「三島由紀夫、生誕20年」
                    

 魂はそれを覆う外形(端的には肉体)を失うことによって、むしろ深刻に存在し始める。三島らしい逆説を弄するならば、消滅したことによって存在を主張しだすと云うことだ。
 131年前の10月27日、安政の大獄で斬首された吉田松蔭が激烈に信じたところのものもそれであった。
「たとえ玉となって砕けようとも、瓦となって命永らえることのなきように」と彼は『留魂録』で後人に諭し、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
      留め置かまし大和魂」と歌って逝った。
 松蔭は、言うまでもなくその夭折によって幕末の長州藩の精神的爆発の起爆剤ともなり、さらに後世にもその影響は不気味な漆黒の閃光のごとく輝き渡って行く。魂は死して後、恐るべき存在感を主張し始めたのだ。それを望んで死ぬことは、その行為そのものがすでに不可知論的に「留魂」の条件となる。目的も動機も信条も所詮は時代によって相対化される「口実」に過ぎない。至誠の行動、しかも真に死に至る行動、それのみが魂を顕在化させる。その思想は陽明学の理念であるかもしれないが、ある意味では思想以前の日本人の民族精神の底流にある情念であるかもしれない。
 日本的な意味でのノーブルサベッジ(崇高なる蛮性)とは、喚き叫ぶことでも、人を傷つけることでも、徒に反抗したりすることでもなくて、そうしたファナティックな情念の実相に静かに降りて行くことかもしれない。民衆はいつの時代でもそれを言葉の思想として理解しているわけではない。この現代ですら、日本人は非合理な精神主義の尻尾を引きずって社会生活をしているではないか。ただそれになるたけ目をむけないようにしたり、あるいは功利的な動機(出世や虚栄)にすり替えたりして、適当に「日本的」情念とつき合っているだけだ。
 松蔭はその思想と肉体と行動をもって脇目も振らずに降りて行った。それがイデオローグたる者の宿命かもしれないが、一方で命永らえるための理屈ばかりをウダウダと巻くしている「思想家」なる者はなんと多いことか。
 三島もまた松蔭と同じ目論見をもって思想に近付いたに違いない。小説家は、彼自身言っていたように大衆を酔わせるための商売人なのであるから、そうしたイデオローグであらねばならぬ必然は本来的にはなかったであろう。と同時に商人も公務員も医師も農民も、日本人である以上、日本民族の血流に混じったあの情念からは逃れがたい。彼がその底流に敢然と降りて行ったとしても、それは彼がたまたま日本人であったからに過ぎず、あながちに彼の特殊事情とみなしてしまうのは、それこそ彼を愚弄するものだ。
 合理的な価値判断を否定してしまうこと、それは究極的には肉体を否定することであり、一種のデカダンには違いない。しかし肉体と精神の相克には常に逆説がある。その逆説をあえて引き受けたのも彼らだった。松蔭も三島も、精神の「永世」のために肉体を(その意味するところは日常茶飯の諸相全般を含めてのことだが)放擲したが、生活の次元においては彼らくらい肉体を大事に労わった者はいなかった。精神を、寄せ来る近代社会の諸々の虚無、ニヒリズムから防衛するために、彼らは肉体と云う生活の城塞を努めて堅牢にした。
 周知の通り、三島は単に守るだけではなしに攻めて出たほどだった。しかしそれも行き着く果てがやはり肉体の否定と云う止揚であったとは、いかにもありそうなことだ。それにしても彼らの精神の強さはたしかにそうだとしても、彼らが懸命に争った情理の力とは何であったのだろう。巨大なニヒリズムの海は近代以前にしても常に人間精神の前に横たわっていたのだ。それを汲むことでむしろ人類の精神文化は発展したとも言える。
 しかし現代、その暗い精神の海を乾しあげて埋め立て、新しい工業団地や美しい住宅地を造成する動きが急だ。もちろん近代社会の生んだ様々の快適を享受する者らが、近代性を蔑むことは馬鹿げたことだ。しかし三島が「生誕」する直前に予言したことだが、この国は過去の民族的精神から断絶して、経済合理性を追及するのみとなり、やがてはインダストリアルランドがこの列島の上に出来上がってしまうだろうと。その言う通り、まさにこの列島は世界の経済の一割を担うまでになった。そして一見生活を楽しみながら、それに心底倦み疲れ、その内部ではすでに崩壊現象をさえ起しかけている、病んだ大衆の影が忍び寄って来ている。すべて三島の予言した通りだ。
 この時代精神の赤錆びた廃墟でこそ、三島の存在は赫奕と光芒を発するだろう。まさに三島は松蔭の後から、我々の方向に向かって今、静かに確実に近付きつつあるのだ。
 そのライフワーク、「豊饒の海」の虚構においては各巻の主人公たちは二十年の間隔を空けて転生することになっている。最終章でアーラヤ識による解脱を得ることになっている本多繁邦は、結局彼らが一連の一人の人格であったと気づいたのではなかったか。とすれば、もはや三島の不在と沈黙を嘆くこともない。彼は帰って来るのだ。彼はちょっと横町に煙草を買いに行っただけだったのだ。「彼」はきっと別の顔、別の声をしてまたやって来る。


             平成2年 作

 

 

「神なき世紀へ向けて」

            

 1991年暮れのソ連邦の崩壊に象徴されるように、世界史は現在、大きな分極化、多極化の流れの中に本格的に踊り込んだと云えるであろう。すでにアメリカ合衆国(USA)さえが、経済的に往年の圧倒的なパワーを有していないと言われて久しい。三極化構造、あるいは七極化構造などと云われるが、この多極化はさらに細分化されて行くであろう。しかしこれは単に国際政治上の権力構造の変化と云ったことばかりではなく、先進国内における地方への権限委譲の問題も含んでいる。 実際欧州の先進各国や日本では、かつて国家独立の大きな前提であった中央権限の多くを、地方自治に移管しようとする政治的要請が強まっている。それは共産圏国家の崩壊ほどに派手な、「ニュースねた」のある動きではないが、確実に、本質的に進展しつつある情勢であることに変わりはない。
 市民社会の成熟した先進各国の住民が、身の回りの地域社会の中で、社会と自己との関わりの理想を模索するのは当然の成り行きであるだろう。また従前の地方自治団体の組織も、住民の能動的な要求に、将来に渡って応え得るだけのパラダイムを有しているとは言い難い。
 中央からの垂直式の指導が地方現場ですでにチグハグな錯誤を生むことの多い現況では、今後さらに多様化し、かつ積極的に自己参加する住民の行政ニーズと、実際の施策とが益々乖離することになるのも無理からぬ。よって住民意識の高い地域では(とりわけUSAなどでは)、従来の自治行政組織とは別の、より住民生活に密着した、住民手作りの活動体を構成する動きさえある。
 いづれにしても多民族社会においては民族自決と云う分極化への動きが、一方安定した国民国家では地域、地方への分権化の胎動(国公営企業の民営化の動きも同断である)がうごめいていて、二十一世紀末のこの時代の方向を一面では決定していると云えよう。
 しかし相反する命題のようであるが、現下の歴史にはもうひとつの、底流にある大きなな動きも見逃せない。すなわち国民国家を越えた、より高いレベルでの国際的統一化へと向けられた動きである。これは具体的には、USAが積極的に進めている自由経済圏構想や、欧州の統合などに象徴される、一連の「地域主義」と呼ばれる外交政策であるが、その他にも地球規模での地域統一化やブロック化が進みつつある。さらにそうした統一化への試みのすべての原点である国連の役割が、近年とみに増して来ていることもそうした動きと無縁ではあるまい。
 東西冷戦の終決、あるいは一方の超大国の崩壊による均衡秩序喪失の情勢の中にあっては、国家間の利害対立を調整するために、国家の範疇を越えた包括的な調整機能の体制が切に望まれる。失われた秩序に代わる求心力を模索する時代、それが二十世紀末だとも言われている。
 混迷する国際社会の秩序の中に、一定のプリンシプルを持ち込むだけの、総合的なスーパーパワーは今はない。軍事力のUSA、経済力の日本、そのどちらも中途半端な欧州、そして資源だけの途上国群、すなわち統一の唯一核となるべき勢力が存在しなくなった。そこで国際的な地域主義の台頭となり、あるいはグローバル・パートナーシップの登場となる。欧州統合、環太平洋国家の構想等が打ち出される所以であるが、ある意味ではASEAN、NIESなどもそうした地域的な統合化の流れの一環と見ることもできよう。
 かつて「世界の首都」がワシントンとモスクワにあった時代には、そこでの決定と戦略が各陣営に属す各国家の首府に伝えられ、そこからさらに地方や企業へと下達されて行った。そのヒエラルキーが崩れつつあるのだ。原理原則の源泉であった、ふたりの巨大な「神」は死につつあるのだ。頂点にあるべき二つの神殿の一方は倒壊し、他方も朽ちかけている。そうしたアナーキーな情勢の中で、有力な調整機能を求め、あるいは妥協や協調の接点を探って、各国は微妙な外交の舵取りを行なっている。
 最終的には世界の単一連邦化が果たされるであろうが、とりあえずは各国家はむしろ生き残りをかけて、地勢的、社会的、歴史的に近しい国同士で結びつき、地域ブロックを構成しようとする動きに出るだろう。そうした政経一体の統一化の過程も、構想の段階からすでに具体的な実行の段階に来ていると言われている。
 かくして世界は分極化を強めると共に、それと平行して国家の枠を越えた統一化の過程にもあることを、まず前提の認識として提示したい。


 こうした世界史の現況をして、未曽有の不安定時代に突入したとも言う。あるいはかつての欧州中世期の歴史用語をもじって、「大空位時代」などとも言われる。ただ言えることは、分極化にしても、統一化にしても、それは住民が「国家」と云う、近代社会が生んだ機能的枠組の中にもはや納まりきれなくなったと云う状況のあることであって、その意味でかつてのどんな動揺した歴史とも質を異にしていると言えるのだ。
 十九世紀以降の国民国家の成立は、それぞれの民族にとっての「近代」の幕開けであり、世界史の厳しいパワーゲームを生き抜くための必要条件でもあった。二十世紀末の現在、その国家の境界を無視するような勢いで、経済、情報、文化、人の動きが活発である。その最大の阻害要因であった東西二極化も見る間に消滅した現下では、この動きはなおのこと加速されるであろう。
 かつてのように国家や権威のフィルターを通して、それらのものが諸国民の間をものものしく出入りした時代は遠い昔の語りぐさで、住民個々人の生活感からすればすでに、世界に国境は失せているとも言い得るかもしれない。住民、あるいは民間組織はすでに可能なかぎり自由に国境を越えて動いているのが実態である。これは民主主義のさらなる発展過程とも考えられるかもしれないが、住民自身が異質なものとの交流に耐えて、「地球市民」へと成長しつつある証でもあるだろう。
 しかしそうは言っても、軍事的な緊張は世界のあらゆる場所にいまだなお散在しているし、生活の些末事ならばまだしものこと、高度な行政判断や実行にはまだ国家の役割は否定しがたい。心はとうに、いわゆる「ボーダレス」の社会に生きながらも、実際の日常はやはり国家の基盤の上に拘束されている、それが現代の一般人の偽らざる実状であり、またそのことのフラストレーションこそが今後の国際化への進展の動因となるであろう。
 つまり住民の次元からの国際化、それこそが新しい時代の「外交」の基本であるかもしれない。中央集権化された国家単位の世界構造が原則であった時代、すなわち外交が国家の独占的な役務であった時代からすれば、この事態もまた分極化のひとつの現われであると云える。
 こうした流れの中では、将来、地方が(既存の自治体にしろ、住民手作りの任意の自治団体にしろ)半独立的な権能を有して、国際社会へ直接に参画して行くと云った事態が出現することも十分に予想できる。たとえば「環太平洋構想」に表日本の自治体だけが加わり、「環日本海構想」には裏日本の関係地域だけが参加すると云った具合にだ。あるいは過疎地域が、その地域に限定して経済のフリーゾーン(輸出加工区や経済特区のように)を設定したり、またはタックスヘブン地帯とするなどして、国際社会に地域単位で扉を開くと云った試案も考えられても好い。国際的視野に立った、思い切った施策を柔軟に活用することで、一国の中の懸案が意外とあっさり解決できるかもしれない。
 さらに民間企業の経済活動の自由が保障されるかぎり、世界は狭まり、国境は低くなって行くはずである。具体的にそうした経済のボーダレス化の流れを支えるのは多国籍企業群であり、そうした組織の拡大にともなって、諸国民の均質化がいっそう達成されることであろう。
 かつて産業革命後の、近代的な貿易が欧州から世界中に伝播する段階で、世界市場が一体化されかけた時(すなわち十九世紀から二十世紀中葉にかけて)、後進国において激しい、排外主義的なナショナリズムが沸き上がった経緯があるが、そうした国家主義的な統一化や(あるいは排外主義も、その行き着くところはまた国家主義であろう)分極化とは明らかに異なった本質を持つものとして、二十世紀末の国際経済は立ち現れている。
 あるいはソ連邦の崩壊は、かつての国家主義的な統一に対する民族主義的な抵抗と云う要素が多分にあるのかもしれない。しかし少なくとも、民主主義的な政治制度と自由主義の経済体制を備えた国々では、国際化への飛躍はかつてとはまったく異なる様相を呈している。
 それは国家間の資源と市場の争奪戦と云うよりは、現在のどの国民国家でも広範に存在する「大衆社会」の状況を前提として、消費者の欲求をモティーフとして活動をする経済の自然な「生態系」から生まれるものだ。主役は消費者、すなわち住民であり、住民のニーズに応え得る企業体だけが国境を越えて成功する。住民が、良質で、安価で、メンテナンスの良い商品を選択する自由を、国家的な領域性よりも重要視し始める時、我々は二十一世紀の姿をおぼろげながら垣間見ることになろう。政治はただそれを追認して、グローバル・パートナーとか世界システムとか称して、世界の均一化、すなわち統一化へ向けての制度を提供しつづけるだけである。
 さらに加えてマスメディアの発達は凄まじい。世界同時に伝達される情報通信の迫力には、誰しも目を見張るものがある。この勢いで行くと、地球の裏側の「町内会」の出来事が、自分の住む町のニュースと共に即日に取得することが日常となるのも、そんなに遠い将来のことではない。
 南米の、ある町内会で不用品の収拾をしたところ、日本の広島のどこかの町内会でバザーに使うと云う話になって、翌日荷物を届けてもらう、などと云った夢物語がもはや馬鹿げたものではなくなっている。そしてバザーに余った物品は、次にポーランドのどこかの町内会へ譲って上げるなどと云った具合だ。 かくして十九世紀の「帝国主義」時代の上からの均一化から、現代は下からの均一化が成り代わっている。市民社会から拒絶されるものは、すべからく国際社会からも駆逐される、そんな普遍性が確立するであろう。
 こうした住民主体の自発的な国際化がある反面では、一般人が国際経済や国際情報のネットワークに否応なく組み込まれつつあると云う見方も出来るかもしれない。「多国籍」であることが今後はすべての企業にとっての存立の条件になるであろうし、マスメディアの質量共の発達は今後とも世界を覆うであろう。こうしたパッシブな形にしろ、住民が国際化の舞台に主人公として登場することに変わりはない。「使う者は使われる」のことわざ通り、動態的事象の中では主体も客体も区別がつかないほどに混沌として、流されて行くと云うのが実際であろう。
 こうしたなし崩しのインターナショナライズ(しかもイデオロギーのいっさい容喙しない形での)には、個人的に抵抗感を覚える向きも多いであろうが、そうした傾向が帝国主義時代のような矯激な民族主義に結びつくことはありえない。なぜならそれはまさに、民衆が自らの「生」の可能性のために志向する国際化であるからだ。昭和四十五年の三島由紀夫事件が、ついにどんな政治的な影響も及ぼさなかった理由はその辺にあるのかもしれない。(彼自身も、その謎を何度も何度も訝りながら破滅行動に飛び込んで行ったふしがあるのだが)
 いづれにしろ国際経済も国際政治も、今後は完全なボーダレスの時代へ向かって突入して行くことは間違いない。そのための政治的な協調体制はこれから大いに模索されることであろう。スーパーパワーの喪失した、二十一世紀と云う「神なき世紀」の多極的な時代には、政府間の複雑な外交行政による、神経質な妥協と協調が図られて行くであろうが、一方ではそうした権力の発動とは別の、市民・住民主体の国際化が重層的に否応なく発展して行くはずである。そうした観点に立った「外交」、すなわち住民の側に立った国際化を日本は率先垂範して、しかも官民上げて先導して行く必要がある。


 アジアにおいても、第一次、第二次の両大戦を通じて、悲願の民族国家の成立を達成し、いまだ多くの問題を抱えながらも、大半の国がどうにかこうにか国家としての体制を維持して来ているわけだが、そうした国々においても西欧とは若干ニュアンスは異なるが、分権化、分極化への動きが見られる。もちろんそれは、インドのように民族闘争の引き続きと云う面もあって、なお古い時代の様相を呈しているが、中国などで沿岸部と内陸部をそれぞれ別の指導原理で発展させようと決定したように、強固な中央集権国家においてさえすでに地域特性への配慮はないがしろに出来ない問題である。
 インドや中国、あるいはアジアの発展途上の中小国家は、かつての民族自決の理念を果たすために、なりふりかまわぬ強権国家を築いて、それによって少なくとも大戦後の冷戦時代の軍事的な危機を乗り切っては来た。しかし東西二極体制の崩壊による新多極化時代と、軍事的な緊張の緩和によって、そうした国家体制もまた変らざる得ないであろう。
 経済や情報の浸透によって、民衆の生活水準や意識の水準が上昇し、市民社会の成熟が生まれるのはなお先の時代であろうが、これらの国々においても周辺地域での軍事的な緊張さえ減殺されれば、中央集権体制はその機能的な意義を失って、漸次分権化して行くことは間違いあるまい。
 日本ではすでに百年以上も前に近代的な中央集権国家を生み、しかも民族自決を勝ち取った数少ない非欧米圏の国家として存在して来た。もちろん現在も多くの問題を残してはいるが、一応世界に冠たる経済大国として壮盛期を迎えていると云えるであろう。その繁栄と実力がそのまま来世紀も継続されると云う保障はない。そこではいろんな悲観的な見方も出来るであろうし、またさらなる希望や期待を抱いて悪い理由もない。
 ただし今後の展望において、現在の繁栄を導いた様式や方法をそのままに、ただ漫然と二十一世紀を迎えたのでは、この国の未来が遠からず行き詰まるであろうことは想像に難くない。すなわち少数の有能な中央官僚や企業経営幹部が、国民国家の堅い枠組の中で、極度に統制された組織を駆使して社会を先導して行くと云う、明治以来のやり方がそろそろ世界史的に通用しなくなる兆候が出始めているからだ。もちろんその役割はなお終わったわけではないが、時代そのものが古い暗黙のコンセンサスや、旧態依然の方法論の殻を乗り越えて流れていることもまた事実である。 二十世紀末の世界で最も高い生活水準を享受していると云われる、この国の市民が欧米先進国への「挑戦の時代」と同様な形で唯々諾々と中央の指導に服属するとも思えない。もはや「挑戦の時代」が終わりつつあるのだから、統制一本、「うって一丸となす」式の指導、上位下達の体制は時代にそぐわないと云うべきであろう。中央省庁のエリートたちが机上で企画立案する範囲内で、国際化の「実態」が動くような時代ではなかろうし、実際すでに住民レベルでの国際化は急速に進みつつある。住民としての市民自身が多様なものを求めているし、また身近にも異質なものを受け入れつつある。それは欧米大陸諸国から見れば、なお遅々たる「開国」ではあるが、確実に志向はそちらに向かっているのだ。
 それは海外旅行の増加や、外国製品の容易な輸入と云った卑近な例を上げるまでもなく、より本質的に意識の上の改革として着実に日本人の中に起こりつつある変化である。情報・物・人の流れは、奔流のようにこの縦割社会の隅々まで席巻しつつある。
 しかし同時に、身の回りがすべて均一化されることへの、市民の心理的な抵抗感もまた強まることだろう。「あれもこれも同じ」と云う世界は、ある意味で有限な生命体である人間には耐えがたい環境でもあるだろう。これがかつては「民族」としてのアイデンティティーを問い直す気分につながったのだが、今後は観念としての「民族」ではなくて、生活環境や風土、歴史から発する住民個々人に関わる、実体のあるアイデンティティーの要求として沸き上がるに違いない。
 真のアイデンティティーへの関心とは、個としての、あるいは環境の中の一要素としての自分自身への問いかけでもあるのだ。ここから歴史的には足元の地域文化への問題意識が生まれ、現在的には生活システムの地域的な適合性への問題意識が生じるであろう。
 今後市民一人々々については、民族・国家の単位のアイデンティティーの主張ではなくて、自らが暮らす足下の生活地域からアイデンティティーを探り、そこに立脚した「個性」の発揮が待たれるであろうし、国際交流の基礎もまたそのことに置かれるべきであろう。これこそが他民族・他地域との広範な接触にとっても、むしろ不可欠な自己確認の要件となることを自覚したい。
 さらに生活システムの地域適合についての問題は、たとえばエネルギー問題を上げて見ればよく分かる。これはもちろん技術的な発展を自明の前提とした話だが、再生可能な、無公害のエネルギー供給システムの確立が望ましいのは論を待たない。それは太陽光発電、海洋温度差発電、地熱発電、風力発電などすでに多くの方法が提起されているが、そうした多種類の選択肢の中から、その地方の一市、一郡、一町村に最も適合したシステムを個々の地域で確立すると云うことになるのが理想であろう。そうやって地方・地域毎に、エネルギーの自給体制が整うようになれば、現在のような一元管理体制での供給不安もなくなり、それはひいては環境、資源、紛争等の国際的な問題解決の一助にもなるはずである。 さらに新しい世紀のネットワークを通じて、そうしたエネルギーの供給と需要の連関を世界的に網羅すれば、それはいよいよ安定したシステムとなるであろう。これが統一化のメリットである。国際的な統一規格の上で代替を無限に可能としながら、しかも地勢等の特性に合わせた地域毎のエネルギーシステムを確立すること、それはまさに国際的統一と地域分化の果てに現れる明解で、有益な事例のひとつである。またことほど左様に、国際的な課題の解決の糸口が案外市民生活の足元の生活地域にあると云う、逆説的な事実が認識されることが多くなるであろう。
 このように見れば、来たるべき世紀には「世界に冠たる」総合的なスーパーパワーをどこかの民族・国家が担う必要もないし、またそれは不可能でもあろう。今後の国際関係は、国民国家を単位とするにしても、国内の地域を単位とするにしても(その場合、国家の役割はいわゆる「劇場国家」となる)、異質なもの同士が対等に調和しながら秩序を保つのが原則となるだろうし、また一国の内部においても地方、地域毎にそうなることが不可避の趨勢である。
 しかし異質な者同士の交流は、国際交流にしてもそうだが、必ずしも「にこやかな談笑」だけでは済まない面がある。支配や征服と云った人間の悪が、こうした状況下でも必ずその活躍の場を見い出すことであろうが、そうしたものへの現実的な対処法の確立が、すなわち軍備管理の合意がまずもって急がれるべき課題であろう。
 たとえばこの拙論の文脈で言えば、核兵器等の戦略的な大規模兵器は、統一的な共同体(たとえば国連)の管轄下に置き、防衛用の一般兵器は一定水準で国単位、あるいは国際的地域単位で保有すると云った構図が考えられる。感情的な反戦論だけでは、もちろん現実の人間を相手にする、国際的な軍備管理の議論にはならない。かと云って、一極に偏った軍事力の増強は、過去の例からも必ず戦争の誘因となる。国際的なコンセンサス(国連)の元に軍事的な実力(核兵器)のある決定権を付託し、しかも各地域には軍事的均衡を常に図り続けると云うのが妥当な線ではないのだろうか。
 戦争も犯罪も、その可能性をあえて度外視するような怠慢をもし犯すことがあれば、二十一世紀の「神なき時代」に入って、逆にふたたび「恐怖の神」を導き出す機縁にならないともかぎらない。

            了

                   平成3年 作

 

「ある幕末 ── 芸州広島藩の場合」

             

 元治元年七月、禁門の変で長州軍が京都での政権奪取に失敗して敗走すると、幕府はただちに長州追討令を西国二十一藩へ発した。ついで同八月、広島に追討軍の本営設置を決定、さらに広島藩に岩国口攻撃の命を下し、藩では藩主長訓の世子長勲を指揮官として出陣させることを決める。何百年ぶりかに臨戦体制を取る広島藩は廿日市、江波、海田、可部に守備隊を配置すると共に、市内に警戒体制を敷き、長州人の領内通行禁止、旅客の市内通行禁止などの処置を取った。廿日市には砲台を築いた。
 ペリー黒船来寇以降の激動の幕末史において、ほとんど何の動きも主張も示さず、常に中立的・日和見的な政治態度に撤してきたこの譜代の雄藩が、この時以来、荒れ狂う大変革の時代の波を身を以て浴びることになるわけだ。
 そもそも幕末の、この国始まって以来の大変革の震源地であった長州藩とは領域が隣接していたにも関わらず、この藩では藩財政の窮乏に苦しみながらも、合理的な経営手腕を持った改革派の台頭は大幅に遅れて、旧態依然たる情実政治や門閥政治が幅をきかせ、藩士の多くは権門家との人間関係の保持に肝胆を砕き、時代の趨勢とは無縁な社会意識に安住していた云う。
 安芸四十五万石と云っても、幕末にはその藩財政の内実は御多分に洩れず火の車で、歳入の二倍近い借入金を抱えて、ほとんど「財政再建団体」と云ってもよいほどに窮乏していた。そこで早くから貿易事業で財政を潤していた薩摩・長州に接近して殖産、交易の業に積極的に乗り出して行こうとするのだが、それも幕末も安政年間に至ってから後のことであった。
 御手洗港で芸薩交易を、また宮島で芸長交易を取り仕切り、大阪市場や開港場を通じての海外市場へと販路を開拓したのだが、こうした経済活動での依存関係によって政治的にも後々まで薩摩・長州とは因縁が繋がったと考えられている。
 隣の長州藩では天保の頃からすでに村田清風、周布政之助らの実務派官僚が次々と実権を握って合理的な藩政改革を断行していたばかりでなく、さらに松蔭吉田寅次郎のような強烈な歴史意識を持ったイデオローグが輩出し、しかもそれらが自由に言動するような素地を行政組織である藩が与え、ある意味では「危険思想家」であるにも関わらずたいせつに保護していた。
 単なる目先の経済的合理性を追及するだけの開明的な実務家は他藩でも必要に応じて重用される例はあったが、長州藩の松蔭に対するように(後の久坂玄瑞や高杉普作の場合もそうだが)、思想そのものの個性を以て藩、あるいは一国の政治理念に影響を与えるような人間を育成保護するのは珍しいことだったかもしれない。
 松蔭の謂う通り「汝は功業を為せ、我は大義を為す」と云った人材であるが、その一衣帯水の隣藩である芸州広島藩では安政年間に至るまで「功業を為す」人材さえが未だ藩の要路に就いていなかったのだ。そして全国の攘夷派のイデオローグたちが井伊直弼の弾圧によって粛清される時代になって、ようやく広島藩では実務派官僚の一派が台頭することになる。
 ペリー騒動でも長州藩では多くの若者たちの意見が沸騰し、松蔭の密航なども画策され、民族的危機感が藩内で上下貴賤を問わず一般化したが、隣の広島藩では情実政治の巨魁、年寄上座生田筑後とようやく現われて来た改革実務派とが藩庁内で相も変らぬ派閥抗争を繰り返していた。改革派が登用され始めるのが安政五年、藩主斉粛が死去して浅野長訓の藩主継承後であり、しかも安政三年にはいったん改革派が排除された上での復権であり、遅いと云えばあまりにも遅きに失した人事であったが、文久年間に至って辻将曹、石井修理、野村帯刀らが年寄へ抜擢されて遅まきながらの藩政改革に着手することになる。その彼らにしてももっぱら上級藩士からの登用であり、薩摩・長州のように下級武士層(場合によっては足軽のような軽格)からの広範な人材登用と云うには程遠い。
 彼らが殖産興業、郡政改革、兵制改革の緒についた頃にはすでに歴史は怒濤のように急進展していて、京都の公武合体策は行き詰まり、幕政への批判と攘夷断行の叫びが朝野に満ちていた。
 文久三年長州が下関において諸外国艦船への砲撃戦を決行する(下関事件)さい広島藩に応援を乞う使者を発したが、藩はこれをすげなく断った。当時の広島藩においては、そんな過激なイデオロギッシュな政治的冒険など驚天動地の事態であっただろう。攘夷による騒乱を恐れ、時代遅れの公武合体策の尻馬に固執し、「何事モ従来ノ御法則ヲ御守リ」(『芸藩志』)、諸勢力との妥協に撤して、何の理念も政策もないままに歴史の荒波に乗り出したこの因循姑息な大藩が、しかもすぐその翌年には時代の免れがたい抗争の最前線に領地を提供させられたのであり、思えばそうした不運も歴史の皮肉な巡り合わせなのかもしれない。
 長州征伐軍が広島に集結することになると、諸藩兵の輸送、宿所等の手配に忙殺されると共に、幕府軍総督(徳川慶勝)以下の老中、大目付、目付などの、藩始まって以来の賓客の大挙来広にいそいそとその接待準備に勤しんだ。ちなみに岩国口攻撃の十藩2万6千人の諸藩軍兵のため急遽、ふとん、膳、椀、風呂釜、馬飼葉、軍用夫などが領内中から掻き集められた。市内の諸物価は高騰して、しかも鎧具足を着けて武器を携えた異郷の侍たちの密集で市中の空気は殺気立ち、何もかも浅野家広島入城以来初めての目紛るしい珍事であった。それこそ元禄に、支藩の赤穂浅野家の引き起こした騒動以来の、降って湧いたような大事件であったであろう。
 夏から秋にかけて続々と集まる諸藩兵の世話をやきながら、一方では海上貿易等で経済的に密接に繋がっていたお隣の長州と事を荒立てたくなかった藩は、幕長間の周旋に駆け回り、薩摩の西郷とも連絡を取り合いながら、幕府の長州への穏便処分がなされるよう画策した。毛利方の三家老の切腹、藩主毛利敬親父子の謝罪と云う課罰によって幕府の面子を立て、かたがた毛利方をも懐柔して、広島領内での戦闘を回避させようと辻将曹、石井修理らが走り回ったのだ。
 第一次出兵ではこの広島藩の斡旋は成功して、長州側も恭順の態度を示したので、十一月十六日総督来広後、広島で三家老の首実検を行い、十二月二十七日には早々に解陣布達の運びとなった。これが広島藩が幕末になした唯一の政治的得点であったかもしれない。 長州はそのためにたしかに時間を稼いだのだ。四か国連合軍との戦闘で軍艦と砲台を壊滅されていた長州は、民衆兵を募った陸兵の錬成強化に一日でも多く時間が欲しかったはずであり、もしあのまま戦端が開かれていたら長州は圧倒的な征長軍に蹂躙されて抹殺されていたかもしれない。
 しかし情勢はそんな口を拭ったような姑息な妥協案では納まりのつかぬところに来ていたのだし、そのことに気づかぬ組織は結局高い代償を払わされることになる。。征長軍が広島に入ったり出たりしている間に、長州では高杉普作が挙兵して藩庁内の保守派を一掃し、表向き恭順を見せながらも、対幕戦の用意を着々と整えつつあった。翌慶応元年四月、これに気づいた幕府は第二次出兵令を下す。またぞろ広島藩は周旋に走り回るが、かえってそのことが幕閣の疑いを呼び、辻、野村らは強硬派の老中小笠原長行によって謹慎処分を受け、周旋工作は失敗する。しかもこの年の正月には薩摩・長州が政治的に和解して同盟を結んでいたことにも気づいていなかったらしい。
 幕府は六月五日を長州攻め込みの期限と定めて諸藩に下達。ふたたび幕軍、諸藩兵一万以上が広島に集結して騒然たる様相を呈した。広島藩では辻、野村の両重臣が幕府から謹慎を受けると云う事態に至って、ようやく藩内世論が沸き上がり、幕府への反感と不信が起こって、対長州戦への不参加と云う何とも煮え切らないような、不思議な方針を取ることになる。芸長藩境に展開していた藩兵を主要地点から撤退させて、山間部の間道守備に就かせ、どっちつかずの体勢を取る。一種の戦線離脱であり、自領を戦場としながらも中立不介入を決め込むと云う苦肉の策でもある。
 もちろん長州側とは何らかの根回しがしてあったのかもしれないし、また幕軍側の実力の底を見抜いた上での抗命であったのかもしれない。とすると、したたかで冷静な政治的選択であったとも考えられるが、しかし戦闘の激化につれてその藩論も変転するのだから、あまり頼りにならない。
 六月十四日、芸州口での戦闘が開始されると、彦根、高田藩兵並びに幕軍が岩国口最前線に投入されて、以後七月中頃まで激戦が行なわれるが、幕軍は長州奇兵隊に敗れて撤退する。幕軍の敗戦は、もちろん長州の上下上げての防衛意識の高揚と薩摩を通じて手に入れた最新兵器の威力に功あったことは言うまでもないが、一方で幕軍も広島近郊の地理をまったく知らずに平地での大部隊の展開ばかりを念頭に置いて、作戦を基本的に誤ったとも云われている。幕軍の指導者たちは広島に来て始めて、その地が平地の少ない山がちの地形であることに気づいたらしい。この意味からも広島藩が幕軍に積極的に参加せず、中立不介入策を取ったことは長州に益となったはずだ。
 しかし幕軍を駆逐しながら侵入した長州軍は大竹、佐伯、大野方面の町屋を容赦なしに焼き払いながら進撃して来たため、焼失家屋二千件、罹災民は一万人以上に達した。事態ここに至って広島藩は一部重臣が動揺して、長州軍の次の攻撃目標たる廿日市町内民家を自らの手で焼却するよう命じた。そうすることで長州軍の進撃を阻止するために、藩兵の参戦への決起を促したとも云うのだが、「藩」の保身のためには領民の災厄不幸も何ほどのものでもないと云う基本的姿勢があらわれている。それが幕藩体制と云うものに付随する自然な感情なのかもしれないが。
 一方では佐伯地区内に進攻して来た長州軍と広島藩は、相互不介入の条約を締結して(友田村約条)、中立政策を堅持しようともしていた。しかしこれも独ソ不可侵条約に対するヒトラーのように、勝ちに驕った長州軍によってあっさりと破約されてしまい、広島藩はここでようやく対長州一致坑戦の藩論が固まると云うことになる。だがその時にはもう実質的に戦争は終わっていたのだ。
 幕軍は、七月二十日に将軍家茂が死去するに及んで継戦の意欲を失い、勝海舟の厳島での休戦工作などを経て、九月にはうやむやの内に撤収してしまう。(九月四日、総督宇品出航。九月十九日、征長軍中止令。)幕府の全軍事力をもってしても、外様の長州藩一藩にさえ勝つことが出来ないことをこの戦闘が天下に知らしめた結果だけが残され、以後幕府政権と徳川家は一直線に瓦解への道を下って行く。その最も直近の「目撃者」であったはずの広島藩では、ここに至ってもなおその藩内から独自に反幕の潮流は起きなかった。譜代恩顧の大名家だったからと云う理由だけだったろうか。
 この征長戦争で藩の存亡の縁に立たされた広島藩は、衰亡過程の幕府のお先棒をはっきりと担ぐでもなく、かと云って長州の過激なアジテートに載るでもなく、一藩の最も安全な(それは必ずしも領民の民生を安んじると云う意味ではない)身の処し方を模索し実行した。それは冷静な「大人」の分別とも、手堅い役人ふうの判断とも言えるだろうが、それを自己の確固たる主張として体現する指導的な人間がいなかったのもたしかなことだ。ましてや激動する民族の歴史の実験の時代に、そんな偏狭な融和策をどこまでも押し通そうとすること自体がアナクロニックな非常識だったとも云うべきかもしれない。
 強烈なカリスマ性をもって藩と云う人間集団を引っ張って行き、他藩に対してもその藩の「顔」としての象徴性を有するだけの指導者。そうした人間が幕末期の広島藩にあったとは考えにくい。そしてそのことがおそらく、その後の芸州広島藩の政治的な地位に大きく影響して来ると思われる。
 広島藩でもようやく慶応二年半ば頃になって、木原慎一郎(藩校教授)、寺尾小八郎などの政策論が著わされた。それは幕藩体制の部分的な修正による現状の再編成を要旨とする指針で、朝廷や外様の雄藩をも国政に参加させて、幕府政権の再生と強化を図るものだが、具体的で明確な政権構想もなく、どこまで行っても現下の歴史の流れに対する中立的な、妥協的な価値観の焼直しの試論に過ぎなかったと云われる。結局この藩の武士層からは最期まで思考の大転換や発想の飛躍は芽生えなかったと云うことのようだ。
 組織の中に現われる個性や異質性を忌諱し、病的なほど神経質にこれを排斥する傾向。狭い人間関係の枠の中で上下の秩序を維持しようと、ただそれだけに日々心身を酷使する日常。そうした環境から、ましてや上層部からしてそうした体質を温存している世界から、激動の時代に魁として活躍出来るような人材が生まれて来るはずもない。当時の広島藩がそうした閉鎖的な組織であったとは必ずしも云えないだろうが、そこの人間たちの意識が時代の現実の流れに即応しきれなかったと云う事実だけはたしかに残っている。
 木原たちの公武合体を基本とする幕藩体制の手直しの論が広島でありがたがられていた頃には、すでに薩摩・長州は武力討幕の方向へ突き進んでいた。幕府に替わる新しい政体を打ち立てることによって、一度は苦杯を舐めた攘夷戦に勝てるだけの民族国家を生み出すこと。つまりインドや中国をも併呑する、欧米列国の虎口に侵されかけている民族の運命を救うこと。そうした観点から彼らは論を進めていたのだ。また土佐ではそれとは別に、大政奉還による幕藩体制の抜本的な改革(国会の開設すら予定した改革案)が指向されつつあった。
 慶応三年の半ばには薩・長は討幕を決定して、その具体的な計画の検討に入っていた。芸薩交易を行なっていた薩摩にとっても、ましてや隣の長州にとっても関係の浅からざる西国の大藩で、内海航路の軍事的な拠点ともなる広島藩の存在を、政略的な意味からも無視できなかったことは理解できる。薩・長の活動家たちはしきりと広島藩の重臣らに接触して、この藩を戦列に加えることを画策したようである。しかしここでも広島藩は複雑な対応を示して、結局自分の政治的な立場を空しくするような結果ばかりをまねいている。 大久保利通は九月十九日に山口で木戸孝允と討幕の同盟を結ぶが、大久保は広島藩の辻将曹にもこの同盟への参加を呼び掛ける。広島藩はこの提案を受諾して、九月二十日、薩・長・芸の討幕三藩同盟が成立する。
 幕府の権威がすでに落ちるところまで落ちたの感があるこの当時、全国三百の大小諸藩がその身の処し方に煩悶して事態を静観していた時代に、芸州広島藩はこの同盟参加で、たしかに時代の魁となるべき先頭の位置につけたことになるのだが、しかしここまでのこの藩の動静を見返すと、この決断はいかにも唐突で必然性の薄いものに思われる。薩・長はペリー来寇以来、勤皇、攘夷の激しい思想闘争で多くの血を流し、幕府との反目も一朝のことではない。ところが広島藩には内外共にそんな行き掛かりは何もないのだ。単なる政治的な妥協としか考えられない面もある。 ところがその討幕の同盟に加わりながらも、一方で広島藩は土佐藩の後藤象次郎の推進する大政奉還策にも同調していて、土佐藩と共にその建白書を将軍家に提出する時期を窺ってもいた。この時点で勤皇諸藩を分流した二大路線のどちら側にも加担していたわけで、おそらく身の安全をはかっての気配りなのだろうが、緊迫しつつある情勢の中ではこうした「二また膏薬」的な処世術はむしろ危険なばかりで何の益にもならなかったのではないか。
 もとより強力な立案者も推進者もないまま、歴史の急展開に翻弄されるままに討幕挙兵に賛同した広島藩では事の重大さに改めて気づいたのか、藩論はたちまち分裂して出兵を躊躇することとなり、薩・長にも挙兵の延期を提案したために、無理もないことだが両藩の指導者たちを激怒させた。挙兵の無期限延期と、今後三藩重臣による協議に決定を委ねようと云う見え透いたような後退案で、長州の広沢兵助が広島に飛んで来て藩内を説得、ふたたび出兵に踏み切らせることとなった。 この広島藩の右顧左眄に切歯扼腕した大久保は「ソレ位須臾反復ハ有之マシク存候処歯牙ニ被懸不申候」と言い、長州の品川弥二郎は「婦女子ノ申様言葉計リ吐キ実ニ憤懣ニ堪ヘ不申」と罵っている。
 この慶応三年の秋は幕府も勤皇諸藩も互いの出方を窺いながら、息を詰めて全神経を集中させていた頃だ。その政治の渦の中心は京都朝廷で、ここで勤皇派と佐幕派の公家や武士が権謀術数のかぎりを尽くしてしのぎを削っていた。その十月八日、京都で薩・長・芸の三藩代表者会議が行なわれ、西郷、大久保、広沢、品川と並んで広島の辻、植田が列席しているが、広島藩についてはただ居ると云うだけのことで政治的な発言権は皆無であったと思われる。この会議での決議を受けて、岩倉具視の宮中工作がなされ、いわゆる討幕の密勅が薩摩、長州両藩に降下することとなるが、三藩同盟であったにも関わらず、「歯牙ニモ不懸」広島藩にはついにこの密勅は来なかった。
 その除け扱いには、直前の広島藩の行動にも問題があったのかもしれない。十月三日に土佐藩は満を持して、大政奉還の建白書を将軍に提出した。(ために土佐藩は討幕会議には参加せず、このことが明治以後のこの藩閥の特殊な立場に繋がって行く)建白書を共に提出しようと約束していた広島藩は(もっとも、土佐藩のそれとはかなりニュアンスが違った奉還策だったが)出し抜かれたかたちで、慌てて藩主浅野長訓名の建白書を遅れて六日に、江戸藩邸から幕府に提出した。土佐藩にさえまともに相手にされなかったわけだが、しかも将軍に直々に提出するのでなく、この期に及んでもなお幕府の行政機構を尊んで、「建白」の慣習儀礼に従ったところにこの藩の上層部の抜きがたい体質がうかがわれる。建白によって事態収拾がなったと信じたのか、広島藩はふたたび討幕出兵の延期を提案して薩・長を鼻白らませている。
 こうして広島藩をも巻き込みながら、政治情勢は日に日に緊迫して、ついに運命的な十月十四日のミステリアスな頂点に達する。この日朝廷から長州藩に討幕の密勅が降りると同時に、徳川慶喜から大政奉還の奏上があったことは有名な話だが、(つまり二つの革命路線がこの日の一点で奇しくも交差したのだ)その大政奉還を幕府に薦めて、幕府権力と権威を温存させようと謀ったはずの広島藩が、その一方で討幕の兵員436名を同月の十六日には早々と宇品から軍艦で京都に移送したのは何とも奇っ怪な行動と云うべきだろう。和戦両用と云えば聞こえはいいが、要するに強力な指導者も指導理念もないまま、あまりに急展開する政治状況に翻弄されて、足が地に着かぬまま、動揺した藩上層部が場当たりの行動を次々と打ち出したと云うのが有り体のところであったのだろう。
 こうして王政復古が果たされ、京都朝廷に勤皇諸藩の代表者が参集することとなり、浅野長勲や辻将曹なども参画したが、その中枢は岩倉具視と薩・長・土・肥の著名な勤皇活動家たちで、広島藩の出る幕はほとんどなかった。
 ただ徳川慶喜を加えた列侯会議による政体確立を強行に主張する土佐藩の山内容堂を説得する役を、岩倉から秘かに仰せ遣ったらしい。薩長と岩倉たちはすでに徳川の武力制圧を準備していた(実際、密勅は出されていたのだから)から、土佐藩の諸勢力統一の政体論は押え込む必要があった。その説得役を広島藩に与えられたのだが、これはかつて征長出兵で幕長間を周旋して回った功績が評価されたためかもしれない。
 しかしこうするうちにも、京都大阪方面は軍事的な緊張が高まって来ていて、薩摩が主力部隊を京都へ、また長州は西宮へと集結して、一方徳川方も戦闘に備えてフランス式陸兵の精鋭部隊を大阪北郊に展開した。広島藩も開戦避け得ずと見たのか、京都に派遣していた「応変隊」を中心とする部隊を増強し、また片岡大記率いる主力部隊を尾道に集結させて一朝事に備えた。「応変隊」とは、広島藩が兵制改革で作り出した農民を主体とする募兵部隊で、この部隊が以後の戊辰戦の戦場を駆け回ることになる。
 十二月九日の京都での政変をきっかけに、徳川軍と薩・長・芸の「官軍」とが全面戦争に突入して、鳥羽・伏見の戦が開始される。土佐、肥前はこの時は参戦することをためらっていたから、官軍として錦籏を翻して戦場に向かったのは、三百諸侯の中であくまでも薩・長・芸三藩兵のみで、広島藩は800名を送り込んだ。もはや軍事的な決戦だけが相克する均衡を破って、次の政治状況を生む契機となるはずで、そうした時点での決断は強力な指導者なくしては不可能であるだろう。 もちろん戦いの帰趨は誰にも予想はつかず、薩・長でさえ敗退した時を想定して、その時には主上を奉って都落ちする段取りまでしていたほどだった。だから朝廷側にとっても、徳川側にとっても、広島藩の動向は軽視すべきものではなかったはずで、除け扱いで密勅を降下されなかったこの譜代の藩がぎりぎりの時点で、もし徳川方に寝返っていれば、戦況が逆転していたことは十分考えられる。 しかしこの千載一遇の好機に、自らの立場を高く売って政治的なイニシャチブを確立するような策謀もせず、素直に言われたまま、はりきって(?)鳥羽・伏見に進軍して行ったのだから、その政治的力量は無きに等しかったと云うべきだろうか。
 しかしそうだとしても、やはりそうした広島藩の微妙な立場に薩・長の参謀たちも疑いを持ったのであろう。対徳川戦の最前線からは外されて、後衛の兵站守備に専ら使われることとなり、一部で戦闘もあったらしいが、西郷隆盛率いる薩摩軍の敵前中央突破の華々しい戦果から比べると何とも淋しい「出陣」ではあった。兵器の貧弱な広島藩の藩兵たちは、徳川軍がフランスのボンベカノン砲を、薩摩軍がアームストロング砲を派手に撃ち合い、歩兵もそれぞれ後装填のライフル銃を装備して戦うのを、感心したように遠望していただけだったのだろう。この藩では兵制改革が遅れ、火縄銃のようなレベルの銃器で出陣したのだった。
 官軍が辛くもこの戦で勝利すると、洞が峠を決め込んでいた諸藩は大挙して薩・長軍につくこととなり、歴史の流れはこの一戦でほぼ確定する。後は江戸開城、東北の佐幕派諸藩の鎮定と云った「残務整理」が続き、新政府内部ではすでに東京遷都や内閣制度、あるいは外交指針などが議題に上っていた。
 翌年一月九日には尾道の片岡の主力軍を長州軍と共に上京させ、同十一日には広島藩に錦籏二旒が下賜されて、藩はこの籏を掲げて備後方面の旧幕領地の追討没収を始めている。同二十六日福山城接収。
 一方官軍として東進した藩兵や諸隊(応変隊、その他の民間志願兵部隊)は関東、北陸、東北を転戦して、総出兵数2272名、戦死者78名、戦傷者118名をもって明治の「御維新」に貢献した。しかし後の明治陸海軍の指導者になった者はいない。鎮定戦が一段落つくと、藩兵も諸隊も御苦労さんでした、とばかりにさっさと国元に送り返された。 広島出身では、後の海軍中将になった林謙三がいるが、彼は早くから藩を去って長崎の海援隊に加わり坂本竜馬の下で航海術を学んでいた男であった。
 明治二年正月、浅野長勲襲封。同二月、他の勤皇諸藩と並んで版籍奉還の建白を奏上。六月十七日長勲、知藩事就任。年寄制を改め政事堂を設けて、王政復古後の新情勢に対処するため藩政改革を図るが、財政再建もままならず、結局不徹底のまま明治四年七月の廃藩置県を迎える。県政の敷かれた後には、薩摩などの他藩出身者が中央から「天下って」来て、権参事、大参事、県令となって権力をふるい、旧藩士の上層部を庁内から駆逐してしまう。
 こうして芸州浅野の広島藩は「藩」としての生命を終えて、歴史の底に消え去るのだが、中立妥協を旨とはしても、少なからぬ役割を幕末の動乱の中で果たしたこの藩の事績もまた閑却されたままのようだ。二度の征長戦では間接的に長州を救う働きをなしたことは間違いない。慶応三年後半の幕末史の最も煮詰まった最終局面では、この日和見的な大藩も薩摩、長州と並んで歴史の最前衛に一躍踊り出ようとしかけたのだが、結局脇役に除かれて、明治以降の政権からもまったく顧みられることはなかった。
 しかし見方を替えれば、この藩の行き方にもまた別の評価が加えられるであろう。常に過激に走ることなく中庸に撤して、対立するどちらの陣営にも決定的に組みすることなく、フリーハンドの外交政策を堅持したことは、必ずしも愚かなことではなかったのかもしれない。
 結果からすれば、薩・長と幕府の力の側でおろおろとその場凌ぎの対処を取っていただけのようだが、全面的に戦火を浴びることは回避されたのだし(実際領地の西部地区はやられたが広島の市中は無傷で保たれた)、勤皇諸藩のように血で血を洗うような思想的なテロリズムが横行することもなかった。水戸藩のように骨肉同士さえが、思想的な熱狂に浮かれて果てしもなく殺し合いをすると云うような悲惨さからは、この藩は免れていたことはたしかだ。藩がただ単に「藩」と云う組織の保身をはかったためだけではあっても、過激な冒険主義によって(薩英戦争や下関事件のような)無関係な民衆が塗炭の苦しみを受けると云うこともなかった。
 そういう意味では、目立ったことをせず、万事に妥協を重ね、周囲にもそのことを説いて回って、結果としては体よく冷遇されただけと云う広島藩の幕末の処世の在り方は、どことなく堅気の老人のそれのようにも感じられる。実際、幕末を彩った多くの「革命家」たちは若かった。長州では松蔭を始め、志半ばにして倒れた者たちはほとんどすべて二十代であったし、長州閥の頭目となった木戸孝允にしても、明治元年にはまだ三十代前半、勤皇最古参の西郷隆盛でさえようやく四十になったばかりで、それらの周囲に蝟集した人間たちはやはり二十代の青年がほとんどだった。
 分別を持った老人と云うものは、若者の抱える熱狂や行動本位の選択に本能的な警戒感を覚えるもので、そのため幕藩体制の根幹には門閥主義とともに、長幼の序列が抜きがたく備わっていた。若者の発想や決断をどこまでも否定し、権威ある年長者(まさに「年寄」と云った)の世間智のみで藩政を運営すること、それは典型的な幕藩体制のやり方で、たしかに平時にはその穏健主義や事勿れ主義はそれなりに役にも立つだろうが、民族の危急存亡の秋にそんな組織から何ほどの人材が現われ出るだろうか。
 長州では幕末の重要な事変に次々と人材を提供し、多くは暗殺や戦闘で落命したのだが、人材は払拭されることなく波状のように湧出して、いわゆる「維新回天の業」を為したのだが、これは明らかに広島藩の体質と異なる点であり、個性的な人材を育む土壌が当時の毛利藩には先見的にあったと考えざるえない。
 そもそも吉田松蔭のような一介の書生(年令から云えばそんなものだ)の「天下の御政道を云々する」ような過激な言動にさえも藩主以下重臣たちが素直に耳を傾け、それを重んじて、可能なかぎり保護したこと、あるいは高杉普作のような一般の役人世界では狂人としか思われぬような(勝手に脱藩したり、上海へふらりと行ってみたり、藩公金を呑み代に蕩尽したり)、破天荒な若者を捨てることなく抱え込んでいたこと、そうした多彩な人材への包容力が毛利藩の幕末での勝利に繋がったのであろう。多様な人間性を認め、異能や奇才を度量豊かに見守ってやると云う、それだけのことに長州の実力の本質があったようにも思われる。そしてこの藩の名は、19世紀中葉のヨーロッパにおいてさえ知られることになる。
 一方、幕末の勤皇思想に多大な影響を与えたと云われる『日本外史』の著者頼山陽が、寛政十二年、遊学のためしばらく脱藩した時に、芸州広島藩は帰って来た彼をただちに座敷牢に幽閉して、さらに廃嫡の上、この二十三才の若き思想家を藩から永久に追放してしまった。

                                         了

        平成2年 作

 

「報恩講」
            

 私の実家は、山陰地方の山間部の浄土真宗本願寺派の寺院である。浄土真宗では報恩講と称して、祖師の忌日に法会を催す慣習で、本山・西本願寺では一月十六日を中心にして行なわれるが、私の地方ではそれより早く、十一月下旬あたりで毎年行なっている。それが数百年も続く、農村の歳時記のひとつである。
 各寺院が持ち回りで、この法要を営み、二日づつ法座を開いて、ご門徒を招き、永年付き合いのある寺院からも法中として、住職、役僧衆に参っていただく。お参りの人には、昼に「お斎」と云って、精進の料理を供する。 お斎とは、その秋に近在で獲れた野菜や里芋などを持ち寄って、質素だが、心のこもった、手作りの料理として皆で会食する、その食膳のことだ。これは、いかにも村落社会らしい、やさしい、うるわしい伝統である。
 朝早くから大釜で炊かれる米も、もちろんこの秋獲れたての新米である。大量に作る新米のご飯は、一粒づつがみなつややかで、おいしく炊き上がる。他の野菜も、蕪、大根、白菜、人参など、どれも丸々と太って、申し分のない出来栄えである。
 その日の朝は早い。有志の婦人衆は割烹着を着けて、朝まだきに集まって来る。晩秋の早朝、朝霧が山深い山村からようやく離れ去ろうとする時分、それは山里の現世がゆっくりと幽界から蘇って来る刻限である。
 雨がちな山陰地方も、この頃は爽やかな晴天の日が多い。また朝夕がめっきり冷え込む時候でもある。その緊密な冷気の中で、まず湯気立つ厨房で煮炊きの仕事が開始するのだ。 こんな時節に報恩講を行なうのは、おそらく古くからの農村の生活リズムに合わせたためであろう。それは秋の収穫を終えて、神社の秋祭で無礼講の大騒ぎをした、その後にやって来るものだ。秋の収穫祭は生命の永続と豊饒を祝う。神社の祭は、素朴な生命讃歌であり、現実肯定の祝祭である。村落の成員たちはこぞって、神楽や相撲や神輿で遊び狂い、ご馳走をたらふく食べる。昔はそんな飽食の贅沢さえ、祭の日に限られたことであったろう。酒もまたそうである。年に幾度かの酒の飲める機会であり、男たちは集まって夜を撤して呑んだと云われる。秋祭が村ごとに次々と開催されて、一巡りし終わったところで、今度は仏事の「祭」がやって来る。
 これは、しかし神社祭と異なって、沈静な気配の中に完結する催し物である。人がいつかは衰えて、死滅して行く運命にあることを前提とするこの宗教らしく、終末と死の側から人生を見つめ直すことが、その行事の秘められた目的であるに違いない。躍動や喜びや笑いの放恣な開放のためではなくて、あくまでも瞑想と教義による静謐な浄化のための日時。それを、寂とした晩秋と云う季節に演出するのが、この地の寺々の報恩講なのだ。
 朝の冷気を払って、秋の清らかな日差しが山間の小さな村落を隈なく照らす頃から、ぼちぼちと参拝者が本堂へ集まって来る。老人がほとんどである。精一杯の盛装した翁や媼が、子や孫の車に乗せられてやって来る。
 住職は午前十時頃に本堂軒下の喚鐘を鳴らして、法要の開始を宣する。七条袈裟に着替えた法中たちは、内陣へ出勤する。御上台の座に華麗な僧衣が居流れて、厳かに勤行が始まる。薄暗い内陣では須弥壇を荘厳する、法要蝋燭の灯がかすかに揺れる。卓には色とりどりの供え物。小一時間の勤行の後には、布教師による法話である。
 それが終わって、お斎をいただくことになるが、庫裏の表座敷二間を通しにして、座り机をコの字に並べて膳を据えても、一回に捌けるのは二、三十人である。四回も五回も回転させないと間に合わない。黒の漆塗り什器は、賄いの婦人衆に運ばれて、座敷と厨房の間を頻繁に往復する。これは、合戦場の忙しさである。
 とまれこうして、斎食を久方ぶりに会う人たちと共によばれることは、老人たちにとっては数少ない社交なのであろう。山陰の典型的な過疎地に残された、幸薄い年寄衆にとっては、何よりの楽しみでもある。
「今年もまた生きて、○○寺の報恩講に参らせてもらいました」どの老人も口癖のようにそう言うが、そこにはやはり多くの実感がこもっているようである。
 午後はまた勤行と法話が繰り返され、四時前には一日の行事は終わる。透明な晴天に、乾いた日の光を発していた秋日は急ぎ足で、西の山辺に降りて行く。あっけないくらい素早い秋の日である。法要の果てた後も、遠近の集落からやって来た老人たちは知り人と語り合い、本堂の縁や廊下に座り込んで、過ぎた日のことをなつかしんで去りがたい。
 また来年の報恩講には来れるだろうか、話相手のこの人は来るだろうか。そんなことを考えている目である。

   平成4年 作