平成の大合併を考える
はじめに もっと違う展開は、なかったのか。 平成十五年四月二十一日、周南市は2市2町の先行合併という形でスタートした。なぜ先行合併か。そこには、離脱していった下松市を含めて、将来的には二十万都市を実現したい、との願望があったことも事実である。だが、その一方で、2市2町の枠組みから熊毛町の離脱を防ぐと共に、合併の期日を守るための方便であったことも否定できない。 この、あわただしい周南市の船出には、少なからぬ住民が不安を抱いている。それは、中心に位置する旧徳山市の住民とても例外ではない。まして周辺部の旧1市2町では、多くの住民が疑念を抱いている。 五月二十五日、五人の候補が乱立した市長選挙は、合併協議会の会長を務めた前徳山市長が逃げ切り当選を果たした。新市建設計画について、全面的にこれを評価したのは彼一人だった。他の候補は、二人が、「2市2町の事業の羅列」、「事業を並べただけ」であり評価できないとし、一人が「事業費は積算が充分でない」とした。共産党の候補は「凍結、再検討」とした。 新たなまちづくりのためには、基本戦略がなくてはならない。住民自治の基本原則に照らし合わせるなら、そこには住民の意思が反映されるべきである。よりよいまちづくりを目指すなら、合併の目玉をつくらなければならない。そして、合併してよかったと言われるまちづくりのためには、その目玉に対する住民の合意が不可欠になる。 周南市は、平成の大合併の中で、山口県のトップを切って誕生した。だが、そこには、まちづくりの基本戦略もなければ合併の目玉もない。今日の停滞を払拭する工夫もなく、あるのは閉塞ばかりである。 なぜ、このような合併になったのか。その求心力は何だったのか。平成の大合併と周南市誕生の関わりを考察してみた。 周南の合併を実現させた平成不況 @ 唐突に設置された法定合併協議会 振り返ってみると、今回の周南合併は、その出発点から唐突に始まった。その発端は、中心部に位置する徳山市長の突出発言であった。平成十年九月、徳山市長は、他の2市長(下松、新南陽両市)の了解を得ないまま、法定合併協議会の設置について議会答弁を行った。その後、同年十二月、この徳山市長の発言に対し、下松、新南陽両市長がこれを取り繕う形で3市がそろって法定合併協議会設置の議案を提出することになるが、この一連の流れがその後の混乱を招く要因になったことは否めない。 例えば、その一つが、この法定合併協議会設置後に実施された新南陽、下松両市の市長選挙の結果である。その唐突さを示すが如く、この両市で行われた市長選挙では、いずれも積極推進派の現職が慎重派の新人に敗れた。 そしていま一つ、混乱を増幅させたものが、合併協議会の規約の中に入れられた「合併の是非も含めた3市の合併の協議」という文言であった。法定合併協議会設置に対する3市の温度差の調整弁として記入されたこの文言は、議会の議決を得る上では確かに有効に機能した。だが、そこには、新たな混乱の火種が熾き火として残されることになった。 徳山市の両側に位置する下松市、新南陽市では、それぞれがこの文言をめぐって全く異なった解釈の下に議案を可決した。下松市では、この文言の文章の通り法定合併協議会は合併の是非も議論出来る会議だと受け止め、慎重派を含む絶対多数の議員の賛成によって議案を可決した。一方の新南陽市では、大方の議員がこの文言よりも法定合併協議会の性格の方を重視し、これは合併をするための会議だという認識の下に、慎重論を除く賛成多数で議案を可決した。 こうして3市の法定合併協議会が発足し、その後遅れて参加した熊毛、鹿野両町を含めて3市2町の法定合併協議会へと展開することになった。だが、この「合併の是非」が法定合併協議会の場で議論されることはなかった。そこでは、出口論か入り口論かの議論だけが繰り返され、この結果入り口論は排除されてしまった。
A 3市2町合併の破綻と熊毛町 下松市の離脱が鮮明になったのは、平成十四年一月のことだった。前年十二月、合併の期日をめぐる不調から合併協議会を退席した下松市長は、この時の会議にも出席しなかった。そこには、期日の問題だけでなく、「合併の是非」の文言について、その解釈に乖離があったことは間違いない。この下松市の離脱は、同市と深いつながりを持つ隣接の熊毛町に大きな動揺を与えた。 下松市を除く2市2町が先行合併の方針を決定したのは平成十四年二月の首長会議だった。この首長会議では、合併の期日(平成十五年四月二十一日)についてもそのまま確認がされていた。設立準備会議の後、2市2町の法定合併協議会が設置されたのは同年六月一日だった。 一方、熊毛町では、この先行合併の動きと同時進行の形で住民運動が起きていた。住民投票条例案を否決された住民は、新たに議会解散運動への取り組みを進めていた。だが、2市2町法定合併協議会の議論が、この熊毛町の住民運動の結果を待つことはなかった。「四月二十一日」の合併期日は、いまや最優先の課題となっていた。 その後の熊毛町では、議会解散請求のための署名運動が進められ、七月には有権者の四割を超す、五四二五人分の署名簿が町選管に提出された。八月には議会解散の是非を問う住民投票の日程が決められた。十月には住民投票の結果、解散賛成が反対を148票差で上回り議会は即日解散となった。 しかし、2市2町の議会では、すでに九月時点で合併関連議案を議決済みだった。熊毛町ではわずか一票差の可決だった。十一月に行われた町議選の結果は、2市2町合併賛成派十議席、反対派六議席の結果となり住民運動は実を結ばなかった。だが、この住民運動が平成の大合併に一石を投じたことは間違いない。
B ばら色合併論の盛衰 周南合併論議は、その当初から「はじめに合併ありき」と言われてきた。その背景には、山口県の「第四次県勢振興の長期展望」による中核都市構想があった。初期の周南合併論議は、この山口県の中核都市構想と、円高不況から波及した周南自身の地盤沈下による不安が相互に作用して出発したものだった。 最初の合併論議では、国の中核市制度を意識して周南広域市町村圏による三十万都市構想が語られた。だが、既存の三十万都市が平均して八十万の都市圏人口を持っているのに対し、周南の都市圏人口はそのままの三十万でしかない。三十万都市構想は、合併を実現させるには説得力を欠いていた。 次に浮上してきたのは、二十万都市構想であった。二十万都市構想は、平成七年に創設された国の特例市制度を視野に入れた合併論議であった。3市(徳山、下松、新南陽)及び2町(熊毛、鹿野)がこれに参加した…。 「広島市や福岡市に負けない質の高い買い物やレジャーが楽しめるような、百貨店や専門店ビル、都市型レジャーなどの高次商業が集積した魅力ある中心商業地を再整備する」、「西瀬戸内交流圏にあって連環的な中核拠点都市を目指します」。これは、周南合併推進協議会が平成十年十二月に策定した「周南3市2町まちづくり構想」の中の文章である。 ここには、それまでの「ばら色合併論」のすべてが盛り込まれている。しかし、今では、合併しさえすれば、広島市や福岡市に伍するまちが出来上がってくると、この構想を本気で受け止めている者は誰も居ない。これらの百万都市との比較をしてみれば、人口や財政規模だけでなく都市エリヤそのものが一桁違うことに気付くからである。 合併の宣伝とまちづくり構想とを混同し、「中核都市」さらには、「中核拠点都市」などという言葉の独り歩きを許した結果が、この誇大な構想に繋がったものと考える。今日に至るまでの、「中核都市」についての認識はあまりにもあいまいだった。それぞれが語ってきた中核都市は、ある時は、県勢をけん引する中核都市だった。だが、ある時は、国土づくりの観点からの地方中核都市であり、さらには中核拠点都市へと飛躍してしまった。
C 財政危機が「合併」を自己目的化した こうして周南の合併が紆余曲折を経る中で、合併への求心力になったのは皮肉にも平成不況と日本全体の財政危機とであった。645兆円、666兆円、693兆円と、年度を追って膨らんでいく国と地方自治体の借金。地方分権論からスタートした平成の大合併は、財政危機の進行によって自己目的化し始めていた。 少し遡るが、平成十三年の年末に下松、新南陽両市で講演を行った総務省の市町村合併推進室長は、年度末の国債と地方債の合計が666兆円になることを紹介して、率直に合併の実現を求めた。また、それまで慎重とされてきた新南陽市長が、「行財政の効率化も合併の目玉」と発言し始めたのもこの前後からだった。それは、換言すれば、この他に何も無くても合併だということであった。 確かに理屈の上では、合併によって、重複投資が避けられ大所高所から見た効果的なまちづくりが可能になる。だが、現実には、一方的な合併の宣伝が横行した結果、ばら色合併論は頓挫していた。この時点では最早、実際に目に見える合併のメリットは、首長・議員の減数や職員定数の削減等による人件費の節減と、合併特例債その他の合併優遇措置程度しかなかった。 これら一連の流れを振り返って言えることは、「合併が自己目的化し、合併の本来の目的が見失われた」ということではないか。合併の本来の目的とはなにか。それは「まちづくり」以外にはあり得ない。合併は手段ではあっても目的ではないからだ。このことさえ、明確に意識されていれば、もっと違う展開も可能だったのではないか。
D 言論機関が果たした役割 そしてさらに、言論機関の存在である。それまで順調に推移してきた3市2町法定合併協議会の議論に、波風が立ち始めたのは平成十二年の中頃からであった。そこには、新南陽市に次いで誕生した下松市の慎重派の市長の存在があった。こうした中で、性急に合併推進に駆り立てたのは言論機関であった。 言論機関、分けてもこの時期以降の新聞が、合併推進に偏向した姿にはすさまじいものがあった。合併の期日、協議会での議論、慎重姿勢を崩さない下松市長、財政危機…。合併をめぐるこれらの記事から、独善、曲解、詭弁、中傷、扇動を感じてきたのは私だけではない。新聞を教材として活用するNIE活動が取り入れられつつあるが、この時期の合併関連記事は果たしてこれに耐えられたであろうか。 それは、地方紙・地元紙を中心に全国紙まで巻き込んだ、「合併推進は正義、慎重・反対は悪」の報道合戦だった。こうして新聞は合併の実現に大きな役割を果たした。だが、同時に、本来の目的である「まちづくりの議論」を封殺する役割も果たしたのである。 周南合併は確かに実現した。新市建設計画は、「県勢発展をリードする『元気発信都市』の創造」を目標に、2市2町の計画を持ち寄ることで形が整えられた。だが、ここには、都市の顔づくり一つとっても、中心部の旧徳山市の顔づくり計画があるだけで、周南十六万都市としての全体から見た顔づくり計画は議論さえされていないのである。 平成の大合併に欠けている議論はなにか @ 市町村合併の主役は誰か さてそれでは、改めて平成の大合併についてである。政府広報は、「みんなで取組みたいね、元気で魅力あるふるさとのこと。市町村合併は、住民のみなさんが主役です。」と呼びかけてきた。だが、果たして住民の側にその実感があるだろうか。一部の人達を除けば、自分が主役だと感じている住民は少ないのではないか。この政府広報の文章と住民の側の実感との落差、これこそが、平成の大合併の最大の問題なのではあるまいか。 本来であれば、合併の是非を判断するのは住民でなければならない。そのためには行政から判断材料が提出されなくてはならない。首長や議員は選挙で住民に信を問い、また説明責任を果たさなければならない。場合によっては住民投票も必要になるだろう。これらがうまく噛み合って市町村合併はようやく住民のものになる。 だが、現実の社会では、これらがうまく噛み合うことの方が難しい。しかも今回の合併の最大の推進者は国である。合併のパターンが示され飴と鞭の政策が見え隠れする中で、住民が自由な立場から合併の是非を判断することは難しい。のみならず、現時点での住民には、「主役」としての意識自体が未熟であるように感じられる。
A 誰が自治体を担うのか それは、誰が市町村を担うのかという観点から合併問題を考えてみれば分かる。市町村は、別名「地方自治体」と呼ばれている。「自治」とは、自ら治めることであり、自分のことは自分で処理をするということだ。地方自治体としての市町村は、団体自治と住民自治という二つの基本原則によって成り立つ。 団体自治とは市町村が自立した一個の団体として自らの意思で行政を行うことであり、住民自治とはその市町村の意思決定が住民自らの手で行われることである。この基本原則からすれば、私たち住民には、「単なる住民」ではなく「一人前の住民」になることが求められる。なぜなら、自治体を担うのは住民自身であり、そのためにも住民には主役としての成熟が求められるからである。 ところが、この日本には、「一人前の住民」を意味する言葉がない。仮にあるとすればそれは「公民」という単語になるのだろうが、なぜか今日の日常生活では「公民」を語る者はいない。残念なことだが、これが現実である。「公民」を語らずして「公民」の概念を伝え合うことが出来るのか。それが至難の業であることは自明の理であろう。 蛇足になるが、今日、「公民」の代わりに使用されている言葉は「市民」という単語である。だが、この単語では、市・町・村という行政区域が存在する限り第一義は「市の住民」だということになる。これでは、主役としての成熟を語ることは不可能であり、住民は未熟に甘んじる以外にない。
B 地方自治についての議論がない そしてまた、今回の大合併の背景である。今回の大合併では、「地方分権の受け皿づくり」が提起され、論じられてきた。その上で、明治の大合併や昭和の大合併との対比が語られてきた。だが、いくら地方分権の受け皿が必要でも、過去のこれらの合併と、今回の合併を同列に扱う短絡思考には少なからず疑問が残る。 なぜなら、天皇主権の下において行われた明治の大合併、民主国家になってまだ日も浅い時期に行われた昭和の大合併、これらの合併と今回の合併は明らかに違うからである。今回の合併は「民主主義の学校」と言われる自治体同士の合併であり、そこでは当然、住民の自主性が尊重されなくてはならない。この観点からすれば、過去の合併と今回の合併を単純に比較すること自体が無神経なのである。 地方分権と地方自治とが同義でないことは、江戸の藩政時代を振り返えってみれば分かる。分権だけを語るのなら、あの時代の方がはるかに地方分権だった。平成の大合併において、地方自治の議論がない理由は、すでに議論の余地がないほど地方自治が定着しているからでは断じてない。それとは反対に、あまりに地方自治が未熟であるがゆえに議論の俎上にも上がらないと考えた方がむしろ正解に近いだろう。 今日の地方の自立のために、分権の受け皿づくりは欠かせない。だがそれだけでは必要充分な条件は満たせない。それは、地方分権なくして地方自治はあり得ないが、地方自治なくして今日の地方分権はあり得ないからである。地方自治の議論、分けても住民自治についての議論が合併論議から欠落してはならないのである。
C もっとまちづくりの議論を盛り上げよう そしてさらに、まちづくりの議論についてである。合併の目的はまちづくりでなくてはならない。合併は手段であって目的ではないからだ。 勿論、日本の財政危機の現状を考えることも「公民」としての責務である。だが、合併することだけを目的に上意下達の議論がまかり通るなら、地方自治は失われる。それはようやく受胎した住民自治の臍帯を切るに等しい行為だからだ。「自分たちのまちは自分たちでつくる」という基本理念がいまほど尊重されなくてはならない時はない。 また反対に、それぞれの市町村が「合併しない宣言」をしただけでまちづくりの議論を蔑ろにするならば、自治体としての展望は開けない。いま日本には、閉塞と不安と懐疑が満ちている。単なるメリット・デメリット論だけで合併の是非を判断する時代ではない。それぞれの地域でまちづくりの議論を起こし、夢と意欲と信念の持てる将来像を模索しなければならない。 こうして考えてみれば、平成の大合併はまちづくりの議論から出発しなければならないことが分かる。それは、地方自治、さらには住民自治を語ることでもある。今日の閉塞を打ち破るのもこうした議論の積み重ね以外にないだろう。さらに、合併への求心力もここから生まれると言ってよいのではないか。 周辺部の埋没を阻止する手立てはあるか @ 周辺部を飲み込む三つの波 さて、それでは最後に、周辺市町村の立場から合併についての問題点を考えてみよう。どのような合併であれ、中心部と対比すれば、周辺部の方により大きな不安が付きまとうことは間違いない。例えば、それぞれの市町村を自治体という観点から捉えなおしてみるならば、周辺自治体にはいくつかの試練の波が待ち受けていることが理解できる。周辺自治体を待ち受ける試練の中でも特に大きなものは、「埋没」を伴った三つの波である。 一つ目の試練は、団体自治の観点からみた「自決システムの喪失」という波である。それぞれが一個の自立した団体として、その地域毎に決定・処理できていた問題が、広域の一部に取り込まれることによって自決権を失い、しかも少数者の位置を余儀なくされるわけである。合併後の自治体の中で、旧市町村が埋没することについての不安は簡単に拭えるものではない。 二つ目の試練は、住民自治の観点からみた「参加意識の後退」という波である。大きな相手と合併することになれば、それまでの自治体行政への意見反映やまちづくりへの参画等の機会が減少することは否めない。この、自治体の中枢機能から疎遠になることによる疎外感、無力感が増幅されるならば、住民自治は大きな痛手を蒙ることになる。 三つ目の試練は、対象地域や人口、財政等、自治体規模の増大に伴う「行政組織の拡大」という波である。そこには権限を拡大した行政と、一段と大型化した官僚制が横たわることになる。自決システムを失い参加意識の後退を余儀なくされた周辺部の住民に、これらがやさしく微笑んでくれる保障はどこにもない。
A 埋没を阻止するポイントはなにか これら三つの試練を考えてみれば、周辺市町村にとって合併は、自立心の喪失、さらには住民自治機能の崩壊という根源的な危険を秘めていることが分かる。周辺市町村がこれら「埋没」の試練から、その波を掻い潜り、中心部との共生を目指すためにはどうすればいいのだろう。私なりに、以下二つの提案をしてみたい。 その一つは、「隣接組織との連携によるコミュニティ活動の活性化」についてである。住民の帰属意識や地域特性を語る最小単位の組織は町内会や自治会であろう。だが、自立心を養い、住民自治を確立するための母体としては弱小である。隣接する複数以上の組織の連携を図り、いま少し大きな単位での括りを創設してはどうだろう。横断的な地区会議を立ち上げ、その地区ごとにコミュニティ活動の活性化を図れば、「埋没」の試練を乗り切ることも可能になるのではあるまいか。 いま一つは、「まちづくり情報提供システム(IT化)の確立」についてである。今日では、行政の側においても、情報公開制度の設置はすでに常識になってきた。しかし、行政情報の中でも、まちづくり計画については、住民と行政が同レベルの情報を共有することが望まれる。単なる公開だけでは十分でない。自治体のホームページの中から、まちづくり計画が取り出せる情報提供システムの確立を提言しておきたい。このシステムが実現すれば「参加意識の後退」にも歯止めが掛けられるのではあるまいか。
B 合併は、方式よりも中身が肝心 そしてまた、合併の方式の問題である。合併の方式には、新設合併と編入合併の二つの形態がある。新設合併とは2以上の市町村を廃し、その区域をもって新たに一つの市町村を置く場合のことで、対等合併とも言われる。編入合併とは1以上の市町村を廃し、その区域を他の既存の市町村に加える場合のことで、吸収合併とも言われる。周辺市町村の立場からすれば、編入合併には少なからず抵抗感があることは間違いない。 出来ることならば、編入合併よりも新設合併を選びたい。このこと自体を否定するつもりはないが、問題はその中身である。仮に編入合併を選ぶ以外に方法が無かった場合でも、中身を充実させることが出来るならその合併は成功事例になる。その反対に、新設合併を選択出来たとしても、実態が伴わなければそれはお題目に過ぎない。 事実、周南市の事例を振り返ってみれば、合併方式は新設合併であったが、その中身の議論は必ずしも充分ではなかった。先行合併が強調された結果、「新市の事務所の位置」については、「合併時の」位置を定めただけで本決定は先送りされた。また、「新市建設計画」についても、具体的な戦略の議論を欠き、旧2市2町の計画を寄せ集めたものがリーディングプロジェクトとして位置付けられた。この外にも、多くの課題や項目が「新市に移行後、速やかに調整する」ものとして先送りされた。 本来であれば、これらは合併の前に議論が尽くされるはずだった。だが、それを許さぬ勢いがすでに出来上がっていた。その勢いを支えたのは、「合併は正義である」という空気だった。形だけの新設合併に突っ走った周南市は、これから多くの議論を消化しなければならない。その時の議論如何によっては、対等であるはずの新設合併についても批判の声が出ることになるかも知れない。
C それぞれの自治体が要求をつくれ こうして現時点から振り返ってみれば、合併の前にもっと大きな目で現実のまちづくりを見据えておくべきだった、ということが痛感される。少なくても、新市の建設計画を検討する段階では、合併後の大きくなったまちを想定し、それぞれがその構成員としてどのような戦略を展開すべきかを議論する、という視点が必要であった。さらには、その戦略の上に立って「それぞれの自治体が要求をつくり」、それを計画の中に盛り込んでいくという発想も大切だったのではないか。 あるいは、私のこの発想については、異論が出るかも知れない。例えば、合併を成功させるために、周辺部は地域エゴをいうべきでない、という意見がある。しかし、中心部には中心部のエゴがある。極論すれば、合併を推進すること自体が中心部のエゴだと考えることも出来る。合併に際して、周辺部がそれぞれの要求をつくることを地域エゴだと受け取るべきではない。 むしろ、こうした要求を、それぞれの自治体が出し合い議論し合うことで、お互いが相手の立場を理解することが出来れば、これこそ合併を成功に導く方策になるだろう。また、それぞれの自治体が要求をつくるためには、その自治体の中で議論を尽くさなければならない。このことによっても、合併に対する理解が深まるのではないか。 合併は中心に位置する自治体だけのものではない。特に新設合併の場合には、これまでとは違う全く新しいまちをつくるのだという発想が重要になる。そこでは、まちづくりの戦略も従来の延長線上で語るのではなくて、見直しがされて当たり前である。これらを踏まえて思い切った議論をしようとするならば、「合併する前でなければ出来ない議論」もある。それぞれの自治体で要求をつくり、議論の俎上にそれを乗せるべきだと考える所以である。 おわりに 周南合併は、一つの小さな暴走だった。そこには、それを惹起させた様々な誘因が準備されていた。その一つが、この周南自身の地域特性であり、山口県の中核都市構想であったことは間違いない。だが、それだけで、このような暴走に発展したわけではない。そこには、国の政策や過熱報道等を含め、多くの誘因が絡み合っていたはずだ。これらの中でも最も大きな誘因は、「民主主義の未熟」というこの国の病理だったのではないか。 確かに、この周南の中心都市・徳山市では、戦後にその市域内部から新南陽市の地域が分離独立して以来、この地域との合併が宿願となってきた。半世紀以上にわたる忍耐が、中核都市構想と絡み合い、合併の実現を目前にして、今回の暴走エネルギーを生んだとしても不思議はない。だが、これだけが誘因のすべてなら、それは全体的なエネルギーにまでは成長しないはずである。 これら以外の誘因があるとするなら、その一つはやはり我々住民の主体意識の未熟であろう。この日本では、日常生活の中で「公民」が語られていないことについて触れておいたが、このままでは住民が合併の主役となることは難しい。なぜなら、住民が合併の主役としてその是非を判断するためには、常日頃からの「公民」意識の涵養がなくてはならない。「公民」を語り合うことがない日本のこの現実を考えてみるならば、その場の雰囲気でその時の勢いに流されてしまう現象は、畢竟当然の帰結である。暴走の、最大の誘因は、ここにこそあったのではないか。 地方自治は民主主義の学校と言われてきた。今回の平成の大合併が、国民から地方自治、分けても住民自治への関心を奪うなら、今でさえ危ういこの国の民主主義は、この先機能しなくなる。行財政の効率化に目を奪われ、まちづくりの議論を怠れば、さらなる漂流を余儀なくされることになるだろう。
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