脱会したもと会員の証言

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現代社会には物があふれ、人々の価値観は物によって左右されています。こころではなく物によって幸せをはかるときこころは荒廃して、人は幸せの中にいながら幸せをあじわえなくなります。信仰はこころのオアシス、荒廃したこころに一点の光明をもたらす救いとなります。しかし、見識に導かれた信仰は救いですが、盲目的信仰はアヘンとなります。

平成10年裁判 自然の泉脱会もと会員陳述書

被害者の会結成

浅尾法灯は会員にむけて「光友(会員)が安心して老後がおくれる理想郷を建てるのです」とよびかけ、会員のための老人ホームと病院を建てるために「まごころ」協力を叫びました。「皆さんが入るための皆さんの老人ホームです。」「まごころ協力」をすすめました。
しかし実際に建設されたものは浅尾法灯がよびかけて会員に約束したものとはかけ離れたものでした。浅尾法灯による青年部員へのホモ行為強要が原因とあり編集部員が退職するとともに、浅尾法灯の詐欺的行為が次々と明らかになり、もと会員により自然の泉被害者の会が結成され「般若の里建設・まごころ返還請求」を求めて、平成10年浅尾法灯を山口地裁に告訴したのでした。
裁判に合わせて、原告より陳述書が提出されました。

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個人のプライバシー保護と安全を考慮して名前は伏してあります。裁判所に提出された陳述書には実名が記してあります。

 
もと自然の泉会員 1

福岡県 S氏

主人は賭け事がすきで、競艇、競輪にお金を注ぎ込み給料をもらっても千円か三千円残すだけであとはすべて賭け事につかっていました。さらにお金が足らなくなると家の物を質にいれ、入れる物がなくなると自分の着ている服まで入れるほどで、シャツ姿で帰って来ることもあり、私からお金を取り上げて洋服を受けだしにいくありさまでした。
さらにこれに女遊びが加わり、毎日が地獄のような生活でした。
主人の給料があてにできず、私は一生懸命洋裁をしてやりくりしましたが、果てしなく続く地獄のような生活に疲れはて、いっそ主人とともに睡眠薬を飲んで死んだ方が楽だとまで思ったのでした。
そのようなドン底のとき、人から「自然の泉に入れば主人がよくなる」といわれ、昭和四十六年入会しました。浅尾氏は講演の最中、突然会員を立たせると「お前は法灯を疑っている、お前のような者はいらないから帰れ」と大声でどなりあげたり、驚くことばかりで、私は「ここはすごい所だ、先生のいうとうりにしないとどなられるのだ」と思い、自然の泉の行を一生懸命に励みました。
しかし、主人のギャンブルと女遊びはなおらず、生活にいきづまりとうとう主人と離婚しました。
会社に就職して一年目に再婚し、その時「一緒に人間勉強をしょう」と約束し、主人をつれて浅尾氏の講演会にいきましたが、浅尾氏がお金をだせという言葉に主人は「金をだすことばかりいって」と二度といきませんでした。
やがて「般若の里」建設がさけばれ、講演会は「まごころ」協力のはなしが中心で、講演会場入り口には山口銀行の臨時「まごころ受け付け所」が開設され、中に入れば浅尾氏の著書や自然の泉のチラシ等が売られ、これを買って七生行に使うことが徳積み、行といわれていましたから、当時主人は糖尿病でしたので本やチラシを買って街頭で道行く人に配って、自然の泉を勧めました。

浅尾氏は「まごころに協力すれば老後は約束、安心を買いなさい。子供に老後をみてもらえなくとも病院と老人ホームがあれば安心だ、保険よりも確かなんだ」といい、私はこの言葉に胸が熱くなりました。
また「まごころ協力は天の倉に貯金をするのだ、いざの時にはこの貯金がおりてくるのだ」ともいいました。
生活は決して楽ではありませんでしたが、浅尾氏の言葉を信じ「安心を買うのだ、天の倉に貯金をするのだ」と自分にいい聞かせて、お金を工面して「まごころ」をしたのです。
あるとき主人がこのことに気付き、「なぜお前はお金を持っていくのか」と私を責めましたが、私は「まごころは私たちの老後のことを、先生が考えて叫ばれておられるのだから」と思い、主人の言葉にも「まごころ」をやめようとは思いませんでした。
主人は酒を飲むとからむ人で、毎晩酒を飲んでは私を責めましたので、私は主人に「もう自然の泉はやめるから」とうそをいい、自然の泉に関係のある新聞、チラシなどをすべて隠し、講演会に行けませんのでせめて「まごころ」の協力だけはと、講演会に行かれる近所の会員の方にことづけておりました。
主人は糖尿病の悪化により昭和六十一年に他界いたしました。
私は早く「まごころ」を百万円だして「光自在」の掛け軸を頂かなければと思い続けておりました。浅尾氏は講演会のなかで「この掛け軸は一千万円の価値がある。この掛け軸を家に下げていれば大難が小難に小難が無難になる。事業が繁栄し婚期が遅れている者にも良縁がえられる」といいました。
この掛け軸を持っていないと会員ではないようにいわれ、会員の中野氏(山口県宇部市厚南)などは「親行会」などで、病気の会員や掛け軸のない会員がいると「掛け軸も持っていないのに病気が治るわけがない」といい、中野氏はさらに「百万円まごころをせんと病気は治らない」と百万円だすことを強要するなど、A券でない者を皆のまえでボロクソにけなしていたのです。
問題がある会員が浅尾氏に電話による質問をした場合も、一番に「おまえは何券か」ときかれ、百万円をしたA券でないと「まごころもせんと病気がなおるか」と大声でどなられるのです。
講演会の最中に会員に「親光泉をいれてやるから体の悪い者はたて」と会員をたたせ、「親光泉がはいったら体が熱くなるから手をあげてしらせろ」といい、「熱くなりません」という会員がいると「なんぼまごころをしているか」と聞くのです。
そしてその会員が百万円をしていないと「そんなことだから親光泉がはいらないのだ」といい、三十万、二十万だと大声でどなりあげるのです。
何が何でも「まごころ」をしなければと思ったのです。
私は借家に住んでいますが広い部屋だと家賃が高いため、少しでも安いところに住んで「まごころ」をだせるようにと、一部屋のところに替わりました。近所の人からは狭いところに替わったのだから何か悪いことでもしたのではないかと、白い目でみられましたが、私は「まごころに協力すれば老後は法灯先生にみてもらえる、安心なのだ」と浅尾氏の言葉を信じていましたから辛いとは思いませんでした。

浅尾氏は講演会で「すべてをなげうって人類救済にかけている、だから男をすてた、結婚もしない、法灯が結婚をすると家庭を大事にしてそちらに心が傾く、全光友を救うのが法灯の生き甲斐喜びだから家庭をもたんのです」といった言葉に、誰もが「法灯先生は私たちのために自分の人生を犠牲にしておられる、まごころ協力に賭けなければ」と心に誓ったのでした。
ところが浅尾氏は芝居見物の毎日で、うらでは青年部員にワイセツ行為をするなど、いっていたことがうそだと分かったときは、高いところから突き落とされたようなショックを受けました。
生活をきりつめて長い間「まごころ」をだしてきたのに、全部シャボン玉のアワのように消えてしまいました。

平成九年十月、自然の泉を脱会いたしました。
私はきりつめた生活をして、人が旅行や温泉にいくことを見てもそれを我慢して「まごころ」をしました。これから何年生きられるか分かりませんが、私にお迎えがきたときのお寺に納めるお布施代もないのです。                  ページの先頭にもどる

 
もと自然の泉会員 2

山口県M氏

私が自然の泉に入会したのは昭和四十五年のことです。当時原因不明の視力障害に悩み病院を回るものの「原因も分からず、治療法もありません」といわれ失明の恐怖におののく絶望の時、知人より自然の泉を知らされました。
「自然の泉に入会すればどんな大病も治る」という知人のことばに、一条の光を見いだしたきがしました。浅尾氏の講演会をはじめて聞いたとき「貧乏人は来るな、わずかなお金をだしたぐらいで病気が治るか」といわれショックをうけ、いきなりお金のことを聞きビックリしました。しかし失明の恐怖に怯えていた私は、なんとしても救われたいと、お金の話を聞きながらも病気だから仕方がないのだろうか、と思うしかありませんでした。やがて四年がたったとき「般若の里建設」が叫ばれはじめたのです。
「親子が殺しあいをする混迷の時代です。子供といっても真に安心はできません。だからこそ、光友が安心して老後がすごせる理想郷をつくるのです。病院が横にある老人ホームがどこにありますか、大安心の老後がおくれるのです」という浅尾氏の言葉に「何と自然の泉は素晴らしいところか、病院があり老人ホームがあれば何の不安もなく人間勉強ができる。先生は私たち会員のことを考えておられるのだ」と思い、その志しの高さに感銘したのでした。
やがて、「般若の里建設」のまごころ協力が「徳積み」であり、徳積みをすれば病気も治るといい、「光自在」の掛け軸を一人一本は持つようにいわれだしたのです。
当時主人はガソリンスタンドを経営していました、私はそのガソリンスタンドを手伝っておりましたが、その売り上げの中から僅かづつ「まごころ」協力の金を積み立てたのです。
その間にも視力の低下は続き、私はますます「まごころ」協力による徳積みでなんとか治りたいと、さらに金を工面してはだし続けたのでした。それと、自分のだしたお金が病院と老人ホームの建設につかわれ、福祉の陰の協力ができるという喜びがありました。何よりも、会員のための施設ができることが目に不安のある私には何よりの安心でした。体に不安がある者にとって病院や老人ホームは金では得難い確かさになるのです。
しかし、最初は家族で「まごころ」A券といっていた言葉が、やがて一人が百万円のA券といわれだし、さらにはアスワン山荘にピノキオの家が建ち、宇部第一病院に老人保健施設が建つ等、建物が建つ度にさらに「まごころ」協力が叫ばれ、とどまることがありません。
保険を解約し、預金通帳を解約し子供たちの「まごころ」もだしました。
やがて、視力の低下が進みついに失明しました。

そのような時でした、私の娘が電力会社に勤務する男性と結婚し浅尾氏の講演会に連れていきましたが、講演中「今日の電気代だけでも三十万円かかる、だからまごころが必要なのだ」という浅尾氏の言葉に、「電気代があんなにかかる訳がない、このような嘘を平気で人前でいうような人は信用できない」といって脱会してしまったのです。
さらに、この婿が電力会社の飲み会でのこと、宴の最中婿の妻(私の娘)が宇部市出身ということから「宇部市といえば自然の泉がある所ではないか」と皆が話しはじめ、浅尾氏が青少年を自分の性癖のターゲットにしていることを聞いたのです。婿は驚いて私のところに来るなり「お母さん、法灯先生はどんなに立派なことをいっても、裏で人の道を踏み外しているのだからだめです」といってきたのです。私は婿の言葉に驚きました。しかし、本当だろうかという気持ちで揺れ動きました。ところが平成九年二月に自然の泉の出版局の皆さんが全員退職したと聞き、これは何か大変なことがあったに違いないと、出版局の皆さんに自宅に来ていただき退職した理由を聞き、娘婿がいっていたことが真実だと知りました。浅尾氏のすべてに失望して、自然の泉を脱会したのです。          ページの先頭にもどる

 
もと自然の泉事務局員 1

山口県 K氏

昭和五十一年八月、職場の同僚より「どんな問題でも解決するところがあるから行かないか」と勧めを受け浅尾氏の講演会にでかけたのでした。当時の私は職場の人間関係のゴタゴタに悩み、自分の力では解決の糸口を見つけることができず、精神的に行き詰まっておりました。

―以下省略―

「まごころ」をするといっても、そう簡単にお金がつくれる訳がありません。貯金を解約したり生活を切り詰め、お金を工面しました。はじめて「まごころ」協力のお金を十万円をし、それが主人に分かった時、主人より「何故お金をださないと救われないのか」と叱られましたが、私は「このお金は福祉のために使われるのだ、自分だけの幸せを求めるのではなく、会員が安心して過ごせる理想郷を建てるのだ」と信じ主人の言葉を振り切って、お金を工面し続けたのでした。
私たち会員は「まごころ」とは別に「お礼」をだしていました。浅尾氏に相談する時には「お礼」を包み、病気になり入院し、手術を受けて健康になった時も「手術がうまく運んだのも、法灯先生の陰のお力によるもの」と「まごころ」とは別に感謝の気持ちとして「お礼」を浅尾氏にさしだしたのでした。
浅尾氏の本が出版されると「本を買うことが徳積みになる」といわれ二千冊買う等一生懸命にしました。すべてが浅尾氏が講演会でいう「人類救済」になると信じたからでした。

やがて山口県各地に、浅尾氏が自然の泉の青年部員や出版局員にワイセツ行為をしているという噂が広がってきました。私はその噂を聞いても信じませんでした。そして、勤めていた会社を退職していた時、自然の泉の本部事務局に勤務の誘いを受け、真実を知らないまま事務局に就職しました。
就職して見たことは信じられないことばかりでした。やがて出版局の皆さんが全員退職され、その様子を見てきた私は出版局の皆さんの言葉に嘘はない、各地で耳にした噂は本当だったのだと分かり、私も平成九年三月に退職したのでした。私が退職するとともにやはり真実を知って耐えられなくなった同じ事務局に勤務していたLさんも退職され、自然の泉を脱会されました。     ページの先頭にもどる

 
もと自然の泉事務局員 2

山口県 W氏

平成五年六月の事、用事があり自然の泉本庁事務局に出向いた所事務局の藤中氏から「会社はいつ定年かね、やめて事務局に勤務できないか」と相談をうけました。ちょうど五十五歳の選択制定年の時期を迎えていましたのでそれを説明しますと「ぜひ事務局に来て欲しい、仕事は法灯先生が出張にでかけれられたときの付き人という、簡単な仕事」という誘いでした。私は「機械関係の仕事一筋で生きてきた人間ですから、文章を書くとか、事務とか外交とかの仕事はできません、あと五年は現在の給料のままで勤務できるのですから」と断りましたが、「何もしなくていい、先生一人では心細いからそばにいるだけでよい」と懇願され「給料は現在の金額に上乗せする」とまでいわれ、私は浅尾氏を釈迦、キリストの生まれかわりと信じていました。自分の生活を投げ打って自然の泉に尽くしてきました。選挙のたびに手伝わされてきました。そのような私ですから「先生が困っておられるのなら、何とかお助けしなければ」という気持ちでいっぱいになったのでした。そして、平成五年十一月、永年勤めた会社をやめて自然の泉事務局に就職したのでした。
就職した私は今まで描いていたことと、自然の泉の内部との違いの大きさにびっくりしました。私は浅尾氏が壇上で「法灯は全国感泉に走り回り夜ねるまもない」という言葉を信じていましたから、東京は十条、福岡は住吉、春日と浅尾氏との出張がホテルに宿泊しての芝居見物に通う毎日だと知り信じられませんでした。さらに浅尾氏から「講演のネタになるような小話を見つけてこい」といって本屋を走り回されました。さらに「親声をつくれ、その材料を見つけてこい。人には黙っておけ」というのです。今まで機械の仕事しかしたことのない私に文章がつくれる訳がありません。まして親声は親さまからの声と思っていましたから、浅尾氏に「親声を考えよ」といわれたときにはびっくりしました。
東京駅まえの八重洲ブックセンターでのこと、本屋をまわっても親声開説のネタになるような本がありません。浅尾氏に「先生ここにはもうありません」といいますと「ないでは困る、なければ注文せい」といいます。「注文するといっても何といってするのですか、先生はいつも法灯は無から有をつくるのだといっておられるではないですか、親声をつくられたらいいでしょう」と反論したところ「それができればお前にたのむか」と怒鳴られました。私には信じられない驚きでした。

それからです、浅尾氏が「暇があったらこれを切り抜け」と何十部もの新聞を切り抜かされました。そのため浅尾氏と同行して東京から帰る夜行列車のなかで寝ないで新聞を切り抜きました。福岡の駅の地下街では浅尾氏のために私が買った牛乳が浅尾氏が飲むものとはメーカーが違うからといって地下街中に聞こえる大声で、「わしがどんな牛乳を飲むかぐらいは知っておけ」と怒鳴り散らされました。「とろとろ歩くな、走れ」と訳もなく地下街を走らされました。福岡日航ホテルではフロントで宿泊の精算をしている後ろから「何をとろとろしているのか、田舎もんが」とののしられました。それでも私は「浅尾氏は偉大な方でどこかに自分の非があるのだろう」と思って耐えていたのでした。

給料は約束した金額よりも少ないものでした。「定年を迎えようという者が給料を多く欲しがる。その根性が間違っている」というものでした。私は胸の内から「なぜ、どうして」という迷いやいきどうりで一杯になりました。

浅尾氏は芝居を見ながら役者に花をうちました。三万、五万円札を役者の帯に押し込むのです。私はこの光景にも驚きました。私をはじめほとんどの会員は「まごころ」協力のために食事を節約し、着る者も買わずに倹約してお金をだしていたからです。確かに趣味は個人の自由かも知れませんが釈然としないものを感じました。
浅尾氏のワイセツ行為が原因でやめた出版局員の一人は浅尾氏と芝居見物に同行したさい浅尾氏が役者に二、三十万円もの花をうつのを見たといいますが、趣味は個人の自由だからと私には受け流す気にはなれません。
暮れには青少年研修センターでつかれた餅が山程本部に届けられましたが、誰も餅には関心がありません。私はもったいなくてそれをポリバケツに入れて水餅にして毎日水を取り替えました。しかし結局は人目につかない山に捨てにいかされました。

私は精神的に追い詰められ、七ヵ月勤務したときに浅尾氏に退職を願いました。その月の講演会のときです浅尾氏の控え室で仕事をしていた私に浅尾氏は会場の裏中に聞こえる大声で怒鳴りあげました。さらには「わしが買うてやった背広をかえせ」といったのです。

平成六年五月に自然の泉事務局を退職した後、やがて平成九年二月に出版局の皆さんが全員退職されてびっくりしました。さらに出版局の皆さんから退職の理由を聞いて愕然としました。浅尾氏のワイセツ行為で出版局員が退職したため、芝居見物の同行者がいなくなり私が引き抜かれたことが分かったのです。                                  ページの先頭にもどる

 
もと自然の泉出版局長

山口県 O氏 (長文のため一部のみ要点を記載・該当者への心理的配慮から一部省略)

私は昭和五十一年一月十五日に自然の泉出版局に就職しました。
自然の泉の出版物を編集していた原田智子氏が肝臓の病気で入院し、急きょ編集部員が必要になり私に声がかかったのでした。浅尾氏の「法灯の人類救済の手助けをしてほしい」の言葉に私は大きな使命感と、人助けの仕事ができる喜びを感じました。
しかし、就職とともに私は浅尾氏の言葉と現実との大きな違いに、絶望的なショックを受けました。就職するまでの私は浅尾氏を「釈迦か親鸞聖人の生まれかわり」のように思っていましたから、そのギャップの大きさに、自分のこころをどう納めてよいのか分かららず、苦しい日々が続きました。

浅尾氏にはホモという性癖があり、講演会以外の日々は大阪や東京などのゲイバーを巡り遊びまわることがストレス解消でした。浅尾氏は私に「これが法灯の活力源だ、それに協力することが人類救済に協力することだ」といいました。
出版局員はこのゲイバ-巡りに同行することが仕事として強要されました。大阪の場合は梅田の新阪急ホテルが宿泊の基地になり、夕方に新歌舞伎うらのゲイバーにでかけて朝帰る生活をおくるのです。
東京では東和技研をつくった福永氏が浅尾氏を連れて東新宿のゲイバーにでかけ私や青年部員が同行していました。さらに京都、小倉、別府と月の大半はホテル泊まりのゲイバ-巡りの毎日で、私は自然の泉の原稿を旅館で書き、山口県防府市の斉藤印刷株式会社におくりました。
浅尾氏が原稿を自分で書かないことにも驚きました。講演会で浅尾氏は「先生は全国を講演にまわり、原稿も書き、光友の相談もしなければいけない。夜はほとんど寝る間がない」というのが口癖でしたから、誰もがそのことばを信じ、「先生は私たち光友のために夜も寝ないで私たち会員のために尽くしておられる」と思っていました。
私もその気持ちで自然の泉に就職しましたから、苦しみはたとえようもありませんでした。」
しかも、月に十五日ぐらいの出張(ゲイバー巡り)から帰ってくると、三日に一度は浅尾氏の自宅に仕事と称して泊まらされました。   ―以下省略―   浅尾氏を「神、仏のように思い込む」ように学生時代からマインドコントロールされてきた者は、心理的に逆らえない苦しみが生じて、親や兄弟にもいえずただ耐えるだけの毎日でした。さらに毎日のように指圧をさせられました。ところがこの指圧の時にいかがわしい局部までもさせられるのです。
やがて浅尾氏の「法灯の人類救済の手助けをしてほしい」のことばにE氏が自然の泉出版局に入社してきました。私は一人が二人になったことで少しの安心を感じました。しかし、こんどはE氏が行き詰まりました。E氏は長年の苦しみに耐えられず、ついに浅尾氏と決裂して退職しました。このとき浅尾氏は自分の非は棚にあげて「俺がいままで買ってやった背広をかえせ」と怒鳴りあげました。
浅尾氏は自分が気に入った青年部員をみつけると「先生が特別に育ててやる」と言葉をかけて、出張と称してゲイバー巡りや芝居見物に出かけていました。そうして、浅尾氏からホモ行為を迫られた青年部会員はS氏、N氏、T氏、A氏などです。

親子が熱心な会員で指圧治療所を開いているM氏は、指圧のためと称して浅尾氏の自宅に呼ばれていました。しかし、指圧と称して   ―以下省略―   あげくがホモ行為を強要され彼は浅尾氏の自宅にいくことをやめました。この時浅尾氏は「母親にはだまっていろ」と口止めをしています。平成九年二月に私たち出版局員が全員退職すると、M氏はすべてを母親に話しました。驚いた母親はただちに自然の泉を脱会したのです。青年部員の多くが長い間、事実を誰にもいえず、我慢をしてきました。それは彼らの親や親戚が浅尾氏のことを釈迦、キリストの生まれかわりと信じて心の支えにしていたからです。

私は結婚とともに、自然の泉事務局長である藤中氏の自宅でもある本部事務局の二階に住まわされました。妻は事務局に勤務し、仕事が終われば藤中氏ら夫婦の食事の支度をさせられました。女中奉公でした。夜になると会員が事務局に持参した貢ぎ物を藤中氏らの親族に配るのが私の仕事でした。
藤中氏は「会員の貢ぎ物リスト」をつくっていました。このリストには「事務局に来るときには、どの会員がどの品物を持参して来るか」が記されていました。藤中、西山氏らに必要なものが生じるとこの会員に電話するのです。「どうしているのかね、法灯先生が心配しておられたよ、たまには顔を見せにこんかね」と電話をすればいいのです。

毎年十二月の暮れには青少年研修センターで「チャリティー餅つき」が行われてきましたが、このときにつかれた膨大な餅を毎年山に捨てていました。会員からは「まごころ」の餅米として多くの餅米が届けられますが、これも余ると廃棄していましたから、あまりのことに私は藤中氏に「感謝と人の道を説いているのに、餅米を捨てるのはまずいのではないですか、必要な量が集まったところで断ればいいではないですか」といいましたところ、「知恵のないことをいう、そんなことをいったら次の年には持ってこなくなる」と答えました。

浅尾氏は受験のシーズンになると自分の首筋をみせて「毎年この季節になると、受験生からの親書が多くはいり法灯の首筋が我象身代りのために化膿する」といっていました。これは、浅尾氏が首筋にはる吸い出し膏のあとで、この吸い出し膏を貼るのが出版局員の仕事でした。首筋などの凝った所に、はじめに黒い薬を貼ると明くる日には大きな水泡ができており、その水泡が破れるとその上から白い薬を貼るのです。浅尾氏はこの首筋の跡を「我象身代りのために、法灯の知恵袋が破れて化膿する」といっていました。この言葉に会員の多くが感激しました。
以前、下関の会員がふぐの中毒になったことがありました。このとき浅尾氏はその会員を立たせて「元気になったなあ、法灯は我象身代りのために中毒症状になって苦しんだよ、この会場に来るとちゅうで何回も車をとめて吐いたんだよ」といいました。立っていた会員は感激のあまりに泣き出し、会場は拍手の嵐になりました。私は昭和五十一年から浅尾氏の車を運転し浅尾氏とつねに行動をともにしていましたが、車をとめて吐いたことなど一度もありませんし、浅尾氏が我象身代りで苦しんだことなど私を含め青年部員や出版局員は一人として見たこともありません。

会員は自分の家に「光自在」の掛け軸をかけることを何よりの喜びにしています。それは浅尾氏が「この掛け軸は一千万円の価値がある」といっているからで、この掛け軸は会員のステータスシンボルでした。
私は一時期この光自在の掛け軸の落款印を手伝って押していました。本部事務局の二階に住んでいましたから何でも手伝わされたのです。私はこの掛け軸が浅尾氏が書いたものではないことを知っていましたから、浅尾氏に「先生会員はこの掛け軸を先生が書いたものだと信じていますよ、本当の事が分かったらまずいのではないですか」と聞きました。すると浅尾氏は「大丈夫だ、どこにも浅尾法灯筆とは書いてない、趣意書にも親印書(親さまの印がおしてある書)と書いてある。だから大丈夫なのだ」といいました。私は内心「どんなに親印書といっても落款印が法灯印なのだから、いいのがれはできないのでは」と思いました。

私は自然の泉誌の「法灯講話」をはじめほとんどの原稿を書いていましたが、二十八ページの「雑感」のページを書くことには抵抗を感じていました。浅尾氏が偉大で釈迦、キリストの生まれ代わりの存在のように会員に思わせるために作り話を書かなくてはなりませんでした。以前一度、実際の会員からの原稿を元に雑感を書いたことがありましたが、実際の会員からの声は平凡な内容で浅尾氏が満足いくものではありませんでした。私はこのとき浅尾氏から「ばかたれここは法灯の偉大さ、偉さを書く所だろうが、こんな幼稚なもんを書きやがって、これでは感激せんじゃろうが」と大声で怒鳴られました。以来、「雑感」は、浅尾氏から「こんな話を書け」と会員が感激する作り話のネタをもらっては書く創作のページになりました。投稿者の名前は、友人、知人を使い果たすと電話帳のページから姓、名を別々に選んで使いました。また、「親声」もつくらされました。                              ページの先頭にもどる

h.jpg「まごころ」呼びかけの「趣意書」
と共に渡される

「まごころ納入申し込み書」

「まごころ」の金額におうじて浅尾氏から与えられるる品物が記してあるが、これらは「親印書」と記してあります。

「老後の別荘・ユートピア」建設の呼びかけで「まごころ」を協力した会員意はその証拠として「法灯の間参加カード」が渡され、金額によりA・B・C・Dにランク分けされた。またそれに応じて浅尾法灯書(自称)による親印書なるものが渡された。
100万円「まごころ」した者は「法灯の間参加カード」はA券で「光自在」の掛け軸。
50万円「まごころ」した者は「法灯の間参加カード」はB券で「般若心経」の扁額。
30万円「まごころ」した者は「法灯の間参加カード」はC券で「般若心経」の色紙。
10万円「まごころ」した者は「法灯の間参加カード」はD券で「意志の上にも三年」の色紙。
すべて浅尾法灯の直筆と自称していた。しかし?      s6.gif 掛け軸