ねつ造1
警察も馬鹿ではありませんやっと腰をあげます
平成14年(2002)6月16日、講演会において「皆さん、警察はあいつらになめられているのです。これを放置しているのは警察の責任です。警察に宇部の市民から批判が集中しています。なんであんなウソをほうっておくのかという声が市民からあがっています。宇部警察署は無能なのだと抗議がさっとうしています。とうとう、宇部の市民が立ち上がったのです。すると、やっと宇部警察署が重い腰をあげました。取り締まりますと約束をしてくれました。皆さん、警察が動きますから安心して下さい。警察から気狂いのやることにかかわってはいけません、相手にするな無視しなさいと強い要望がありましたので皆さんはかかわってはいけません。警察に任せて下さい。
あいつらは裁判にまけた腹いせでありもしない作り話をいっているのです。こちらが告訴をするのを待っているのです。人間勉強をかかげている自然の泉が告訴をするとイメージダウンです。あいつらはそこをねらっているのです。だから法灯(浅尾法灯自身のこと)は告訴をしないのです」(午前中3回、午後3回)
検証1
宇部警察署にて浅尾法灯の言動について確認をしたところ「市民から批判が集中している。無能なのだと抗議がさっとうした。宇部の市民が立ち上がった。宇部警察署が取り締まりを約束した。警察が動きますから無視しなさい、警察に任せて下さい等を警察からいったことはありません。浅尾法灯がいった事実は一切ありません」との説明をうけました。
※検証 会場周辺には山からの抗議の声が鳴り響きます。この異常な中にもかかわらず浅尾法灯の講演会に政治家が来ますが、このとき、おそらく浅尾法灯は「警察を動かしてあいつらを逮捕できないか」とたのんだのでしょう。政治家は頭の中では「ホモ行為をやっているのだから出来る訳がない」と思いつつも「わかりました何とかしましょう」と政治家特有の都合のいい返事をしたものと思えます。この言葉に浅尾法灯は「やった」と早がってんして、嬉しさのあまり、待てず、確かめもせずに、話を大きく作り話で膨らませて会員に説明したものと思われます。しかし結果は、勇み足で大恥をかくはめに。
ねつ造2
宇部警察署は無能なのだと抗議がさっとうしています
8月18日、浅尾法灯は講演会中に「皆さん、宇部警察に宇部の市民から批判が集中しています。宇部警察署は無能なのだと抗議がさっとうしています。しかし、皆さん警察も無能ではありません、彼等にもプライドがありますよ、とうとう、やっと宇部警察署が重い腰をあげました。もうしばらくの辛抱です、もう少しすれば静かになります。皆さん、警察が動きますから安心して下さい」と会員に報告をする。
検証2
宇部警察署にて浅尾法灯の言動について確認をしたところ「浅尾氏がいっている事実は一切ありません」との説明をうける。検証はすでに記した通り。この日以来「警察が動く、あいつらを逮捕する」という話はしなくなる。
言い訳
釈迦・キリストが遭われたと同じ試練
釈迦、キリスト、法然、親鸞、日蓮は迫害に遭われたが、世の先覚者はいずれもこような法難、試練に遭い苦しみに耐えて真理を広められたのです。だから自分も釈迦、キリスト、法然、親鸞上人が遭われたと同じ迫害を受けているのです。
日蓮聖人・親鸞上人が遭われたと同じ法難にあっているのです。法難に遭っている法灯は本物です。
天理教開祖の中山ミキは警察の留置所に入れられました。偉大な先覚者はみんな迫害に遭っているのです。
検証
日蓮聖人が遭われた法難といえば「小松原の法難、龍の口の法難」が有名ですが、開祖、先覚者は命がけの布教活動をされたことはすべての人にいえることです。しかし、この人々が受けた法難、迫害とは、真理の光で人々を救済しようと布教に立ちあがったとき、権力者や異教徒から迫害、弾圧を受けたことであり、浅尾法灯が受けている抗議とはあきらかに違うものです。浅尾法灯は壇上で人間の道を説きながら、裏では浅尾法灯を人生の師と信奉する青少年をホモ行為のターゲットにした非人間的行為を非難されているのであって、これが法難なら、どろぼうが警察に追いかけられるのも法難、試練になります。浅尾法灯は抗議を誹謗、中傷といいますが、だったら警察にいけばいいのです。警察で「でたらめをいわれています。ホモ行為の強要をやってもいないのにやったといわれて被害にあっています」といえばいいのです。
キリスト、釈迦はては天理教開祖の中山ミキまでも持ち出し、同じ迫害を受けていると説明していますが、人類の罪を背負い十字架に架けられたキリストと浅尾法灯が同じとは、キリスト教徒や天理教の信者の方が聞かれたらどう思われるでしょうか。
言い訳
同じ裁判をくり返せば笑われる
「お知らせ 自然の泉は裁判において全面完全勝訴しております。五年間の裁判において徹底的に審議をつくした結果、自然の泉が全面完全勝訴したのです。裁判に不服があれば控訴できるのに、控訴しないのです。自然の泉に対して誹謗中傷を繰り返しておりますが、自然の泉が告訴すれば、裁判のやり直しになります。同じ裁判を繰り返せば、世間に良識が疑われます。裁判において徹底的に審議され、自然の泉は全面完全勝訴しております。」講演会場前の道路・駐車場・会場内に立てられた看板
検証
この裁判は平成10年(1998)に「自然の泉被害者の会」より告訴された「まごころ返還訴訟」の裁判です。「まごころ返還訴訟」の裁判は原告の訴えは却下される判決でしたが、勝訴したから「ホモ行為強要の話はでたらめであると証明されました」と説明のテープを会場に流しています。「ホモ行為強要の抗議は誹謗中傷である」といい、でたらめである根拠は裁判で「完全全面勝訴」したからだというのです。また「なぜ誹謗中傷を受けているなら警察に被害届けを出して告訴しないのか」という、ごく自然な疑問を抱くのではないかと憶測して、「なぜ告訴しないのかそれは裁判のやり直しになる、同じ裁判を繰り返せば世間の良識が疑われる」というのです。
誹謗中傷を受けて警察に被害届を出して訴える裁判は刑事裁判です。「まごころ返還訴訟」の民事裁判とは裁判の種類がまったく異なり「同じ裁判を繰り返せば。世間の良識を疑われる」という説明はまった理解不能です。また裁判は同じ裁判がくり返されることはありません。
さらに付け加えれば、浅尾法灯は平成9年(1997)裁判において編集部員へのホモ行為を広島の弁護士(原告)の追求により認めたも同然の証言をしています。にもかかわらず浅尾法灯が裁かれなかったのは、裁判の審議の主旨が浅尾法灯による青少年へのホモ行為強要を裁く裁判ではなかったからです。また平成10年裁判でも浅尾法灯は編集部員へのホモ行為強要を弁護しより厳しく叱責されています。しかし、裁かれなかったのは「まごころ返還」の裁判であったからです。
ホモの話は誹謗中傷といいながら裁判の話を持ち出して「同じ裁判を繰り返せば」と警察に訴えない理由を並べていますが。結局は浅尾法灯が警察に被害届を出さない理由は「自身が調べられる」からです。
言い訳
「裁判所に提出された陳述書にはえげつないことが」と説明
平成16年(2004)10月、編集部員へのホモ行為の強要を非難する抗議の声を聞いて、浅尾法灯は講演会で、「あいつらがいっていることは、あいつらが裁判所に書いて出した陳述書に比べればましなものです。裁判所にだした陳述書には読むに耐えない、えげつない、すごい事が書いてあったのですよ」と会員に説明をはじめる。
検証
「浅尾法灯よ青少年にホモ行為をしやがって恥ずかしくはないか、恥を知れ」との山からの大罵声にたまりかねた浅尾法灯は裁判での作り話をはじめました。「裁判長を叱りつけてやった」とか、いつもの作り話の中で、「裁判所にだした陳述書には読むに耐えない、えげつない、すごい事が書いてあった」と会員に説明したのですが、陳述書とは裁判の進行にあわせて裁判所に提出する書面で、この書面で説明したり、反論したりしますが、すべて裁判所に提出する書面は弁護士が執筆します。これは常識です。浅尾法灯の説明のとうりだとすれば、弁護士が「読むに耐えない、えげつない、すごい事が書いてあった」という書面を作成し、それを裁判所が受理したことになります。
言い訳
告訴すればパワーがでなくなる
平成17年3月、浅尾法灯のホモ行為を非難する抗議の声を聞く会員にむけて、浅尾法灯は講演会で、「光友(信者)はなぜ法灯が警察に告訴しないのか不思議に思うかも知れないが、告訴すると親光泉(病気を治すというパワー)がでなくなるからです」と説明。
検証
やはり、「なぜ誹謗、中傷されているなら警察に訴えないのだろうか」と常識的な疑問をみんな持つのではないかと気にかかり説明したもの。もしも身に覚えのないことで誹謗、中傷されているなら、警察に訴えるのは常識的なこと、人として当たり前のこと。それがなぜ「親光泉(病気を治すというパワー)がでなくなる」ことになるのか? 理解不能、説明不可能です。
言い訳
法灯が生きているだけでもありがたい
平成17年(2005)9月「釈迦、キリスト、法然、親鸞、日蓮など世の聖職者はみんな迫害に遭われているのです。キリストは十字架にかけられた。親鸞上人は島流しにされた。キリストや日蓮聖人が遭われた法難、試練にくらべれば法灯が受けている法難は小さなものです。キリストが遭われた苦しさに比べれば、小さいもの、法灯が死んだらみなさん困るでしょう法灯が生きているだけでもあきがたいと思わなければいけん。
検証
「キリストが遭われたと同じ法難、試練に法灯も遭っているのです」という話をさらにありがたい、お涙頂戴話に発展させたもの。キリスト教徒のみなさん。日蓮宗のみなさんは同思われるでしょうか。
言い訳
試練によって人間が磨かれる
みなさん、人間は試練、迫害に遭って磨かれるのです。山からの法灯への嫌がらせで法灯は磨かれるのです。そう思えばありがたいものです。私はここにくると人間が磨かれると思いあいつらに手を合わせます。そして山に向かってもっとやれ、もっとやれというのです。(平成18年8月講演会)
検証
試練によって人間が磨かれる。まさにその通り、一代で身を立てた人の多くが数々の苦しみを自分を磨く砥石「試練を砥石」と受けて繁栄の基礎を築いたのです。しかし、浅尾法灯が受けている抗議とは違います。浅尾法灯は青少年へのホモ行為強要を非難抗議されているのであって、これは試練ではありません。当然の報いです。人間の道を踏み外して抗議されて人間が磨かれるならば、泥棒が「どろぼう、つかまえろ。この盗人が」と追いかけられるのも磨きの砥石になります。
言い訳
法難に遭うのは我象身代わりの爆発のせい
法灯は釈迦、キリスト、法然、親鸞、日蓮など世の聖職者が遭われたと同じ法難に遭っていますが、これは我象身代わりの爆発のせいなのです。
検証
我象身代わり(がしょうみがわり)とは浅尾法灯が会員の病気や問題を身代わりすることで、浅尾法灯が24時間会員の身代わりをするから会員の病気が治るのだとありがたさを説明する。この言葉に会員はすがりついているのですが、浅尾法灯が抗議されているのは青年部員や編集部員をホモのターゲットにしたばかりか、それがばれると「でたらめ、でっちあげ」といい、さらには「キリストや釈迦が遭われたと同じ法難も遭っている」という恥ずべき行為であり、これがキリストが遭われたと同じ法難であるはずがありません。しかも「法難に遭っているのは会員の病気、問題の身代わりが爆発したせい」との説明はなに?、爆発って出来物が破れて膿がでるようなこと?、理解不能です。
言い訳
法難にあっていることが本物の証
普通の宗教家は悠々自適に何事もなくくらしているものです。しかし、本物の宗教家は日蓮、親鸞、中山ミキなど皆迫害に遭っています。本物の聖職者は迫害、試練に遭っているものです。法灯(自分のこと)はいま迫害に遭っています、これは法灯が本物である証なのです。(平成22年4月講演)
検証
「本物の聖職者は迫害、試練に遭っているものです」という話をさらに発展させたものです。人間の道を踏み外して抗議されて、それが試練であり本物の証明ならば、泥棒が警察に追いかけられるのも本物の証明になります。確かに別の意味での本物の証明にはなります。
言い訳
心頭滅却すれば火もまた凉し
平成22年3月、皆さん「心頭滅却すれば火もまた凉し」という言葉がありますが。皆さんが今まさにこの心境なのです。法灯の講演に一心に集中すれば、山からの音(山からスピーカーで浅尾法灯に抗議している声)は何も聞こえないでしょう。(22年5月)
検証
恵林寺は織田信長によって焼き討ちにあい、このとき快川国師は「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼/ 安禅は必ずしも山水を用いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」を唱え100余人の僧とともに三門上で火定したといいます。「無念無想の境地にいたれば、火さえも涼しく感じられる」という意味ですが、浅尾法灯は青少年へのホモ行為強要を非難、抗議されているのです。「抗議の声が聞こえませんね」と会員にいうのは「犯罪行為なんてみなさん、へのかっぱ、気にしない気にしない」といっていることだと解釈しましたがどうでしょうか。ともあれ快川国師の悟りを侮辱しています。