小説「氷壁」と「松濤明」等
私は、小説『氷壁』から『ザイル事件』と『松濤明』から終戦後の登山者等の生き様を見たくなった。

[氷壁の舞台]
『氷壁』の舞台となった前穂高(3090m)の東壁は、戦前から登られていたが、その当時のルートは、「北壁〜Aフェイス」と「CBAフェイス」しかなかった。
北壁〜Aフェイスは、『改訂日本の岩場(白山書房)』に、昭和12年山崎次夫と内山秋人が松高カミンルートを最初に登った。とある。
また『日本の岩場(山と渓谷社)』には昭和7年伊藤新一、伊藤収二とある。
CBAフェイスは、昭和6年國塩研二郎、内山秋人氏ら5名が最初に登った。
北壁は無雪期は昭和7年に、積雪期は昭和15年の3月春田和郎、久留健治が初登攀している。
昭和32年になり古川純一と久保田進が開いた右岩稜古川ルートをS36年3月森田昇三、三井利安が、Dフェイスは昭和34年法政大学の田山勝と山本俊男によりルートが開かれS36年2月安久一成、鈴木鉄雄が登っている。
上高地の梓川から見上げる東壁は、前穂高の頂からアルプスのようなムードを漂わせている。
上高地の明神から梓川の上流沿いに歩くと美しく仰ぎ見られる。だが、その懐に入り込むと、その雰囲気は一変して鉈でそぎ落とした様な荒々しい岩壁であり、容易に人を寄せ付けない美しさと険しさ見せる。
人は、美しく険しいものに憧れ、引き寄せられる。美しさに憧れ命を落とした幾多の岳人がある。
[氷 壁](抜粋)
魚津と小坂のこんどの計画は、元日に奥又白池から前穂の東壁を征服することであった。東壁といっても幾つかの壁から成り立っていた。こんど二人が選んだのは、北壁よりAフェースを経て、前穂の頂上へ登ることであった。冬期にはまだこのコースでの完登の記録はなかった。
五時半、ザックを背負いピッケルをもってテントを出る。外はまだ暗い。B沢を登りきったところで丁度七時。八時きっかりに、魔法瓶の口より茶を一杯ずつ飲んでザイルをつける。
ザイルは長さ30m。ナイロンザイルは初めてなり。トップ魚津。壁の裾を登り出す。急な雪の斜面で雪をかくと体も一緒に下がる。ピッケルを突きさして、体をせり上げるのが精いっぱい。最初のリッジに上がるのに苦労する。チムニー状の岩場あり。上の方がかぶり気味なので、ハーケンを打ってカラビナをかけ、それにアブミをかけて乗り越す。
三時北壁を登りきって、漸くして第二テラス(岩棚)に出る。
三時半Aフェースに取りつく。この頃より陽がかげり、風が出て、吹雪模様にとなる。登攀困難。五時半、全く暗くなり、Aフェース上部でビバークする。「朝になったらやむよ」
六時半に明るくなった。相変らず吹雪いていた。七時半に雪は小やみになり、「やるか」小坂はいった。
小坂は徐々に登り始めていた。が、やがて、「よし、−−来い」小坂の合図で、魚津はピッケルを岩の間から抜くと、小坂の立っている岩角へ向けて登り始めた。
小坂は魚津より5m程斜め横の壁に取りついて、ザイルを頭上に突き出している岩に掛ける作業に従事していた。不思議にその小坂乙彦の姿は魚津には一枚の絵のようにくっきりと澄んで見えた。小坂を取り巻いているわずかの空間だけが、きれいに洗いぬぐわれ、あたかも硝子越しにでも見るように、岩も、雪も小坂も体も、微かな冷たい光沢を持って見えた。事件はこの時起こったのだ。魚津は、突然小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。次の瞬間、魚津の耳は、小坂の口から出た短い烈しい叫び声を聞いた。
魚津はそんな小坂に眼を当てたまま、ピッケルにしがみついた。その時小坂の体は、何ものかの大きな力に作用されたように岩壁の垂直の面から離れた。そして落下する一個の物体となって、雪煙りの海の中へ落ちて行った。
ザイルの全部が手許に来て、すり切れたように切断されているその切口を眼にした−−−。
切れないと信じられていたナイロンザイルが切れたのは何故か。小坂が切ったのか、それとも−−−−。小坂は、人妻との叶わぬ恋に堕ちていた。その清算のためか。
遭難か自殺かと騒がれるなか、魚津は真相を求めるため東奔西走すると、小坂の不倫の相手である美貌の人妻八代美那子との出会いから思慕を胸にしつつ、切れたザイルの真相を求めると、美那子の夫八代教之助の会社のザイルであることを知る。
小坂の遭難を通じて魚津は小坂の妹かおると会う。かおるは小さい時から魚津の話を聞いている内に「自分の結婚は魚津」と、一途に思い込み始めていた。
小坂の遺体が発見されると、身体に付いていたザイルは回収され、遺体は荼毘に付された。かおるは兄が焼かれる火を見つめていたときに魚津との結婚の決意をした。
美貌の八代夫人の思いも断ち切れない。だが、魚津はかおるとの結婚に踏み切ると、独身最後の山を滝谷の地を選び、かおると上高地の徳沢園の山小屋で落ち合う約束をした。
魚津は人妻の思いを断ち切るため単独行動で北穂高岳の滝谷D沢に向かう。
滝谷の沢をつめて、D沢の上部まできた。
魚津は歩いた。絶えず遠く近くに小さい落石の音を聞きながら歩いた。魚津をめがけて落ちてくるかのようであった。やがて20m程先で石が沢に突き当る音がした。
魚津は身を固くしていた。そしてそこに突立ったまま、これ以上進んでは危ないと思った。魚津は方向を変え、いきなりもと来た道を引き返し出した。魚津は立ち停まった。自分がここから戻って行くことは、なぜか八代美那子のもとへ帰っていくことを意味しているような気がした。
後方には美那子がいる。前方にはかおるがいる。そう魚津は思った。前へ進むべきだ。進まなければならぬと思った。
徳沢で待っていたかおるは、魚津に会うため涸沢ヒュッテからボッカの幸さんに案内されザイテングラードを登り奥穂の小屋に登って行く。その頃、魚津は−−−−。
小説「氷壁」より
井上靖著『氷壁』は、朝日新聞に掲載(昭和31年11月〜32年8月)され新潮文庫から昭和38年11月に発行された。映画は昭和33年3月封切と非常に早く映画化された。大映が、脚本新藤兼人、監督増原保造、山本富士子、菅原謙二、野添ひとみ、川崎敬三、上原謙等で製作した。
[松濤 明]
松濤明は、父高橋菊五郎(東京帝大から逓信省の官吏となる)は松濤孝子と結婚するが長男(夭逝)及び長女を出産するが孝子は亡くなるが孝子の妹信子と再婚し明を頭に6人の子が生まれた。明は大正11年仙台に生まれ、父の転勤に伴い一時広島に暮らすが、東京・麻布に移転する。母信子の弟松濤誠道(東京農大教授)の影響を受けたのか山に惹かれたのか。
小学5年生の時に武州御岳山に登り、昭和9年東京府立第一中学1年の夏に先生と燕岳から槍が岳、上高地、徳本峠、島々の登山を行う。その年の9・10月と登山し、翌年の1月スキーに行き、4月〜10月まで毎月登山している。
中学3年の夏休みを全て登山に注ぎ込み、中学4年(昭和12年)には谷川岳の岩場を登り、13年3月北アルプスの岳川にキャンプを張り、松本高校の受験日に下山する予定が、悪天候で下山出来なかった。受験できないと知った松濤は、唐松、五竜岳を登り上高地に移動すると涸沢に入り3月いっぱいを北アルプスで過ごしている。
中学5年の松濤は4月〜6月の間に谷川岳一ノ倉沢の二ノ沢左俣、第4ルンゼを一人で登っている。
第4ルンゼを登攀中徒歩渓流会の川上と出会った。
その当時、学生登山者と社会山岳会の間には大きな溝があった。金もない暇もない社会人登山家は山行の幅も狭まかった。一方学生は勉学より山に入り親の脛をかじり山案内人をつけ登っていた。社会的階級の対立が登山界にあった。徒歩渓流会はこのため学生に入会を拒んでいた。
中学5年7月に学生でありながら登歩渓流会に入会を許され、谷川岳オジカ沢、一ノ倉沢第5ルンゼ、同滝沢Bルンゼ、同第4ルンゼ、8月には穂高滝谷第2・3・4尾根等を登っている。10月一ノ倉沢滝沢Aルンゼ(単独)。12月仙丈・甲斐駒ヶ岳(単独)
昭和14年春、松本高校の受験に失敗する。
昭和14年12月北穂高岳北峯のコルにある岩峰の基部にテントを張り、滝谷の第一尾根の積雪期初登攀を上条孫人と登っている。その以後この岩峰は松濤岩と呼ばれている。
昭和16年東京農大に進学。その年に北岳に挑み、17年7月北岳バットレス第2尾根を初登攀した。
18年応召。戦場に駆り立てられるが、21年(1946年)7月復員(24歳)し、農大に帰ってきた。復員後直ぐに八ガ岳を訪れた。
23年6月穂高の岩壁を登り、7月に北岳に挑む。北岳における攻撃目標は、中央稜である。中央稜は第一ハング、第二ハング、第三ハングと続く悪壁である。彼は取り付いてから4時間後に頂上に向かって歩いていた。
松濤は、穂高に入る時には笠ヶ岳鉱山の社宅立ち寄ることが多くなった。
現在の新穂高温泉と呼ばれているあたりに笠ヶ岳鉱山株式の社宅が建っていた。鉱山は戦争の時には廃坑になっていたが、戦後にも社宅はまだ残っていた。
昭和23年8月28日松濤氏は単独で錫杖岳に登るため東京を出発し、29日島々から徳本峠越え上高地。30日中尾峠から中尾。31日槍見温泉〜錫杖沢、岩小屋泊。9月1日エボシ岩・錫杖中央峯登攀。9月2日中尾から新穂高温泉そして滝谷。3日沈殿し4日槍平から槍に登り徳沢、上高地に下っている。
その時の記録の中に、「笠ヶ岳鉱山から今年転向した新穂高温泉で昼食後」との記録がある。
昭和23年10月1日に、9月の単独行で登れなかった錫杖エボシ岩前衛フェースと滝谷を目指して権平完氏と東京を出発し、島々にて宿泊。2日徳本峠から上高地。3日は朝からの雨のため午後移動を開始し新穂高温泉宿泊。
9月に滝谷の登攀を目指すとき、松壽氏は新穂高温泉に滞在した。
松濤は、「新穂高温泉は穴毛谷の鉛山鉱山の転業であり、ランプの代りに鉱山用のカンテラを使うので、湯治客にもてないかもしれない」と書いている。
10月4日。この時のことを次のように書いている。
沈殿。昨夜の濡れものを干したり、湯に入ったりして、1日送る。
宿の人たちは男一人に女4人という。
まさに女護ガ島で、うち二人はうら若いおジョウサンだ。
嘘だと思ったら行ってみるべし。
『風雪のビバーク』より
5日クリヤ谷からエボシ岩を登攀、新穂高温泉に帰っている。6日・7日ともに雨のため滞在。8日滝谷登攀から北穂高小屋に泊まる。9日奥穂〜ジャンダルム〜天狗沢のコルから上高地に下る。10日上高地からバスで下る。
松濤氏は昭和23年12月12日から16日の間、槍ガ岳北鎌尾根の荷揚げのため大町から水俣川、天上沢そしてP2に登り大町に下る。21日大町から北鎌尾根に単独で入り、28日有元氏と合流し槍ガ岳を目指して北鎌尾根を登る。このときの記録は『風雪のビバーク』として岳人は勿論、山を登ったことのない人たちにも涙をもって読まれている。
昭和23年10月4日に、「うら若いおジョウサンだ」の記述がある。
では、このお嬢さんは誰であったのか。
彼女は、笠ヶ岳鉱山で事務員をしていた。
昭和5年岐阜県に生まれ、高山女学校に進み代用教員として勤務していたが、笠ヶ岳鉱山に努めるようになった。
松濤は、戦後日本に帰ってくると余り多くを語らない男となっていたが、彼女「芳田美枝子」との会話は楽しいひとときとなり、美枝子も松濤の来訪を心待ちにするようになり色々と語り合っていた。
松濤は昭和23年秋に鉱山で美枝子と過ごしたときに、「この冬を最後に、僕は山から足を洗う決心をしました」と告げた。
松濤が槍が岳の北鎌尾根を登っているとき、美枝子はスキーの合宿で乗鞍岳にいた。
スキーの新複合の国体選手であり山や雪を充分に知っていた。
乗鞍岳でのスキー合宿が終わると、一人で山を下りは、小山義治氏の自宅を訪ねた。美枝子さんは、単独で上高地に行くというので小山氏の弟達は心配したが、彼女の決心は固かった。
その日は中ノ湯に泊まり、翌6日釜トンネルを通って上高地に入り、帝国ホテル冬季小屋(木村小屋)に着いた。早稲田の長越成雄(後に山岳作家安川茂雄)に出会うと、美枝子は長越に松濤の行動について訪ねたが、彼には心当たりがなかった。
美枝子は焼岳の斜面でスキーの練習をしつつ松濤の下山を3日間待っていた。
美枝子は西穂高に登り松壽の姿を求めた。焦燥に包まれながら単身上高地から新雪の斜面を登り西穂高の小屋に立ち寄ったが、松濤の立ち寄った形跡はなかった。
直ぐに千石尾根を下り、失意と不安のうちに未知の谷を下り、滝から落ちて負傷しながら、新穂高の鉱山の社宅に帰ってみたがここにも形跡がなかった。
数日して登歩渓流会から松濤の行動について問い合わせの電報が来た。この時になり松濤の遭難を知った。
1月6日 フーセツ
[略] 有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス [略]
有元ト死ヲ決シタノガ 六時 今 十四時 [略]
昭和24年(1949年)1月6日美枝子が上高地の木村小屋に着いたその日に松濤明は死を決意する。
松濤が北鎌尾根に散ったのは26歳であった。
その年の5月半ばに北穂高の小家主小山義治氏は、松本市内の運動具店で飛騨高山のお嬢さんにあった。お嬢さんは、失意に打ち沈んでいた。
小山氏は小屋を作り始めた当時からの知り合いであり、滝谷の上に立ち槍ヶ岳の見える自身の小屋に誘った。
島々谷から徳本峠を越えて北穂高に登った。小山氏は雪に埋もれた小屋を掘り出した。美枝子さんはそんな小屋に一週間ほど滞在した。落ち着きを取り戻した美枝子さんは小山氏の弟さんに付き添われ山を下った。
美枝子は昭和25年松濤の所属していた登歩渓流会に入会(女性の入会は禁止していた。)した。その後、美枝子は同会で腕を磨き、男子会員と岩登りを続け女性クライマーとして活躍をした。
美枝子は、昭和39年秋に奥山章から「山と高原」の原稿を依頼された。奥山の名前は聞いていたし、一、二度顔を見たことがあった。奥山は40歳、美枝子は34歳になっていた。
奥山と美枝子は原稿の内容・校正等を通じて会っているうちに、突然奥山からプロポーズされ、昭和40年4月東京に新居を構えた。新居にはクライマーが訪れて来ては、アルピニズムについて毎夜熱っぽく語る仲間達がいた。
奥山は、第2次RCCの創設者であるとともに、戦後のクライマーの中にあってはぬきんでいた。
昭和47年1月3日、美枝子は奥山の制作する映画の撮影のため御在所岳に出かけた。駅のホームで彼の身体の異常を知り、仕事が一段落したので岐阜県の病院で診断を受けさせが、7月2日奥山は永眠した。
御在所岳の撮影は、奥山の遺作となった「岩登りのテクニック」は、彼の最も得意とする岩登りの技術教程であった。
[ザイル事件]
岩稜会(三重県鈴鹿市)は、厳冬期の前穂高東壁を登攀するため石原国利(中央大4年、リーダー)、沢田栄介(三重大4年)、若山五郎(三重大学1年19歳)の3人は、昭和30年1月元旦の早朝奥又白池のキャンプを出発した。
その日のうちに東壁をほぼ登り前穂の頂上直下30m付近で日没となり仮眠した。
2日、石原が先頭で登攀を開始したが、岩の上に出ることが出来ず若山が交代し登り始めると若山の身体が50センチ程滑り、そして壁から離れ滑るように堕ちていく。確保する石原国利のザイルには衝撃は伝わらず若山の姿は奥又白の谷に消えた。
残された二人は翌日救助されたが凍傷に冒されていた。
石原は、「ザイルは岩角のところで切れた」
絶対切れないといわれたザイルが切れた。
切れないザイルが切れたということで、生き残った石原達は、「アイゼンで踏んで傷をつけた」「ザイルが古かった」「結び目が解けた」と中傷された。
石岡繁雄(当時鈴鹿市神戸中教師、鈴鹿高等専門学校教授)は驚いた。「麻ザイルより強度があるナイロンザイルが簡単に切れる−−−」
石岡繁雄は自分が買って弟(若山五郎)に与えた40mの8ミリザイル(東洋レーヨンのナイロン糸で東京製綱が製品化した)であり、悔やむことしきりであった。石岡繁雄は名古屋大学で実験してみると簡単に切れたが、日本の登山界では肉親が関わった実験として無視した。
ナイロンザイルが切れて転落する事故はその後も続いた。ナイロンザイルの欠点を知らせなければと、石岡繁雄は実験を続け、「岩角にこすれると簡単に切れる」ことを証明した。また、岩角66.5度であれば70キロから90キロの重さを静かに掛けることでも切れることも立証した。
メーカー側は愛知県蒲の東京製綱の工場で公開実験を実施し切れないことを実証した。その実験は、4月29日に大阪大工学部応用物理学教授で登山道具の権威と知られた方が指導し、実施されたものであった。
7月31日若山の遺体はザイルを正しく結んだまま雪の中から発見された。
石岡はザイル切断の岩角を石膏に取りそれに似た岩角(90度)を探してきた。
メーカーが実施した実験が作為された物との情報が石岡に伝えられた。作為とは、岩角は1ミリ程丸みをつけたことである。東京製綱に出入りしていいる関係者からの密告である。
日本山岳会発行の昭和31年版の『山日記』にメーカー側の教授が「ナイロンザイルは90度の岩角でマニラ麻の4倍以上強い」。「岩角でも13mの落下まで切れない」と発表した。山岳雑誌等から「メーカは問題のザイルを科学的実験で保証した」「ナイロンザイルは非のうちどころがない」と報じた。
『山日記』の記事は危険である。として訂正を申し込んだが、ナシのつぶてである。実験した大学教授に公開質問状を出したが黙殺されたため、石岡は再度強度実験を繰り返した。
石岡のねばり強い活動を続け、ザイルの強度を「厳寒期、酷暑にも切れない基準」をもとめたが、業界は激しく抵抗したが、通産省もザイルの安全基準を設けた。(昭和50年3月)若山五郎の死から20年経過していた。
その後の石岡は、『山日記』の訂正を迫ったが無視し続けたが、やっと昭和52年版に小さな記事を載せて誤りを認めた。
「前穂東壁のザイル事件」の前に昭和29年12月29日東雲山渓会員が前穂の近くの明神5峰でザイルが切れ重傷を負う。あとでも、剣岳などでも第3・第4のザイル切断事故があり死者が相次いだ。昭和45年6月14日に奥多摩と巻機山では2.5トンも耐えられるザイルが切れている。
これまで使われていたザイルは、麻のザイルで重くて太く水を吸い込み、冬期は凍結する、捩(よじ)れがある場合は簡単に切れる。カビが生える等のため取り扱いが非常に難しかった。
ところが、ナイロンザイルを製作した会社は強度があり切れないと宣伝した。使ってみると、麻のザイルのもつ欠点は完全に克服されていた。登山界では非常に有望視され普及していった。
切れたザイルは、長野県大町市にある「山岳博物館」に保存・展示してある。大町駅から歩く距離では有るが、高台のためタクシーを利用されたい。博物館からは、北アルプスの名峰白馬岳・五龍岳・鹿島槍〜常念岳・蝶が岳が一望できる。
ザイル事件のメーカー側教授は、平成元年12月2日に日本山岳会の名誉会員なった。「生命にかかわる問題をゆがめて発表した学者は名誉会員に値しない」との抗議がおこったがどうなったのか。
石岡繁雄は、大正7年米国で生まれ、愛知県で育ち第八高等学校、名古屋帝大(現名古屋大)の山岳部で活躍し、終戦時海軍大尉、物理教師として神戸中(鈴鹿市、現高校)に着任した。昭和22年7月前穂高岳北尾根屏風岩正面壁の中央カンテ インゼルルートの初登攀に松田武雄、本田善郎と登攀し戦後初の屏風岩に拓かれたルートである。
屏風岩に「バッカスバンド」と言われる所があるが、これは石岡氏のあだ名から来ている。[バッカス]とは「酒の神」だが、彼は酒が強かったのではなく、山で「バカ」ばかりするから付けられたという。
石岡は中央カンテ初登攀時に、投げ縄や小さなスタンスから1m先の木に飛びつくという離れ業で成し遂げたのは「屏風岩登攀記」で書かれている。
昭和44年当時我々(小生達)は、9ミリザイルのダブルか11ミリのシングルを使用していたし、昭和46年には10ミリのシングルで登攀をやっていた。静加重2トンのうたい文句を信用していた。2トンでは人間の身体がそんなに持たないから、ザイルが切れる前に死んでいるので9ミリで良い。10ミリで充分との感覚があった。
[氷壁の作者に誰が山について助言したか]
石岡繁雄氏ら岩稜会は、昭和31年6月に300ページのガリ版刷りの「ナイロン事件」を作り、新聞社や登山仲間に送付した。山岳作家安川茂雄から作家井上靖に渡った。
井上は、石岡繁雄や石原と会い、安岡等からの助言で出来た。ナイロンザイル切断事件や前穂東壁のこと、松濤明や登山者の心理等をこと細かく井上に話した。
石岡繁雄氏の屏風岩登攀記の「刊行によせて」に、井上靖氏は『私は氏の実弟の遭難事件をモデルにして「氷壁」の筆を執らしめたものは、事件そのものよりも、寧ろその悲劇を大きく登山界にプラスするもので−−』と記している。
昭和31年11月に朝日新聞に掲載された「氷壁」には、死にいたるまでの手記や、上高地で下山してくるはずの恋人を待つ娘、などが小説の中にいきいきと描かれている。
[徳沢に出かけてみよう]
上高地のバス停から美しいカラマツ林を梓川沿いに歩き河童橋からの穂高岳から前穂の眺めは、上高地の代表的景観であるが、ここから少し歩くと河童橋の喧噪から逃れ、本当の上高地の良さが堪能できる。
河童橋から梓川を左手に見ながら100m程歩くと小さな橋を渡る。右手に流れる清水川は、上高地で一番綺麗な川であると言ってよい。
梓川を左手に見ながら原始林に近い森林の道を遡り1時間程で明神の分岐に出る。
左手に行き梓川を渡ると嘉門次小屋の奥に、穂高神社奥宮に行くことが出来る。神社奥にある明神池は拝観料を払っても一見の価値がある。
先程の明神の分岐に帰り、さらに進むと橋を渡る。右手から降りる沢は徳本峠に続き新島々の集落に行く道がある。上高地の車道が出来るまでの道であり、日本アルプスの名付け親「ウエストンの道」として有名である。
梓川の河原に点在するケショウヤナギを見つつ歩くと左手に大岩壁群が見えてくる。上高地から歩いて2時間ほどで「氷壁の宿」徳沢園に到着する。
徳沢の周辺はその昔、牧場として利用されその面影はキャンプ場として残っている。
上高地の標高約1500mで徳沢園が1550mで距離約7キロである。
水平道路とはいえないが、散策が出来る人であれば気軽に歩いてみて下さい。
河童橋から樹林帯の中を森林浴しつつ歩けば1時間毎に旅館・売店があり、案内標識も立っている。
明神の岩壁や穂高神社の奥宮、越夏する鴨
季節は、4月下旬から10月下旬までが良いでしょう。4月下旬頃の上高地は残雪が残るときがあるのでヤッケ等は必要です。
徳沢園のあたりまで来ると前穂高岳頂上から一気に削られたような岩壁が見える。
青い空と白い残雪そして黒々と見える岩壁。
前穂高の岩場は大きく分けて、前穂の東壁と、W峰の岩場に分けられる。
前穂高の東面壁(徳沢園から見える壁)が前穂東壁であり、左からA・B・Cフェース、右岩稜、北壁、Dフェースの各岩壁が前穂の頂きを取り巻いている。そして各壁を登るとその終了点が前穂の頂上であるという絶好のルートである。
徳沢園から横尾のほう(梓川上流)に5分位歩くと新村橋の吊り橋がある。対岸に渡り奥又白の出会いから30分くらい登った地点に若山五郎氏の遭難碑がある。これがザイル事件で墜死した人の遭難碑である。
[南八ヶ岳]
松濤と有元が風雪と戦っているとき、そこから100キロ離れた南八ッ岳では有る男が死と戦っていた。
彼は、昭和23年12月19日男は稲子の集落でおかずを買うが、朝・昼食は食べないで歩き夕刻猟師の小屋で宿泊し、晩ご飯にありついた。
翌20日猟師に「硫黄岳を登り帰ってこい」と言われたが、天候がよいので石室泊まりとした。
夏沢峠に10時半、硫黄岳11時過ぎであった。周囲の景色は素晴らしく、南アルプスや奥秩父などの山々が見えた。
硫黄岳の石室で昼食12時過ぎに出る。外は風雪となり飛ばされる位となり小屋に入りたき火をしていたが時間が経過し午後2時に赤岳の石室に向かい出発する。
途中で友のスリップで注意しつつ前進することになり、廿三夜のへんで真っ暗となり荒沢不動のピーク手前のヤセ尾根でビバークしたがツエルトもシュラフも持っていなかった。
21日吹雪の中を赤岳の石室を目指して前進するが視界は6m程であった。石室までに20〜30分。破れ小屋で朝食を炊き食べた後、9時半に赤岳に登るため石室を出て30分後に山頂に立つ。
権現岳へと前進するため大キレットを下る。旭岳を越えたのか判らない状況となり前進するか後退するか迷い始めた。
キレットを登り返すことになり午後3時に登りきった。友は30分ほど休んだが立ち上がれず、立ち上がったが5・6歩歩いては立ち止まり、赤岳と中岳コルで友は倒れた。コルで2回目のビバークとなった。
22日快晴。友は両足凍傷となり動こうとせず、前日と同じコルで夜がきた。
23日友を背負って前進しようとするも出来ず、先日と同じコル4回目のビバーク。
24日ついに友は眠ってしまった。友と別れ赤岳の石室を目指して前進するが赤岳南峯でビバークする。
25日赤岳石室で6回目のビバーク
29日赤岳の石室に居るところを20日に別れた猟師に発見される。下山しようとするが、少人数のため出来ず再び石室に泊まる。この夜は焚き火にあたることができる。
31日稲子の人々に助けられ諏訪側に下山後、茅野の病院に入る。翌年1月足部切断。
彼の名は、吉野満彦。本名服部満彦
昭和32年3月前穂高北尾根W峯正面壁冬期初登攀
昭和40年日本人として始めてマッターホルン北壁を大倉大八と登る。
[槍ガ岳北鎌尾根]
槍ガ岳から発生する尾根は四方に伸びている。
「東鎌尾根」は大天井岳に、「西鎌尾根」は樅沢岳から双六小屋、「南鎌尾根?」は中岳から南岳に、「北鎌尾根」は殆ど北に延び天上沢と千丈沢の出合に向かって急激に標高を落としている。
取り付くまでの長いアプローチと、標高差1600m距離約4Kmにも続く岩稜と悪天候等の時に逃げ場の無い稜線は厳冬期には、日本有数の困難な尾根として登山者を拒んでいる。
北鎌尾根の登攀は、大正元年にウエストン達が坊主の岩小屋から東鎌尾根を越えて北鎌尾根上部の狭いチムニーから槍の頂上に向かっている。
完全踏破は、大正9年7月に信濃山岳会の土橋荘三が小林喜作達と槍ガ岳の頂上から独標を越えて天上沢へと下降している。その後大正11年7月5日に早稲田大(案内人なし)と学習院大(小林喜作が案内)が同じ日に登攀している。
昭和11年1月偉大な登山家『加藤文太郎』が風雪の北鎌尾根で遭難した。
[笠ヶ岳鉱山]
所在地:岐阜県吉城郡上宝村新穂高及び笠ヶ岳黒谷山腹
産出物:鉛、亜鉛、銅
付近の現状:新穂高温泉、新穂高ロープウェー駐車場、新穂高ロープウェーで西穂へ、河原から温泉噴出
[穂高温泉]
田部重治は、昭和8年7月に『穂高温泉(現新穂高温泉)』について、次のように書いている。
錫杖岳の斜面がその壮麗なる岩壁をもって現れて来る。やがて
穴毛の谷が右に見える。営林区署の小屋の前を過ぎると蒲田川の
右俣が左から合流し、焼岳が見える。もうここから穂高温泉は五
・六町しかない。
温泉宿は僅かの土地に建てられ、客間が二つか三つしかない。
温泉の前はすぐ河で、湯の量はなみなみとしている。私はうどんが
ほしいと思ったが、生憎とない。ビールを注文するものもあったが、
蒲田からの使いの者が帰るまで待ってくれと言われて九時になった。
[北穂高小屋]
小山義治氏は、昭和23年北穂高の山頂に山小屋を建設する。
小山氏は大正9年(1920年)八王子市(旧恩方村)に生まれた。1936年8月初旬、16歳のとき友人と3名で富士山に登った。8月1日食料と露営具一式を担ぎ、八王子から歩いて案下峠を越え甲州街道を重荷に喘ぎながら3日の夕方吉田に着き、4日頂上に立った。
1938年乾性の慢性腹膜炎に罹った。この病気を徴兵検査不合格に利用し、兵役を逃れようとした。
医者の手当てと服薬を受けつつ、食事の量を極度に減らし、薬を便所に捨てた。
1939年5月徴兵検査を受けるが丙種合格であった。すなわち徴兵検査は努力の結果、見事に不合格(?)であった。
不合格のあと、山登りに出かけたり、三つ峠で岩登りの訓練を見学し、1941年秋には雲取山に登り、12月8日第二次世界大戦が勃発すると、越後湯沢のスキー場に遊び東北の山や白馬山麓の山スキーで楽しんだ。
戦時下の村祭りでは、反戦的な活動をやっていた。
戦況が厳しくなる中で、登山を続け、Sさんとの恋に破れると、死を考えたり、山小屋の建設を考え、自分だけはどうかして助かりたい一心で戦争から逃げ回っていた。終戦1週間前まで滝谷を登り、8月15日前穂の東面。8月16日にはW峰の正面壁を登攀していた。
昭和22年春に、山小屋の認可を受けると、建設の準備に入った。
翌23年8月に3帖の小室が出来た。10月20日10坪ほどの山小屋が完成した。
そんな北穂高の山小屋に、松壽氏が訪れたのが秋の夕方であった。滝谷の下から登ってきた松壽氏は二人連れであった。
兵役回避に苦心し、戦争から逃げ回り、山小屋造りに奔走した。
[穂高周辺の壁の現状等]
平成10年に穂高周辺を襲った地震の影響が大なり小なり壁などに影響を与えた。
前穂東壁の右岩稜 崩 壊
北穂滝谷のP2フランケ
崩 壊
同
グレポン
崩 壊
各壁の取付及び終了点もかなり影響が出ているし、壁自体が非常に脆いためどんな影響が出ているか、判らないので山小屋等の関係者から情報を集めてください。
大山の北壁を登った人間には、日本全国全ての岩場は安定していると感じているのだが。
[二人のアキラ、美枝子の山]
伝説のアルピニストを「氷壁」のモデル松濤明、第二次RCC創設の奥山章と芳田美枝子さんについて、書かれた平塚昌人さんの著書が文藝春秋から出ました。
小生のページが2002年5月ですので、2004年7月10日発行の平塚氏との内容に若干の差が出ています。平塚氏の著書を一読下さい。
[参考文献]
松濤明 風雪のビバーク 山岳名著シリーズ 二見書房
吉野満彦 山靴の音 山岳名著シリーズ 二見書房
田部重治 わが山旅五十年 山岳名著シリーズ 二見書房
井上靖 氷壁 新潮文庫
奥山章 ザイルを結ぶとき 山と渓谷社
小山義治 穂高を愛して二十年 中央文庫
佐野稔 喪われた岩壁 第2次RCCの青春群像 中央文庫
武田文男 続・山で死なないために 朝日新聞社