騙されない知恵を学ぼう・宗教で悩む人にQ&A

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現代社会には物があふれ、人々の価値観は物によって左右されています。こころではなく物によって幸せをはかるときこころは荒廃して、人は幸せの中にいながら幸せをあじわえなくなります。信仰はこころのオアシス、荒廃したこころに一点の光明をもたらす救いとなります。しかし、見識に導かれた信仰は救いですが、盲目的信仰はアヘンとなります。

光明と無明をわけるもの それは見識です

見識に導かれた信仰は救いですが 救い欲しさに縋りつく盲目的信仰はアヘンとなります

宗教は暗闇の人生をてらす一条のひかりです。しかし、ひとつ間違えば正気を失わせるアヘンにもなります。宗教をこころの糧にして、幸せをひらくには見識に導かれた信仰でなければなりません。ここでいう宗教を学ぶということはどこかの宗教の教団に入信して信者になるということではありません。宗教の説く心を学んで、神の心にふれ、仏の導きを感じつつそれを自分の人生の糧にして、生きていくということなのです。宗教とは「お経を唱えること」ではなく「お経を学ぶこと」だと知って欲しいのです。宗教書のように難しくない、誰でもわかるQ&Aです。

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question

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私は悪いことをしていません、人にも親切にしています。でも、次々と嫌なこと身内の不幸が続きました。こんな時友人から「宗教をしたら」と入信をすすめられましたが、とても神さまや仏さまを信じる気になりません。本当に宗教は必要なのですか。

answer

a8a8.gif「宗教は必要ですか」と聞かれれば「必要です」と答えます。しかし、ここでいう宗教とは現世利益を得るため、なにかいいことが起こることを期待しての宗教ではありません。そもそも宗教とは自分の命の生かし処を知って、自分の命は自然の大きな意志の計らいで授かったことを知ることなのです。自然の意志を神さまの計画、仏さまのお導きと考えてもいいでしょう。自分が大きな意志の導きでこの世に生を受けたと思えば、命をおろそかにできません。何かをするために、自分にしかできない何かを咲かせるためにこの世に生を受けたと思えば、前に進む気持ちが湧いてきます。たとえ辛くとも悲しくとも、あなたが正しい生き方をしていれば、その苦しみに耐えていける強さがでてくるはずです。それを感じつつ生きていくのが宗教の基本だと思うのです。宗派に属することが宗教ではありません。

question

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嫌なことが続くと信仰に迷いたくなります。でもオウム真理教などを見ると恐ろしくなります、信仰って必要なのですか。

answer

a8a8.gif一般に信仰とは神仏を信じてその教えを実行することです。宗派によれば「極楽に往生できる」とか「天国にいける」とかいろいろ教えはあるでしょうが、何を信じるかは個人の自由です。ただ、自分の生き方が狭くなったり、恐怖に縛られたりするような信仰はさけたいものです。「あなたは信仰心を持っていますか」とたづねると「真宗です」とか「日蓮宗です」とか「キリスト教です」と答える人がいますが、これは自分が入信している教団の名前であって、信仰心のことではありません。自分の命は自分のものであって自分のものではありません。すべては神さまから、仏さまからの授かり物と思い、天地自然からの恵みを、自分の命の中に感じて、神さまからの愛、仏さまからの慈悲を感じつつ使命感を持って生きていくことです。「信仰に迷い」という表現がおかしいのです。なぜなら迷いから真実の道へと導いてくれるものが信仰の光なのです。

question

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友人が「奇跡がおこる」と信んじて宗教をはじめました、本当に奇跡はおこるのでしょうか。信じられないのですが。

answer

a8a8.gifある高僧は「奇跡は悪魔が起こすわざであるから、信じてはいけない」と戒めています。それほど奇跡は人間の平常心を失わせるものなのです。仏さまのありがたさ、神さまの素晴らしさを奇跡で説く宗教が多いのですが、あえて、高僧の言葉を噛みしめるべきです。ある正直な農夫の話です。彼は観音さまの熱心な信者で働き者でした。あるとき奇跡としか思えないことが起きました。村では誰の畑も不作というのに農夫の畑だけが豊作で、一面の稲穂がたわわに実っていたのです。農夫は「これは観音様が起こしてくれた奇跡に違いない」と観音様に感謝しました。ところが、その日以来、農夫は観音さまを拝むばかりで畑を耕さなくなってしまったのです。正直者が怠け者に変わってしまったのです。この話は、農夫が信じるべきは自然の仕組みであり、もみを播き、苗を育て、畑を耕して植えつければ秋の実りとなり、自然は努力に応じてこたえてくれ、恵みを与えてくれる。これこそが観音さまの恵み、自然が与えてくれる奇跡だと教えています。

question

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いま辛いのです。救われたいのです。信仰をすると救われると聞きましたが本当でしょうか。

answer

a8a8.gifあなたが求めている救いとは何でしょうか、「病気が治る」ことですか「大金が手に入り」大金持ちになることですか、そのいずれも信仰の救いではありません。では、信仰によって得られる救いとは何でしょうか。病気を煩っても笑顔で治療が受けられること、貧乏をしていても子供達と幸せだと思えること、一人でいてもひとりの寂しさを感じないことなのです。なぜなら、人の幸、不幸は形にではなくあなたの心の中にあり信仰は心の糧だからです。

question

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オウム真理教の信者に化学者や医学者など、学識の高い人がいたのには驚きました。しかもそのような人が盲目的に教祖を信じて殺人に協力していますが、なぜ「頭のいい人が」と疑問ばかりが湧いてきます。

answer

a8a8.gif大学で学問を学ぶこと、会社で高い肩書きを持つことと、人間として見識を高めて人格がそなわることとは違うのです。学問は本によって学習し、肩書きは会社での成績によって決まりますが、人格はその人の優しさや思いやりといった、心のありようでそなわるものなのです。学識や肩書きのあるものでも間違った信仰によって常識を失うと、オウム真理教のような悲劇がおこるのです。オウムの信者の中にはいまでも教祖の写真を祈っているものもいると聞きます。祈るべきは「教祖が人間としての心を取り戻されるように」と祈るべきだと思うのですが。「宗教なき教育は悪魔のちえ」という言葉があります。信仰心の大切さをいっています、しかし一方では「信仰はアヘン」ともいうのです。学問を高めることはもちろんですが、人間としての見識が大切なのです。

question

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徳を積むといいことがあるんですか、「大難が小難に、小難が無難になる」て聞いたけど、これ本当ですか。

answer

a8a8.gif実のところ「大難が小難になった」のか「無難が小難になったのか分らないのが現実です。要は、善へ善へと、善き方向へと思いが向けられることが大切なのです。ただ、信仰の大小を教団に差しだす金額の額ではかって、多くだせば大きいご利益がえられると、金とりの計算を徳積みにおきかえて信者をあおる宗教は道がはずれています。家族がそろって先祖の墓参りをする風景は心明るいものですが、墓参りをすれば徳が積めるのではなく、先祖の徳が家族を墓参りに導いてくれたのだと考えて、徳のありがたさに手を合わせるのです。さらに、仏さまの前で手を合わすことができるのは仏さまの徳がそうさせるのであって、自分の力ではないのです。宗教における「徳」の考えかたはこうなのです。

question

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よく「親の因果が子にたたり」と聞くけど、これって何ですか、因縁やたたり、罰やおかげ、分らないままに恐いんです。

answer

a8a8.gif病気をしたとき人はよくこの「たたり」「因縁」に迷うことがあります。とくに、現代の医学でも治らない難病にあったり、次々と災難や事故等にあうとこの迷いは「なぜ」という疑問とともにふくらみます。ここに、迷信に迷う弱さがあり金とり宗教につき入るすきを与えてしまうのです。「たたりはあるの」「因縁はあるの」と聞かれれば「ない」と断言できませんが、「関わりないと思いなさい」と答えます。大切なことは迷って平常心を失わないことです。因縁を説明します。因とは物事がおこる原因のことです。縁とは原因を受け継ぎ結果へと発展させるものです。植物でいえば種子が因であり、その種子を大樹へと育てる環境が縁ということになります。仏法とは自然の摂理、人の道、人間の道理のことです。仏法を正しく知って、金とり宗教に迷わされない見識を開くことです。

question

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友人に誘われてある宗教にいきました。するとお金の話ばかりがでてくるのです。確かに教団の運営にはお金がいるでしょうが、それを遠回しに徳積み、布施っていわれると分らなくなります。布施って徳積みのこと、お金をだすことなの。

answer

a8a8.gif布施の語源の説明をしますと、釈迦に施しをしょうにも何ひとつ持たない貧しい農夫が自分の衣服をちぎって釈迦に差しだしたところ、釈迦はこのぼろ布を継ぎ合わせ自身の衣服にされたことから、施しを「布」の「施し」と書いて「布施」というようになったといいます。ようは、仏さまに感謝の心をこめて差しだすものであれば、何だっていいのです。布施に顔施という言葉があります。悲しい時でも周囲の人を気づかって笑顔を心掛けますが、これが顔による布施、顔施です。宗教の基本は知足小欲です。つくばいの水受けに四角い穴のあいた物を見たことはありませんか、四角い穴を生かして「吾唯足を知る」と書いてありますが、足るを知る心を学ぶ宗教でなぜお金の話がでてくるのですか、それは宗教ではありません。

question

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私はボランテアをしていますが布施とは違うといわれました。どこがどう違うのでしょうか。

answer

a8a8.gif社会のために役に立ちたい、人のために手助けをしたい、この気持ちでボランテアをされる方には本当に頭が下がります。無償の親切は人の心を癒す潤滑剤だと思います。深く気にすることはないと思いますが、少し違いを説明します。仏教では、困っている人に「手伝ってあげましょう」と手助けをするのは布施とはいいません。「手伝わせてください」とお願いして「手伝わせて頂きありがとうございました」とお礼をいうのが布施なのです。なぜなら人を手伝うことで一番得をしたのは 手伝った人だからです。心が嬉しくなります。明るくなります。強くなります。癒されます。スリランカやインドの修行僧は布施を受けても頭を下げません。なぜなら、布施をする人に喜びを与えた、徳を積ませてあげたのだからです。幸せにふたつあります。人に幸せにしてもらう幸せ。人を幸せにしてあげる幸せ。宗教は幸せにしてあげる幸せなのです。

question

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私の両親は「病気を治してもらえるから」といって信仰に通っています。私にも行くように勧めますが私にはどうしても納得できないのです。どこか違う気がするのですが。

answer

a8a8.gif病気治しのために信仰に通う両親に、納得できないというあなたの見識は正しいといえます。なぜなら、宗教は病気治しのための教えではないからです。釈迦は人々に「私のところに来なさい、どうしたら病気が治るかを教えてあげよう」と病気治しを説かれたのではないのです。「どうしてあなたが病気になったのか、その訳を教えてあげよう」と事の因縁を説かれたのです。すべての結果には原因があり結果に導く道理があります。原因が分れば納得でき、結果を受け入れることができます。病気が治りたいために信仰に走る人は、病院に入るや「先生一発できく注射を打って下さい」という患者と同じです。医師がどんなに「注射を打つよりも生活をあらためなさい」と原因を説明しても、「先生私は注射を打ってもらうためにここに来たのであり、説教を聞くためではないんです」といって聞く耳を持たないのです。あなたの正しい見識が導きとなって、両親が誤った信仰から手を切り、ただしい信仰に気付かれる指針になればと思うのです。

question

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最近テレビなどで「霊が憑いている」とか「霊を取り除く」とか聞きますが、そんな番組を見ると、どうしても気になってしまいます。「霊障」とか「浄霊」とは何ですか

answer

a8a8.gif宗教の概念から説明します。憑依霊が原因で病気や不幸になることを霊障といいます。この不幸現象を解決するために、憑いている霊を清め取り除くことを、浄霊あるいは除霊といいます。日本の狐落とし、キリスト教の悪魔払いなどがその例です。浄霊の作法は宗教や心霊術の違いでいろいろノウハウがあるようです。日本の真光系新宗教は、憑依霊に「神の光」を照射する、「手かざし」をおこなうことで知られています。それぞれの宗派によりやり方捉え方が違うようです、その道の専門家に聞いてみて下さい。ただ霊に興味を持つよりも目に見える現実に興味を持って頂きたいと思います。

question

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「手かざし」とは何ですか

answer

a8a8.gif宗教において行われる手をかざしての治療、除霊などの行為をいいます。共通しているのは掌を相手にむけて祈念することです。この信仰治療における手かざしのやり方は古代宗教以来多くの事例があります。手かざしをおこなっている新宗教は、広い意味での世界救世教系の教団が大半で、世界救世教の分派である救いの光教団、神慈秀明会、世界真光文明教団、そこから分派した祟教真光、ス光光波世界教団などである。手かざしの呼び名は教団により異なり、世界救世教では浄霊。世界真光文明教団と祟教真光では手かざしとかお浄め、真光の業。ス光光波世界教団では炎の業と呼ぶ。また手をかざさず、具合の悪いところに直接手を当てて治療するものをお手当てと呼ぶところもある。手を用いての治療は気巧なども知られていますが、それぞれの宗教で説明はことなります。

question

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両親が信仰に狂ってお金を持っていきます。いくら説得しても聞き入れません。顔をあわせれば言い争いになり腹立たしい限りです。やめさせたいのですが

answer

a8a8.gif病気が治る事業が発展するなどと、根拠もないのに不思議や奇跡をならべて信者を縛り付ける信仰がなんと多いことか。そんな信仰に限って問題が好転すると「教祖様のおかげ」とお金を求め、悪化すると「信心まごころが足りない」とやはりお金を求められます。生活費をきりつめるだけにとどまらず、山を売り借金までしてお金をつぎ込む信者を見たことがありますが、まさに不幸を自分から招いているようなものです。ご両親が聞く耳を持たない姿に腹立たしい憤り痛いほどわかります。ただあなたが正しい見識を持っておられる事が救いです。ご両親に恨みや腹立ちを抱かれる気持ちはよく分かりますが、ご両親も被害者であることを分かってください。結論からいいますと何をいってもダメでしょう、ですから、まずお金や財産の管理をあなた自身と見識ある身内の人たちとが協力して守ることをお勧めします。そして折にふれ、事にふれ、あなたと周囲の方たちの正しい言葉で両親の心を根気よく導かれ、願わくば狂った両親の目を覚ます機会が訪れることを祈ります。しかし「バカとキチガイにはつける薬はない」といいますが、かなりやっかいです。しかし、あなたの毅然とした態度導きがあなたの家庭を守りご両親を救う道につながるのです。「バカとキチガイにはつける薬はない」と言いましたがここでいう「バカ」とは学歴がないことではありません。人間としての常識、社会人としてのモラル、見識がない人のことをいうのです。この世には宗教や詐欺に騙される人が多くいます。確かに騙す方が悪いのですが、騙される方にも訳があるのです。騙されないためにも宗教に狂わないためにも、社会人としての見識をもって「世の中、濡れ手にあわのうまい話はない」とまず自分を戒めて用心し、自らの見識で人生を開くことです。