「水滸異伝── 豹子頭・林冲放浪」
西方極楽寺院家(伊藤 節)・創作作品
中国は宋代、徽宗帝の時代、都・東京開封府では朝廷には奸官がはびこり、汚職や派閥抗争が横行して、地方では群盗が山野に割拠して帝権は日増しに衰微しつつあった。世は乱れ、万民は騒乱と苦悩の時代を間近に予感しつつあった。しかしまだ都では表面上大きな事件もなく、依然として平穏な繁栄の日々が続いているかに見えた。
ある日の昼下がり、八十万禁軍(中央親衛軍)の槍棒の指導教官の林冲が、妻と女中を連れて嶽廟に参拝に出掛けたおり、たまたま通りかかった寺院の菜園の中から激しく棒を使う音が聞こえて来たので、妻たちには先にお参りに行かせて、自分は塀の破れ目から菜園を覗き込んだ。
元より根っからの武人であり、武芸をもってしては都の内外に聞こえた男であったので、他人の武芸にも大いに興味を抱いたからであり、それにしぶしぶ妻に付き合わされた参拝なぞは出来れば御免蒙りたかった。
菜園の中では折しも、大男の僧侶が一人、近所の若者たちを前にして腕自慢をしているところであった。その棒の扱いの巧みさもさることながら、やがて棒術を終えて、傍らの鉄製の禅杖を取り上げて頭の上で振り回すのには瞠目させられた。その禅杖は八十斤の重さがあろうかと思われる代物だった。それを軽々と扱って足腰は微動だにしない。
まるで怪物のような力だ、と林冲は秘かに感嘆する。さらに驚いたことには、怪僧は庭隅にある柳の木のところへ寄って行くと、その幹を逆さに抱き抱えて、渾身の力をふり絞って気合いもろともに根こそぎひっこ抜いてしまった。傍らの男が、最近烏がその木の上に巣を作って群れ集まり、夕方にはうるさくてならないと訴えたからだ。
林冲はじっと観察しながら、この怪僧が只の雲水ではなく相当の前科者だとは見抜いたが、同時にその風貌に何とも云えぬ愛敬があり、生一本な性格も容易に見透かされて、いかにも友達にするには頼もしい男だと思った。粗暴で荒々しいが、自分で自分の素直な心をどうすることも出来ないで、世間からは体よく排斥され、常に人からは騙される。己れの心情の剛毅な真正直さによって自分自身が最も苦しめられていると云った男のようだ。まさに好漢を絵に描いたような男。
林冲はおもむろに塀の破れを飛び越えて入って行った。林冲はこの時武官の正装を着けていたので、大男とその取り巻きたちはびっくりして振り返った。
「やい、おめえは何だ。ここは大相国寺の菜園で、俺はここの番僧だ。勝手に入るとは無礼なやつだ」怪僧が怒りだした。
林冲はすばやく拝礼をして、恭しく自己紹介をした。
「私は八十万禁軍の教頭(指導教官)の林冲と申す者。本日は妻の嶽廟参拝に付いて参ったのですが、最前からそこな塀の陰より貴殿の並々ならぬ武術の手並みを拝見しておりまして、まことに感服いたしました。私も一介の武辺者、貴殿のような豪傑とお付き合い願えればこれに過ぎたる幸せはありません」と言葉を尽くして挨拶を送った。
その姿はと云えば、緑色の単衣をゆったりと着て、腰に銀の帯を締め、頭には青紗の頭巾を冠り、白玉の連珠の鬢環を付けて、手には瀟洒な扇子を持っていると云ういでたち。年の頃は三十四五才。八尺のすらりとした長身、小さな豹のような頭。人呼んで「豹子頭」。
とたんに機嫌を直した怪僧は、嬉しそうな笑みを浮べて、自分のことも話しだした。こちらは、破れ法衣を腕まくりして鉄線のごとき胸毛を顕わにし、顔にはぎらぎらとしたような脂っぽい精力を漲らせている。腕も脚も丸太棒のように太い大入道。その精力溢れる態度と云い、しゃべり方と云い、姿は出家でも、とても看経念仏するような人間には見えない。
「俺は関西の魯智深と云う者、あちらで故あって人を殺したため、とりあえず出家して坊主にはなったのですが、生来が暴れん棒ですから、流れ流れてこうして大相国寺の用心棒のようなことをやっておるしだいです。林冲教頭と云えば有名な武術家、拙者こそお近付き願えれば有り難い」
ふたりはたちまち意気投合して、義兄弟の契りを交わした。こうして後に梁山泊にその名を轟かせる豹子頭・林冲と花和尚こと魯智深との出会いがなった。
魯智深は若い者たちに酒と肉を買って来させて、さっそく林冲をもてなした。僧が大椀になみなみと酒を注いで呑み乾し、肉はぶつ切りにしたのをがつがつと食らうのを眺めていると、林冲はおかしくてならない。仔細かまわぬその感情の大らかさに触れると、武官とは云え日頃の役所勤めではついぞ知ることの出来ない、他人への心の開放を覚える。
しばらくすると林冲の家の女中が駆け込んで来て、慌てふためいて注進した。
「たいへんでございます。奥様が廟で変な男たちに囲まれています、早く助けに来てください」
林冲は立ち上がって、魯智深に挨拶して飛び出して行った。菜園の塀を飛び越え、駆け足で嶽廟の前まで行くと、はたして数人の若者が階段のところで妻の行く手を遮っている。どれも狩衣を着けた裕福そうな都の遊び人たちで、中でも真ん中の若者が林冲の妻に向かい合って挑みかかっている。
「さあ、話があるんだ、いっしょに来てもらおう」
「何をおっしゃいます。こんな真っ昼間に人妻に対して無体なことを。人を呼びますよ」妻は怯えて顔を伏せている。
「俺が誰だか知らないのか。この都で俺のすることに邪魔立てする者なんぞおらんよ。人妻だろうと何だろうと、欲しいと思った女は手に入れる流儀さ」
林冲はまわりの若者たちを突き飛ばしながら寄って行き、その男の背後から肩を掴んで怒鳴りつけた。
「おい貴様、人の女房に何をするか」
林冲は鉄拳を振り上げて、若造の顔面に狙いをつけようと振り向かせた瞬間、はっとして拳を止めた。
それから数年後、梁山泊に百八人の英雄豪傑が勢揃いした年の秋、一週間に渡って盛大に道教の祭事を行なった後、忠義堂に全員参集してその席次が申し渡された。
英雄豪傑と一口に言ってもその前歴は様々で、山賊あり、海賊あり、元地主や、梁山泊討伐に来た武官の投降者ありと云った具合で、席次は梁山泊での数年間に渡る合戦での働きの程度を勘案して決められたものだった。呼保義・宋江を頭にして百八人の豪傑がそれぞれの席に着いて忠義堂に居並んだ有様は、まさに壮観としか言いようがない。
豹子頭・林冲は梁山泊、五虎将の一人として、席次は上から六番目に着いた。その処遇に不満はない。自分は一度は死んだ人間なのだ。過去のあの苦しい放浪時代と照らし合わせれば、今、忠と義を尊ぶ豪傑たちのこの仲間に堂々と加わっているだけでも夢のような気がする。
しかしこの山東済州管下の水郷、梁山泊がまだ単なる盗賊の巣窟に過ぎなかった頃から、すでにこの山塞に入っていたのはたしかに自分一人だったと、林冲はゆくりなくも思い返す。
当時は王倫と云う者が盗賊の頭だったが、その頃は凡百の群盗と同じように近隣の村々を襲い、金品や婦女子を掠奪するだけの明け暮れだった。やがて晁天王の一行が山に登って来て、それから自分の運も開けたのだった。あの時こそが、自分にとっても、この梁山泊にとっても運命の別れ目だった。その一か八かの賽を振ったのもたしかに自分だった。しかしそれも今では遠い夢のような思い出になってしまっている。
居並んだすべての豪傑の前に酒や肉の盛大な料理が並べられ、頭領宋江の祝辞の後、歓を極めた大宴が始まった。多くの合戦を通じて意気投合した豪傑同士は、礼節を以てお互いの武勇や才能を褒め讃えながら杯を延々と取り交わす。海のような酒、山ような馳走、心地よい音楽、男たちの豪快な笑い、きらめく金銀の調度や宝石の飾り物、まばゆい錦の美服、果てしもない宴。
ここでは目に冷たい刃を挾み、酷薄な皮肉を飛ばし、隣人を蔑む者など一人もいない。すべてが壮快で満ち足りて、健康な豪気に充たされている。
花和尚・魯智深は十三番目の席に着いて相変わらず豪快にやっている。この男に助けられなかったら、自分は今ごろ滄州への街道沿いの林の中で冷たい白骨を晒していることだったろう。林冲は宴席を見回しながら、いつになく感傷的な心持ちになって思う。
そして自分に関わる有為転変のすべてはあの春の日のうららかな昼下がりから出発したのだと思う。あの日あの男に妻が絡まれなかったら、あるいは始めからあんな嶽廟詣でなどしなければ、自分は今でも東京開封府の、平凡で堅実な武官として、妻や家族と共に幸福に生きているだろう。
しかしそれが本当に幸せであったかどうかは判断はつかない。つけたところで何にもならないが、一面では過去の悲運も現下の孤独な満足も結局は自分の心が秘かに望んで呼び招いた運命のようにも感じられないではない。それにしても妻を失ったことは返すがえすも悔やまれてならない。それさえなければ、勤め人暮らしの煩いのない今の生活がはるかに性に合っている、と彼は信じている。
林冲の心は賑やかな宴を遊離して回想へと飛ぶ
あの日、若造の肩をひっ掴んだまま振り上げた拳を止めて、再び降ろしたのにはわけがあった。当時朝廷内で絶大の権力を握っていたのが高大臣こと高求と云う佞官で、その男に取り入らなければ立身出世は覚束ないと云われていた。俺にとっても上司にあたるその大臣に、俺は甘言を弄して取り入らなかったので、ただでさえ大臣からはよくは思われていなかった。日頃から俺はそんなことが虫酸がさすほど嫌いなたちなのだ。あの日俺が捉まえて打ちのめそうとした若造は、その大臣の甥で、名を高衙内。都で伯父の権勢を嵩にきて傍若無人に振る舞い、好い女と見ると片っ端から手を付けて、女たらしの厄病神と呼ばれていた男。この男を殴れば、高大臣はいよいよ俺を憎むであろう。
取り巻きの連中が恐るおそる寄って来て俺をなだめようとする。
「林教頭、そう本気で怒りなさんな。高衙内殿も酒を呑んだ上でのお戯れ、それに林冲殿の奥方とはつゆ知らずにやったこと。ここはひとつ武人らしくあっさりと水に流して許してあげなさい、それがあなたのためですぞ」
高衙内のやつは肩を捉まれた時には血の気が失せて蒼白になって唇を震わせていたが、相手が伯父の部下と知り、また俺が睨みつけながらも手を出さないことが分かると、またぞろでかい態度に戻って鼻を鳴らしながら馬に乗って去って行った。
しかし奴の横恋慕はそれで終わりはしなかった。奴はまともに俺と張り合う勇気がないものだから、権力を盾にして卑怯な術策を張りめぐらして来たものだった。
奴はまず、八十万禁軍で俺と同僚の陸謙を抱き込んで仲間にしてしまった。陸謙は長年の友人だった。自分が出世したさに、俺を裏切ってあんな卑劣な企みに加担していようとはもちろん夢にも思わなかった。
ある日、陸謙の従者が俺を呼びに来た。料亭でいっしょに酒盛りをしたいので来てくれとのこと。俺は何の疑いも抱かずに出掛けて行った。陸謙といつものように世間話や役所のことなどを語らいながら時を過ごした。俺は小用に立って廊下に出た。するとそこに家の女中がいて、心配そうに俺の出て来るのを待っていた。
「実は、旦那さまがお出かけになってからすぐに見知らぬ男の人がやって来て、奥様に旦那さまが陸謙さまのお宅で気分が悪くなって倒れなさったから至急おいでくださるようにと言って、奥様を大急ぎで連れて行かれました。でも一時待ってもお帰りになりませんので、心配になって探しに出ましたところ、このお店で旦那さまを見かけて変だと思ったんですけど、陸謙さまと盛んにお話になっていますし、はたしてお邪魔をしても好いものかどうかと迷っていて、ここにこうして立っていたのですが 」
俺は女中の言うことなど皆まで聞かず走り出していた。陸謙の家へ駆け付けると、二階の部屋から妻の叫び声が聞こえて来た。俺は階段を三歩で駆け上がり、扉に体当たりをした。鍵が掛けられていたが、蹴破ろうとして何度かぶつかっていると、扉は中から開いた。そこに妻が泣きながら立っていた。
「奴は、高衙内の小僧はどこへ行った」
「今あなたが見えられましたので、慌てて窓から塀を乗り越えて逃げて行きました。私は汚されてはおりません」
窓へ飛んで行ったが、奴の姿はすでになかった。そこで俺は陸謙の部屋の中の家具や調度をめちゃめちゃに叩き壊して、それからいったんは妻を連れて家に戻った。すぐに刀を持って陸謙を斬るためにまず料亭に行ったが、そこにはもういなかった。ふたたび陸謙の家に行って待ち構えたが、その晩はとうとう帰って来なかった。
この時俺の怒りは高衙内に対するのはもちろんのこと、むしろそれ以上に長年の親友であったはずの陸謙に向かっていたのだ。後で分かったのだが、事がばれて、身の危険を感じた陸謙は高大臣の屋敷に逃げ込んでいたのだ。
「畜生、長年兄弟のように付き合って来たのに、高衙内なぞに取り入って俺を裏切りやがった。いつも愛想良さそうに陽気に振る舞っていやがったが、こんなに腹黒い奴だとは思いもしなかった。今度会ったら懲らしめてやる」俺は抜き身の刀を下げて家へ戻ると、一人で毒づいた。
「ひどい目には遭わされましたけれど、結局私は何ともなかったのですから、無茶なことはなさいませんように」と妻は諫める。
俺は何日も役所に出ないで鬱々としていたが、四日目の午後にひょっこり訪ねて来てくれた男が救いになった。魯智深、壮快な偉丈夫。ふたりで街へ出て行って、久しぶりに心の憂を晴らす愉快な酒を呑んだ。まさに、
丈夫の心事親朋あり
談笑酣歌して欝蒸を散ず
その日以来毎日のように魯智深と呑んで回っていたが、ある日ふたりで連れ立って閲武坊の路地を歩いていると、大道のもの売りに行き会った。みすぼらしいかっこうをした男だったが、売り札を付けた一振りの刀を手にして口上を並べ立てる。
「そこな武官殿、これほどの宝刀をみすみす人手に渡しなさるか。一生悔やんでも悔やみきれませんぞ」
俺がその呼び掛けに迂闊にのったのが間違いの元だった。俺は冷やかし半分にその宝刀とやらを手に取ってみて驚嘆した。刀剣については目利のつもりの俺が見て、たしかにそれは並々ならぬ業ものだった。しばらくは言葉も失って往来の真ん中で、宝刀に魅せられたままつっ立っていたほどのていたらくだった。
「いくらで売る」
「三千貫と言いたいが、儂も急ぎの金がいる。二千貫でよかろう」
「たしかにその値打ちはある。これは只の刀ではない。何の謂れがあるのか」
「伝家の宝刀でしてな。しかしなにさまご覧のとおりに落ちぶれて、背に腹は替えられずと云うわけでして。先祖の名はお聞きなさるな」
「一千貫では売らぬか。今俺にはそれしか手持ちがない」俺はつい目の前の宝刀に目が眩んで、自分から落とし穴に入ったのだ。
「その値段では捨てたも同然だが、この刀の値打ちが分かったあなた様に大事にしていただければ、この刀には好運でしょう。よろしいあなたに差し上げよう」
往来で待たせていた魯智深に振り向いて、
「これはまことにすばらしい刀です。私の上司の高大臣の屋敷にも一振りの宝刀があると聞いておりますが、いまだ見せてもらったことがない。今度これを持参して刀比べをしてみたいものだ」俺は好運な買物にすっかりのぼせ上がっていた。
その日魯智深と別れて、刀売りを連れて家に帰り、金を渡して宝刀を手に入れた。一晩中飽きずに眺め明かし、寝る時も枕元に置いて、役所に出勤する時も肌身離さず携えて出掛けた。もちろん同僚たちも目を丸くしてその宝刀に眺め入り、羨ましがること頻りだった。
うわさが広まったのだろう。やがて普段は鼻にも掛けてくれぬ長官の、高大臣から招請の使いが来た。是非刀比べがしてみたいので至急役所の公邸まで持参するようにと云うことで、見たことのない使いの男が案内に立った。
俺は内心得意で、高衙内のことも忘れて、服装を整え、宝刀を錦の袋に入れて携えて、早速使いについて行った。
己れの武術の腕前だけを誇りとして、日頃は役人として出世する必要をさほど認めていなかったとは云っても、しかし武官として役人としてやはり出世して赫々たる地位を手にすることを望まぬはずはなかった。これを機会に高大臣と縁が結べるかもしれない。宝刀が欲しいと言われれば、さんざんもったいをつけてからくれてやればいい。恩に着るにちがいない。普段は俺は賄賂など考えぬ男だが、それでまた俺の新しい道が開けるのなら、それはそれでいい。
武挙(高等武官登用試験)を受けていない俺のような軍官は、有力者の引きでもないかぎり一生下積みの地位に甘んじる他はない。槍棒の業だけは人に優れていても、ついにはそれを生かす道もないままに終わるだろう。しかしこの時俺にもようやく万にひとつの機会が巡って来たと云うことだ。
錦の袋を握り締めて、足は軽く、心は浮き立っていた。高大臣に一目置かれれば高衙内だってもう舐めたまねはせんようになるだろう。未来が急に生き生きとした明るい、楽しげなものに思われて来たとしても、俺があながち馬鹿だったからではないだろう。
高大臣の役宅に着いて、玄関の間で待つつもりで足を止めると、使いの男が手を引くようにして奥へと連れて行く。軽輩の者に対しては異例の扱いだ。少しおかしいとは思ったが、それでもまだ俺は自惚れ心に酔っていた。
高大臣と云えば宰相蔡太師の腹心で、徽宗皇帝のお側近くに侍立する高官中の高官、そのお方が直々に自分を奥の執務室か応接室に通そうとしている。これは尋常なことではないはずだ。
「ずっと奥の方でお待ちかねです。どうぞお進み下さい」
「あなたは見かけたことのない顔ですな」
俺は何気なしに使いの男に声を掛けた。屋敷の中があまりに静まり返って薄気味が悪いので、つい話がしたくなったのだ。しかし男は素っ気なく、自分は最近来た者で、役所の方には出たことがないと言って、それっきり黙って屋敷の廊下を延々と歩き続けた。
同じ役所の敷地内でも大臣の公邸には一歩も足を踏み入れたことのない俺にはすべて知らない部屋ばかりだった。
そしてとうとうある場所に出た。周囲を緑色の欄干で囲った厳粛な気配の堂で、使いはその軒先で待つようにと言って奥へ入って行った。俺は緊張しながら、刀を抱えたままじっと立って待っていた。しかし待てども待てどもいかな何の知らせもないので訝しくなって、辺りをうろうろしながら見回した。
簾の中を覗いて見て、俺は愕然とした。足の立つ地が一気に崩れて、身が宙に浮いた感じとでも言うのか。軒下の額には青い四文字で、
『白虎節堂』と記されている。
それは軍事の最高会議を催す部屋で、高大臣等の高位高官の人間しか絶対に立ち入れない特別な場所。もし立ち入れば、機密漏洩の罪でその場で斬り殺されても文句は言えない。
俺は真っ青になって慌てて引き返そうとしたが、その時こちらにやって来る一団と行き合った。先頭に立つのが高大臣その人だった。武装した側近が二十人近くも背後に控えている。
たちまち大臣は怒声を俺に浴びせた。
「貴様はそこで何をしている。ここがどう云う場所か知らぬはずはあるまい。しかも刀まで携えて、いったい何のつもりだ。さては儂の命を狙ったのだな」
「滅相もございませぬ。私は、閣下がお差し向けになりました使いの者に付いてここに参っただけのこと」
「その使いはどこにいる」
「最前奥へ入ったまままだ出てまいりません」
「痴れ事を言うな。使いごときが奥へ行けるはずはないし、また儂もそんな使いを出した覚えはないわ。この男を取り押さえよ」
二十人の衛兵に寄ってたかって袋叩きにされながら、俺は真っ青な空を仰ぎ見る思いだった。空虚な、あまりに空虚な空を。人の世の憎悪や邪心や悪念が凝り固まって、ついには無碍と変わらぬほどに純化される均一な感情空間。
俺の感情があまりに純朴で単純だったとするなら、それと同じくらい奴らの悪意も磨ぎ澄まされ純化されて、蒼天のごとき透明度を保っていたに違いない。俺はそのぽっかりと開いた、時も空間も越えた、不動の空の蒼さの中に吸い込まれたのだ。足掻いたところでどうにもならない。
金銀財宝を秤にかけて分け合い、日々酒と肉で天下の好漢たちと飲み食い語り合う。官に刃向くことにはなるが、生来の義士たる宋江の指導によって、決して良民を害することなく、近隣の村落を秋毫も侵すことはない。悪徳の奸官や富豪を誅罰して、その財貨を奪うだけのこと。まことに梁山泊は天に替わって道を行なう英傑たちの砦だ。
もちろん戦いは果てしなく続いている。肝脳地に塗れる戦場に寝起きして、修羅の世界を日夜駆け巡ることになる。しかし武人たる林冲にはその艱難辛苦は望むところだ。それあってこそ己れの技量も試される。
豹子頭・林冲、彼は今では天涯孤独。この忠義堂に集まった義兄弟より他には親も子も、妻も兄弟もない。額には流刑人の刺青が押されている。もし官軍に捕まれば、寸刻みの極刑に処せられて、首は街道に晒されるだろう。
しかし皮肉なことだ、と林冲は思う。すべてを失ってみて初めて、自分は戦うべき場所と、その仲間と、孤独な充実とを見いだしている。それと共に、謀反人としてではあっても、天下に武人としての名声は広まって行った。もしあのまま禁軍の教頭のままでいたのなら、のろくさい魯鈍な兵隊たちに槍の持ち方や隊列の組み方を年中教えているだけの、欝陶しい生活が今日も続いているだろう。
林冲はこの梁山泊の幾多の合戦で騎兵の一手の隊長として、万夫不当の武人の活躍をほしいままにした。林冲の輝かしい銀造りの鎧と白色の籏指物が戦場に現われると、それだけで敵の将兵は怖れをなして浮き足立つ。
その槍が馬上で閃く時、たちまちに敵の将は馬の下に血を噴いて落下する。その騎馬は自らの脚のように滑らかに動き、槍は電光のように掠める。白衣、白鎧、白鞍の粛然たる武将。豹子頭・林冲。関勝、秦明、呼延灼、董平の騎馬の猛将たちと並んで五虎将の一角を占める彼。
しかしその彼も、あの空虚な空を一度は覗いたのだ。今、梁山泊の大宴会の頭上にもその空は続いている。
酒と談笑に飽いた豪傑たちは、三々五々、忠義堂を出て散策に向かう。お互い丁重に譲り合って階段を降りて行き、周囲の山道に美しい秋空の下の景観を尋ね歩く。
林冲もひとりになって、酔い冷ましの気ままな散策に出る。風光は山河の粋を集めて雅美を極める。縹眇たる水滸の沼地、秋枯れた山野の風情、高い空の果てしもない静謐。すべては狂おしいほどに輝く秋の一刻だ。そして無際限に静かだ。
明日にもまた新たな官軍との戦闘が起きるかもしれない。その時は首を飛ばされて馬の下に落ちるのは自分かもしれない。それは十分に承知した宿命だ。だからこそこの一時を、かけがえのない千金の値のする瞬間として味わうことが出来る。今この時がすべてだ。
彼の心はふたたび回想へと誘われる。
牢獄へ入れられると、鞭を打たれ全身血痣にされた上、手足に大枷をはめられて身動きもできぬ目にあわせられる。裁判の結果は、棒打ち二十回と北辺の滄州の苦役場への流刑だった。それは流刑の中でも最も苛酷なもので、極寒の辺境への追放はそのままほとんど死刑を受けたに等しい。
無実を訴えたところで、一介の下級将校の言うことと朝廷の高官の言うこととのどちらが信用されるか。考えるまでもないことだった。
重さ七斤の鉄の首枷をはめられ、それに封印が貼られる。額に懲役人の印の刺青を押される。送り状を持った護送役人ふたりに連れられて、流刑人は自らの脚と費用で流刑地までの旅をしなければならない。
何日も何ヵ月も共に旅する護送役人の気持ち次第で無事に目的地まで着けるかどうかが決まる。こうした場合の常で、林冲の家族の者たちも旅の出発に先立って彼らを料亭に連れて行って酒肴をふるまい、銀子を贈る。
宴には親族や近所の人々も集まる。決して楽しい宴会ではない。中でも林冲の妻の嘆きは一方ならず、まさに
花容倒れ臥し、
西苑の芍薬の朱欄に倚るが如きあり
朱唇言無し 、
一に南海の観音の来たって
入定するに似たり
と云う有様だった。泣き崩れてついに気絶してしまったので、近所の女将さんたちが抱き抱えて連れて帰った。葬式よりも辛い宴だった。
俺は立ち上がって、親族や隣近所の人たちに別れの挨拶をして、ふたりの護送役人と共に旅立った。俺は直感的に、もうこの街には戻れないだろうし、この送別をしてくれた人たちにも二度と逢うことはできまいと感じた。
この流刑の旅に企みのあることなどはつゆ知らずに、俺は意気消沈したまま旅立った。折しも真夏の頃で、棒打ち刑の傷は日が立つに連れて化膿して耐え難いまでに痛み出した。足を引きずるようにして懸命に歩いたが、護送役人は激怒した。
「何をしてやがる、滄州の苦役場までは二千里もあるんだ。そんな歩きじゃ一生かかったて着けんぞ。さっさと歩け」そして懲罰棒が情け容赦なしに背中に飛んでくる。
乾ききった黄河沿いの大地の上に灼熱の太陽が照りつける。肩の上の鉄盤の枷は火のように焼けて、それを支える両手さえが焼け爛れそうなほどだった。俺は打たれ罵られながら、半ば死んだ状態でふらふらと泳ぐように歩き続けた。
遠くの田園風景が、その陽炎の中の水牛や農夫たちの点景が、ほとんど夢の世界のようにいつまでも無際限に視界に展開していたのはなぜだろう。白昼の苛烈な光の中に、汗と苦痛と絶望と大地の悠久の営みとが混在して、たしかに俺は夢を見ていたに違いない。
そして首枷のある頭は絶えず上を向いて夏の空を見上げるかっこうになる。俺は空を見ていたのだ。あの空の恐ろしいほど何もない様を。
「畜生め、こいつのおかげでろくに路程も稼げねえ。とんだ厄病神だわい。今夜はあの村に泊まろう。明日は容赦はしねえぞ」
ふたりはぶりぶり不平を言いながら宿屋に入って行った。宿屋では囚人が食事の用意など護送役人たちの身の回りの世話をしなければならない。俺は自分の荷物を降ろすとさっそく菜を買って来て飯を炊き、食膳を整えて彼らの前に差し出す。
あの日変だと思ったのだ。食膳を出すと、やけに優しげな笑みなぞ浮べながら、自分たちの呑んでいる酒の相伴をさせてくれた。あんたも馴れぬ旅でお疲れだろうなどと言い、まあ一杯。たしかに疲労はすでに限界を越えていた。だから一二杯の酒で脆くも酔い潰れてしまったのだ。
彼らが食事を終えると、鍋に湯を汲んできて手足を洗うのを、俺は薄目の端で見ていた。明日またどやされるだろう。それは俺が彼らのためにやってやるべき仕事なのだ。しかし身体は甘い酔いに痺れていかな動かない。やがて彼らはもう一度湯を汲んで来て俺の足元に置いた。
「さあ洗ってやろうな」ひとりが言った。
「とんでもない、自分でやります」
俺は飛び起きようとしたが、別のひとりが俺の体を押し止めて、まあいいさ、やってもらいな、と言う。
足元に湯が注がれた。と、次の瞬間激痛が両足に走った。鍋の中の湯は煮え湯だったのだ。
翌日火傷で真っ赤に腫れあがった足を引きずりながら、首枷を捧げ、荷物を負って俺は旅を続けた。やがて見ると、足の水脹は草鞋に擦れて血塗れになっている。ついに頭がくらくらとしてきて、立ち止まってしまった
「また今日も怠けるつもりか。まったく土性骨の腐りきった野郎だ」懲罰棒が背中といわず頭といわず、雨霰と打ち降ろされる。
「どうかご勘弁を、あなた様のご先祖様のために一生お祈りをいたしますから、お慈悲をたれて下さい」俺は転げ回りながら叫ぶ。
「ふん、貴様は都じゃ八十万禁軍の教頭として随分な羽振りだったんだろう。俺たちはふたりとも兵隊上がりだがな、貴様は大きな面して兵隊どもを小突き回していたにちがいない。その天罰じゃわい。思い知れ!」
俺は痣だらけの身体で、血の流れる足を引きづりながらなおも歩かされて、とある森の中へ入って行った。護送役人たちは大木の根元に荷物を降ろして一休みを取った。
「俺はこんなろくでなしを連れて歩くのに疲れ果てたわい。一眠りさせてもらおう」
するともうひとりが、
「俺も昼寝がしたい。かと云ってこの悪党を放っておくのは心配だ。どうだ貴様、俺たちの機嫌を直すために、頼みを聞いてくれるつもりはないか。そうか、いいか。そいじゃあ、俺たちが寝ている間、そのくそでかい身体をこの樹に縛らせてもらおう。なあにちょっとの間だけさ」
俺は休めるだけでもめっけもの、自分から進んで身体を樹に縛らせた。ふたりはがんじがらめに縛ってしまうと、いきなり刀をひっこ抜いて、目をぎらつかせながら迫って来た。
俺は一瞬で事の成り行きを理解した。縛られてさえいなければ、たとえ枷が付いていてもこんな連中におめおめと殺されることはないのだが、哀れ、これが俺の一生の終わりと覚悟した。
「悪いが、命は頂戴しよう。儂たちを恨むなよ。これもみんな陸謙様が高大臣閣下のご命令と云うことで、儂らに頼まれなすったことだ。儂らのような者に何でそのご命令に逆らえよう。これもすべて天命と思うて諦めてくれ」と言うなり刀を振り上げて襲いかかって来た。
「待たんか!」
とその時、大音声と共に木の陰から墨染の衣の大男がのっそりと出て来た。巨大な禅杖が一振りされて護送役人たちの刀は吹き飛ばされ、さらに役人たちの脳天を叩き潰さんものと打ちかかって行く。俺は慌てて声をかけた。
「魯智深どの、待ってくれ。そのふたりはどうか殺さんでくれ。この連中は高大臣と陸謙の奴らに命じられただけのこと。殺せばあんたにも塁が及ぶ」
鉄杖を押し止めた魯智深は戒刀を抜いて俺の縄を切り外しながら、
「儂はあんたが流刑旅に出る前からずっと見張っておったんだよ。と云うのは、あの親戚衆の見送りの宴があった後で、こいつらが妙な奴と酒場で話し込んでいるのを見たんだ。そのおりに金まで手渡されているのを目撃したもんじゃから、儂はくさいと思うてずっと付いて来ておった。護送役人が仇から頼まれて囚人を始末してしまうと云うことはよくあることだし、昨日宿屋でもふざけたまねをしやがったから、てっきり今日この森の辺りが危ないと踏んで一足先に来て待ち構えていたと云うわけだ。こんな糞役人どもなんぞ一ひねりでやってしまえるが、あんたがそうしないが好いと云うなら生かしておいてやろう」
そして鉄杖を大地にのめり込むほど突き立てて、怯えきっている護送役人に向かって大喝して言うよう、
「やい、腐れ役人ども、義兄弟の取り成しがなけりゃあお前たちなんぞこの鉄杖で泥と肉の固まりにしてやるところだ。二度とこんなことがあってはならんから、儂が道中ずっと付いて行く。その代わりお前たちが儂らの身の回りの世話をやくんだ、いいか、分かったか」
「へい!」ふたりは平伏した。
それから滄州までの旅は魯智深が付いてくれたおかげで無事に遂げることが出来た。俺の荷物も役人たちが持ってくれるし、宿屋でも甲斐甲斐しく世話をしてくれる。と云うのは魯智深が容赦なしに顎の先で扱き使うからだが、護送役人たちも相手が大相国寺の魯智深だと知ると、いよいよ怖れて奴隷のようにかしずく。
滄州の街に着いてから、魯智深とふたりの役人と俺とのよったりで酒場に入って酒と肉を取って酒盛りをした。魯智深はそのまま別れを言って東京に帰って行った。
滄州は荒涼たる北辺の田舎街だが、州の中心だった。その城壁の手前から振り返って地平を見回すとまことに索漠たる荒野。一片の緑もない。しかも街に入ると異民族の男たちが通りを闊歩して、その人相面付きは鉄を噛み、血を滴らせて生き肝を食らうのごとき凶悪なもの。
護送役人は牢城の獄で俺を引渡し、当地の役人から受領書を受け取るとさっさと帰って行った。俺は枷を付けたまま独房に放りこまれた。
独房の中で幾日か待たされていたが、ある日そら恐ろしげな面魂の番卒頭がズカズカとやって来て俺に指を突き付けて怒鳴りだした。
「やい、てめえは都の軍隊で教頭をやっておった林冲だろう。ちったあものの分かった野郎だと思いきや、とんだごくつぶしが飛び込んで来やがったもんだ。いいか、ここじゃあ昔の威勢は毛の先ほども通用しねえんだ。てめえを生かすも殺すも俺たちの好き勝手、どうやらそこいら辺のところが分かっちゃいねえらしい」
俺はすぐに察して皆まで聞かずに懐中から銀粒を五両ほど掴み出して、お追従笑いを浮べながら差し出す。後にも先にも俺がこんなことをするのは初めてのことだ。へたくそな板に付かぬそんな芝居でも、辺境の牢番にはいっこうに気にならぬらしい。気になるのは手に握らされた銀粒のことだけで、それに気づいたとたんに凶悪な面に笑みがこぼれた。
「いやあ林教頭、さすがに名は無駄には伝わらぬもの。大した人物だ。こんなところに流されたのも試練と思われて精進しなさりゃあ、そのうち日の照る時もありましょうてい」と御託を並べながら帰って行ったが、それ以来扱いはうって変わって好くなった。
典獄(監獄所長)にも銀粒十両を贈ったので、太祖武徳皇帝以来の赫々たるご遺制たる、入牢者への殺威棒の百叩きの刑も形式だけで済ませることができた。もしまともにこの挨拶を受けていれば、生きてはいられなかったかもしれない。あの棒は十回受ければそれだけで皮膚は裂け、血はほとばしって、肉は潰れ、骨は砕けると云った体のものだ。地獄の沙汰も金次第とはよくも言ったものだ。
徒刑も楽な事務仕事に回してくれた。牢城では普通囚人は朝から晩まで重労働に、それこそ死ぬほど酷使されて、それでもなお勘弁してもらえぬと云った始末だ。牢獄の中は日も差さず絶えず水漏りがして、百足や蛆虫が這い回る。そこで寝起きして毎日徒刑仕事に追い使われていれば、どんなに丈夫な男でも長生きは出来ぬはずだ。
しかし自分だけは事務の手伝いをやって、気が向けば牢城を出て街をぶらぶら歩くことも出来た。破格の扱いだった。そして奴らの陰謀の手が伸びて来るまでは、少なくとも上辺だけでものんびりとはやれたのだ。
ある日、もう冬の近づく頃だったが、俺が使い走りに街に出ていると通りから料亭についっと入った男の横顔に目が止まった。その男が軍官の服装をしていたからだ。もしこの一瞬の遭遇がなければ、俺は冬の最中に荒野の中でなぶり殺しになっていたはずだ。男は陸謙だった。俺はそっと店の裏口に回ってそこから奴の様子をうかがった。
しばらくすると番卒頭と典獄が入って来て、陸謙の向い側に坐った。陸謙が酒や料理を注文した。三人の話声は聞こえないが、何をしているかはよく見えた。まず陸謙が懐から書面を出してふたりに見せる。読み終わるとふたりは感心して、改めて恭しく挨拶をした。さだめし高大臣からの指示書に違いない。それから辺りをはばかるように顔と額を寄せ合って何事かの相談をささやき合い、さらに陸謙は懐から銀塊を出してふたりに与えた。密談が終わると、三人はそれぞれ酒を酌み交わし、あくどい哄笑を放ちながらひとしきり世間話に興じていた。
密談の内容は察しがついた。俺は街で短刀を買い求めて懐に忍ばせた。数日間、街で陸謙を探し回ったが見つからなかった。六日目に、典獄が俺を前に立たせて言うよう、
「毎日事務仕事の手伝いでは気がくさくさするだろう。どうだ、貴様を軍のまぐさ置場の管理人にしてやろう。あそこなら一人でのんびり出来るし、役得に金を儲けることだって出来る」
典獄が横柄なお為ごかしに言うことの裏に謀のあるのは察していた。しかし俺は素直に勧めに従った。
たえず疑り深そうな表情をしている、この小太りした役人にそもそも人に与えるような好意など薬にするほどもあるだろうか。とことん目下の者を疑い、侮蔑して、長上の者には媚び諂い、万事を自分の得になる方向にのみ処理して来た常識人の権化。保身の真綿に包まれて、ゆったりと大人ぶって落ち着き澄ましている小人。こんな腹きたない小悪党はまるで判で押したみたいに、どんな地方のどんな社会にも偏在して、小心な侮蔑の毒を吐き散らしながら、少し出世しては大いに自己満足して、さらに次の出世にあくせくと心を砕く。
俺は荷物を整理してから番卒頭に伴われて、東門から十五里隔たった人気のない場所にあるまぐさ置場に行った。それは見渡すかぎり四方八方何もないところで、折から今冬最初の雪さえが陰気な暗い空から降って来る。交替する前任の管理人は年寄りの囚人で、冬を前にして城内に還れるとあって喜び勇んでいる。俺たちは簡単に引継ぎを済ませた。
「もし酒が呑みたけりゃあ、ここから東に二三里行ったところに集落があって、酒屋もあるからな」と年寄りは教えてくれた。老人は番卒頭に連れられて帰って行った。
俺は寒々とした小屋の中を見回した。今にも崩れそうな陋屋で、これで華北の厳冬を過ごすのかと思うと気が滅入った。小屋の周囲はまぐさの山にびっしりと囲まれている。それ以外には何もない。ここで一冬か、それともさっきの老人の年になるまでかを過ごすことになる。
火の気のまったくない部屋、隠々と降る雪、運命の苛酷さがついにここで、こんなふうに凝集したもののようだ。壁に錆のついた手槍が架けてあるのを見つけて持ってみる。大した役には立たぬだろうが、野犬を追っ払うくらいには使えるだろう。
それにしても妻を手に入れるために俺を無きものにしようと企んでいる高衙内の一味が、俺をこんなところに追いやってどうするつもりなのか。俺は夕暮になるまで暖炉に当りながらあれこれと心配事を追っていた。陸謙の奴は典獄や番卒頭とどんな悪巧みをめぐらしたのか。考えてもきりがない。気は滅入る一方だった。
わびしい雪の夕暮に気づいて俺は立ち上がった。こんなところにいても飯も食えぬ。銀粒を少しばかり取り出して、笠を被り、手槍の先に瓢箪をぶら下げて小屋を出る。激しい吹雪に逆らいながら、俺は東へ向けて街道を辿って行った。少し行ったところの道端に古ぼけた廟があって、何もない荒野の中ではそれは妙に懐かしいものに思われて、しばらく足を止めて覗き込んだ。埃と蜘蛛の巣だらけの、忘れ去られた社だった。
さらに雪の中を歩いて行くと集落が見えて来た。その吹きっさらしの寒村の中の居酒屋に入った。
「親爺、酒だ。それに牛肉の煮たのがあれば一皿くれ」
「旦那はどちらからお見えで?」
「軍のまぐさ置場だ。今度俺が管理人になった」
亭主はそれっきり黙ったまま立ち働いて、酒を暖めて出し、皿に盛った牛肉を持ってきた。俺も黙々と食いかつ呑んで、それから別に瓢箪に酒を詰め、牛肉を二切れ包ませて銀粒を払って店を出た。ほとんど日は暮れかけて、吹雪は止みそうにない。元来た道を引き返しながら、そぞろもの思いに耽った。
子供がなかったからまだしも助かったのだ。妻は結局高衙内の手に落ちるだろう。流刑に旅立つ時、舅に俺は一応離縁状を渡しておいた。日頃夫婦仲の好いことを知っていた舅の張教頭はその受け取りを断ったが、俺は無理強いして渡して来たのだ。妻の一身は舅が引き取って俺が帰るまで面倒を見るとは言ってくれたが、その俺がどうなるものかもおぼつかぬ。生きては戻れぬかもしれぬ。妻はまだ若いから先々困らぬようにしてやらなければならないと思ったからだ。
この北辺の荒野で人知れず死んでしまうのも、定められた運命なのかもしれない。今この世のすべてが、この荒野の空のように俺を拒んでいやがる。何が俺をこんなにまで追い詰めたのか。たしかに悲運だ、しかしその本当の訳が分からぬ。
圭角が立ち、己れの武術の腕に人並み以上に誇りを持ったことが、知らぬ間に他人どもの恨みを買ったのか。自分だけの秘かな心の矜持が、この世で俺にその棲家を失わせたのか。所詮は孤独な自尊心に過ぎぬものだったのに、まわりの慎ましい人々はなぜ俺を危険に感じて警戒したのか。
俺は男立てを尊んだ。人にも自分にもそれを欲した。狭い人間関係の枠の中では何事も感情を押し隠して、柔和一途に世渡りするに如くはないことは分かっていた。家族共々に無難にやって行くのには、それが必要なことなのだ。男立てをあえて押し出せば、誰かれなしと衝突するはずだった。
世間の人たちと云うものは俺が思っていたよりもはるかに無力で弱い存在に違いない。あるいは俺を忌諱したかったのは高大臣だけではなかったのかもしれない。
この世に満ち足りぬ者の辿り着く果てと云うものがあるとすれば、そらそいつが見えて来た。雪に埋もれた番小屋が。しかし近付いて見て驚く。ぼろ小屋は雪の重みで潰れてしまっている。俺は日が暮れて雪の荒野で行き場を失う。暗がりの雪の中から布団を引っ張り出すのがやっとだった。道の途中に小さな廟堂があったことを思い出した。あそこで一晩を過ごそう。
ふたたびとぼとぼと街道を東に向かう。その破れ堂に着く。黴臭い埃だらけの堂内に入って、蝋燭に燈を点けて、布団を敷く。廟の中には民間信仰の拙い本尊の木彫が蜘蛛の巣を被って傾きかけている。
俺は懐から牛肉を出してそれを肴に瓢箪の酒を呑んだ。そして疲れてうとうとしていると、外でしきりに物が焼けはぜる音がして目が覚めた。飛び起きて出て見るとまぐさ置場がすべて炎に包まれている。凄まじい火炎で、一面が火の海となっている様に為す術もなく呆然と佇んでいると、人がしゃべりながら近付いて来る気配がする。俺は反射的に扉の陰に身を隠した。
三人の男たちが廟の軒下にやって来て、火事の有様を見ながら立ち話をしているのが、すぐ側に聞こえる。
「どうです?これで奴めも一巻の終わりですな。小屋のまわりのまぐさの山に隙間なしに油を注いで火を点けましたから、まず逃げらんでしょう。万に一も逃げたとしても軍のまぐさ置場を焼いたとあれば打ち首間違い無しですわい」
「これもすべて典獄殿と番卒頭殿のお陰です。私も無事お役目を果たすことが出来ました。都に帰りましたら高大臣閣下によしなに伝え、昇進のことも具申いたしましょう」
「まことに恐れ入ります」
三人はそれぞれ満足そうに笑った。陸謙、典獄、番卒頭の三人だった。もし番小屋が潰れていなかったら、今ごろ俺は火の海の中にいただろう。俺は手槍を握りしめた。扉を思いきり蹴って飛び出した。
「動くな!」と言いざま槍を構えて一人の腹を刺した。後の二人はわっと叫んで逃げ出した。その一人の背中を槍が向うへ貫くほど突いた。
さらに一人を追っ掛けて走った。走って逃げるのは陸謙だった。俺は槍を投げ飛ばした。槍は足元に飛んで、陸謙はそれに足をからませて転倒した。走り寄って俺はようやく仇敵の胸ぐらを捉まえることが出来た。
「貴様は俺と幼なじみだったのによくも俺を陥れたな。しかも高衙内と結託して女房を奪い取りやがって。霊になっても呪い殺してやろうと思っていたが、ここで捕まえたは天の助けだ。これでも食らえ」
俺は短刀を陸謙の心臓に刺し込んだ。すると口や鼻や耳からどっと血が溢れ出し地面の雪にこぼれた。それでも俺の憤怒は止まず、陸謙の服を剥ぎ取って、その腹を裂き、内臓をえぐり出して雪の上にぶちまけた。それから首を掻き落とした。
さらに廟の前に戻って、刺し貫かれて息絶えている典獄と、なおも腹を抱えてもがいている番卒頭の首とをそれぞれ斬り落として、三つの首を廟の本尊の前の経机の上に据えた。
瓢箪の酒の残りを呑み乾して鮮血の着いた袖で口を拭った。そして上着を着て、笠を被って、血槍を手挟んで廟を出た。火事の炎の照り返しのおかげであたりは昼のような明るさだった。
地獄、まさに話には聞いたその世界そのものだった。他ならぬ俺の心自身が招いた世界なのだ。もはや何のためらいもなくてそこへ入って行くだろう。小さな自尊心も、どこかの誰かが考えた道徳も法度もすべてかなぐり捨てる時だ。地獄には地獄に合った心と身の処し方があるはずだ。
俺は城都とは反対の方向、すなわち東へ向けて歩き出した。炎から遠ざかると雪明かりだけを頼りに歩いたが、極寒の夜気は骨をも砕くほどだった。見渡すかぎりの雪原を歩き続けていると、向うに草ぶきの農家が見えてきた。寒風の下、濡れそぼった服で凍えきっていたので軒下に立ち寄った。
中には年取った一人の百姓と、それを囲んで若いのが四五人、囲炉裏の火に当っている。俺はしばらく火に当らせて欲しいと頼んだ。百姓たちは顔を見交わしていたが、温厚そうな老人が微笑して席を勧めてくれた。
俺は何もしゃべらず黙ったなりむっつりと火に当っていた。百姓たちもやがて自分たちの話の続きに戻って行った。その話からここが村の米倉で、彼らがその寝ず番をしていることがわかった。
囲炉裏の薪の火影だけをともしびとして、いつ終わるともない村の世間話、ぶつぶつと水底で呟くような声、永遠に凝結したような夜の時間、身体は暖まったが心の沈滞は死のように深く重い。ふと見ると、囲炉裏の側に瓶がありそこから香ばしい酒の匂いがする。百姓たちの会話の途切れたところで俺は声をかけた。
「そこの瓶の酒を少し呑ませてくれんかね。金は持っている」
俺は懐から銀粒を出した。彼らの返事はすぐにはなかった。まるで何も聞こえなかったかのようだ。やがて、
「悪いがね、これは儂らの呑むほどしかないんでな。これから一晩中番をせなけりゃならんので、明け方に身体を暖めるのに要るんじゃよ」老人が断りを言う。
俺は無性に苛々として腹が立ち、なおもしつこく食い下がった。
「いいじゃないか、少しくらい、そんなにあるんだし、只で呑ませろと言うのでもない、少し譲ってくれ」
「悪いがな、これだけでも足りないくらいなんじゃよ、欲しけりゃどこか余所で頼みなされ」
「ほんのちょっとでいいんだ、俺も寒くてならないんだ」
すると若い百姓の一人が怒った目を俺に向けて、
「やい、いい加減にしねえか、人が親切気を出して火に当らせてやりゃあつけ上がりやがって、てめえが牢城の懲役人だってことは先刻承知なんだ。叩き出されねえうちにとっとと出て失せろ」他の百姓たちもじっと俺を睨み付けている。
俺はその怒った目が腹立たしいほど単純で正当なものに思えた。奴の言うことも、その怒りも正しい。しかしその平凡で当然な理屈がなぜかとてもやりきれないものにも感じられた。つまり当たり前の、あまりに当たり前過ぎる「正義」に傲っている若造の面が憎らしくてならなくなって、いきなり火の点いたほだ木を囲炉裏の中から掴むと、その若造の目に向けて投げ付けた。
百姓たちはいっせいに立ち上がって、鋤や鍬を手に取って襲いかかって来た。それより先に俺の槍の柄が彼らを突き飛ばしていた。老人は逃がしてやったが、後の若い百姓たちはさんざんにぶちのめしてから追っ払った。
一人になると、酒を瓶から直に呑んだ。それから手槍を腕に挟んでその家を出た。そこからどこへどう道を辿ったか覚えがない。口当りは良いが強い地酒を一気に呑み乾したために酔いが回ったのだろう。宙を踏むような心地で雪道を歩き、ついに北風のあおりをくらってぶっ倒れてしまった。
野獣のように荒れすさんだ心を慰めるには、人の血を見ることと自らも死ぬほど酔い痴れることとが必要だと云うことを、俺はこの夜知ったのだ。
そうだ、出来ればその晩にでもそのまま酔い潰れて極寒の下で凍え死にしていればよかったのだ。この世ではもはや天にも地にもこの俺を受け入れる余地がないと云うのであれば、俺は酩酊の至福を抱き締めて地獄へなと、どこへなとさっさと逝ってしまえばよかったのだ。
ところが運命とは皮肉な冗談の好きな戯れ者で、せっかく心地よく死ねると思った俺を、殺したいほど俺を憎んだ敵どもがわざわざ死から引きずり戻してくれる。
俺が気がつくと夜は明けかけていた。誰かにめった打ちにされたのだろう、身体中が疼きだした。俺は荒野の雪道のほとりではなく、どこかの立派な田舎屋敷の門楼に縛り付けられているのだった。
「誰だ!俺をこんな目にあわせたのは。何のつもりだ!」
そのおらび声を聞き付けて男どもが走って出て来た。
「この懲役野郎!俺たちの大事な酒を呑みくさって道の途中でぶっ倒れていやがったくせに、まだへらず口をきくか」
拳固の雨が降ってきて、俺は縛られたまま獣のようにうめいた。昨夜の米倉の百姓たちだった。例の年寄りの百姓が割って入って押し止めた。
「もういいだろう。大官人様が見えたら取り調べていただいて役所に突き出すまでだ。おそらくこやつは昨夜、軍のまぐさ置場を焼いて役人衆を三人も殺した懲役人だろう。寸刻みの極刑は免れぬところじゃろうて」
「大官人様が見えたぞ」と呼ばわる声がして、屋敷の中から一群の人々がやって来た。(注:「大官人」とは地方豪族の尊称)
「何事だ、朝っぱらから騒いでいるのは」
手を後手に組んだ、俺と同い年くらいの、人品卑しからざる男が近付いて来て言った。
その人相風采を見るに、細面で小柄だが、いかにも俊敏そうで落ち着きはらっている。口を覆う三筋の髭(顎髭、頬髭、口髭)、澄んだ瞳、頭には花柄模様の頭巾、上着も同じく花柄模様、玉の環をはめた帯を締め、足には金糸で縫い取りした長靴を穿いている。涼やかな貴人だった。
百姓たちは平伏して挨拶する。年寄りの百姓が昨夜からの経緯を語った。
「 して、さんざんに打ちなされた我らはいったんは村に逃げ帰り、仲間を呼び募っててんでに棒をおっ取って引き返して見ましたところすでに賊はなく、幸い雪夜でありましたから、賊の足跡を雪に辿って追い掛けましたところ、道の端で酔い潰れているこやつを発見してかくの如く捕えた次第ではありまする」
大官人とやらは老人の報告を聞いてうなずくと、今度は俺に向かって直接話しかけてきた。
「その方、額の刺青からすれば滄州牢城の苦役場の徒刑人であろうが、なに故わが家の百姓を打擲して酒を盗んだのか。訳があれば聞こう。その前にその方の名を聞こう」
俺は縛られたままだったが、相手の目をひたと見つめて答えた。
「私は東京開封府の八十万禁軍の教頭、林冲と申す者。高大臣こと高求とその甥高衙内の姦計にかかって罪に落とされ、さらに昨夜はその命を受けた典獄や番卒頭と裏切り者の陸謙と云う者に危うく殺されかけて 」と俺は詳らかに事の次第を語った。
驚いたことに、大官人はそれを聞き終わると進み出て自ら俺の縄目を解いて、拝礼をして言うよう、
「拙者は柴進と申す者。人呼んで小旋風。槍術無双の林教頭殿のご高名はかねがね伝え聞いております。このたびはお迎えもせずこのような無礼を仕りましたこと、平にご容赦を」と丁重な挨拶をしてから、俺の手を取って屋敷の奥へと誘った。
改めて見回して見ると、家屋敷は堅牢で手入れも行き届き、家畜も豊富でよく太り、穀物倉も宏壮に見える。柴進は客間へ入ると、何度も進めて俺を客の上座につかせた。主客が卓をはさんで向き合うと、柴進はさっそく下男に酒や料理の用意を命じた。
小旋風・柴進、それは俺が都にいた時幾度かうわさには聞いたことのある名だった。たしか周朝の柴世宗の子孫で、諸国の好漢を好んで招き大いに歓待して、自らも武術をよくし、仁義に篤い大金持ちだと。
「滄州牢城の捕り手のことを案じておられるのでしょうが、その心配は無用です。と云うのは私の先祖の周朝最期の国王、柴世宗が宋の太祖武徳皇帝に位を譲って宋朝が始まった因縁から、この家は代々朝廷からは特別な加護を賜り、官憲もみだりには立ち入れないことになっておるのです。どうか心置きなくおくつろぎください」
「私のような流刑の懲役人にかくも親切にしていただきましたこと、まことに感謝にたえませぬ。天下に雷鳴の如く轟く大官人殿のお名前は前々から聞き及んでおりましたが、はからずも今日こうしてご尊顔を拝謁することが出来まして、この上もない幸せであります」
下男たちがまず酒と前菜を運んで来た。主人手ずから立って来て二三杯酌をしてくれる。それから羊を一匹つぶして丸ごと煮た料理を大皿に持って出してきた。酒宴は日中ぶっ通しで続いた。
宴は世間話に花が咲いて日暮れ近くにもなっていた。柴進は下男に口直しの吸い物を持って来るように命じた。と同時に何やらいわくありげに目くばせをして、洪先生なる者を呼ぶようにと言いつけた。
「実は今、家には武術の師匠として洪先生と云う方に逗留願っておりまして、私も折々に教えていただいておるのですが、その先生をご紹介しましょう。槍棒術に関しては奥義を極めたとか云われる先生です」
吸い物を運んで来る下男の後から、その先生が入って来た。見るからに傲慢な面構えをした男で、意地の悪そうな目付きで俺を一瞥してから、それっきりつんと横を向いてしまった。俺が立ち上がって丁重な拝礼をするのもまったく無視して、さっさと上座の席に坐った。俺もまた席に戻った。
俺はその先生なる男が、この屋敷に雇われた用心棒の類だとは見当がついたが、立場上十分に下手に出ることにした。
「洪先生、紹介しましょう。この方は東京開封府の八十万禁軍の教頭、林冲殿であります。故あってこちらに流されておいでだが、そのご高名は先生もよくご存じでしょう」
柴進がそう言うと、ただちに俺は立ち上がってふたたび拝礼をした。洪先生はそれには目もくれず、柴進に向かって言うよう、
「これはまた、懲役人のお客人ですかな。大官人殿もお人がよろしい。こうした連中は昔はやれ教頭だったの、やれ都督だったのといい加減なでっちあげを言い散らすのが倣い。うかうかと信用めさるな」
俺は黙って聞いていた。今さらどんなに辱められたところで失う沽券もないわけだし、それにこんな底の知れた糞野郎が意気がれば意気がるほど益々こちらは本気で相手にするのが面倒臭くなる。
その男の動作物腰にも武術家とは思えぬ隙だらけのだらしなさが窺われて、とても槍棒術の達人などとは思われない。おそらく田舎剣法を多少かじったくらいの法螺吹きの詐欺漢なのだろう。
「そこまでおっしゃらなくてもよろしいでしょう。この人がまことに東京開封府の八十万禁軍の教頭であったかどうか、それは先生が直にお確かめになられたらどうですかな」柴進は鷹揚に言う。
この時、俺には柴進の胸の内が読めていた。始めから俺が禁軍の教頭であるかないかなどどうでもよかったのだ。若い百姓の四五人を瞬く間に叩きのめした俺の実力のほどを確かめてやろと云う遊び心なのであろうし、あるいは使いものになると見ればこの屋敷で用心棒にでも置く所存なのかもしれぬ。
「確かめろとは、手合せせよとの仰せか。よろしかろう、いつでもこやつと勝負をしましょう。流罪の懲役人の正体を暴いてやりましょう」
柴進はそれを聞くと豪快に笑い飛ばした。
「ではせっかくですから今すぐに勝負をつけていただきましょう。幸い今夜は良い月が出ていて、庭は真昼のように明るい」
洪師範は多少あわてたようだった。
「今、ですか?それはかまわんが、こやつの方は受けますかな」
主人の方は俺の目を真っ向から覗き込んだ。その目には安っぽい疑念も脅迫も逡巡もなく、ただ爽快な同意への男らしい促しがあった。
しかし俺は少なくともこの世で地獄を見た人間ではないか。以前の俺なら、こうした男らしい決意を表明する機会には決して考え事などしなかっただろう。青竹を割るように潔く出所進退を表したはずだ。しかし今は俺は卑怯の力をも駆使出来るはずだ。
俺は俯いて呟くように、ためらいがちに答えた。
「私は辞めておきましょう。師範たる洪先生と手合せするなど蟷螂が馬車に斧を振るようなもの。怖れ多い次第であります」
「まあそう言われずに、先生もやろうとおっしゃっている、私の後学のためにもひとつ技量の一端を見せていただきたい」
洪師範は俺の自信のなさそうなのを見透かして、今度は嵩にかかって勝負を強要する。意気がった強がりを捲くしたてながら席を立って、下男どもを指図して庭に用意をさせる。そしてひと足先に庭に降りて樫の棒を振り回しながら逆上せたように気合いをかけている。俺はわざと元気がなさそうに、その後から庭に出た。屋敷の者たちもぞろぞろと見物に出て来た。
「どうかお手和らかに」と俺は神妙に挨拶をして棒を取った。
柴進が始め、の号令をかけた。美しい月光が雪の消え残った庭を幻想のように照らし出している。まるで自分の今の行動も姿も、自分自身の夢であるかのようだ。青白い透明な光が膜のように洪師範と俺の腕や棒の上に流れている。庭木の梢にもまた冷たい沈黙した光がきらきらと触れている。これが億万光年の彼方の自分の夢だとすれば、今この時の自分とは何なのだろう。
俺はわざと隙の多い構えを見せた。洪師範は気負いに気負って、俺をひと息に叩き潰してくれんものと棒を振り回し、猛々しい棒術の型を次々と誇示した。空々しい虚勢だった。月光の膜を切り裂くような勢いで、奴は思いきっり打ちかかって来た。冷莫たる冬の夜気を切り裂く勢い、その棒を俺は容易く受け止めた。五六合打ち合ってから、俺は負けたと見せ掛けて引き身を取る。脇の甘い隙だらけの姿勢で奴は追いすがるように大上段に振りかぶって来た。俺は身体をかわしてむこう脛狙ってしたたかに打つ。奴はぶっ倒れかけるのを必死で支えてさらに突いて来たが、俺の棒はそれを跳ね上げて腹に思いっきり突きを入れる。と同時に棒の反対側が跳ね返って来て奴のこめかみを砕けよとばかりに横殴りする。打ち飛ばされた大先生は悶絶して、月光の下に長々と横たわった。
ほんのひと呼吸か、ふた呼吸の間の決闘だった。しばしの沈黙の後、屋敷の者たちの歓声が起こり、拍手をしながら近付いて来る柴進があり、洪先生は屋敷の下男たちに戸板に乗せられて去って行く。後には何もない月光の庭。すべては夢の中の出来事のようだった。
それから以後、俺は幾度決闘をしたことだろう。その後の決闘はあんなに容易いものではなかった。得物もぎらぎらと輝く真剣の刃物で、俺は槍を、敵は矛あり青竜刀あり鉄斧あり大鉈あり、はたまた鉄鞭ありと、ありとあらゆる武器と闘い、その刃の死の下を潜って来た。夢だと云えばすべて夢だったかもしれぬ。そして夢の中で首を飛ばされて果てなかったのが自分であったのは、運命のほんの紙一重の差でしかなかった。
柴進はいよいよ俺を歓待して、五六日屋敷に滞在した。洪某は重傷を負ったまま何処へともなく逐電した。
一方滄州城の長官は、まぐさ置場が全焼した上に牢役人がふたりも殺され、さらに朝廷の高大臣から差し使わされた軍官までも死んだとあって、全軍を召集して草の根分けても犯人を探し出すようにと厳命した。村々に公文書を配らせ、辻々には貼り札を出し、賞金三千貫を掛けたと云うことだ。
その追っ手の追及は只ごとではない様子で、それは屋敷の者たちの雰囲気でも何となく知れた。捕り手の役人や兵隊たちがしばしば屋敷にも訪れて、中を改めさせよと門前で押問答しているのも聞こえる。いくら義侠心に篤い大官人でも、赤の他人の極悪人のお尋ね者を匿いきれるものでもないだろう。
「大官人殿、私、お言葉に甘えて長々と逗留させていただきましたが、これ以上ご迷惑をかけるわけにもゆきません。私も武術家の端くれ、最期の身の処し方は知っておるつもりです。取りあえずはここから逃げれるだけ逃げて、遼の国へでも行ってしまおうかとも思っているのです」
俺にはそうとでも言うしかなかった。このまま屋敷の中で肩身の狭い思いをしながら生き腐れるのは本意ではない。
「まあそう思い詰めなさんな。この辺りでは牢城の囚人の脱走などは日常茶飯事、私も及ばずながらそうした好漢たちに幾度か手を貸して来たのです。しかし今回はたしかに追及がいつもの比ではない。当分この騒ぎは続くやも知れぬ。そうなると貴殿もこんなところにいつまでも居籠もっておらねばならぬ。それでは牢獄にいるのと変わらぬことになる」
「大官人殿のご恩は生涯忘れません」
柴進はしばらく考え込むふうだったが、実際はとうの前から俺の扱いの方針は決めてあったのだろう。もちろん場合によっては俺を官憲に突き出すと云うあざとい方策も含めて。
「実は貴殿を匿ってくれる好い場所があるのです。私が紹介の手紙を書きましょう。路銀も用意しましょう。そこへ行けば、あなたにも活躍の機会が生まれると思うのです」
「そのようにしていただければまことにありがたい」俺は率直に喜んだ。「して、それはどこでしょうか?」
林冲は山につながる水辺の遊歩道で足を止めて、頭上を見上げる。青空に向かって張る、丁々とした松の梢の網目が美しい。一度地獄へ落ち込んだ人間がもう一度現世の安寧に立ち戻るには、それなりに手続きが要る。この場所が林冲にとっての復活のための試練の場になったのだ。
今でこそ百八人の豪傑が集い、その家族の住居や数万人の兵士たちの宿舎、水塞、陸塞、さらには諸般の事務を執る「役所」や武器工場や衣食住の製造工場なども揃い、さながら一個の独立国の体をなしているこの場所も、数年前に林冲がやって来た時にはまだほとんど何もなくて、ただ草木が丘陵や水辺をおおい尽くしていたばかりだった。
山東省済州管下の水郷、四方八百余里、名を梁山泊と云い、中心には宛子城と云う城塞があって、当時は三人の盗賊の頭目が砦を構えていた。首領は王倫、その左右に杜遷、宋万のふたりがあって、七八百人の手下を従えて強盗、誘拐を業としていた。大罪を犯した極悪人がこの無法地帯によく逃げ込むことがあったが、守るに地の利が適しているために官憲も容易には入って来れないからだ。
こんな連中と昵懇にしている柴進と云う男はなかなかの癖者で、表向き名家の大地主ではあっても、裏ではお上の喜ばぬ仕事もしていたのだ。決して単純な趣味人でも人間好きでもない。林冲を送り込んでおいて、やがて自分の裏商売(おそらく禁制品の密貿易)がお上の目から遁れられなくなった時には逃げ場として活用する。
そのくらいの計算はつけておく男だ。実際、小旋風・柴進は後に官憲に投獄された時に梁山泊の好漢たちに力づくで助け出され、この山に身を寄せることになる。席次は十番目の英雄として、今の大宴会にも列していたのだ。担当は金銭糧食のことを司る会計出納の役を負っている。
それはもちろん随分と後の話だが、柴進の屋敷で梁山泊のことを聞いた時林冲には、ようやくふっ切れるような思いが出来ていた。元はこれ皇帝直属の近衛軍の軍官として、兵士たちを教育するのを任務とし、場合によっては自らも兵を率いて賊の討伐に向かうこともあった人間が、姦計に引っ掛かって極重悪人に落としめられ、そして運命の流れに流されるがままについに盗賊の仲間になることになった。
かつて都で押しも押されぬ軍官であった頃には、地方の山岳に巣食う無頼の盗賊集団を同じ人間だとは思ったこともなかった。まことにそれは社会の秩序に仇なし、朝廷の権威に謀反を謀る人間以下の禽獣のごとき存在で、これを誅滅することは何の疑いもなく「正義」と信じられた。
その考え方は三十代の半ばになっておいそれと変えられるものではなかったが、今はそれをしなければならない。あるいはそれが唯一自分に残された人生への復帰の道になるかもしれないのだ。
「仰せの通りいたしますので、何とぞよろしくお願いをいたします」林冲は柴進に深々と礼をした。
「それでは滄州街道の出口までお送りしましょう。この道筋では至る所で官憲が取り調べをやっていて、あなたを他国に逃さぬように警戒しておりますが、しかし私に考えがあります。どうか安心してついて来て下さい」
その日柴進は下男に林冲の荷物を先に持ち出させて、滄州の外まで運ばせておいた。屋敷の前庭には二三十頭の馬が引き出され、狩り衣を着けた男たちが弓矢を負い、鷹を据え、猟犬を引いて集合した。勢揃いした家の子朗党たちは馬に打ち跨がり、その中に同じ姿の林冲を紛れ込ませ、柴進を先頭にして一斉に屋敷を打って出た。
一行がしばらく行くと官憲の設けた関所が見えて来た。警備の番卒を率いる責任者が、柴進の一行と認めて自ら対応に出て来た。
「これは柴大官人殿、ご苦労様ですな」
「今日はまたどうしたことですかな、隊長殿、この厳しい警備の陣は」柴進は馬を降りて話をした。
「長官殿から直々のご命令で、先日牢役人らと都から使わされた軍官を殺害してまぐさ置場を焼き払った極悪人の林冲と云う者を見張っておるのです。旅人はいっさい通してはならぬとのご法度が出ておりまする」
「そうですか、実は」と柴進は取ってつけたような真面目な顔つきになって、隊長に耳打ちした。「その林某とやらは、この中におるのですぞ。お分りにならぬとは困りましたな」
隊長はどっと爆笑した。
「大官人殿、まあ冗談はさておいて、本来なら一人たりとも通すことはならぬ定めになっておりますが、長年お付き合いいただいているよしみで、あなたの狩り場への通行は見逃しましょう」
「そうですか、そうしていただければ助かります。獲物がたくさんあれば、帰りにお裾分けしましょう」
そうして挨拶をして一同は関所を越えた。十四五里ほど行くと州境を越えて、先に行かせていた下男に落ち合った。林冲はそこで降りて、狩衣を自分の服に着替えて、荷を負って、腰には刀を差し、手には槍を持ってふたたび旅人のなりに戻ると、改まって柴進に丁重な別れの挨拶をした。
それから柴進の一行は山へ行ってひねもす狩りをして、暮れ方になって帰路についた。関所を通る時には守備隊の隊長たちに獲物を分けてやって屋敷に戻った。
一方、林冲は冬の荒野を凍てつく北風に吹き上げられながら、ひたすら済州をめざした。あの荒野の逃避行を林冲は忘れようにも忘れることは出来ない。梁山泊の豪傑の一員となって以来無数の戦陣に就くことになるのだが、どんな戦場の辛酸もこの時の惨めなさすらいに比肩することはない。彼には本当は最も思い出したくない過去なのだ。
林冲は思い出す。今、目の前の美しい秋の日に隈無く照らされた、葦茂る湖と枯れ林の山野との風景からはまったく想像も出来ない別世界だった、あの厳冬の北辺の荒野は。しかしあの放浪にこそこだわりがある。
そうだ、息も凍りそうな極寒の吹雪の中を、この大陸の地平線の果てから荒野を渡り、名も知らぬ辺境の村々に行き着く。あるいは野宿する。来る日も来る日も雪原に道を求め、道が分かれればその行く先を求めてひたすら踏み迷う。村の辻で馬がいななけば、官憲の騎馬かと思ってはっとする。人の影を見れば捕吏かと驚く。宿場で人々は林冲を窺いながらささやき交わす。堅気の人たちにはたとえ林冲がお尋ね者だと知らなくても、その顔に刻まれた懲役人の刺青が恐ろしい。心も身体も安まる時はなく、しかも生きるあても目的も失っているのだ。
何の理由も訳もないままひたすら前進すること、その先の未来に何の希望も喜びもないままに艱苦に耐え忍んで歩み続けること、家も家族も仕事も安らぎも愛情も優しさも失い尽くして、なおこの天地に彷徨すること、それは野獣の生を自らに引き受けることだ。
その頃から林冲の目には常住消えることのない悲しみの色が宿っていて、それは彼が後に杭州の六和寺で行者・武松に見取られながら病没するまで、どんな猛々しい合戦のおりにも、あるいは豪傑合い和していかに歓楽を尽くすおりにも、ついにその瞳の奥から失われることのなかったものだ。
林冲のみすぼらしい姿は華北の冬の荒野を出て、やがて山東の起伏豊かな湖水や山岳の風景の中に入って行く。ふたたび華中に、黄河の辺に戻って来たのだ。林冲の心身は少し軽くなった。しかしある日、歩き続けていてまたもや吹雪に見舞われ、一面の銀世界に閉じこめられた上、日も暮れかけてきた。見渡すかぎり人気のない荒涼とした湿原地帯で、林冲は一歩々々進むほどに死の世界に入り込んで行くような薄気味の悪さを覚えた。
俺は街道の先を見回して、湖を背にして渓流の辺に一軒の居酒屋があるのを見つけた。俺は急いでその店に入って行った。荷物を降ろし、笠を脱いで、槍と刀を壁に立て掛ける。こんな人里離れた山奥に、しかも雪の降り積もった夕暮に他に客などあろうはずもなかったが、実際店には店の者以外には誰もいなかった。こんな寂しいところで経営が成り立つものかと、他人事ながらふと考えたりしたものだ。給仕が出て来て注文を聞く。
「何か食べさせてくれ。牛肉があれば煮たのを一皿と野菜も頼む。それから酒をとりあえず二角(一升)ほど持って来てくれ」
給仕が運んで来た山盛りの肉や野菜を俺はがつがつと食べ、舛の酒を大碗で掬って呑んだ。味も何もわからず、一心不乱に牛飲馬食。ようやく一心地ついて店の中を見回すと、いつの間にか背の高い男が窓辺に立っていて、手を後手に組んで無関心そうに夜の雪を眺めている。
貂の毛皮の外套を着て、足には鹿皮の長靴をはき、容貌は魁偉、赤髭の三筋の髭が顔を覆い、顴骨が高く飛び出して、側に立っていてくれるだけで不気味な気配が漂って来る。
何やらこちらを窺うふうであったが、それは俺の額のせいで、今さら腹を立てることでもない。世間の奴らとは所詮そんなもので、変わり者にはやけに好奇心を起こすくせに直接近寄って来ようなどとは思わぬものだ。
俺はそんなことにはかまわずに、給仕にどんどんと酒を持って来させた。給仕にも酒を進めて、代わりに梁山泊のことを聞き出そうとした。
「梁山泊はここから数里の距離ですがの、へえじゃが水路だけで陸路はありませんけえのう、何であがんとこに行こう言われるんか知らんが、行ったところで山賊しかおりませんぞい」
「それじゃあ、すまんが舟を手配してもらえぬか、銀子はある」
「この雪にですかい?しかも夜ですわい。明日にしなされや」
「いや、今日是非とも行きたいのだ。それ金ははずむぞ」
「あんたさんはどなたでがんす?梁山泊に何の用でしゃあ?」
ごらんの通りの懲役人だ、と言って誤魔化したがそれっきり俺は話す気もしなくなった。気分が滅入ってならなかったのだ。
今夜のねぐらさえなくて、この店でたらふく呑んで食った後にはまた雪の山道に出なければならない。そして辿り着こうとして努めているのは、人界の果て、人の忌み嫌う山賊の砦なのだ。ほとほと己れの境涯の惨めさに思い至って、不覚の涙さえ零れ落ちた。
その時だったと思う。情が押さえがたく溢れて、そのやり場のない嗟嘆を詩にしたいと思って、矢立てを取り出した。酒の勢いも手伝って、給仕が引っ込んだ隙に店の白壁に黒ぐろと書き付けた。
義に依るは是れ林冲
為人 最も朴忠
江湖に誉望を馳せ
京国に英雄を顕す
身世浮梗(さすらいの身)を悲しみ
功名転蓬(流転)に類す
他年もし志を得ば
威もて泰山の東を鎮めん
筆を置いてまた大碗で酒をやっていると、最前の毛皮の大男が寄って来て俺の前にどかりと坐った。
「あんたかね、滄州でどえらい罪を犯して逃げ回っていると云う、元の禁軍教頭の林冲と云うのは」
「いや違う。俺は張節と云うのだ」と俺はうそぶいた。男は笑った。
「まあいいさ、それよりもあんたはさっき梁山泊に行くと言っていたが、どう云うことかね。あの山賊の棲家に行って何をしようと云うのかね」
「実は都で高大臣に陥れられ、滄州ではその手先と金で買収された牢役人に危うく殺されかけたが逆に殺してしまった。そのために今では三界に身の置き所もないと云った有様で、幸いここに滄州横海郡の小旋風・柴進殿の紹介状を携えている。梁山泊を訪ねて仲間に加えてもらおうと云う所存だ」
恐ろしげな人相の男は猛禽のような目でじっと俺の顔をにらんでいた。小旋風・柴進をどうして知っているのか、と尋問するように聞いてきた。俺は有り体にその経緯を語った。
「そうだったのか。柴進殿は梁山泊の第一の頭目の王倫殿と昵懇の間がら、日頃から何かとお世話にもなっているのだ。その方の推薦とあっては断るわけにもゆくまい。しかし一口に仲間になると云っても容易いことじゃない。まあしかしその話は奥に入ってしようじゃないか。酒も肉もいくらでもある、今夜はここで泊まってくれ」
男に案内されて店の奥の別室に入ってそこで改めて席に着いて向かい合った。俺は坐る前に拝礼をして尋ねた。
「どうやらあなたは梁山泊に関係のある方と見受けましたが、どなた様でありましょう、お名前をお聞かせいただきたい」
「儂は梁山泊の見張り役の朱貴と云う者だ。旱地忽律とあだ名されている。王倫殿の命令でここで居酒屋を営んでいるが、それはうわべだけのこと、実際にはここで獲物の旅人や近在の村々の動静を窺っているのだ。多人数の荷駄の一行が来れば砦に通報してあちらで襲撃してもらう。一人旅の商人などであれば、この店でしびれ薬を盛って始末して、その金品は砦に持って行く。その肉はここでばらして塩漬けにしたり薫製にしたりして店の料理に使う。その脂身は煮て灯油の油を採る、と云った按配で、さっきあんたが大いに食らった肉も実は三日前にやっつけた旅人の赤身の肉をぶつぎりにして油でよく炒めたものじゃったのだよ」
俺は急に胸が悪くなってきて危うく吐きそうになった。旱地忽律はさらに続けて、
「なあに、人肉も馴れれば悪くない味だよ。とりわけ人の肝の吸い物はこの店の名物料理で、酔い醒ましにはあっさりして逸品だ。実はあんたも一人旅の人間だったから、早速料理しようと思っていたんだが、よく見るとなかなか良い面魂をしているのであっさりとばらしてしまうのも惜しい気がしていたところ、梁山泊のことを給仕に尋ねたり、壁に詩を書いたりするから、こいつは只者じゃないとにらんだわけだ。東京禁軍の林冲教頭と知ってりゃあもっと早く奥へ通ってもらうんだった。あんたのような手強い仲間が増えることはありがたいことだが、頭領の王倫はなかなか難しい男で、おいそれとは仲間には入れてくれんだろうて」
給仕が酒や肉をまた山盛りに持って来た。俺はもちろん肉には箸をつける気にならない。それを見ると旱地忽律は大笑いをした。この顴骨の飛び出した赤髭の男が破顔すると、かえってその恐ろしい容貌の凄味が増す。
「心配しなさんな、今度のは正真正銘の牛肉だ。ところでその王倫頭領のことだが、元は科挙を何度も受けていた書生で、いくら受けても通らないものだから、家でぶらぶらしている時に杜遷兄貴と知り合い、それから柴進殿の屋敷にも食客として長いこと身を寄せていたことがあるらしい。それからこの梁山泊に登って砦を構え、宋万と三人で盗賊稼業を始め、いまでは手下も数百人と云うほどになった。杜遷も宋万も根っからの盗賊で強力だけが取り得だが、王倫頭領はなまじ学問がありなさるからなかなかに他人の品定めにはうるさい人だ。いままでにも幾人もの凶状持ちが頼って来たが、頭領のおめがねにかかる者はいなくて皆素気なく追い返されたんじゃよ。あんたは頭領にとっても恩人の柴進殿の紹介状をお持ちだからそんなふうにはならんだろうが、まあ心して行きなされ」
その晩は遅くまで朱貴と酒盛りをして、それから部屋へ案内されて寝た。
部屋に行くため台所を抜けて通る時、さすがの俺も肝を潰してぎょっとしたものだ。微かな灯火に照らされて、台所の天井から人間の手や足が皮を剥がれた姿でたくさんぶら下っている。俎板の上には切りかけのふくらはぎの肉が置かれている。奥座敷で出された肉も本当に牛肉だったのだろうか。
翌朝早くに朱貴が起こしに来た。俺は顔を洗い朝飯をよばれて出発の支度をした。朱貴は小窓を開けて、湖の葦原の方へ短弓で鏑矢を打ち込んだ。すると葦の入江から小舟が音もなく滑り出して来る。朱貴は俺を伴ってそれに乗り込んだ。やがて舟はあるかないかの小さな入江に入って行き、
「ここが梁山泊の玄関口、金沙灘だ」
その岸に上陸すると、俺はしばらく辺りを見回した。まことに聞きしに優る凄まじい場所で、山々は怒濤のように峻しく、岸に沿って絶壁がそそり立ち、気味の悪い巨木がたくさんに茂り、壕の逆茂木は人骨をもって造り、戦鼓の皮は人の皮を剥いでこれにあて、縄は剥ぎ獲った頭髪を使って編んでいる。山水ともに欝勃たる殺気を生じると云った場所で、我々は砦に向かって山道を登った。
大きな関門を三つも過ぎると、当時は集義庁と呼ばれた砦の中心をなす建物があり、その周囲には刀、槍、剣、矛、弓などの武器がびっしりと立て並べられてあった。さらに前庭には投げ石やら丸太が山のように積まれてある。
要塞堅固と云えばそうだろうが、俺にはその備えの大げさな有様から、この砦の主の神経質で過剰な防衛本能の性根をちらっと見たような気がした。
俺と朱貴とは集義庁の中へと入って行った。そこには中央に王倫、左手に杜遷、右手に宋万がそれぞれ床几に腰掛けていた。朱貴が進み出て挨拶をしてから、俺のことを紹介した。次に俺が前に出て丁重な拝礼をしてから自己紹介、そして柴進の書状を渡した。
王倫は一応礼は返したが、気難しそうな顔をしながら書状をざっと見た。それから一通りの挨拶言葉を交わして、手下に命じて饗宴の支度をさせた。
そのあだ名を「白衣秀士」と呼ばれる王倫は薄い顎髭を学者ふうに気取って長く伸ばし、顔も身体も痩せて青白で、やさ女のような顔立ちでもあり、とても山賊の頭目には見えない。その態度様子にも野卑な迫力はなく、目はいかにも疲れ果て自堕落な虚ろさを漂わせ、何事にも面倒くさそうにする。年は俺とそんなに違わぬだろう。
一種神秘的な眼差しをしている、と俺は王倫を一目見て感じた。人を圧伏させるような腕力はない代わりに、この男には相手の心を蕩すような悪の魔力を発揮して従属させる力がある。しかしそれでも俺にはそのあくまでも投げ遣りで駘蕩たる態度物腰はほとんど彼の計算と気取りで無理に演じられているようにも思えた。
杜遷や宋万や朱貴のような田舎者には、そんな芝居でも人智を越えた優雅の抗い難い圧力になることだろう。弱々しい肉体の奥に人智の及ばぬ悪の光源があって、そこから発する強烈な光に山塞の連中は盲ているのだ。奴は悪の冷酷な華麗さとでも云うべきものを演じていたのだ。
宴が始まると、杜遷や宋万はこれはもう野獣の本性そのままにがつがつと呑みかつ食らい続けるが、王倫はものに飽き果てた風情で酒だけちびりちびりと呑んでいた。時おり横柄な態度で俺の方を向いて、何やかやと聞いてくる。そして毒のある言葉で俺を揶揄する。その宴の碗や杯はすべて人の頭蓋骨に漆を塗って作ったものだった。
「ほお、牢役人ふたりと軍官までも殺ったのか。そりゃあ捕まりゃ獄門磔間違いなしだな。俺は科挙の試験に落ちた腹いせにこんな稼業に入った人間だが、未だあんたみたいに悪いことをした男には逢ったことがない。もっとも人間は自分の本当の姿を誰にも理解されないまま、生きて死んで行くものだがな」
俺にとっては何とも苦々しい不味い酒になった。俺はお上の殿堂に来ているわけじゃない。何でこんな山賊の巣にまで来て、止むなく陥った罪のことをあげつらって非難されねばならぬのか。しかし不愉快な思いは噛み殺して、ひたすら頭目王倫のご機嫌取りに気を配った。ここを追放されれば俺はそれこそ完全に行き場を失って万事が窮する。死にもの狂いのご愛想だった。
ここで武者働きを見せて一手の隊長にでもなれれば、都でもしなお妻が舅の家で健在であればそれを呼び寄せて、しばらくの間だけでも昔の幸せが再現できるかもしれない。それだけを心の支柱としてここまで流浪して来たのだ。
それにしても人間がその本当の姿を理解されないと云うのは正しいだろうか。案外他人は自分の本質を見抜いているものではないのか。
宴が果てようとする頃、王倫は手下に白銀五両ほどを盆に載せて持って来させた。立ち上がって改まって言うよう、
「柴大官人殿からあんたのことをいろいろと書いて寄越されたが、何分この砦はご覧の通りのむさくるしいところ。都育ちのあんたにはとてもお気には召しますまい。それに糧食も足りず、住むべき家屋も足りず、何かと不如意なことが多い。それではあんたのような天下の豪傑にはかえって失礼になるやもしれぬ、と考える次第で、あなたのためにももっとマシなところへ行って身を寄せられるがよかろうと思う。路用のたしと言ってはなんだが、これはほんの気持ちほどの餞別のつもりでお納め願いたい」
おいでなすった。王倫の態度を見ればどうせそんなところだろうとは思っていたが、それではいそうですかと引っ込むわけには行かぬ。俺は必死の形相で訴えた。
「三人の頭領方、どうかお聞きください。私はさっきも申した通り、思いもかけぬ姦計に陥れられて極悪人となり、もはや生きる目もないところを柴大官人殿に救っていただき、そのご恩ついでにこの砦を紹介いただいたのです。この上は身を粉にしてもここで立ち働いてお役に立つよう努めますから、どうか末席を与えていただきたい。私には天下広しと云えども知り人はなく、もはや頼って行くべき相手のない身なのです。教養と君徳共に隠れなき王倫親分の元で働けるのでしたら、中原の官兵すべてを敵に回しても闘ってみせましょう。男子一生の誓いとしてそのことをお訴え申し上げます。どうか仲間に加えてください」
俺は生まれて初めて地に這いつくばって頼んだ。泣いて頼んだ。もちろん王倫はそんなことで考えを変えるような柔い玉ではない。しかし案の定、そこで朱貴が口をはさんでまず取り成しに動いた。
「兄貴、余計な差し出口をするようだが、ここで糧食が不足することがあっても、そこらの村々でちょっと荒稼ぎすりゃあ済むことだし、家がなければこの男に自分で建てさせればいい。この男ひとりくらい置いてやっても別に問題はないと思うんだが。むしろ聞き及ぶところじゃあ、こいつは相当の手だれで、棒術にかけちゃあ天下無双と云う話だ。こういう仲間がいてこそ俺たちの商売も安泰じゃあないのかね」
「ふん、用心棒代わりに置いておくと云うことか。しかし使うほうが用心しなけりゃならぬ用心棒と云うのもあるからな」
王倫は鼻先で嘲ら笑って取り合わない。
有り体に云えばむしろ俺が強いと云う噂があるからこそ、この狭量な指導者はいっそう俺を拒むのだ。たしかに俺を煙たそうに見上げるその目の奥には陰気な怯えの色も見え隠れする。次に杜遷が身を乗り出して言った、その凶悪な面の奥からぎらぎら光る眼差しをじっと俺に注ぎながら。
「たしかにこ奴はまだ海のものとも山のものともつかない野郎だが、少なくとも柴大官人の推薦状を持って来た以上、無下に追い返すと云うわけにもゆくまい。なんせあれだけ世話になったお人の口添えだ、少し置いて様子を見ちゃあどうだ」
「しかしなあ、こやつは都でも滄州でもどえらい犯罪を犯したお尋ね者だぞ。そんな奴を匿っているとこっちにまで飛ばっちりが来る怖れがある。それに元は禁軍の軍官だったと云うじゃないか。腹の中で何を考えているのか分かったことじゃない」と王倫。
「自分はこのように刺青者となってもはや親分方を頼る他に行くところもないのです。お疑いくださるな。そのうち必ずあっぱれな働きをして見せましょう」
俺とすればそう言うより他になかったが、実際それは俺の本心だった。機会さえあれば、相手が盗賊であろうと官憲であろうと必ず目覚ましい活躍が出来るはずだ。自信はある。とにかく機会が欲しかった。
「それじゃあ兄貴、こいつにただちに仲間入りの誓願状を出させたらどうだ」杜遷が言った。王倫もその案にしぶしぶ同意した。俺にとってもそんなことはわけのないこと、いくらでも書いてやる。
「それじゃあ紙をお貸し願いたい。おっしゃる通り誓い文を書きましょう」
朱貴が笑って言う。
「いや、そうじゃないんだ。ここで誓願状を出すとは、仲間に入るための証として、山を降りて行って人を誰か叩き斬ってその首を持って帰る、そのことを云うんだよ。そのくらいのことが平気で出来ないことには盗賊にはなれんわな」
「そうでしたか、ご命令とあれば何なりといたしましょう」
「口先だけなら何とでも言える。期限は三日だ。三日の内に誓願状が入れば仲間入りを許そう。入らなければ、さっさと立ち去ってもらうぞ。役立たずを置いておくほどこの砦も暇じゃないんだ」
そう王倫は決めつけるように言い、俺は深く礼をして引き下がった。しかしあてがわれた部屋に引き籠もって考えるうちに思い屈した。覚悟はしていたが、恨みも罪もない赤の他人の旅人を斬り殺してその金品を奪うことは、いざやろうと思っても出来ることではない。それが盗賊稼業の定めだとは知っていても、その場に望んでためらいが出ないとは言い切れぬ。
たしかに俺は武術家だ。人を倒す術はとことん習得したつもりだ。そして実際恨み骨髄に沁みた滄州の牢役人や陸謙たちを殺害したこともある。あの手応えを忘れたわけではない。だが通りがかりの赤の他人を殺すことはまったく別のことだ。
その日一日悶々と悩み、悩んだ末に俺は翌朝早くに身仕度をして金沙灘に降りて行った。その前に頭目たちに挨拶して出たのだが、王倫は物憂げに皮肉な冷笑を返しただけだった。杜遷は手下の者を一人道案内に付けてくれた。舟で向う岸に渡って、街道の通る寂しげな場所で待ち伏せした。
一日待って人っこ一人、その影さえ見なかった。よく考えてみれば、この雪の積もったうら寂しい場所に、しかも盗賊が跋扈すると天下に知られているこの近辺にわざわざ一人でやって来る粋狂な人間はいない。罪もない人間を殺せるかどうかよりも、その前にそんな獲物がそもそも手に入るかどうかの問題の方がはるかに重要だと気づいて、ともかくその日は日暮れてから砦に戻って来た。
「誓願状はどうだった?手に入ったかね」
王倫が冷やかすような口調で聞いて来た。俺は力なく首を振った。
「後二日、二日目には出て行ってもらうよ」
俺はあまりに安請け合いしたことに臍を噛む思いだった。王倫の奴は始めから不可能なことを知っていて請け負わせたのだ。道案内の手下も言っていたではないか、こんな季節には鼠一匹見つけられるものじゃないと。
翌日も朝早くから槍と刀を下げて出かけて行った。手下の者が、今日は南の街道に行ってみましょうと言った。冬の晴れ間で一面の雪景色がまばゆいほどに輝き、そのきらめく処女雪を一歩々々踏んで南の林に行った。
昼前に遠くから馬のいななきや人が大勢呼び交わす声がした。荷駄の隊列が来かかったのだが、その一行には数百人の人が付き従い、それぞれに武器を身に帯びている。とても俺ひとりで襲える相手ではない。無念を抱きながら遣り過ごした。
それっきり雪野原からは人影はまったく湧いて来ない。澄んだ太陽だけがゆっくりと西に落ちて行った。俺はまた空しく手ぶらで梁山泊に帰って来た。王倫が目に嘲りを浮べて、昨日と同じことを聞いて来た。
「どうだったね?首のひとつくらい二日待って獲れぬようでは、あんたの凶状も虚仮威しなんだな。明日駄目だったらもうここへ帰ってもらっては困る。そのままどこへなりと立ち去ってもらおう」
俺は返事をする気力もなくて黙ってうつむいたまま部屋に引き籠もった。
出るは溜め息ばかり、今さら嘆いても同じ繰り言に過ぎないが、天からも地からも入れられず、流浪した果てにこの無法者たちの一団からさえ拒まれる。いったい俺の何が悪いのだ?俺が生きていることそのものが間違っていると云うのか。自分で自分の首を掻き落とそうかとさえ考えた。しかしまだ約束の一日があると思い直してそのまま寝た。
翌日も朝早くに手下の者と出かけた。今日は東の道を当ってみましょうと言うので、案内される方へ行ってまた苛々しながら待ち伏せた。この日は朝から雪が降った。その雪も昼には止んだ。日差しが照って来た。しかし昼になっても人っこ一人通らない。
俺は手下に呟いた。
「もういくら待っても同じことだ。見込みはない。日の暮れぬうちに荷物を持ってどこかへ行くとしよう。こんなことなら王倫頭領が最初に差し出してくれた銀五両をもらっておけばよかった。もう手持ちの路銀も残り少ないでな」
その時、手下の男が指差して叫んだ。
「しめた、ひとりやって来ましたぜ」
俺は取り上げかけた荷物を放り出して槍の柄を握り締めた。たしかに街道の坂をこちらへ歩き登って来る百姓ふうの男がひとり、しかも重そうな旅荷を背負っている。
俺は樹の陰に身を隠して、男が出来るだけ近付くのを待った。しかしいかな待っても男の姿は目の前に現われない。焦りと不安でやもたてもいられなくなって来た。ついに辛抱しきれずに俺は道に飛び出した。それがまずかった。男との距離はまだ相当にあったのだ。
突然前方に槍を構えた俺が現われ出たものだから、男はあっと叫んで身をひるがえし、来た道を一目散に逃げて行った。追っては見たが、道は雪が積って思うように走れない。結局俺はせっかくの獲物をみすみす逃してしまったのだ。男は荷物を投げ出して行っていた。手下がそれらを担ぎ上げて、
「旦那、首は獲れなかったがこうして金目の荷物は手に入ったですぜ。こいつを持って梁山泊に帰れないと云うことはないでしょう」
「おまえ、それを持って先に砦に帰ってくれ。この調子だとまだ獲物がやって来るかもしれぬ。俺はもう少し待ち伏せしていよう」
この時の俺からはもはや罪のない人間を殺すことのためらいだとか、人間的な道義心などとかはきれいに消し飛んでいた。単に獲物を狩る狩人の、冷静な計算しか頭にも身体にもなかったのだ。手下を先に梁山泊に帰して、俺は身体中の血をたぎらせながら次の獲物を待ち続けた。
すると坂の下から雪を蹴立てながらひとりの大男が走ってやって来る。抜き身の刀をひっ下げて、寒気をつんざくような怒声を上げながら、猛然と坂を上がって来る。俺も槍を構えて樹陰から踊り出た。
「この死にぞこないの盗人めが、荷物を素直に返すならよし、返さぬとならこの刀でぶった斬りにしてくれる」
林冲はなお忠義堂内でなおも響く豪傑たちの歓楽のどよめきを耳にしながら、散策の足を止めて中腹の断金亭と云う四阿に寄って休んだ。心地よい微風に吹かれてつくづく思うのは梁山泊の変わりようだった。
王倫の時代には、この悪魔主義気取りのすね者の趣味で城内には至るところ白骨が露呈して殺伐とした雰囲気だったし、手下どもも絶えず王倫に怯えてむしろ必要以上の残虐さを誇示しているようなところがあった。世間一般の素朴な倫理感や道徳さえこけにすると共に、刹那の唯美的な享楽と破壊に陶酔することを教条として、想像し得るかぎりの悪と背徳を称賛していた魔窟だった。
人間がどこまで悪に撤することが出来るかを確かめるための、他愛もない実験場だった。
それが晁天王の代から、さらに宋江の代へと進むにつれ、この砦は真に仁義を重んじる好漢たちの依るところとなり、掠奪の対象も悪徳の役人や豪商だけに限定して、必要以上を奪った時は虐げられた庶民にも分け与える。良民を害することは決してなく、婦女子に戯れる者などひとりもなく、梁山泊の軍が行くところ秋毫も犯すことはない。おどろおどろしかった集義庁は改築されて忠義堂と変えられ、周囲の様子も清潔に簡素に整えられ、砦の武備と鍛練は以前に増して熱心に行なわれるようになった。
杜遷も宋万も朱貴も盗賊ではあったが、これもまた根は素朴な好漢であったから、本当は王倫の悪趣味には辟易していたのだろう。しかし彼らには文字を読み書きする学問さえなかったのだから、王倫のやり方を批判するだけの知力が足りずに不請不請に付き従っていただけなのだ。彼らにしてもあのまま約束の三日目に林冲を追放していたのなら、この山塞のけちな山賊として終わっていただろう。結果的には彼らも新しい力としての林冲の参入に期待し、背面から支持したのだ。
今、亭で休む林冲のところに親しそうに近づく好漢がある。林冲は眩しそうに目を細めてその男を迎えた。青面獣・楊志、顔に大きく痣のある元の殿司制使(近衛軍武官)で、この男もまた都で高大臣に煮え湯を飲まされたクチだ。
「貴殿とあの冬の日にやった剣戟は忘れられんよ。拙者が先に行かせていた荷担ぎ人足が追剥ぎに襲われて逃げ戻って来た時、拙者は怒りを爆発させておっとり刀で駆け付けたものだ。あの時道に立っていた貴殿は槍を構えてまことに悲壮な顔をしておられた。とても只の盗人ふぜいとは思えなかったが、とにかく拙者は逸りに逸って問答もなしに貴殿と斬り結んだものだった。三十数号斬り合ってなお勝負は決せず、さらに十数号火花を散らし合った。いよいよどちらかが倒れると云う時になって丘の上から、王倫の止めの声がかかった。王倫と杜遷、宋万たちは砦を出て丘の上に陣取って一部始終を見物していたのだが、あの時王倫が止めてくれなければ我々のどちらかは今日のこの晴れの集まりにはいなかったであろうよ。拙者は王倫と云う男をよくは知らぬが、恩人であることはたしかなようだ」
「いや、楊志殿、それは誤解だ。あやつが止めたのはそれなりの企みがあってのこと。決して我々の武芸を惜しんだためではない。当時梁山泊には人殺しや強盗はうようよいたが、本当の意味での武人はひとりもいなかった。そうした者がいれば他と闘う時には役には立つが、一方で頭目のひとりとしてのさばられても困る。特に王倫の奴は文弱の徒であったから、自分ではいざと云う時に何の武器も扱えない。始め、私が梁山泊に加わるのを断ったのもそのためだ。そこへあなたと云う手強い男がやって来た。失礼だが、奴が荷物を改めて見るとあなたも浪人中の壮漢であることが分かった。そこであなたと私をふたりとも仲間入りさせることでふたりを牽制させ合って、自分の地位は安泰させ、方々合戦の時には我々を手駒としてうまく利用しようと云う魂胆だったのです。奴らしい小賢しい策略で、もっともあなたがはっきりとあの時点での参加を断られたから、奴の策謀は画餅に帰し、私ひとりを加入させたことでその心配の方は見事的中したのだったが」
「そう云う腹黒い男だったのですか。たしかにあの当時はこの辺りのことは誰も良くは言わなかった。誰もが口を揃えて、梁山泊の非道で残虐な山賊のことを怖れ罵っておった。拙者はあの日は王倫の一行に丁重に砦に案内され、あろうことか貴殿よりも上座にまで据えられて、呑めや食えやの大宴会を振る舞ってもらった。なんでそこまで歓待されるのか内心では訝しかったが、その間幾度もしつこく仲間入りを勧められた。その誘いは都に用があると言って断った。実際都に行く道すがらだったし、あれからすぐに都に行ったのでした」
「あなたがあの時梁山泊を降りたことから、多くの好漢がここに集まることとなり、また王倫を倒してここが立派に再生するきっかけにもなった」
「いやあ、そのような大役は演じてはおらぬ。拙者はあの頃、軍官としての任務に失態があって職を免ぜられて放浪中の身だった。そこでほとぼりの冷めたあの頃に都に上って、朝廷や役所の諸々に働きかけをして官位への復活を画策するつもりだった。ところが頼みに行った高求こと高大臣はけんもほろろに門前払いして、いくら尋ねて行っても取りつく島もない有様。そうこうする内に金も尽きて来たので、伝家の宝刀を街に売りに出て、その時に街角で牛二と云うごろつきに因縁を付けられたことから喧嘩となって、この者を斬り殺してしまった。早速投獄され、首枷をはめられ牢獄で裁判の沙汰を待ち、裁判の結果は刺青を入れられて北京大名府への流罪と決まった」
「私の刺青もあなたのそれも共に高求の仇によって受けたもの。高求こそは君側の姦賊の最たるもの。さらにその上に蔡京太師(宰相)があって、これを頂点とする一派こそ今の世を冒す最大の病巣と云える」林冲は苦々しい思いを吐き出すように言う。
梁山泊の当面の敵は悪徳地主や地方官僚たちであり、彼らが執拗に送り込んで来る「官軍」であったが、その敵の背後には都の朝廷に権勢を張る高大臣の策謀があって、さらにその後には最大の姦物、蔡京太師の陰湿な権力が見え隠れするのだ。蔡京太師とその腹心、高大臣とは梁山泊の豪傑全員にとって不倶戴天の仇敵と云える。
「拙者の場合はまだ恵まれておった。北京ではたまたまそこの長官、梁中書に見いだされて、懲役人の身分ながら彼の用心棒に使われることとなり、やがては軍官の地位に復職させてやろうと云う話にまでなった」
「たしか梁中書の妻君は蔡京太師の娘で、つまりあの文官は太師の女婿であって、そのためあの年で徳も才能もないのに中華第二の都市の長官にまで出世していたのでしたな」
「左様。そこで梁中書はあの年蔡京太師の誕生祝いとして十万貫の贈り物を整えて、それを東京の都に送ることにした。その十万貫の費えは皆、長官の地位を利用して弱い者たちから掠め取ったり、賄賂として手に入れたりした財宝だったのです。しかしそれだけの金銀財宝を都まで無事に送るとなるととても生易しいことじゃない。その護送隊長として拙者に白羽の矢が当った。責任と苦労ばかりが多い大変な任務ですが、何せ懲役人から元の軍官の地位に戻してもらえると云うつもりがあるから、拙者はあえて引き受けた次第です」
「あなたは大勢の荷駄隊を組むことをせず、あえて少数精鋭の人数で、荷物も人が背に担ぐようにして、目立たず、かつ速攻でことを仕遂げようとされたのでしたな。それは懸命な策ではありました。もし我らの軍師、呉学究殿の諸葛孔明にも優る知略がなかったならば十分に成功しておったことでしょう」
「あれはまことに暑い真夏の盛りの頃で、拙者たち護送隊の一行は朝夕の少しでも涼しい間だけ歩き日中は木陰で休むようにして旅を続けたのですが、ここに梁中書の老執事がふたりも監視役に付き添っていて、おそらく拙者だけでは信用ならぬと云う配慮からでしょうが、このふたりの年寄りが何かと拙者のやり方にたてをつく。しまいには拙者のやることの一々に反対すると云うふうで、拙者も業腹でならなかったが自分を押さえて我慢し通したのでした」
「宮中や高官の屋敷に巣食っているあの連中は、文章の形式や礼儀作法のことばかりに小うるさく容喙するくせに、いったん戸外に出れば何も知らない、何も出来ないと云った馬鹿者どもです。そのくせ我々武官を見下して鼻先であしらい、わけもなく威張り散らす。そんな連中ふたりも連れての旅はさぞや骨折りであったでしょう」
「護送旅に出て十四五日目、黄泥岡と云うある山道に入って行った時にあの見事な計略に引っ掛かったわけです。その日も猛暑が天と地を覆って、拙者たちはさすがに顎を出しておった。部下たちも執事たちもしきりに休息を欲したが、拙者は許さなかった。と云うのはその山に只ならぬ気配を感じたし、長年の戦闘の勘でここが危ないと見たからです。それでも丘の上の草場で小休止を取ったが、いったん腰を降ろすともういかな動けない。拙者は鞭で兵隊たちをひっ叩きながら起して回ったが駄目だった。老執事たちも何のかのと屁理屈を捏ねて、だらしなくへたり込んだまま動こうとしない。その時拙者は林の中に人影を見て緊張した」
「それが七台の手押し車に棗を積んだ旅商人の七人だったと云うわけですな。それから例の酒売りの百姓が天秤棒に桶担いで登場して来ると云う段取りですな」
林冲はすでに好漢たちの酒の肴として幾度も語り返された話を思い出しながら、口を挿んだ。
「拙者は始めからおかしいとは思っていたんだ。暑くて、喉をからからに乾かしているところへ、計ったように冷たい地酒のうまそうなのを二桶も持ってやって来る。それがそもそもおかしいと睨むべきなのだ。兵隊たちはもう矢も楯もたまらずに酒売りのところに寄って行って値段の交渉を始めている。拙者はそこへ行って鞭の柄で兵隊どもを殴り付けやったが、今度は老執事たちが酒を買う方に加勢する。するうちに、林の中で休んでいた棗売りの旅商人たちが出て来て酒を買った。まず一桶を買って、さもうまそうに碗で回し呑みをする。結局七人で全部呑み乾してしまい、もう一桶も買おうとする気配を示した。さらに百姓はこちらにはもう売らぬと云う態度だ」
「まことに手の込んだ策略でしたな。酒に毒が盛ってないと証して見せると共に、買い意欲を掻き立てて焦らせると云う高等戦略。結局あなた方は残りの一桶を買って呑んでしまうことになる。そしてものの一時もせぬ間に全員が草の上にのびてしまい、後では旅商人に扮していた晁天王や呉学究殿たちが悠々と十万貫の金銀財宝を手押し車に積み替えて去って行った。まことにお見事としか言いようがない」
「酒に入れられていたのは毒ではなくて只のしびれ薬だったから、まさに一滴の血も流さぬままに、知略のみで十万貫をまんまと奪い取った手並みには拙者も感服しましたな。拙者は用心してあまり多くを呑まなかったから回復するのも一番早くて、起き上がるとそのまま拙者もまた兵隊や執事たちを置き去りにして歩き去った。今さらおめおめと梁中書の元に帰るわけにも行かない。それからまた拙者のあてのない放浪が始まった。予想はされたことだが、執事たち一行は北京に帰り着くと早速梁中書に報告して、この財宝強奪には拙者が手引きをしてなされたものと嘘八百の讒言をして拙者を罪に陥れた。いずれにしろ拙者は額に刺青持つ凶状者、そんな男の言うことなど犬猫でさえ信用するはずはない。全国に手配状が回り、行くべき場所もなくなった。進退極まって盗賊になろうと思っていたところ、人から済州の二竜山の山賊を退治してこれに替わって山塞を支配してはどうかと進められた」
「それを進めたのが、かつて私が都で教頭をしておった時の槍術の弟子、曹正だったとは奇縁でした。しかも奇縁はそれだけではないのですね」
「そうです。拙者がその盗賊の巣の二竜山を下見するために山を上がって行く途中、林の中の松の根元に大きな坊主が腰掛けて両肌脱いで涼んでいるのに出会った。この男、その背中には大きな花模様の刺青があって只の出家者には見えなかった。坊主もこっちを窺っていたが、いきなり怒鳴りつけて言うよう、
『やい糞野郎、性懲りもなくまたこの禅杖でぶちのめされたいか』
言いざま、その八十斤の禅杖を振り回して襲いかかって来る。拙者も刀を抜いて大立ち回りを演ずること五六十合。ついに勝負がつかぬままお互いに得物を引いて名乗り合うこととなって、それがかの有名な大相国寺の花和尚こと魯智深であることが知れた」
「かの和尚、私を滄州で救ってくれたおかげで、都に帰ると相国寺には高大臣から手が回っていて追放されたと云うことを風の便りに聞いておりました」
「しかしあの和尚、只で追放されるような玉じゃない。その前に自ら菜園と番小屋に火を放ってさっさとずらかってしまった。それはさて置き、お互い名乗り合ってその経緯をただし合ったところ同じ思いで山に登って来たことが分かって意気投合。早速曹正の家に戻って三人で酒を酌み交わして、山塞攻略の相談を行なった。そして次の日三人で変装して出かけて行き、まんまと砦に入り込んで頭目の登竜なる男の側に近付き、花和尚があっと云う間の早業でその頭蓋を木っ端微塵に叩き潰してしまったのです。こうして我々は二竜山で山賊の頭目となって、やがて梁山泊の宋江兄貴の義による懇ろなお誘いに従ってこちらに参ずるまで、かの地で盗賊の真似事をやっておった次第です」
林冲と楊志は語り疲れてしばらく風の音に耳を澄ませた。湖水を渡る風はどこまでも心地よく、秋のうららかな日差しはそれを浴びているだけで心身共に洗い清められるようだ。
ふたりはその前歴も都の武官であったし、同じように高大臣に陥れられて流罪の身となり、生きる意味も失って放浪を続けた果てに、もう一度己れの武術の腕前でこの世に挑戦してみようと発起して盗賊になった。その遍歴の様も似ているためか、梁山泊の百八人の豪傑の中でもお互いを最も気心の知れた間柄と感じてとりわけ親しく付き合っていた。戦陣でもこのふたりは馬の轡を並べて共に相助けながら闘うことが多かった。
後に南方戦線で丹徒県にて楊志が死亡したのを聞いて、その半年後林冲もまた杭州の六和寺で病いに倒れたまま息を引き取ってしまう。しかしそれはまだはるかに後の話だ。
今ふたりの好漢はゆったりと寛いで、亭に腰掛けて過ぎた日の昔を思い返している。お互い永い流浪の果てにここへ辿り着いたと云う思いが強い。もちろんこの現在もまたひとつの流浪の形なのだろうが、今は少なくとも心は秋晴れの湖水のように凪いでいる。
こんな時がまたいつ訪れることか。すでに林冲は四十歳を越えている。まだ名にし負う武術に衰えは見えないながらも、それを保持できるのも後わずかの時間であるだろう。闘い続ける者はいつかは戦の野辺で果てるのが宿命。自らの老いを知った時が首落ちる時だ。それがよく分かっている男だけに、林冲はどんな勝利の歓楽のさなかにも、また物憂い休息の一時にも一抹の悲哀を覚えないではいられない。
同じ思いに捉われていたのか、楊志もまた深く沈痛な溜め息を吐きながら立ち上がり、それじゃと言って忠義堂の方へ上がって行った。林冲をひとりにしてやろうと云う心使いなのだろう。林冲はその後姿を見送りながら、梁山泊にとってもまた自分にとっても決定的な分岐点となった事件のことを思い出している。
楊志と渡り合った冬の日以来、あの三日の期限の試練に合格したのかどうか分からぬまま、なしくずしに俺は居座ることになった。
王倫はそのことは黙認したが、その代わりこの山賊の荒稼ぎの出陣では俺は常に先陣を申し渡され、官軍の指揮官たちといつでも一騎打ちをやらされた。敵が二三騎でかかって来ても後に控えた盗賊の頭目たちの誰も手助けに出てはくれない。俺ひとりでいつでも命を的にして闘い、己れの活路を己れひとりで切り開いて来た。幸い俺が決闘したのはどれも済州近辺の田舎武官ばかりで、やたらに馬上で大言壮語するばかりのからきし実力のない連中ばかりだったから、俺の方が首を飛ばされて地に転がり落ちるような体たらくとはならなかった。
しかしどんなに俺が官軍の一隊を追っ払っても、その後のおぞましい掠奪と暴行の大騒ぎでは俺の出る幕などいっさいなかった。俺にはあの目の前で展開される地獄絵図には心底から吐き気がしたが、致し方なく手を拱いているより他にはなかったのだ。
襲われた罪もない集落は、王倫以下の山賊の暴虐のなすがままになって、虎に食い殺される鹿のように無力に潰え去って行ったものだ。家々のすべてを燃やし尽くす炎、人々の阿鼻叫喚、そこらじゅうに転がった死体や首、そして王倫の狂った笑い声。
そんな不如意な忌ま忌ましい日々が続いて、季節が秋に近くなった頃ついに転機が訪れた。北京東京間の黄泥岡で楊志の護送隊を眠らせてまんまと梁中書の金銀財宝をせしめた盗賊の一団が全員、官憲の手を逃れるために梁山泊に上がって来たのだ。
その一の頭領は晁天王、これは元任侠好きの済州東渓村の地主だった男。近辺の好漢たちを呼び集めて今回の強奪作戦の首謀者となった。その参謀と云うべき呉学究、これは田舎学者で私塾を開いていたが、世間を避けて万巻の書を読み日夜策略を練ることを楽しみとする男、言ってみれば世をすねた隠遁学者だ。その他漁師あがりの元小二、元小五、元小七の三兄弟。入雲竜・公孫勝、赤髪鬼・劉唐などが大挙してやって来た。もちろん奪ったばかりの財宝十万貫を持参金にしてだ。
彼らはまず朱貴の居酒屋へやって来て礼厚く梁山泊への参入を懇願した。朱貴にとっては知らぬ仲ではなかったので、さっそく砦に注進して王倫に彼らを取り次いだ。金沙灘では王倫以下の頭目が一行を待ち構えていた。俺も並んで彼らを迎えた。
恭しい拝礼の、いつ果てるとも知れぬ繰り返し。しまいにはうんざりするほどの、大げさで、無意味な虚礼の交わし合いだが、そうしながらお互いの腹の底や実力骨柄などをとことん探り合うのだ。俺もまた彼らを擬視していた。
梁山泊で何とか居場所を確保した後、俺は都に人を遣って家族の消息を問わせたことがある。都を流罪人として追われてからすでに一年以上が立っていたが、家族の者たちの上にも仮借ない運命の鉄槌が振り降ろされていた。過去を再生は出来なかったのだ。
妻の面倒を見ると言ってくれた舅の張教頭は病気で死に、俺の妻はその前に高衙内の執拗な誘いに耐えかねてついに自ら首を括って自殺してしまっていたと云う。俺のわずかな希望もその情報で瓦解した。いっそ俺などはあの滄州のまぐさ置場で殺されていればよかったのかもしれない。人を殺し、血塗れになって荒野を彷徨し、そしてこの山賊の砦に辿り着いたのもすべて無駄なあがきだったことになる。
まあしかしこの世ではどんなことだって起こるさ。もっともっと悲惨なことだって俺は見て来た。そう俺はあまりにも多くを見過ぎたのかもしれない。見過ぎた者の罪に対する罰は、永遠に無感動になること、そして自分自身に対しても何の哀れみも憐愍も湧かなくなると云うことだ。おそらくその地点から俺もまた一個の救い難い悪人になったのだろうが。そして俺にはまた未曽有の時間の荒野が目の前に広がったような気がする。
俺の期待は今、この新しい男たちの上でひらめいている。金沙灘の岸辺で俺は俺なりの未来を形造りかけていた。もう一度挑戦するのだ。挑戦して俺自身の生を燃やすのだ。そのための切り札となるかもしれない、この優れた実行力と胆力と知力とをそれぞれに兼ね備えた男たちが。
しかしこの時の俺は最後列に控えて、この遠来の客たちとろくに挨拶言葉も交わせぬような身分だった。
王倫は上辺はいかにも丁重に来訪者たちに対応し、謹んで集義庁に誘った。集義庁では羊や牛を潰して盛大な宴が催される。晁天王たちの一行は右側の席に居並んだ。王倫以下は左の席に連なり、俺はその末席に辛うじて陪席させてもらった。ひとつには俺の武名を重しに利用しようと云うのだろう。金沙灘で晁天王も呉学究も俺の名を知っていると言って褒めそやしたから。
卓に着いて改めて対面してみると、晁天王はさすがに諸国の好漢にこの人ありと知られる裕福な地主らしく、恰幅のよいすばらしい押し出しをしていて、その面相も色白でふくよかな、まさに大人の相貌である。呉学究は痩せた背の高い男で、顔つきも体つきも鉈で削いだような荒々しい線を持ち、目つきも鋭く冷酷で、その全体から発する気配には一種の鬼気さえ感じさせる。まさに目から鼻に抜け、眼力岩をも射通すと云ったところだ。元三兄弟も色黒の野卑た面相はしているが、その目配りの鋭さと云い、物腰の隙のなさと云いなかなか只者ではないと思わせるものがある。
王倫はたしかに気押されていた。普段の人を舐めきったような、だらしのない横柄千万な態度は影をひそめ、砦の主人でありながらほとんど下手に下がったままだ。手づから七人の客に酒を注いで回ってはやたらと愛想を振りまいている。
俺にはもちろんそれが奴らしい駆け引きだとは見抜いていた。そうやってわざと馬鹿丁寧に扱うことで気持ちの別け隔てを構え、新参を希望する彼らが打ち解けるのを拒むつもりなのだ。いつまでもこのままだと、ついには晁天王が参入のことを言い出しかねるようになると読んでいる。
憎い奴だ。この一行は俺のような食い詰めた餓狼のような素浪人ではない。金も十分持っているし、天下に名の聞こえた好漢たちだ。その自尊心の依って立つ部分を攻めようと云う腹で、いかにも王倫のやりそうな策略だった。呉学究だけはその策略に最初から敏感に反応して、杯を放ったまま不快そうに黙り込んでいる。しかし晁天王は案の定ひたすら恐縮するばかりで肝心の用件を切り出せないでいる。
結局うまく丸め込まれた調子で、その日の宴はお開きとなり、七人の客人は体よく宿舎に押し籠められてしまった。俺は人々が寝静まった深夜、その砦の外の宿舎に忍び足で近付いた。すると中から晁天王と呉学究とがひそひそと話し合う声がする。俺は扉の手前でそれを盗み聞いた。
「王倫親分は世間の噂では酷薄な人間だと云う話だったが、今日会った感じでは腰が低く愛想の好い、なかなか出来た男ではないか。今日は仲間入りの件は切り出せなかったが、明日にでも言ってみれば快く承諾してくれるものと思う」
晁天王がそう言った後、しばらく沈黙が続いた。ふたたび晁天王、
「呉先生はどうして冷笑するのか。何かいわくでもあるのですかな?」
そこで呉学究がおもむろに答える。感情をいっさい表わさない低い野ぶとい声だ。
「兄貴は率直な人間だ。あの男が本当に俺たちを仲間に入れると思うかね。あいつの取って付けたような功言なんかに騙されちゃいかんな」
「と云うと、どういうことなのかね」
「あいつは今日、俺たちがこの梁山泊の話をしようとするたびに決まって話題を別の方へそらし、仲間入りの話へ持って行こうとする俺たちに付け入る隙を与えなかった。あれは意識してそうしていたんだが、あんたは気づかなかったかね。王倫は始めから俺たちを入れる気はさらさらないのさ。俺たちが入ればこの山塞を乗っ取られると思っているのだろう。あの王倫は一筋縄では行かぬ男だ。杜遷も宋万も根っからの山賊だからそんな策謀や心の綾は分からんし、どっちでも構いはしないのだろう。しかしあの林冲と云う男は元、都の禁軍の教頭だっただけあってものの道理の分かった人間に違いない。腕も相当立つらしいが、王倫に対する態度様子はちょっと気になった」
「どういうことだ?そう云えばあれほどの男が末席に坐らされて、ほとんど話をする機会も与えられてはおらなんだ。あの男がこの砦に来た時には王倫に随分といじめられたと云うのは聞いたことがある。それで?」晁天王が続きを促す。
「あの男の変わった様子を見ませんでしたかな。王倫を見つめる目にはたしかに恨みが含まれていた。しかもどこか苛々として、王倫に対して腹立たしそうだった。あの男自身は我々によくしたいのだが、それが出来ないので面白くないのです。案外あの男は使えるかもしれぬ。あの男と接触出来れば活路も見いだせるのだが」
呉学究が考え込む様子で話を止めた潮どきに俺は咳ばらいをして扉を開いた。中のふたりはぎょっとして振り返ったが、ただちに立ち上がって丁重な拝礼をする。俺もまた姿勢を正して答礼する。
「本日は私どものような学も才もない田舎者に対して頭領を始め、並み居る頭目の方々が大変なご歓待をしていただきました。お礼の申し上げようもございません」
晁天王がしきりに礼を言うのを俺は手振りで押し止めて、一気に本題を突く話に入った。
微かな燈の明かりだけが寝床の他には何もない部屋の中をさまよっている。男たちの険しい顔つきだけが一層陰影を濃くして薄闇に浮び、凄まじいほどに生き生きとした緊張をたたえている。山岳の峰々を伝わって山犬の遠吠えが響く。
「実は今夜参ったのは他でもない。あなた方が財を疎んじ義を尊ぶ天下の豪傑と知ったればこそなのです。と云うのはここの主人王倫と云う男は部下の私が言うのもおかしな話ですが、元は科挙の落第生。そのくせ学はなく、人徳にいたっては爪のあかほども持ち合わせぬと云った奴で、およそこの世の悪しきことなら何でも好み、残虐や背徳をむしろ望ん求めると云った趣向を持つ異常人なのです。その上美味美飾にうつつを抜かし、そのことを吹聴して止まぬ男。それだけに梁山泊にこれだけ人がいながら誰ひとりこの頭領と付き合いのある人間はいない。ただこれを怖れるのみなのです。彼自身心を開いて語り合うどんな友人もおらず、常に独りで、日夜酒池肉林の中に陶然と踏み迷い、さながら百年の生を一朝の悦楽の内に蕩尽しつくそうとするかのような勢いで無道な歓楽に耽り込んでいるのです。日々悪虐を増幅させることで辛うじてこの世に生きる興味をつないでいると云った男なのです」
「もしそうならばなぜあなたが諫めないのですか」と呉学究が問う。
「私も新参者、それは難しいことです。それに一度身に着いた狂気は決して他人が諭して治るものではありますまい。第一、王倫をまともに説諭することなどこの上もなく危険なことです。と云うのは王倫と云う男は、骨も肉も溶けるほどに悪徳に耽ってはいても、自分の立場の安全のためには蛇のように注意深く目を配っている人間なのです。自分の回りにはどんな時でも屈強の手下を幾人も侍らせていて決して隙を与えませんし、ちょっとでも挙動の不審な者が目に触れるとそれこそ死ぬよりも恐ろしい拷問にかけてなぶり殺しにしてしまうのです。執念深く、しかも人を絶対に許しません。あの男にとっては人を殺すことは虫けらを踏み潰すよりも容易いことなのです」
しばらく沈黙があった後、晁天王が溜め息まじりに言う。
「そうでしたか、悪い噂は聞いておりましたが、そこまでとは」
その後ただちに呉学究が受け取って、
「で、林冲殿、我々にどうしろと言われる。我々の気持ちは朱貴の兄貴にも伝えたように、この砦の仲間にしてもらえれば良いだけのこと。そう取り計らっていただければどんな手伝いでもいたしましょう」
「そう言っていただければありがたい。おそらく今日の素振りでは王倫の奴はあなた方を梁山泊に迎えることはありえないでしょう。元来が疑り深くて人の才を妬む人間ですから、あなた方に一挙に上がって来られたのでは、自分の好き勝手には出来なくなる。場合によっては自分が追い落とされると思うかもしれない。そう考えぬはずはありません。そこで明日の宴会の席で私が白黒をはっきりとつけるつもりですから、その時に私に多少なりと加勢をしていただきたい。それをお願いしたいのです」
その夜、俺と晁天王、呉学究とは綿密に打ち合せをした。この砦のことで知っているかぎりのことは教え、また彼らにもっと重要な提案もした。夜明け前頃になってようやく俺は砦に帰って来た。
翌日も昼前から宴が始まった。この日は湖に架かった水塞の亭で内輪の者だけの宴となった。牛を殺し羊を潰して大皿に料理を盛り、酒はどくろの杯で好きなほど掬って呑む。梁山泊の流儀だった。
宴もたけなわとなる頃、王倫は手下に合図して何物かを持って来させた。盆に載せた白銀の塊だった。それを頭領手づから恭しく捧げ持って晁天王の前に立って言うよう、
「このたびはむさくるしい山塞にわざわざおいでいただきながら何のおかまいも出来ませんでした。田舎者の不調法でご無礼をつかまつりました。どうかお気を悪くされませんように。ついてはこれは些少の銀子ではありますが、どうか餞別がわりにでもお納めください」
晁天王は呆然と相手を見返した。しかし隣の呉学究はただちに居ずまいを正して王倫の言葉を受け取った。
「これは頭領殿、誤解されては困ります。我々はそのようなものをいただきに参ったのではありません。我ら七人はこれと云った才能もないがさつ者ではありますが、このたびは悪名高い北京大名府の梁中書長官の金銀を奪い取ると云う仕事をなし、そのために世の官憲から追われる身となった次第。行くべき場所もない境涯となって今や、王倫頭領殿を頼って参ったのです。どうか素気なく追い返すようなことをなさらず、我ら七人、たとえ兵卒としてでもこちらに置いていただいて、犬馬の労を尽くしたいと願っております。どうかお聞き届けのほどを」
王倫は呉学究の言うことを聞いているのかいないのか、足元に目を落としてうつむいたまま無関心そうな顔をしている。それからまたぼそぼそと言い訳がましく語りだした。
「そうはおっしゃっても、この砦は小さな山城で目下の手下を養うだけで精一杯。とても天下に聞こえた好漢のあなた方に棲んでいただけるようなところではありません。糧食も足りず、棲む場所もない有様で、竜のごとき皆さん方に安住していただけるようなところではありません。もっと皆さんに相応しい砦に行かれて、そこで天下に号令されましたら、その時には私こそ配下に参じさせていただきましょう」
俺は亭の軒端の向うに晴れた天を見た。ああ、あの空、悠久の大地をさらに凌ぐ果てしない空間。何千何万年もの間、この大地と人間の営みを見下ろして来たもの。それから見れば人間の一生の内の有為転変など何程のものがあろうか。その同じ空の下で俺は流刑の首枷を担ぎ喘ぎながら黄河のほとりを歩いた。その空の荒れすさぶ寒風の下をあてもなくさまよった。すべてはいったい何のためであったのだろう。空しい問いだ。無意味な自問だ。しかし俺は空にふと目が行くたびにその想念に引き戻される。
王倫はぶつくさとしゃべり続ける。しゃべり続けることで相手を煙に巻こうと云うわけだろう。抑揚のない平板で非情で陰気でくぐもった声のつぶやき。広大無辺な湖の風景に目をやりながらそれを聞いていると奇妙な非現実感がある。俺はいきなり顔を振り向けて大喝を王倫に浴びせ、その下らない話し声を遮った。
「いい加減なことを言うな。貴様は俺がここに来たおりにもそんなことを言って追い払おうとしたではないか。嘘八百を捲くしたて、せっかく訪れてくれた好漢たちを一人残らず追っ払ってしまう。貴様のような人非人こそここを出て行け」
俺はその大喝でまた広々とした荒野に飛び出したのだ。死と危険と大義とが鋭利な刃の切っ先のように甘い味を醸す世界に。王倫は今度こそ俺をなぶり殺しにするだろう。もしそれが彼に出来れば。
しかし晁天王らは本当に俺に協力してくれるだろうか。彼らの盟約が嘘だとすれば、俺の命はない。
「黙れ!無礼者。宿無しの脱走懲役人だったお前を拾ってここに置いてやったのは誰のおかげだ。図体がでかいだけで、まったくの役立たずのくせに、口を慎まんか」
王倫は眉を逆立てて怒声を発した。卓の向い側で晁天王が泰然とした手振りで取り成し事を言い始める。
「まあまあ、頭領方、お仲間割れはいけません。これも我々がのこのことやって来たのが間違いの元。非はすべて我々にあります。王倫頭領殿も礼を以て我々を断られたのですから、素直に諦めて引き下がるといたしましょう。我々のためにせっかくの山塞に波風が立ってはまことに心苦しい」
それと同時にその他の六人の客たちは卓の傍らに静かに立ち上がった。
俺は聞く耳持たず、ひたすら王倫を睨み据えて罵詈雑言を浴びせかけた。
「口ではきれい事ばかり並べ立て腹の中はいつでも人を騙すことばかりを思い巡らせている畜生め。貴様が余興や愉しみで殺した罪もない人々の恨みが今俺の口を借りて貴様を罵っているのが分からんのか」
王倫の顔面から血の気の引いて行くのが分かる。奴はわざと落ち着き澄ました様子を取り繕って、晁天王を振り返って言う。
「お客人方、どうかこの痴れ者をお許しください。こやつは元東京禁軍の教頭などと名乗っておりますが、それこそ真っ赤な大嘘。ただの人殺しの懲役人に過ぎないのです。この梁山泊は天下の好漢を歓待するところ、こやつもその定めに従って置いてやっているだけのこと。それを頭に乗りおって、昨日今日入て来た新参がこのような無礼千万な口を聞くのも、すべて拙者の不徳の致すところ。ただちにこやつを成敗いたしましょう」
そう言って王倫は杜遷と宋万に目くばせをした。ふたりの凶悪な山賊面は呆気に取られたままのろのろと立ち上がったが、たちまち元兄弟たちが前に立ちふさがって取り成すふりをしながら押し止める。同じように朱貴もまた赤髪鬼に遮られてしまう。
王倫は慌てて側近たちを呼ぼうとしたが、その回りを晁天王と呉学究が囲んでしまう。俺は卓を蹴り倒して王倫に踊りかかった。と同時に懐からは短刀を抜き出した。かつて滄州で陸謙の心臓を刺し通した短刀だ。俺は王倫の胸ぐらを掴んで難なく押さえ込んだ。連日連夜の放蕩三昧の生活でこの男の肉体は腐れきって完全に腑抜けになっている。羽根を掴むように軽々と押し倒すことが出来た。俺は押さえつけたままなおも憤怒の形相で罵り続けた。
「貴様は落第書生のくせにこの山で好き放題の悪事を重ね、人の生き血を啜り、婦女子を凌辱し、悪虐のかぎりを尽くしてこの世の愉しみを追った悪鬼のごとき人間。地獄道と畜生道を千遍回っても足りぬくらいの極悪人のくせに、なおも己れ一人の安泰を図ろうとするか」
俺は恐怖で目玉の飛び出さぬばかりの王倫の鳩尾に短刀を刺し込んだ。
王倫と云う男は腹の立つ奴だったが、俺にはまんざら憎みきれないところもあったような気がする。その悪虐や背徳を責めるのは容易いが、しかしそれも一個の人間の自然な性だと考えれば、その言動もひとりの人間の異常として片付けてしまえる問題でもない。
誰もが胸の内に秘め隠しているものを、この馬鹿正直な悪党は血みどろになって暴きたて、暴き立てては自分がひとりで地獄の暗鬱に落ち込むのだ。己れの心身を悪業の業火の犠牲に供しながら人間の何たるかを裏面から明かそうとした、これもまたひとりの豪傑ではなかったのかと、俺は短刀で止めを刺しながら思ったものだ。
杜遷や宋万たちが王倫を救おうとして騒ぎだしたが、晁天王たちが隠し持った刀を抜いてそれを頑として押し止めた。その間に俺は王倫の首を掻き落として手に下げて、かれらの前に突き出した。杜遷、宋万、朱貴の頭目たちは恐れ入って平伏した。
「なにとぞご配下にお加えくださいますように、身命を投げ打ってご奉公つかまつります」
俺は勝ったのだ。何に勝ったと云えるほどのものでもなかったが、それでも俺は何ものかをやり遂げて、この山塞に君臨しようとしていた。
一瞬の謀反、一瞬の反逆、つまり一瞬の賭だった。そんな一瞬の別れ目が人生を決定付けることがなんと多いことか。しかしそれを運命と云うなら、運命とは過去の様態に対する現在の側の偏見と評価に過ぎない。現在の生にとっての決定的な一瞬とは何であるのかは、おそらくその瞬間にしか掴みきれないものなのだろう。だからあの時間の一点を今になっていくら思い出そうと努めても、それは永久に飛び去ったものであり、空しいことに違いない。
騒ぎを聞きつけた手下どもも大勢亭の下に集まって来ていた。つまり今、梁山泊中の耳目が俺に注がれていたのだ。
短刀を拭って懐にしまい、両手の血を洗った。呉学究は血だまりの中から王倫の床几を引きずって来て、俺に坐るように丁重に進めた。そして大音声を発して手下どもに向かって宣言した。
「今よりこの砦は真に王者たるに相応しい、この元東京開封府、八十万禁軍教頭の林冲殿が統べることになった。林教頭殿がここの主人となった。従いたくないと云う者はこの王倫がその手本だ」
そして呉学究はふたたび俺に頭領の席に坐るように促した。
「さあ、あなたが梁山泊の頭領なのです。ここへお坐りなさい」
しかし俺は冷静な顔をしてその進めを辞退した。
「私が今日、極悪非道の首魁王倫を誅殺しましたのは決して私利私欲からのことではありません。あなた方、智も義も兼ね備えた天下の好漢にこの魔窟のような砦を治めていただきたかったからなのです。私はただ槍棒が使えると云っただけのがさつ者、その身は浅学非才でとても人の上に立つ力量はありません」
「何をおっしゃる。我らは遠来の新参者。ここであなた方頭領の兵卒にでもしていただこうと思って参ったのです」
晁天王が落ち着き払って答える。そのでっぷりと肥えた身体の態度物腰には生まれついての威厳と貫禄がある。王者の風格を備えた千両役者なのだ。最初一目見た時から俺はその風采の類い稀な立派さに注目して、この男とその仲間たちに賭る気になった。他人の企みに翻弄されるだけだった俺がようやく企みを以て世間を動かす時だった。
晁天王と俺とは言葉を尽くし、礼を尽くしてお互いに頭領の席を譲り合ったが、ついに呉学究が晁天王を主人とすることに同意した。
一同は晁天王を轎に乗せて集義庁へと向かい、梁山泊中の手下どもにもそこに参集するように触れを出した。
集義庁でさらに俺は譲って呉学究を軍師として第二の席へ、さらに道士の入雲竜・公孫勝を第三の席に着けた。そのおりもひとりひとりと己れを落としめ相手を持ち上げると云った按配でさんざん譲り合いのやり取りをして、そのために集まった手下どもにはこの新参の好漢たちのすばらしさが思い知らされると云ったことになった。
俺は上位三つの席を譲ってようやく第四の席に着くことにしたが、それはかねてから図っていた段取りだった。もし俺が王倫を殺したなりその地位に取って替われば、こんな山塞と云えども下剋上の覇道が横行して次には自分自身の首が狙われることになるだろう。
その危険を恐れたからであるし、また天下に名の聞こえた好漢の晁天王を頭領に据えれば実際、その名を慕って全国から好漢が集まり来るだろう。そうすればこのおぞましい山賊の砦にも正義の風が吹き始めるかもしれぬ。いやそうならないはずはない。
今、朝廷には奸官がはびこって政務を私断し、人材を登用する道を塞いでいる。天下は乱れ始めているし、それを収拾する能力が大宋朝廷にあるとは思われない。その危急存亡の秋に天下の英雄豪傑はどこかに依って正義の旗幟を明らかにしようとするだろう。この梁山泊こそは悪人、懲役人、前科者として世間から爪弾きされながらもその意気と才において、さらにその腕力によってはるかに常人を凌ぐ人材たちが、その持てる能力を発揮するために寄り集まって来る場所となるであろう。
山の上から林冲を呼ぶ声がする。王倫暗殺の日にいたるまでの回想に林冲はいつしか心を奪われて時の経つのも忘れていたのだ。
あの日以来、梁山泊の周辺では無数の戦闘が繰り返され、その度に続々と好漢たちがここに集まって来た。晁天王はそうした戦闘のひとつで矢に当って果てたが、その後を呼保義・宋江が継いで益々梁山泊の威は天下に知られるに至った。やがて朝廷もこれを単なる賊徒の集団として無視し得なくなって、三度の招安によって、これを帰順させることになる。
そう、すべて林冲の目論見どおりだったと云えるかもしれない。晁天王に梁山泊の首座を譲ってからは、彼は山塞の政治的な方針には口出しをせず、ひたすら騎将としての任務に忠実に従い、また実際その戦士としての合戦働きを目覚ましいまでに成し遂げた。
今日その最終的な論功行賞がなされ、林冲は百八人の豪傑の中で上から六番目の地位を与えられた。林冲はこの人事で人優りすることを望んだわけではない。しかしその発表は彼にとっても失望させられることのないものだった。自分の軍人としての功績がたしかに認められたのだ。
山の上から花和尚・魯智深が両手を口に当てて大声で呼んでいる。さあ、改めて豪傑たちとの盛大な酒盛りの再開だ。黄昏の色が混じり始めた秋空は益々その透明の度を加えて、さながら浄土から直接差す西日のようにきらめいている。天地は静大にして林冲はあくまで独りだ。何ものももはや彼の憂いを真に晴らすことは出来ない、おそらくその死以外には。だから彼には明日も阿修羅のごとく槍を振るって馬上に闘い続けるしかないのだ。
豹子頭・林冲。梁山泊にその人ありと聞こえた騎将。やがて宋江以下百七人の豪傑と共に梁山泊の山を降り、徽宗皇帝の命を奉じて北東に大遼国の侵寇を防ぎ、西北に田虎の乱を鎮圧し、西南に王進の反逆を討ち、そして最後に南方に方臘の謀反を平らげて、その働きを宋朝の青史に留める。
方臘鎮定の凱旋の途次、杭州、六和寺で魯智深の入定を見取って後、林冲自身も中風の病いに倒れた。その前に戦友、楊志が戦病死したことを知らされたことはすでに語った。宋江以下諸将はこの時すでに百八人が三分一に減っていたが、最後の朝見のために林冲を六和寺に預けて都へ立って行き、不具者となって寺男にしてもらった武松が残って彼を看護した。そして半年後にその寺で林冲は病没する。
宋江以下の諸将もすぐ後に、蔡太師、高大臣の一派の姦計によって暗殺され仲間たちの霊の後を追うことになる。しかしその話はまた別の機会に。今はまず豹子頭・林冲、放浪の一巻を終えまする。
了
|