
ハングルを全く解せぬ私達にはルートの調べ方も切符の買い方も判らない
だが、私達にはサポートしてくれる友人がいる
Kさんが釜山 (Busan) から 大邱 (Daegu) までの確か3等(日本の2等)の切符を
買ってくれた
駅のホームには軍人が大勢いて、ホームと列車間には柵があった様に記憶している
間違いなく私は異国の土を踏んでいる
・・・ さて、列車の中はどの様だったのか?思い出せない 日記を付けるべきだったかな ・・・
その当時 35歳以上ぐらいの韓国人は日本語を話されるから 言葉では不自由しないと思っていたのだが ・・・
それはとんでもない無礼な考えだった
● 何故?
話せる
と
話す
は
別事
なのだから
列車の中で話しかけた(話しかけられた?)方(教師だったかな) 英語では会話されるが日本語では無言
これが現実なのです 日本語の得意な筆者は当然 蚊帳の外
列車の中から撮影
洛東江 が美しく見える カラー写真でなくて残念
カラー写真
はとても高かった思う 全行程の半分ぐらい大金
をはたいてカラーで写した
手前に見える帽子は軍人さん 軍人さんを撮影してよかったのか否か そんな時世
● 言葉の通じない異国
で無事 慶州 (Gyeongju) に行けるのだろうか
確かKさんの故郷は 大田 (Daejeon) だったかな 大邱 (Daegu) でお別れだ
● Kさん 友情のバトンタッチ
列車内での熱心な声かけで
大邱 (Daegu) で降りる人を探してくれて慶州行きのバスに乗れる様、伝言してくれた
ここまでやってくれる人が居るのだ
嬉しい
いよいよ列車は大邱 (Daegu) に到着 Kさんとお別れだ
Kさんが紹介してくれた方と列車を降り、バスターミナル (だったかな?)に連れて行って頂き、
そこで、慶州行きのバスを紹介して貰った(切符も手配)のだが何処にも
慶州 なんて漢字が書いてない
東西南北 360度 ハングル
ワールド だ! ガイド無くしてバスに乗ることは困難だっただろう
あらためて韓国人留学生 Kさんの
友情のバトンタッチに感謝します
バスは快調に慶州に向け走行 何箇所かのバス停では土産などの車内、外販売があり、
青りんごを買って食べた様な記憶がある
爺チャン豆辞典
フリー百科事典
によると 「 大邱周辺で生産されるリンゴは特産物であるといえる 」 とある
しかし、8月中旬に青りんご
があったのか?
ひょっとしたら未だ熟れてないりんご
だったのか 定かではない
慶州 に着くとまず宿を探さなければならないのだが私たちは一目で日本人と判るらしく、
客引きの人が流暢な日本語で話しかけて来て、慶州市佛國寺の
BUL KUK SA PA GO DA HOTEL を紹介してくれた
● 韓国最初の夜を迎える
ホテルの名刺には 韓室 洋室 沐湯 と印刷されている
沐湯 とは 何だったのだろうか?
あくまで想像的情報
沐湯を中国語かな?と思って調べると
スープ
と翻訳される
と 云う事は 人間のスープ
バスタブ
か? 強引な解釈
よい子は信じない事!
● 下記の文章はどうでもいい様な 爺説 です 面倒な方は飛ばして読んで下さい
爺ちゃん的
には執拗に
沐湯
について触れよう
私が知る限りの 沐
の字の使い方は
沐浴 だけです
沐浴を辞書で引くと 髪や体を洗って身を清める
と出ている
一般的には 赤ちゃんを沐浴する
などと使用します
英訳では単純に bathing となる これを逆引きすると 水浴びとなるが これは正確ではないと個人的には思う
何故なら 沐浴と斎戒
が関連あるからである
斎戒とは祈りの前などに心身を清める とある
つまり、沐浴は単なる水浴びに非ず 清め
の意味を強くする様だ
結論 沐湯=清めの湯=日本式の湯船
決して西洋式のバスタブの使い方では無いと
爺さん は思う
後日記 この歳にして 斎戒沐浴
と云う四文字熟語の存在をウエブ上で知る事が出来ました
● ご静聴ありがとうございました
ホテルで韓国初の夕食を食べる筆者
生まれて始めての韓食に驚きながらも
さ〜て どれから食べようか
箸は 銀製だ
僕たち若造には身分不相応な食事である
残念だったのは一晩中客引きが部屋の周辺を うろうろ(次の日の予約をとる為?)
熟睡は出来なかった こんな貧乏若造を相手にしても仕方ないと思うのになぁ〜
この時代どれ位の日本人が慶州を尋ねたのか? 貴重なお客だったのかも
PAGODA HOTEL の領収書
(注)
画像のサイズ縮小の為、中間部を削除しています
室料 2人で880ウオン 食料 2人で300ウオン サービス料 120ウオン 合計 1300ウオン
1300ウオン = 1820円
物価の安さに今更ながら 驚く
O・Bビール 3本で600ウオン スペシャルコーラ 140ウオン
身分不相応な食事1人分150ウオン
に対し、 コーラが140ウオン
なのだから 物価って不思議だ
8月13日 早朝
ジープタクシーにて
仏国寺のホテルより慶州市内へ
記憶が定かではないが仏国寺のホテルでガイドさんを紹介され、
生まれて初めてのガイド付き (なんと贅沢な)慶州見学
(見物ではないよ)に出かけた
ジープタクシーにはメーターが無く、料金の打ち合わせをして走った
左側 史跡第1号 鮑石亭
中 史跡第18号 雁鴨池と臨海殿
右側 宝物第66号 石氷庫
● 余談の雑箱
鮑石亭 は
曲水 なのだが
私の知る範囲の 曲水
には山口県の
漢陽寺
があります
ある早春
このお寺に行った時 (単なる観光) に作った俳句
曲水の音(ね)も色づくや漢陽寺
お詫び
お耳?を汚して申し訳ございませんでした
下の写真左側 史跡第63号 三体石仏
下の写真右側 国宝第31号 瞻星台
その他色々な所で写真を撮ったので旅行ガイドブックやウエブ上で現在と過去を比較してみた
40年の歳月は感じるものの全く同じ光景もたくさんあり、文化遺産がナチュラルに管理されてきたと思える
ナチュラル ファン
? には
嬉しい事だ
慶州を堪能したので慶州からバスで離れ、大邱に戻る (その時の記録ではバスの所要時間 1時間30分)
大邱 (Daegu) からソウル (Seoul) には飛行機に乗ったのだが 訳は?
汽車賃より航空代の方が安かったのか ? それとも 外国人には航空機の方が乗りやすかったのか ?
KOREAN AIRLINES のチケット 3120ウオン
日本円で約4400円
その当時の一般ピープルには決して安くない金額だった
その当時(今は?)大邱空港は軍隊と共用されていたので外国人は
パスポートの掲示が必要だった
●出会いその3
数少ない日本人との出会い
その方は製菓会社の重役さんでソウルのホテルに単身赴任?されていた
君たちは日本人かね ?
はい! そうです
私たちは緊張気味に返答した
Seoulでは親切にサポートして頂き、有難うございました
大韓航空から見た大地と機内の様子
乗客は韓国人と西洋人が半々ぐらい
コーラサービスがあったが美味しかった コカ?ペプシ?韓国産?
機内の気圧調整が悪く?慣れない私は頭が割れそうになった
未熟者ゆえ飴をしっかり食べるなり、生唾を飲み込むなりの自己管理が出来なかった
この時は飛行機に乗った事を
後悔
●出会いその4
親切な人たちに巡り合った
これからの韓国を担う高校生、大学生は国際交流に積極的だった
・・家族に日本人をガイドしたと話されたらどんな反応だったのか?・・
左下の写真 8月14日 徳寿宮内博物館(石造殿)
右下の写真は案内してくれた高校生の千さんと鄭さん
注
鄭
さんの正しい字は
です (彼女が教えてくれた)
私の薄学ではこの字がどうしても出てこないので
あづりながら合成でつくりました
散々案内して貰って
お礼は パインジュース
だけ ごめんなさいね
下の写真
左側の写真は南大門路の陸橋より南大門を撮影 交通整理の警官 路面電車が写っている
中央の写真は韓国銀行
右側の写真
は13日の夕方知り合って14日ホテルに花
を持って来てくれた大学生の金さん
彼女は英語が得意だったのでS君と楽しく会談
私はここでも 蚊帳の外
8月15日ホテル内で撮影
紹介して頂いた WOO YANG HOTEL(中区会賢洞1街72)で
お世話になった製菓会社の重役さんと
色々ソウルを案内して頂いた高校生の安さんたち
彼女たちには新世界デパートなどを案内して貰い、
韓国人形、ハンカチ、扇子などの土産物を買った
8月15日鐘路区新門路にある私の勤めている会社から出向されている会社を訪ねたがその方は
YMCA に出かけていらっしゃって残念ながらお会い出来なかった
その日は南大門路で開放記念日のパレード
を見物したのだが、 どこの国からの開放か と考えると複雑な心境だ
しかし、ソウルの人たちは私たち日本人の若者にとても親切であった
頭が下がる
爺チャン豆辞典
ウエブ上で嬉しい記事がありましたので引用させて頂きます
望月カズ
戦後の韓国において,たった一人,日本女性の身でありながら,
身寄りのない孤児たち133人の養育に生涯を捧げ日韓友好の架け橋となった人がいます.
「38度線のマリア」
と讃えられる,望月カズ(旧姓永松)がその人です (中略)
昭和42年(1967),韓国の独立記念日にあたる光復節に,
カズに日本人として異例の,第一回光復賞が授与されました.
丁度、この日この時、私たちは同じ Seoul にいました
SEOUL駅に見送りに来てくれた大学生の黄さん高校生の朴さん安さん
写真左側の黄さんが釜山市海雲台のホテルを紹介してくれた
・・ 私たち家族は毎年 海雲台の
国東ホテルで避暑するんですよ ・・
避暑
なんて私には全く縁のない言葉だ!
生活レベルの違いにおじけついたのは確かだが
・・ ともかく行ってみるかと釜山行きの列車に乗った ・・
SEOUL から BUSAN まで なんと 7時間
その時をどの様に過ごしたのか?
どんな様子だったのか?全く思い出せない
唯一アルバムに書き込んだメモに依ると (原文のまま)
「SeoulよりPusanまでは二等に乗ったが車内は日本の普通急行一等と同様である
(ただし冷房は扇風機)
日本と違うのは素敵な案内ガールがいる点である」
当時 韓国の二等は日本の一等だから私たち若造の乗る車両では無い!
セレブ女子大生が切符を買ってくれたのか ? 自分たちで格好付けたのか ?
釜山駅からタクシーに乗り、海雲台へ向かう
(距離的にはバスが妥当なのだがセレブ女子大生に感化され?)
身分違いに怖気つく
ホテル代を払う事が出来るのか?
えー あれが目指す
HOTEL KUKDONG(国東ホテル)
一番でかいホテルじゃないか
ホテルの前は海水浴場になっていて最高のロケーションだ
参ったな〜 今更、逃げれないよ
ホテルにタクシーが横付けされたら ドアマン が・・
部屋の前には机が置いてあり、専属のボーイ が
ど・どうにかなれ!!
二人の若者に亀裂が!
手持ちのお金を計算するが厳しい
その時、私たちの手持ち金はいくらだったのか?
紹介してくれたセレブ女子大生 黄さんの言葉を思い出す
国賓の人
も泊まられるホテルなんですよ
おいおい 僕たちが 国賓
かよ 極貧
ではあるけれど ・・・
このホテルに泊まった事で
責任の擦りあい
になった 何も解決しないのに
・・ 今、この記事を書いていても未熟な自分が恥ずかしい ・・
びびった二人はとても熟睡出来る心境ではなかった
一夜明けたらスッキリ
や・安い
こんな金額で二人は仲たがいしたのか
お金の魔力は怖い
・・ 私はこの時から 金嫌い?になった(お金に縁がなくなった) ・・
しかし、これは私に幸せをもたらした それは
貧乏人としての人生の楽しみ方の
得とく
考えて見れば慶州のホテルが二人で一泊二食付き1300ウオンだったのだから ・・・
ドアマンが居ようと専属のボーイが居ようが 後になれば何とでも思えるんじゃ!
無事、ホテルから出る事が出来る
しかし、まだ難問が
ホテルの前には高級外車
が待機 このまま出ると高級外車
のドアが開かれる
私たちは高級外車
が出払うのをじっと待ち、迷い込んできた?
ジープのタクシー
に逃げるかの如く飛び乗った
それは私たちがセレブ社会から現実の世界に戻った瞬間であった
・・かなりオーバーな表現・・
左下の写真は1967年8月16日 出発前の釜山空港
右下はSeoulで買ったお土産の韓国人形
この人形には苦い
想い出があります
釜山空港の税関で箱の中身を尋ねられた時、
DOLLと、答えられなかった為、
箱をビリビリに破られた
・・これからの若者は外国語をしっかり学ぼう と 自分に言い聞かせる・・
釜山より、福岡に向かう機内から写したプロペラ
ちょっぴり懐かしき板付空港上空に到達(1967年の福岡)
爺チャン豆辞典
福岡空港 まちレポート ふくおかKIDSレポート
と云う情報
がありましたので一部転記させて頂きます 注釈
少し高学年用に変更しています
子ども記者が福岡空港をレポートします。
今回は、福岡空港ビルディングの三木さんに
福岡空港について、質問
しました
● 福岡空港はいつできましたか?
昭和20年5月に 席田(むしろだ)飛行場
が完成しましたが、昭和20年8月に太平洋戦争が終わり、
昭和20年11月にアメリカ軍が管理するようになり、
板付(いたづけ)飛行場と呼ばれるようになりました。
正式名称として福岡空港
と呼ばれるようになったのは昭和47年です。
みなさんのおじいさんやおばあさんが
板付空港と呼んでいるのを聞いたことがありませんか?
これはアメリカ軍が板付空港
と呼んでいた名残(なごり)です。
韓国旅行後の日々
お世話になった人たちと文通を始める
日朝小辞典を買ってきて
やる気満々
しかし、長くは続かず 相手方の手紙全く判読出来ない
40年近く経った今日、あらためて中を見ると「わかる」
のところにアンダーライン
を引いている
解読に散々悩んだ様だ
蛇足
日朝小辞典 昭和41年4月15日 第一版発行 1000円
同辞典 1994年7月発行の物 (資料形態変更なし) 4120円
・・・ 文通の自然消滅に多くの時間は要しなかった ・・・
そして私は
国際舞台
から去った?
・・・ END ・・・
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