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●通産省とコンピュータ

日本電子工業振興協会

1957年6月、電子工業(特にコンピュータ関連)の振興を図る目的で電子工業振興臨時措置法が制定されました。
これを受け、通産省の指導で電子工業分野のメーカーを会員として日本電子工業振興協会が1958年4月に設立されました。
日本電子工業振興協会(通称、電子協)は、新しい電子工業分野の技術向上や研究開発の促進などにより電子工業の振興を図ることを目的としています。

一方、それ以前から電波技術協会内に電子計算機調査委員会が設置され、各種コンピュータ本体や周辺機器を調査研究していました。この委員会も電子協設立と同時に電子協に移管され、8社(東芝、富士通、日立製作所、日本電気、沖電気、三菱電機、北辰電機製作所、黒沢通信機)共同で分担してコンピュータシステムを開発するプロジェクトが開始されました。このプロジェクトは IBM 650 に対抗しうる国産コンピュータを開発することを目標としていたのですが、8社の足並みがそろわず失敗に終わりました。

電子協は発足年の11月には計算センターを開設し、会員メーカー各社の初期のコンピュータの1号機をセンター設備として買い取るという助成政策を実施しました。この計算センターは同時にコンピュータに関する教育の場にもなり、日本のコンピュータ産業黎明期には重要な意味を持っていました。

日本電子計算機株式会社(Japan Electronic Computer Co.,ltd. 略称JECC

レンタル制度とはIBMが自社のパンチカードシステムから行っていた制度です。ユーザと契約するとき買い取り価格の44分の1の価格を月々のレンタル価格として使用料を支払い10ヶ月の使用期間が過ぎると解約が出来る制度です。
メーカーから見ればコンピュータを販売しても44ヶ月待たないと回収できないのですが、IBMの潤沢な資金力でこの制度により顧客を囲い込んでいました。顧客も今のコンピュータが能力不足になると取り替えることが出来ます。リースや買取だとそうは行きません。

日本のメーカーはレンタル制度を採用するには資金が不足していました。

日本電子計算機株式会社(Japan Electronic Computer Co.,ltd. 略称JECC)は、1961年に設立されたコンピュータ専門のレンタルリース会社で 沖電気工業、東芝、日本電気、日立製作所、富士通、三菱電機、松下電気など、1960年代当時の日本国内の主要コンピュータ製造会社の共同出資により設立されました。
当時のIBMがコンピュータのレンタル制を武器に世界的に市場を拡大していたのに対抗し、通商産業省が国策として日本におけるコンピュータ開発の一元化をもくろんで設立を計画した会社ですが、各メーカーが開発の一元化に抵抗する一方で、当時の各メーカーの資本力ではIBMに対抗してレンタル制を維持するのが困難であったことから、最終的に開発は各メーカーが行いつつ、同社が日本開発銀行他からの低利融資を元にレンタル業務を担当するという形に落ち着きました。

技術提携

戦後電気試験所や東大、阪大などの研究と各メーカーの研究でコンピュータのCPUは製造できるようになったのですが、入出力装置やソフトウエアを含むシステムとしてのコンピュータは、10年以上の遅れがありました。

各メーカーは、技術導入のため積極的に海外メーカーと技術提携を結びました。
世界でトップシェアを保持していたIBMは技術提携には応じませんでした。
IBMの特許を使わずにコンピュータを開発することは出来ないので、通産省はIBMと交渉し、日本のメーカーはIBMに対して、システム及びマシンについては5パーセント、構成部品については1パーセントの基本特許使用に関するロイヤリティを支払うとともに、IBMの間でクロスライセンス契約を結ぶことが契約されました。

外国メーカーとの技術提携は、1961年日立とRCA(Radio Corp. of America)が技術提携したのをかわきりに、翌年には三菱電機とTRW(Thompson Ramo Wooldridge Inc.)、日本電気とミネアポリス・ハネウエル(Minneapolis―Honeywell Regulator Co.)が技術提携、1963年には沖電気とスペリーランドが提携し、同年合弁会社「沖ユニバック」を設立。1964年、東芝とGE(General Electric Co.)が提携と技術提携が相次ぎ、主力メーカーでは富士通と松下通信工業を除いてほとんどがコンピュータの分野で外国企業と包括的な技術提携を結びました。

IBMは相変わらず「特許は出すがノウハウは出さない」をいう主義を曲げませんでした。

海外のコンピュータメーカーは次々と新鋭の機種を発表してゆきました。
IBMはこれまで出荷していた自社のコンピュータのアーキテチャを一本にまとめたIBMシステム/360シリーズを発表しました。 このシリーズは世界中で大変な人気を博しました。

このような、コンピュータ熱のなかで国産メーカーはIBMシステム/360シリーズに対して、追従せざるえを得ませんでした。
当時日本のメーカーとしては業界一位の日本電気は技術提携先であるハネウエルのH200リーズを国産化したNEAC2200シリーズを発表しました。
日立製作所もRCAのスペクトラ70を国産化したHITAC8000シリーズを発表。
東芝はGE400、三菱も提携先のコンピュータをモデルに国産化して発表しました。

このような傾向のなかで、外国のメーカーと提携しなかった富士通は独自の技術で開発を行なっています。富士通は最初の頃、リレー式の計算機に力をいれていたため、コンピュータに関しては他社にやや遅れをとっていました。 しかし富士通は社運をかけて1965年には国民的電子計算機と呼ばれたFACOM230モデル10を発表しました。
このFACOM230モデル10は当時のベストセラーになり、その後の230シリーズで富士通は1968年に売り上げ高で日本電気を抜き、国産機メーカーのトップとなりました。

この成功はIBM360には手が届かないというというような中小企業の多い日本の事情に合致した機種であったという所に適合性があったと思われまた提携先にとらわれない独自の開発ができたメリットでした。

もう一つの外国メーカーと提携しなかった、メーカーである松下電器はMADICというコンピュータを商品化していましたが、コンピュータが利益の上がらない事業ということで1964年に汎用コンピュータから撤退しました。

通産省は国産コンピュータの保護のために輸入制限、高関税率の付加を行いました。これが貿易摩擦の原因となり諸外国から非難を浴びるようになりました。

そこで1971年から順次この制限を撤廃することにしました。通産省はやはり国産コンピュータの保護のために補助金制度を設けてメーカーを支援しています。

いくつかの紆余曲折はありましたが、1980年頃になると国産メーカーもなんとか外国メーカーと競合できるようになりました。

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