内容更新日:   2000/10/26 木曜日 07:16

(ここのコーナーは「親鸞の謎」と題して彼についての,私なりの思いを専用に書き込みます。随時更新します。


 「親鸞の謎」

 

 親鸞という人について,興味は持たれませんか。
 教科書的な知識では,鎌倉新仏教の開祖で浄土教の改革者。僧侶でありながら,正々堂々と結婚生活を営み,子をもうけ,権力の弾圧を受けて,流罪になって・・・そうした生き様の波乱万丈と共に,その浄土思想の特異な展開によってよく知られた宗教家ですね。
 しかし彼くらい謎に満ちた人物も少ない。普通歴史に名を残すほどの人は,ましてや政治や宗教という社会体制そのものに係わる分野で名を残すほどの人は,その存命中にすでに相当の影響力を持っていて,文献にも証拠品にも多くの足跡を残しているものです。
 しかし彼の場合は,丁度作品だけが死後に高まって有名になった芸術家のように,彼自体についての記録がほとんど皆無に近い。彼についてはわからないことだらけであり,またわかっていることもまた時代時代で誤解され,曲解されている。謎に包まれた芸術家というものはあっても,謎に包まれたままの宗教指導者というのはおそらく世界中探してもいないのではないか。
 それでも彼は現代でも日本における最大の宗派教団の開祖であり,その精神的な支柱であり,また一般的な思想文化界にも大きな思想的な影響を与えつづけている。



 この人くらい宗教家でありながら,文学やその他の人文的な領域で真剣に,かつ頻繁に取り上げられる人もいないであろう。
 日本の刑事訴訟学の泰斗,団藤重光氏の刑事訴訟法概論の中でも親鸞の「悪人正機説」が取り上げられている。その他に一々言うまでもなく,多くの文学作品では様々に取り上げられている。
 そしてもちろん浄土真宗各派にとっても,開祖として信仰の最大のよすがとなる人物である。(おそらく釈迦自身よりも・・・)
 しかしこの人の実在が歴史的に確定したのは,きわめて最近のことだ。戦前には,この人は教団が創作した架空の人物だろうという説も専らにあって,どちらかというと芸術作品の中でだけ活躍するキャラだったらしい。「出家とその弟子」とか・・・
 歴史的な実在は,恵信尼の残した文書(消息の手紙)によって,そこに親鸞のことが触れられていたことで明かされた,とされている。第三者による客観的な裏付けが,それによって初めて取られたということ。逆から言うと,それ以外の文献にはいっさい彼の名前も名跡も記されてはいないということだ。
 しかしそうした歴史学的な真偽論よりも,彼の謎というのはその思想と行動(実人生・・・それ自体がきわめて曖昧な姿でしか見えてこないが)の矛盾にあるのだとも思われる。
 悪人正機の説は何も親鸞の独創でも独自論でもない。法然もそのことは触れているし,彼の一門の弟子の中でもそうしたことを書いている人もいる。しかしなぜ親鸞の「いわんや悪人をや」だけが,飛び抜けて日本人の記憶に刻まれているのか。
 教団がはたしてそのことを宣伝したということなのか。ご開山(親鸞)は「悪人正機」を言っておられますよ,といって積極的に門信徒に教えたのか。いや,残念ながら,それはしていない。していないどころか,教団は戦国から江戸期を通じて一貫して,『歎異抄』を門外不出の禁書として蔵奥深くに隠しこんでいた。
 それにもかかわらず,悪人正機=親鸞のイメージが定着したのは,おそらく近代以降の知識人の紹介によるものだろうと思われる。彼の流浪の生涯と結婚・家庭形成等の実人生が,その一面アナーキーな過激思想にオーバーラップしたことは無理からぬことだろう。
 いわゆる「親鸞像」と言うべきものは,和辻哲郎等の近代の知識人によって生み出されたものに違いないが,それでも彼の謎が解けるわけのものでもない。かえって謎は深まるのだ。
 「悪」が正機であるならば,彼は悪人であったろうか。ただの「宗教的な」(単に観念的な範疇での)悪人などという胡乱な説明では,言葉だけの説明的な善悪観と言うに過ぎない。
 たしかに彼が実際に,当時実在した関東一帯を荒らし回っていた盗賊集団の親玉ではないかという説もある。今は否定されているだろうが,そのくらいのことは「彼」ならやりかねない。むしろそのくらいの人物であって欲しいという希望的な(?)推測。単なる観念的な「悪人」などであって欲しくない,そんな気持ちをなぜか人に起こさせるのではないだろうか,この親鸞という人は。
 しかし親鸞が彼の自著作の中で「悪人正機」を語っている部分はない。あえて探せば・・・


>ただ仏恩の深きことを念うて,人倫の嘲りを恥ぢず。<顕浄土方便化身土文類


「悪人正機」は,あくまでも唯円という弟子が書き取ったとされる『歎異抄』の中での記述に過ぎない。身近に接した唯円という僧侶が,たとえ親鸞がそのようには言わなかったとしても,あえて彼にそれを「言わせた」というのであれば,それはまたそれなりの思いがあったからであろう。弟子から見ても,親鸞ならそのくらいのことははっきりと言ってのけるだろうという「期待」・・・始めから箸にも棒にもかからぬような「俗物」であったなら,人はそんな期待を微塵も抱かないはずだ。


>善人なほもつて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく,「悪人なほ往生す,いかにいはんや善人をや」。 この条,一旦そのいはれあるに似たれども,本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは,自力作善のひとは,ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ,弥陀の本願にあらず。しかれども,自力のこころをひるがへして,他力をたのみたてまつれば,真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは,いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを,あはれみたまひて願をおこしたまふ本意, 悪人成仏のためなれば,他力をたのみたてまつる悪人,もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ,まして悪人はと,仰 せ候ひき。 <歎異抄


 親鸞は,だから「悪」にも十分通じる(と思われる)男と見なされていたのは現代も,存命中も同じであったろう。そうした男がたしかにこの世には時折現れるのだ。
 しかし本当に親鸞が何らかの現実的な罪悪に係わっていたのなら,そしてそれを生業として渡世していたのならば,彼は90歳もの長命を果たせただろうか。現実問題,世間から敵対して,孤立無援の「悪党」人生を辿っている者に当時の平均寿命の三倍もの寿命など得られようはずがない。そう考えても,現代も鎌倉初期の時代もあながち間違ってはいないであろう。
 逆から類推すれば,彼は「悪の可能性」はどぎついほど宿してはいても,結局悪を実践することのなかった人間であったと言えるかもしれない。
 では,なぜ彼は「悪」を宿したのか。それは宗教家として妥当であったのだろうか。
 人は観念的に悪に近づくということもあるだろう。哲学的な結論として悪を選択するという道行もないではない。(そんなものは実際には笑止の沙汰だが・・・)しかし親鸞の場合,そんな頭だけの理屈で「悪人」を正機とはしていない。口先だけの「悪」・・・それなら誰をも感動させず,どんな印象も与えず,また実際に当時の身近な人々を親鸞の元に走らせたりはしなかっただろう。
 晩年,京都に隠棲している親鸞の元に,関東の「面授の弟子」たちが訪れている。


>おのおの十余箇国のさかひをこえて,身命をかへりみずして, たづねきたらしめたまふ御こころざい,ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し,また法文等をもしりたるらんと,こころにくくおぼしめして おはしましてはんべらんは,おほきなるあやまりなり。<歎異抄


 物見遊山の観光旅行ついでではなくて,それはある意味で命を賭けたような聞法の旅である。わずかの人数ではあったろうが,人をそこまで真剣にさせるだけの何ものかが,この親鸞という人物にあったのでなければとてもありうることではないだろう。
 なにか彼,親鸞にはその存在自体において「悪」の迫力を直感させ,その力を信じさせるだけのもの,人間的な根拠のようなものを備えていたのかもしれない。



 親鸞は日野氏の出自で,日野有範(ひのありのり)の長子であったとされている。日野氏そのものは藤原氏の名流であり,この氏族からは面白い人材が鎌倉から戦国にかけて結構輩出されている。日野資朝などは親鸞と同世代の人間として,政界に暗躍して「承久の変」で見事にコケた人物である。
 しかし日野有範はまったくの下級の公家で,そうした政治の表舞台とは無関係な地味な人生を生きておおせた人物であったようだ。「文章博士」と言われてはいるが,要するに文書事務に多少長けた,下級もしくは中級の事務吏員であった。「博士」というのも決して正式の官名ではなく,おそらくからかいに言われただけのものではないのだろうか。今でも,人の知らぬことをよく知っている小賢しげな者を「あいつは博士だ,学者だ・・・」なんぞと言って冷やかす。
 とまれ親鸞は当時の公家社会の一般的な選択肢として官吏になるか,官僧になるかの道があった。どちらに就いても決して特別なエリートコースを進めるような出自ではない。すべてはコネクションと公家としての出自がすべての判断基準であったから,どんなに親鸞が努力して,その才能を磨いたところで「中級」の地位しか得られなかったであろう。
 彼は,おそらく彼自身の選択ではなくて,親や親族の決め事に従ってだろうが,九歳で比叡山に登ることとなった。剃髪式の導師は後の天台座主慈円で,当時は青蓮院門跡としてまだ三十歳手前の頃である。これも一説では幼少の親鸞の利発さを見抜いた慈円が,あえて剃髪をかって出たというような美談になっているが,まったくの贔屓の引き倒しである。
 そもそもそれ以降に(ありうるはずもないが)慈円との交際があったということもないし,後の「愚菅妙」の著者にして一級の文化人となる慈円のその日記手記に親鸞らしい人物はまったく記されていない。
 たまたま青蓮院にいた若い慈円を知る人にツテを頼って,親たちが親鸞を連れて行ったことに違いない。そのことに特別の意味もなければ,運命的な出会いといったものでもない。慈円は当時最大の権勢を誇った藤原・九条家の出であり,関白九条兼実の弟に当たる。完全な有力公家の出自である。従って仏門に入ってもまったくのキャリア組で,比叡山の最高幹部,あるいは勅勘寺の住職等に出世して行くことが約束されている身分だ。
 一方の親鸞は中級公家の子として,比叡山で官僧の資格は得られても,その組織ではかばかしく出世のできる可能性はまったく最初からなかったのだ。
 しかし親鸞は9歳から「お山」へ上り,29歳で「お山」を出奔するまでの20数年間をそこで過ごした。山に上っても一生涯「僧侶」の資格も得られず,ただ雑役労務に従事する者も圧倒的に多かった現実から見ればむしろ恵まれていると言ってもいいかもしれないが,その立場は微妙で,自分なりに己のプライドと与えられた可能性とを妥協させながら生きて行く他のない人生だ。
 また時代もすでに幕府設立後の武士勢力が盛んになり,王朝秩序が混沌とした様相を呈する時である。かつてのような山内の秩序も失われていたのではないか。雑役人たちの中から腕っぷしに自信のある男どもが,荒くれた僧兵となって対外的な武力を任され,そのためにこの集団がその意見や要求をゴリ押しするというのはすでに11世紀の白河上皇の時代から大きな政治問題になっていた。
 比叡山の実質的な運営権は荒くれ男どもの腕力に握られ,学僧としての権威への出世階梯はまったく出自によって決められている。どちらも親鸞にとっては縁のない道筋だ。

 彼には二度仏教を捨てる機会があった。一度は比叡山を自ら進んで降りた時。この時も一人の人間の人生選択とすれば,はっきりと仏教を捨てるという方法もないではなかっただろう。
 そして今一度は言うまでもなく,「承元の法難」に遭って,お上の力によって無理やり還俗されて越後へ流された後である。藤井何某などという名前をあてがわれて,俗服を着せられた上で小船に乗せられて追放される。その屈辱は案外親鸞が生涯持ちつづけたものではあったろうが,そんな愚痴の前に仏教をはっきりと捨てるということは出来なかったのか。

 なぜ親鸞は仏教徒でありつづける必要があったろうか。

 当時は仏教僧としての資格は朝廷の専権事項であった。朝廷で戒壇を許可された正式の寺院(延暦寺,金剛峰寺,東大寺,興福寺等)での得道だけが,僧侶の資格であり,従ってそれは国家資格であった。
 承元の法難で資格剥奪の上追放された時点で,彼は外形的にはまったく仏教とは縁が切れた形になっている。それ以降,彼の官僧としての資格が復活されたという説とされなかったという説が並存しているが,いづれにしろ彼は一度は完全に仏教と切断された身なのだ。
 その彼がそれ以降の長い人生においてもなお仏教僧としての建前を自己否定しなかったことは何を意味するのか。彼は越後に追放された後に,何の躊躇いもなしに悪の道に飛び込んでもよかったのだ。仏教の「五逆」の罪さえあえて犯す,一閃壇(いっせんだい:仏教のいっさいの救いをも拒否する,100%救いがたい人間)としてこの世を駆け抜けてもよかったのだ。
 人間性の当然として,宗教的な理想が高ければ高いほど,そこから追放された時の反動は大きく,激しく,それこそ最悪の絶望からこの世の最もアウトローな人間性が出来てもおかしくないような条件が,この場合揃っている。
 しかし彼は仏教僧として生き抜いた。そうでなければ,『教行信証』のような長大な仏教論文を書こうなどとは夢にも思わなかったろう。しかも一文の得にもならない,完璧にボランティアな著述・・・。
 彼の後半生の姿かたちの様相はわからない。彼が日頃僧衣を身に着けていたか,それともまったくの一般人のナリをしていたのか・・・。ただ,彼が自らの理想的な「念仏者」として,「播州の沙弥(在家僧)・教信」を挙げていることは注目されていい。
 この人物は元は名だたる学僧であったが,在野に降り,日雇いの労務に従事して家族を養いながら,念仏と浄土を信心して一生を過ごしたと言われている。そのナリは,蓬髪にして,衣服は僧衣に似るとされていたから,髷のないザンバラ髪にみすぼらしい黒衣の僧服を着たきりにしていたものと思われ,すれば親鸞もそうした外形を取っていたものかとも推測される。
「愚禿」ということでの「禿」とは,スキンヘッドではなくて,短髪の頭形のことで,己の煩悩具足の有様を「馬鹿頭」と卑下したものとされている。ただここでも単に「バカ」と揶揄するだけではなく,「禿」とはすなわち俗人でもなく,出家でもないという「在家往生」,「非僧非俗」(出家僧にもなりきらず,俗人にもなりきらないという意味)の建前を主張したものでもあろう。
 つまり親鸞は心身の「半分」でも仏教に自らの人生の立脚点を置きつづけたのだ。後の「半分」に何があったのかは彼個人の問題で,あるいは妻の実家の飛び地荘園の管理人をやっていたとか,私度僧(非公認の手前勝手な出家僧)として仏事勤行を賄っていたとか,単に妻恵信尼の実家の財産で徒食していたとか,その実態はまったく想像の域を出ない。
 しかし彼が越後から家族を連れて関東へ出てからも,そこでひたすら仏教の勉学に打ち込んでいたのは間違いない。『教行信証』とは,まさに一個の男の執念に満ちた孤独な仕事で,その孤独な著述によって彼が何を目指していたのかはわからない。
「名利の大山に迷惑し・・・(名声や富裕を欲しいとする貪欲煩悩に迷い続け・・・)」と慨嘆した彼の晩年の述懐を見る時,その辺の事情は多少はうかがえようか。そしてそのことからさらに彼の過去に遡って,彼が比叡山を見捨てて降りた人生の転機にまで推察すると,なぜ比叡の官僧としてのコースを捨ててまで市井に降りたか,その心境も多少は見えてくる。
 彼は官僧ではあったが,決して出世コースに乗ったいわゆる「エリート」ではない。すでに述べたとおり比叡山に僧で登る時,そこには出自による徹底的な差別化がされている。
 数少ない記録によると,彼は比叡山の教団組織(サンガ)において「堂衆」という身分であった。これは僧侶の身分ではあっても,学僧ではなし,また将来なれる希望もほとんどない。また巨大組織としての延暦寺の各部門の管理職に就ける可能性も皆無である職種である。
 せいぜい成れて,最末端の「班長」といったレベルで,それで生涯を終えるしかない。彼の出自(父親の日野氏は中級公家)ではエリートコースなど始めから無理であったし,またどんなに努力しても報われることがないと決められているのなら,覇気に満ちた,自信過剰の29歳の青年がどんな決断をするか,そんなことくらい現在の状況に引き比べてみても自ずからわかろうというものだ。
 彼をまるで雲上のエリートから降下したかのように見なすのは,親鸞の青春の悲しみや焦りを最初から否定するもので,彼の人間的な面白さを完膚なきまでに滅却してしまうもの・・・たしかに地下人(じげびと)から見れば,朝廷免許の官僧の地位は大きいが,しかし本当のエリートでもない。本当のエリートたる者が,なぜ堂衆などというただただ勤行をこなすだけの任務に就かされたりしようか。阿弥陀念仏堂の中で裸足で行堂(経を称えながら,須弥壇の周りを回り続ける行)をしながら何日間も,一睡もせず念仏勤行を行う。ただそうしたことだけのための勤行要員なのだ。
 おそらくその日常では,やれ誰それが1回分ちょろまかして少なく回ったの,やれ誰かれの読経の声が小さいのと,そんな瑣末な問題ばかりが事事しく批判され,足の裏に血豆ができるほど「真面目に」勤行作法を行った者は良しとされ,こんなことをしてそもそも何になるのかなどと疑問を浮かべた者は冷たくあしらわれる。(日本の「世間」というものは,千年経とうと二千年経とうと少しも変わりはしない。)
 いづれにしろ若い親鸞は,将来展望の開けないことと,やっていることの気の遠くなるほどの空しさに嫌気して,一気に比叡山を降りてしまったのだ。おそらく食って行くための目当てもないままに,衝動的にドロップアウトしたのであろうし,それが六角堂での百日間篭りに美談化されている。これにしたって現代の青年の姿に当てはめれば,理解できない範疇の話ではない。
 自分の理想に昂揚して,せっかく就職した組織に勝手に三行半突きつけて飛び出す。出たのはいいが,さて明日の米代さえままならず,ついには公園のベンチで日がな居暮らすプータロウ。米の飯とおてんとう様はどこでも付いて回ると言うけれど,たしかにおてんとう様は付いては来るが,米の飯の方はそうは行かぬ。さてもままならぬは世の中よ,と青年親鸞も六角堂の軒端を空しく見上げながらつくづく嘆いたことだろう。
 始めから法然門下に行くつもりで比叡山を降りたのではないかという説もあるが,それにしても吉水の法然の道場はこの無名のアブレ者めいた青年僧を簡単には受け入れなかった。常識からしても,入れるはずがない。
 当時,私度僧も含めて,いわゆる勝手に「僧侶」を名乗って市中に徘徊する輩を「ひじり(聖)」と称して,つまりはまったくのアウトサイダーのホームレス。ホームレスだから聖なのか,聖だからホームレスになるのかわからないが,とにかく胡散臭い代表格みたいなナリだから,当然親鸞もそんな一人と見なされても無理はない。もちろん心中ではそんな連中とは違うと言いたかったのだろうが,世間の眼は冷酷で,おそらくこの青年を吉水道場はいったんは険もホロロに追い返したことだろう。
 それから三ヶ月近く,彼はどこでどうやって食っていたのか。源平合戦の騒乱の後の,まださほど年月の離れぬ京の市中。まともな人間でも生きかねる時代の,最底辺で頼る者もないこの青年僧がどうやって生きたのか,まさにこの点は興味が尽きない。
 宗派の親鸞伝においてもこの間の説明は実にあっけなく無視されている。ただ六角堂で百日間篭って念仏三昧,そしてある夜の夢に聖徳太子出でまして,吉水道場へ行けよかしと告げる。まあ,念仏三昧,お篭り三昧もいいけれど,その間いったいどうやって食っていたんだ。
 おそらく河原乞食に等しい境涯まで落ちぶれつくしたのであろうし,あるいは彼が唯一現実としての「悪」に手を染めたことがあるとすれば,この29歳のこの時期であろうと思われる。
 人は時には一銭二銭のはした金のためにでも人を殺すということは現代でも,鎌倉時代でも,まったく変わりのない真実だ。良いとか悪いとかの判断ではなくて,まさに目の前に餓えがあれば,道徳規範常識の類などは脆いものだ。そのことをたしかにこの親鸞という僧はどこかで「体験」している。
 三ヶ月後に何らかのコネを付けたものであろう,吉水の道場にどんな立場かは定かではないが,ともかく入り込むことが出来たのはまさに僥倖としか言いようがない。法然門下の最下級の序列ではあろうが,とにかく居所と食い扶持だけは得ることが出来た。まだ若いし,覇気は旺盛,体力もありそうだし,頭ももちろん切れる。
 この時期に娘時代の恵信尼と知り合ったとされているが,そのゆかしげな女性についての伝承を信じるならば彼女は越後国人(有力武士)三好氏の娘で,都に出て関白九条家に奉公していたとされている。九条兼実は朝廷の権勢家であり,かつ当代一級の文人であるが,また公家の中では鎌倉武家政権に近く,源頼朝とも懇意であったとされている。また,法然の熱心な支持者でもあり,そうした関係から三好氏娘が九条家の姫の御付きに吉水に同道していたというのは,いかにもありそうな話だが,しかしあまりにもありそうな話なのでかえって嘘くさくもある。
 とにかくどんな経緯にしろ恵信尼と結ばれたのは間違いがない。親鸞とすれば,そのまま法然門下として年期を積み,在野宗教家としての実績を増やして仏教関係の論文もものし,やがては独立してのれん分けの道場のひとつも設立すれば,後は順風満帆とくらいは胸算用した時期もあったかもしれない。当然あったはずだ。

 しかし別に珍しくもないことながら,この一個の有為の青年の人生は,その時代の大きなうねりの中に翻弄される。法然の浄土教の繁盛をこころよく思わぬ旧仏教の側から激しい嫌がらせが浴びせられていたが,ついに興福寺からの懺訴状が朝廷,とりわけ後鳥羽院の入れるところとなって,宗教弾圧が敢行された。


>後鳥羽院の御宇,法然聖人,他力本願念仏宗を興行す。ときに, 興福寺僧侶,敵奏のうへ,御弟子のうち,狼籍子細あるよし,無実 の風聞によりて罪科に処せらるる人数のこと。 

一 法然聖人ならびに御弟子七人,流罪。また御弟子四人,死罪に おこなはるるなり。聖人(法然)は土佐国幡多という所へ流罪,罪 名,藤井元彦男云々,生年七十六歳なり。
 親鸞は越後国,罪名,藤井善信云々,生年三十五歳なり。  浄聞房 備後国,澄西禅光房 伯耆国,好覚房 伊豆国,行空法  本房 佐渡国,幸西成覚房・善恵房二人,同遠流に定まる。しか るに無動寺の善題大僧正,これを申しあづかると云々。遠流の人々。 以上八人なりと云々。 

 死罪に行はるる人々。
 一番 西意善綽房
 二番 性願房
 三番 住蓮房
 四番 安樂房
 二位法印尊長の沙汰なり。
 親鸞,僧儀を改めて,俗名を賜ふ。よつて僧にあらず俗にあらず, しかるあひだ,禿の字をもつて姓となして,奏聞を経られをはんぬ。 かの御申し状,いまに外記庁に納まると云々。流罪以後,愚禿親鸞 と書かしめたまふなり<歎異抄末尾


 あにはからんやとはこのことで,青天の霹靂,後鳥羽上皇の逆鱗に触れた法然の一派が全員迫害を受ける。主だった弟子は打ち首,そうでない者も流罪追放。法然も讃岐へ流される。
 この場合,親鸞が法然の弟子としてどれだけの重きを成していたかだが,はっきり言ってそれほどの立場ではなかったように思われる。
 後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敵対する意志があったことは後の承久の変で明らかだが,そうした存念から幕府協力派の九条一派への嫌がらせの一環として,九条家がパトロンになっている法然道場に白羽の矢が当てられたという政治的な状況はあったかもしれない。いづれにしろ親鸞も末席に近い門下ながら,越後に流罪を受ける身となって,いっさいの将来展望を喪失してしまう。
 36歳。今風の言い方をすれば,人生のまさに「ターニングポイント」。

 後に彼はこの時の恨みを多少は語っている。

>ひそかにおもんみれば,聖道の諸教は行証久しく廃れ,浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門,教に昏くして真仮の門戸を知らず,洛都の儒林,行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもって興福寺の学徒,太上天皇 後鳥羽の院と号す,諱尊成 今上 土御門の院と号す,諱為仁 聖暦,承元丁卯の歳,仲春上旬の候に奏達す。主上臣下,法に背き義に違し,忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて,真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩,罪科を考へず,猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに禿の字をもって姓とす。空師(源空)ならびに弟子等,諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。皇帝 左度の院,諱守成 聖代,建暦辛未の歳,子月の中旬第七日に,勅免を蒙りて入洛して以後,空(源空),洛陽の東山の西の麓,鳥部野の北の辺,大谷に居たまひき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午のときに入滅したまふ。奇瑞称計すべからず。別伝に見えたり。 <顕浄土方便化身土文類



 その後,流罪の地で何の生活の糧も支えもなくて,彼がどうやって人生に復帰して来るのか。あるいは復帰できたのかは親鸞最大の謎ではあるが,もちろん京の市中でも食い詰めて行き倒れかけた人間が見ず知らずの異郷の地で自分一人の始末のつこうはずもなく,当然何らかの助け舟が提供されたと考えるしかないだろう。
 越後という三好氏の本貫地へわざわざ流されたことについては,九条家の圧力による朝廷の側の配慮があったという説もあるが,はたしてそんな名もない一介の浪人僧にそこまで気を使ってくれるものだろうか。
 むしろ恵信尼と親鸞は越後で初めて出会ったとする説の方がもっともらしい。しかし有力者の娘(あるいは出戻り)がそんな還俗された,流罪人などに目を向けるかどうか,しかし男女のことだからその点は決め付けて考える必要もないか・・・

 もし親鸞がこうして女性の支援なしに流浪していたとすればどうなっただろう。
 そんな小説じみた仮説を取り上げる「宗教学者」はおるまいから,ここだけの話になるが,おそらく彼は巷の底で潰え去ったか,もしくはたくましく生き返ってそれこそ大悪党の親玉としてワイルドバンチよろしく世間を荒らしまわって,一時の豪気を楽しんだかもしれない。
 そもそも浄土教の根本思想(虚無と無常と救済)を理屈ではなく,その情緒的な意味としてとらえきれるのはあくまでも女性に限られるのではないか。それは男社会の,男性的な原理とは完全に相容れない感性で,まさに浄土教が女性の宗教であることの証だ。
 吉水道場に熱心に通っていたのも都の公家の女性たちで,その中にたまたま後鳥羽上皇の官女がいたために,そのことに嫉妬した上皇の逆鱗に触れたための弾圧とも言われている。
 また日本浄土教の実質的な開祖・横川の源信僧都の最も熱心な聴聞者は紫式部であったとされている。浄土の華麗さの演出,無常への執拗な関心,救いへの願望,これすべて女性的な性癖ではないのか。女性の信者なしに浄土諸宗派の存在はありえないし,また親鸞にしろ蓮如にしろ,その生涯の経営そのものが成り立たなかったはずだ。
 どのような形にしろ,彼の妻となった女性の側(おそらくその実家筋の)の支援と助力なしには,もはや官僧の資格すら失って「罪人」に貶められた親鸞に再起の可能性などなかった。親鸞が「再起」したというのも微妙な問題で,彼は別に世俗の栄光や栄誉をついに受けることはなかったし,結局は在野の無名な宗教家として生涯を終えた人物ではあるが,しかし女性の支援という幸運がなければそのことさえ適わなかったであろう。
 親鸞は四十代半ばに関東へ一家共に移住するが,これも子どもを幾人も抱えた状況でまさか無為徒食の世界に飛び込んだものではあるまい。生活の算段が確実にあって,かの地に出向いたと考えるのが常識だ。としても,常陸の国で彼が僧侶として専門的に活躍した(つまり寺を運営したというような)という記録はないので,生活の糧は別の労働で得たことは間違いないし,またその「就職」の約束が始めからあったと見るべきだろう。
 飛び地荘園の管理人というのがいかにもありそうな「仕事」だ。読み書きが出来るという技術は関東の片田舎では十分価値ある能力であったろうから,一家がつましく生活するくらいの収入は得られたはずだ。そうして親鸞は60歳過ぎまで関東に在住する。ほとんどこれといった事件も波乱もない,静かな落ち着いた人生の時期で,この時期に彼が本当に積極的に布教をしたという確証はない。(いわゆる近代的な意味の布教,半分政治であり,半分はパーフォマンスであるような,組織立った布教という意味での「布教」)
 面授の弟子と言われる一群の人々があったことは間違いがないが,それもはたしてどういった類の人々かは謎だ。あるいは管理する荘園の農民や近隣の地侍たちで,親鸞と個人的な面識を結び,その関係で仏事を頼んだりする内に,私淑して「弟子」といったような立場になった人々はあったのかもしれない。それなら現代でもよくあるようなことで,人間とは案外「私淑」したがるものなのかもしれない。
 一方で,親鸞は足しげく鹿島神宮社に通ったという記録がある。「神宮」といっても,これも一種の総合大学のようなもので,神道関係の書籍はもちろん仏典,儒教関係の豊富な書物もあったはずだ。彼は研究者としての情熱を失ってはいなかったのだ。しかし研究を進めたところで,それでどうなるという明確な展望があったわけでもないと思われる。
 その生活の安定と家族生活の小さな幸福の中で,おそらく物足りないものを感じていたのではないかとも思われる。青年時代にあれほど切実に求めたものが,そのままに放りはなしになっている。あの激しい葛藤と苦悶はなんであったのか・・・別に宗教家,求道者でなくてもそのくらいの不安は誰でも覚えるだろう。
 世の中には一銭の益にもならぬのに,己の使命感のようにして勉学を続ける人がある。プロの学者,研究者とはまったく異なる情熱に動かされて,地道に報われることもなく,ただただ自分の満足のためにするアマチュア。それは笑うべき徒労とも見えるが,実はそんな「仕事」が時に大きな影響を及ぼすこともあるのだ。まさに親鸞という人の生涯と仕事がそうだった。
 当時の一流の文化人が,後の世の宗教文化の世相を見たら魂消るであろう。自分たちの同世代に生きた親鸞などという聞いたこともない仏教僧侶が,蓮如の出現以降,日本の大半の地で巨大なカリスマの名として掲げられているのだ。「ええ〜?ウッソ〜ゥ!!」てな具合になるだろうか。


 そして当時の寿命としてはすでに十分まっとうしたと言われるくらいの60歳を越えて,彼はいきなりひとつの家族を解体する。いづれそうした幸福も終わる。終わるべき時が来る。それは仏教徒ならいつでも覚悟しているべき見通しであるだろう。のべたらに続くものなど何もない。その覚悟を,よもや親鸞が胸に秘めぬはずはない。
 彼は末娘の,後に覚信尼と呼ばれる人だけを伴って都へ登る。恵信尼は他の子どもらを伴って越後の実家へ帰って行く。まさに今生の別れであり,長年の家族がどんな思いで西東に分かれて行ったのか,この状況を想像するといつも哀切かぎりない。
 この決断の真の意味も親鸞の生涯に関する大いなる謎ではあるが,しかしそれで世間が大騒ぎしたとか,朝野の話題になってひとしきりゴシップ種になったとかしたわけではない。まったくの平凡な市井の一家族の,静かな,沈痛な別離のドラマで,おそらく我々この世の一般人もまたいつか経験しないわけにはゆかないようなドラマであっただろう。
 なお,この都に親鸞と共に行った末の娘が細々と老父の身の回りの世話をしたのであろうが,この覚信尼こそが後の親鸞の業績を保持し,黒谷(後の「大谷」)の地に祠のような道場を構えて「本願寺」と成した。もし彼女の支えがなければ,親鸞の教えはそれまでのこと,結局一代のアマチュア仕事で終わっていたであろう。ここでも女性の力が決定的な作用を及ぼすのだ。

  
 京都へ帰ってからの親鸞の生活についてはまったくの不明だ。親類の宅に身を寄せて,「教行信証」等の著述に静かな余生を費やす。時には関東の方から「押しかけ弟子」たちが訪ねて来る。そんな日常しかうかがえないのだ。
 この時代にも彼が僧形をしていたかどうかもわからない。しかし彼なりに心血を注いだ著作も,別にどこかへ「発表」するとか,「出版」するとか,とにかく世間に発表しようとした形跡もないし,また実際にそんなことはなかった。
 晩年も基本的には静かな生活で,長男善鸞義絶の事件もあったらしいが,これも一般の家庭では珍しくもなんともないことで,極個人的な事柄に近い。親鸞が無名であったという逆の「証拠」は当時の公家の日記に求めることが出来る。京都市中のありとあることを記した公家日記にさえ彼の事跡はいっさい記されていない。そのような人間の名は,当時の知識階級の間ではまったく耳の端にものぼらなかったわけだ。
 まったく彼の名はもとより,その「宗派」の片鱗さえうかがえないことによる。
 「教行信証」等の膨大な書き物は,ただのディレッタント的な著作だと言っても間違いではないだろう。それだからといって価値が減殺されるものでないことは,後の歴史的な事実が証明している。
 それにしても親鸞は何を目指していたのか。何を求めていたのか。それは晩年になっても解明されない。あるいは彼自身にもそのことの意味がわからなかったのではないのか。自分が本当は何を求めて,この世を彷徨ったのか。
 もちろん信心に関して問われれば,もちろん彼は「阿弥陀如来の本願」と言うであろう。しかし人間は「信」だけで,長い長い人生を生き通せるものでもないだろう。どこかに煩悩の影が差すだろう。彼の謎めいた希求と情念を支えつづけたものはいったい何であったのだろうか。
 親鸞の謎は,あるいは彼が行ったことよりも,むしろ彼が行わなかったことにその不可解があるのかもしれない。彼はなぜ「悪」を行わなかったか。彼はなぜ仏教を捨てなかったのか。彼はなぜ越後に留まらなかったのか。彼はなぜ一家と離れ離れになったのか。彼はなぜ寺を建てたり,教団を設立したりしなかったのか。(彼が本気で布教するつもりがあったのなら,そうした条件を調えたはずだ。)なぜ赦免後の法然に会いに行こうとしなかったのか。なぜ他の法然門弟と付き合わなくなったのか。
 もう少し要領よく立ち回れば,もっと良い目にあえる機会も可能性もあったのだろうが,なぜか親鸞は自分を人々の人気の的に供する事を避けた。そうした「人気」を商売にする社会的条件があったかどうかはわからないが,しかしそれでも当時でも人気を取った「知識人」というものはあった。慈円,法然,明恵,定家,西行,兼好,鴨長明,源実朝・・・歌人文人公家武家宗教家・・・入り乱れて百花斉放だ。しかし親鸞はそうした群れの中にはない。
 従って,一方では自分の身の丈に合った,静かな生涯が得られ,ゆっくりとマイペースで熟成することができたわけだ。
 すべてあの長大な,ディレッタント的な著作をこの世に残すためだけに,一切を否定してきたというならば,彼は恐るべき徹底した趣味人と呼ぶべきだろうか。



>「自然(じねん)」といふは,もとよりしからしむといふことばなり。・・・・(弥陀仏の)ちかひのやうは,無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは,かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに,自然とは申すなり。・・・弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには,この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。<親鸞御消息



 最晩年においては彼は「自然法爾」の考え方に関して,不思議な見解を述べている。晩年の彼にとっては,青春時代の「悪人正機」の問題よりもはるかに「自然法爾」の問題の方が重要な命題となっている。そのことだけを語り続けていたようだ。
 「おのずからしからしむ」と読ませる「自然」。しからしむのは,もちろん「阿弥陀如来」であるが,この仏は無色無形と規定する。姿も形も無い「実態」が我々を生命として生かし続けているという自覚,あるいは納得。それは別に珍しいものでもないだろう。汎神論的な生命感覚とでもいうのか,日本の古代の文明以前の人間の原初的な感覚かもしれない。
 無名の生涯を過ごして,膨大な浄土教の学識研鑚の果てに親鸞が最後にたどり着いた思い・・・「自然法爾」。それははたして「浄土教」の範疇にさえある思念だろうか。それをはるかに突き抜けた(あるいは仏教の哲理さえも飛び出した・・・)彼の「阿弥陀観」なのだろうか。
 それは実にあっさりとした,素直で,それこそ自然な考え方ではないのか。



>ゐなかのひとびとの,文字のこころもしらず,あさましき愚痴きはまりなきゆゑに,やすくこころえさせんとて,おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし,あざけりをなすべし。しかれども,おほかたのそしりをかへりみず,ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。 

    康元二歳正月二十七日 愚禿親鸞八十五歳これを書写す。 <唯心鈔文意 

 生涯世間のそしりと嘲りの中に喘いだ,この誇り高き無名の学僧は,そんな訥々としたことを書きながら自らの「自然法爾」を求めている。
 亡骸は賀茂川に捨てて,川魚の餌にでもせよと言ったとか言われるが,もしそれが本当だったとするなら,彼は純粋仏教に生きた人,そして完全に孤立した(一般社会からも,宗教社会からも)人間として生涯を全うしたと言える。
 もっとも当時は一般の庶民階級で葬式などという儀式が普遍化していたかどうかは疑問だ。大量の事故死者や病死者が出れば,結局賀茂川の河原に放って置くしかない当時の当たり前の状況で,葬式を拒んだから純粋仏教者であったと断定できることかどうか・・・