「毛利元就、最後の謀略」

            西方極楽寺・院家(伊藤 節)

 
 戦国大名毛利元就が、その中国征覇の最終段階である尼子氏本城攻撃を目前にして、毛利家当主であり、彼自身の嫡男でもある毛利隆元を謀殺したことについては、もちろんどんな書物にも書状にもその証拠は残されてはいない。それはひとつには、戦国の世にあっては親子兄弟縁類同士が骨肉の争いをすることなど何ら珍しいことではなかったし、時には子が父親を弑逆してその権力を算奪すると云ったことさえ平然と行なわれていた時代では、父親の子殺しにしてもそれが「より崇高な大義」のために止むを得ざる選択であった場合には世間は、見て見ぬふりをするのがある種の常識であったからだ。
 さらに毛利元就についての記録は、後に防長毛利藩が家中の識者をして、いわば官製の実録として編ませたものであり、それ自体が政治的な意図をもって作られたものである以上、その記録に泰平の世にあるまじき骨肉相克の様を映すはずもないし、また実際そのようなことは微塵も書かれてはいない。それらの記録(「老翁物語」、「吉田物語」、「陰徳太平記」等)は、毛利家が西日本の覇者としての最大の盛りを迎えて、組織としての生命力が真夏の子午線上で輝いていた時代、それは元就の最晩年をはさんでの数十年間のことだが、その時代の事績への尽きせぬノスタルジーによって貫かれている。そんな記録の中に、たとえその経緯を伝え聞いた者があったとしても、おぞましい事実をあえて書き残そうと云う勇気をおそらく誰も持たなかったであろう。
 たしかにその事実は文書の歴史としては閉却されている。だが地元史家の間では、そうした噂は四百数十年経った今でもある種の確信をもって語り継がれているのだ。もちろんそうだと断定するに足る「証拠」はない。元就自身の周到な配慮によって、すでに四百年以上も前に「証拠」、「証人」はことごとく歴史の闇に葬られているわけだし、また彼らしいやり方として、周囲の「証人」たちとの十分な根回しを図っ上でのコンセンサス作りに手抜かりはなかったのであろうから、「証人」となりうる者もまた「共犯者」として墓場の向うに事実を持ち去ってしまっているはずだ。実際問題になりそうな「証人」については、彼はきちんと始末を済ませている。隆元の側近で、その身を案じて心を砕いた赤川元保はその四年後に、一方的に切腹させられているし、もっと哀れで滑稽なのは直接の下手人にさせられた和智誠春の末路で、この一党は永禄十一年に厳島に閉じ籠められて誅伐されている。
 元就は一個の典型的な戦国大名であって、その従事した合戦の数はゆうに二百を越える。その戦いはもちろん正々堂々たる一騎打ちと云ったような「古典的」なものではなくて、謀略に次ぐ謀略と云った半ばは政治戦略であり、自らも言うように「はかり事多きは勝ち、少なきは敗け」、「ひとへに武略、計略、調略かたの事までにて候う」の信念を断固実行したものであった。しかしそれでも彼を武田信虎や斉藤道三のような一代の梟雄と見る見方はない。その実績からして彼はたしかに卓越していたし、戦国武将としては人望が際立って高かった。あるいは彼ほどの人間ならば、後世の人心の評価さえ念頭に置いて、こうした世評をも操作したと見るべきかもしれない。彼に「陰徳」があったと云う評言そのものが、彼の「はかり事」の成果であったとも考えられる。
 そもそもの始めは「芸州に於いて御本家三千貫。多治比殿三百貫也。」(「老翁物語」)とあるように、安芸の国で三十以上も乱立していた地方小領主、つまり国人の家のひとつの、しかも嫡男ではなく次男であるに過ぎなかった。安芸吉田の盆地、周囲十五キロ以内を領するだけの国人領主の部屋住み者で、父(弘元)、兄(興元)、その嫡男の幸松丸が相次いで早死にしなかったならば、元就は名もない庶家の部将としてのみ終わっていたかもしれない。
 安芸吉田は江の川(可愛川)沿いの小さな盆地の集落で、全体に低くなだらかな中国山地の各所に点在する、多くの大小盆地の中の平凡なひとつに過ぎず、それ自体に大きな地形的な特徴があるわけではない。馬に一鞭当てれば、たちまち端から端へ行き着いてしまうほどの狭隘な平坦地で、それ以外はすべて山また山の土地柄である。この盆地内で江の川へ合流する川が多治比川で、この二本の河川で水を得ながら農耕を主体とする集落が築かれていた。毛利氏代々の本拠、郡山は盆地に南面する山で、元就の代まではわずかに板ぶきの貧弱な山砦があったに過ぎない。
 毛利家は他に多治比川を一里ほど上った地点に多治比城と云う支城を持っていて、元就は幼少の頃、若隠居した父弘元と共にこの城に移り住んだ。そして元就の人生はこの城から始まる。
「我等は五歳にて母にはなれ候、十歳にて父にはなれ候、十一歳の時、興元京都へ被上候、誠無了簡みなし子に罷成、大かた殿あまり不便の体を御らんすてられかたく候て、我等そたてられ候ためはかりに、若御身にて候すれ共、御逗留候て、御そたて候、それ故ニ、遂に両夫ニまみえられす、貞女を被遂候、然間、大かた殿ニ取りつき申候て、京都の留守三ヵ年を送候、殊多治比を我々ニ弘元御ゆつり候ヘ共、井上中務丞渡候ハて、押領候、然共、(中略)中務丞不思議ニ死去仕候間、その後井上丹後守・伯耆守調法仕候て、多治比へよひ上。(後略)」(永禄元年八月、隆元宛て書状)
 これは元就が六十を過ぎてから語った、自己についての唯一の述懐であるが、彼が「毛利」と云う鎌倉御家人出の安芸国人の正流を継ぐ者ではあっても、その出発はほとんどゼロに等しかったことを、過去の自慢話としてではなく、ただ事実としてのみ淡々と語っている文章である。(たしかに彼の場合は淡々と率直に語るのが一種の語り癖である。)なお、「大かた殿」とは父弘元の側室の高橋氏で、彼女の浄土教への深い信仰が幼少の元就の精神生活に大きな影響を及ぼしていたとされている。また幼少の元就から領地を横領したとされる井上一族については、はるかな後年に至ってその遺恨を晴らしている。
 多治比城で元就は成人し、そこで肉親を次々と失い、結婚をし、長男を得て、さらに目覚ましい合戦働きもやって見せ、毛利家の家督相続のための地盤を作ったと云う意味で、その支城は元就にとっては雌伏の場所ではあったであろう。その取るにも足らぬ山城で戦国大名としての元就の人間性、実力、思想のほとんどが培われたと考えてもよいだろう。
 二十七歳にして辛うじて毛利の家督を継いで後も、営々と努力を重ね、左右の大敵、大内氏と尼子氏を滅ぼして名実共に中国の覇者へと拡大して行ったその実力を認めない者はいないであろう。しかしその膨張と拡大への道程は決してきれい事だけでは果たせなかったし、また悪辣な権謀術数のみでなされたものでもない。おそらく、そして当たり前のことだが、彼は必要なことを必要なほど、的確に迅速に仕遂げたところにその偉大さがあったのに違いない。
 彼は合戦においても、その他の調略においても決して躊躇はしなかった。物惜しみもしなかったし、人に頭を下げる謙虚さも十分に備えていた。そもそも始めは一介の田舎国人に過ぎなかった彼だったが、次第に安芸国中の国人たちの求心力の中心に位置するようになって来たのは、偏に彼の人間性の非凡さに依るところであったであろう。彼は若い頃から実に巧みに周辺の国人たちの心を捉まえた。自分の方から進んで辞を低くして接近し、懇ろな誠意を示し、欲得づくの交際ではない親密な人間同士のつき合いの輪を形成するように心がけて、その輪を次々と大きく広げて行ったのだ。
 一方、戦士としての彼の活躍もなかなかのものだった。彼が毛利家の武将として初陣に出たのは、安芸武田氏と安芸熊谷氏の連合軍と戦った有田合戦だった。これは国人同士の、ケチな土地争いに端を発したありきたりの喧嘩出入りのひとつだったが、元就らしく多治比城から一気に先制奇襲をかけた合戦だった。
「元就公御二十一歳、自ら将としての軍は今日初めなれば、敵大勢たりと雖も、物の数とも思し召されず、真先に御馬を進め給ふ。(中略)元就公一陣に進み給ひ、勢い懸かる熊谷勢を突き散らし給ふ。」(「吉田物語」)その翌日も味方が敵の弓隊によって崩されかかったのを見ると、再び先駆けをしようとして毛利家重臣志道三郎に、「大将の先駆けは時に寄るなり」と押し止められるが、元就は諦めきれずその志道の後から朗党を集めて進み出て、「総勢面も振らず一文字に突き懸かる」。老臣志道三郎にすれば若い元就の気負いや客気が頼もしくもあり、また危なっかしくも見えたことであろう。後に彼は毛利家中での元就の貴重な支援者となる。
 南北朝時代式ののんびりした、小規模な田舎合戦ではあったが、この合戦で元就は名家の棟梁武田元繁を討ち取って、その名が一躍安芸国中に知られることになる。若かったからそれなりの気負いもあったであろうし、またある種の焦りもあったのかもしれない。その前年に元就の兄で、毛利家当主の興元が二十四歳で没し、わずか二歳の幸松丸が家督を継いでいた。しかし幼児に何ができるわけでもなく、元就がしっかりと補佐しなければ、毛利家は戦国の荒波の中にたちまち沈没してしまうであろう。周辺の国人たちに攻め滅ぼされることよりも、むしろ毛利家中での立場の脆さが不安であったはずである。家臣団にとっては組織としての「毛利家」が大事なのであって、その当主が毛利の直系であろうとなかろうとどうでもかまわないことだった。場合によっては、より有力な領主の血縁者を借りて来て当主に祭り上げてもかまわないし、実際元就は後に他の有力国人(吉川、小早川)に対してそうした政略を行なっているのだから、毛利家の家臣たちがそうした誘惑を持ったとしても何ら不思議ではないのだ。世は弱肉強食の戦国乱世なのだ。次々と若死にする毛利直系に愛想をつかされれば、幸松丸が追放されることだってありうるし、そうなると元就自身も目障りな余計者として抹殺されかねないのだ。彼が二十歳にして己れの勇猛さを必要以上に誇示しようとしたとしても、当時の彼の立場からすればそれは当然のことであったであろう。
 彼にはまず毛利家家臣たちの気持ちを、毛利家につなぎ止める仕事が要ったのだ。まだまだ源平合戦や南北朝合戦の時代に生きているような、頑迷で頭の古い男たちの信頼を得るためには、何と云っても己れの肉体的な勇気を誇示するのが第一であった。そうした「実績」を積み上げるのでなければ、たかだか十五キロ四方の小領主の家督さえ継ぐことは出来ない。それが元就の以て生まれた次男としての宿命だった。生まれた時からすでに「殿さま」であった、隆元や輝元たち(あるいは織田信長や武田信玄たち)とは基本的に異なる点だ。彼はどんなことをしてでも家臣や近隣の国人衆の気持ちを掴んで、それらの承認の上に己れの居場所を作り出さねばならなかった。彼の柔軟でしたたかな現実感は、その人生の出発点においてすでに不可欠のものになっていたのだ。
 大永三年、八月十日、元就はその居城多治比城から一里の距離を移動して、郡山城に新しい当主として入った。血色の好い面長な顔を美髭が黒ぐろと囲む、精悍な容貌の青年武将が栗毛の馬に跨がって悠然と東に行く。その後に供の者たちの列が続き、誰もが真夏の日差しを防ぐ網笠を被って黙々と歩む。一行の中程には、当歳の赤子、後の隆元を抱いた元就室の吉川氏が轎に乗る。一行は朝の涼しいうちに長年住み馴染んだ多治比の城を後にして、短い旅に出たのであった。昼前には郡山城本丸に到着した。そしてその日から、元就の戦国武将としての戦いが名実ともに開始するのだ。
 この一ヵ月前に幸松丸が病死する。後継問題で郡山城中の家臣団は激しく対立した。ひとつの案としては、元就を排して出雲尼子氏からしかるべき人物を迎え入れ、これを当主とすると云うもので、尼子の勢力が備後・安芸方面に急速に浸透しつつある時代であったから、それは無理からぬ発想ではあった。しかし執権志道氏らの懸命の説得でこの案は退けられて、元就に家督相続を要請するための起請文が作られて、これに重臣十五名の連署を得て、多治比城に送られた。元就はそうした動きの中でも、自らは表立った働きかけはせずに、ひたすら「出番」の来るのを待っていた。しかしこの段階での家臣団中の確執がなまなかなものではなかったことは、すぐ翌年に元就自身が十五人重臣のうちの二人、坂広秀と渡辺勝、さらに彼の異母弟元綱を共に誅滅していることからも察せられよう。
 当主となった元就は、まず安芸・備後をはさんで対立する二大勢力のどちらか一方につくことを明らかにする必要があったが、言うまでもなくこれは小領主にとっては命懸けの選択であった。防長の太守大内家、出雲伯耆石見の太守尼子家、そのどちらもが一国支配を完成させた守護大名で、この二大勢力の狭間で安芸・備後の国人衆は帰趨に思い悩んでいた。毛利家さえ時に大内氏につき、また時には尼子氏につくと云った反復常ないありさまだったが、時代は切迫し、ついに旗幟鮮明を決断をせねばならない時が来ていたのだ。
 元就は、大永五年、尼子氏と決別して大内氏に帰属することを決定する。それがおそらく安芸・備後の大半の国人衆の判断でもあったのであろうが、なお尼子に肩入れする国人に対しては元就は断固として闘った。中国山地内の豪族高橋氏を討滅し、一方天野、熊谷、宍戸、山内の各国人と堅固な同盟関係を結んで行く。元就にとっては戦国大名への道とは、そのまま「連盟政治」の過程であったとも云える。多くの戦国大名が露骨な武力を背景にして一国支配を貫徹させて行ったのとは、多少とも趣が異なっているかもしれない。安芸国人衆の利害に最大限の気配りをしながら、そのコンセンサスを取り付け、その最大公約数的な方針のもとに彼の軍事力の発動はなされていたのだし、場合によっては己れの領地の一部を割譲してでも国人衆の気持ちをつないでおく必要があったのだ。元就にとっての戦いは、槍や刀の闘争以前に、目の前の現実の他人の心理との格闘があったのだ。
 後に戦国の大名として毛利家が独立したあとでも、元就はこんなことを言って嫡男隆元を諭している。外出したおりには用があってもなくても、近くの国人の屋敷に立ち寄り、世間話のひとつも交わして挨拶をするように心がけねばならない。彼らの気持ちを絶えず知って、飽きられないようにする必要があると。それはひとつの「政治」であったかもしれないし、またそれは戦国の世に何者かとして生きて行くための当然の世間智でもあっただろう。対人関係における根気強さ、忍耐強さ、そして気遣い、その目立たぬ日常茶飯の努力の積み重ねが彼の発展の基礎だったことがわかる。同等の力と資格を持った人々を結集させて、さらに一頭地を抜いてリーダーシップを発揮すると云う実力において元就はたしかに優れていた。しかし元就はただ人柄が良かったと云うだけの田舎者だっただろうか。
 「陰徳太平記」では彼の容貌をこう述べている。「眼の光鮮明にして、最恐ろしげなり、その声大にして狼の声、雷の響きに似たり、その上言語分明なれば、士卒に掟し給ふ声、一軍二軍にも聞こえ渡りけり、顔長く鼻高くして、壮年のころよりは、鬚髯神の若くと云いけんやうに、左右に分かれて生い茂り、怒り給う時は一つ一つ逆さまに縮み上がって冠を衝く」
 軍司令官としての彼の力、行動家としての肉体的な能力においても疑う必要はない。そもそも戦場と云う地獄に、それぞれの人生を抱えた大の男たちを引き連れて行くのに高邁な思想や利害の分別を説くだけで足りるだろうか。将兵たちの行くか行かぬかのぎりぎりの迷いの前で、大将の何ものかが試されるはずだ。強い表現力、充溢する体力、威圧する厳粛さ、堅固な信念、度量と余裕、そして何よりも微塵も衰えない闘志、合戦とはまさに「牡」としての潜在力のすべてが一瞬で試される場だ。ある決定的な一瞬を過ぎてしまえば、あわててそれらの要素を再構成しようとしても後の祭り。群がった男たちの心は永久に白気きってしまうだろう。すなわち敗け戦だ。
 元就は政治的には多様で柔軟な動きを取れたが、一度戦場に出れば決して敗ける戦はしなかった。圧倒的に不利と分かった戦にも彼は家臣や国人たちを連れ込むことが出来た。元就の「大将」としての実力、それは実際に彼の二百六十回に及ぶ合戦の記録が物語っているはずだ。
 しかし一方では元就は同盟関係を結んだ国人や譜代の家臣をその本心においては、決して信じてはいなかった。現実を冷徹に見抜く元就は、多くの合戦を共に闘う仲間のことに気を使い、その利害や面子を最大限尊重するように心を砕いたのだが、人間の本性が時と状況次第でいかようにも変わりうることを片時も忘れなかった人間でもあった。実際それぞれの地域に盤踞する領主と云う連中は一筋縄で行くような人間ではなかったであろう。その意味での恐るべき現実主義者であり、彼の実践としてのマキャベリズムもそうした根本認識の上に築かれていたと見るべきであろう。この戦国の時世を、「下たりたる世中にして」と見做した男の、営々と続けられた仕事(それは有り体に言ってしまえば征服と云う事業だが)への情熱の裏側には近代人に通じるある種の現実認識があったようだ。
 また、家臣についても「その家の主人、内の者を失い候ことは手足を斬るにてこそ候へば、悪き事の最上にて候」と言いながらも、家中最大の勢力であった井上一族を天文十九年七月に一種の騙し討ちで誅殺している。元就のダーティな仕事は他にも数え上げればきりがない。次男元春を吉川家に入れるについて、元の当主興経を無理遣り隠居させて、さらにその隠居場を襲って興経親子を殺害している。同じく三男隆景を小早川家に入れる際にも、その家中の反対派に対して毛利家の武力を用いて粛正を行なっている。
 元就の四十代から五十代を通じて、すなわち天文年間においては彼が一介の小領主から、安芸国中に散らばる国人衆に抜きん出て、一国支配のための基盤を構築しようと努めた時代であった。そのために手段を選ばない強引さも見せている。おそらくそれもまたひとつの焦りであったのだ。彼が明確にそれを戦略的な課題としだしたのには、おそらくふたつの危難が契機となったに違いない。そしてそれは予想されていた危難ではあったのだ。
 山口の大内氏に従属することで旗幟を鮮明にした毛利家にとって、そのライバルである出雲の尼子氏からの何らかの報復は覚悟していたところであったであろう。両勢力の間を綱渡りのように渡って行く、その精妙な政治感覚だけが生き残るための必要条件であるからには、安芸・備後の国人衆にとっては巨大なふたつの歯車に挟み潰されてしまう危険は常に付きまとう。日々刻々の複雑な身の処し方に失敗すれば、自分の一族の墓穴を自分で掘ることになるのだ。それが南北朝以来、強力な守護者を持たないこの地域の小領主すべての宿命とも云える。
 天文九年九月、尼子晴久は自分の中国征服の野望に対してはっきりと反旗を翻した安芸の一国人、毛利氏を抹殺するために三万の軍勢を催して、吉田郡山城山麓に襲来した。当然籠城戦になるが、元就がこれに対抗して集めることの出来たのはわずか二、三千の将兵と、どこまで本気か分からぬ大内氏からの援軍だけだった。籠城をしながらも、元就は自ら兵を率いて果敢なゲリラ戦に打って出た。その小合戦の一回でも躓けば、それで万事休すと云うことになるかもしれない。この年の秋から冬にかけての期間、元就にとっての生きるか死ぬかの決戦が続いたのだが、元就自身の「郡山籠城日記」には不思議なほど淡々と事実の列挙のみが記されている。その図抜けた、超人的な沈着さあってこその勝利と云えるかもしれない。たしかに結果的には元就の勝利で終わった長い戦であったが、圧倒的な敵勢に包囲されて、いつまで続くか分からない籠城を行なう者の心理は、その「現在」に立ち戻れば狂気とすれすれの地点にあったことは疑いない。
 大内氏の援軍については、実際いつ来るとも来ないとも分からぬいい加減なもので、尼子軍が吉田に襲来してから三ヵ月後にようやく一万人の軍兵が現われた。しかもそれを統べるのは、初陣の若干二十歳の若武者、陶隆房(のち晴賢に改名)であり、嫡男隆元を人質に山口に差し出している元就とすれば落胆する思いであっただろう。しかし恨みがましいことを言っている立場ではないし、たとえ一万でもこの場合貴重な援兵である。毛利家は、この血気盛んな青年武将とその側近を歓待して、遠路の助太刀を懇ろに謝した。
 天文十年の正月を過ぎると、若造と内心侮った大内家のこの部将が、むしろ若いだけに怖れを知らぬ勇猛な活躍を見せて、尼子晴久の本陣を一気に突く攻勢に出てくれたおかげで、尼子軍は総崩れとなり、郡山城包囲を解いて雪の中国山地を敗走して行った。それが一回目の危機だった。
 二回目の危機は大内家当主、義隆の方から来た。考えて見れば、元就は大永五年以来大内氏の安芸におけるエージェントのような役割を担ってひたすら忠義立てをしてきたが、(実際、一族の存亡をかけて尼子の侵入を防ぎもしたが)元就が思うほどには義隆は毛利などと云う小勢力を重要視してはいなかったのであろう。そもそも西国の名門の太守である大内家にとっては、安芸の国に三十以上もある国人のひとつやふたつどうなろうと気に掛けるほどのことではなかったし、また義隆自身そうした地政学的な政略への興味と関心が生来少なくて、彼は若い頃から文化的な趣味に専ら埋没する人間だったのだ。生れながらの公家大名、詩歌管絃をこよなく愛し、京風の雅びに限りない憧れを抱き、窮迫した公家や文化人をあまた呼び招き、日夜優雅な遊宴にうつつを抜かすディレッタント。しかし明や朝鮮、あるいは南蛮との対外貿易で得る富や文化の総量は、農業生産だけに依っている安芸吉田の小領主にはおそらく想像もつかぬ規模のものであったであろう。義隆の山口では京の古典文化の精華と、エキゾティックな異国文化の色調との混淆が、その莫大な富の上に展開していた。
 その公家大名が気の進まぬ遠征へ、配下の部将たちから促されて重い腰を上げた。郡山城合戦に敗退した尼子氏を討つ、これが千載一遇のチャンスと見た陶氏らが、その翌年に征討の軍を起したのだ。天文十一年。義隆の本軍は安芸を通って、出雲の尼子氏本拠富田月山城へと進軍する。当然、その露払いは毛利家が務めねばならない。
「馬鹿なことを」
 元就は臍を噛む思いであったであろう。去年命懸けの戦闘を辛うじて潜り抜けたばかりで、民も将兵も疲弊しきっていると云う家の事情もさることながら、たった一度の他国での戦闘に敗退したとは云っても、なお依然として石見、出雲、伯耆、備後、備前に勢力を張る大大名尼子氏の本拠を易々と抜けるはずがないではないか。十分な準備もせずに、兵站線が延びきったまま敵地に長期間滞留すれば自滅するのは分かりきっていることだ。結局、去年の尼子氏の失敗の轍を踏むのがおちだ。しかし服属する身には、進言も抗弁も適うはずはなく、何よりも先年の陶軍一万の援軍の恩義がある。元就とその家臣一同は重い気持ちで出陣したに違いない。
 それでも元就は露払いの役目を十二分に果たして活躍した。出雲、備後の境の赤穴城を瞬く間に陥落させて、大内軍を出雲地方になだれ込ませた。そして富田月山城を遠巻きにして布陣したところで、案の定戦線は膠着した。時間が経つほど、準備不足の遠征軍には不利になって来る。元就も何度か突撃を試みたが、堅固な要塞はびくともしない。元就の毛利軍は最前線である経羅木尾根に陣を構えて、翌天文十二年の春を迎える。
 思っていた通り、時間が空しく過ぎるにつれて、いったんは服属していた出雲、石見の国人たちがこちらの陣を見限って、再び尼子側に寝返って月山城へ合流する。その動きに元就が不安を覚え始めていた時、いきなり何の知らせもないまま大内本陣が撤退した。義隆は好きでもない合戦の膠着状態に飽き飽きして、後先も見ず、さっさと本陣を撤収して船で遁走してしまったのだ。忍耐も定見もない移り気なお公家ふうの身勝手と云えばそれまでだが、それを知らされた毛利軍陣地は総立ちになった。彼らは捨て駒として敵地に置き去りにされたのだ。まず無念の悔しさで言葉を失い、誰もが地団駄を踏んだ。さらにそれから後の事態を予想して恐怖で腹の底が抜ける思いになった。
 いますぐにでも、敵の総反撃が開始されるかもしれない。敵地で完全に包囲されればなぶり殺しにされるのを待つだけだ。最大の窮地だった。毛利家中は軍道具を始め何もかもを放り捨てて走った。恐怖と失望に追いすがられた者たちの命懸けの逃避行が始まる。執拗に追撃する敵と交戦しながら、出雲平野の泥田の中を猟犬に追われる猪のように駆けた。泥まみれ、血まみれになった毛利軍は、お互いに励まし合いながら夜を撤して西へ走って行く。
 海岸沿いを仁摩郡波根まで逃げのびて、そこから安芸国境へ向かう山道へ入り、その途中の険しい七曲がりの坂(降露坂)で在地の地侍の群れに包囲されて、元就本陣が孤立した。馬回りの武者が刀槍をふるって懸命に防ぎ闘うが、見る間に渡辺平蔵、児玉元保ら譜代の家臣が討たれてゆく。
「もはや、これまでか」
 元就も自決の覚悟を固めた時、囮の影武者になろうと云う者が出た。元就の鎧を着て元就の馬を走らせ、敵を別の方向に誘き寄せる火急の対処法だが、もちろん囮となった者は確実に殺される。志願したのは渡辺通と云う家臣で、彼の父親はかつて元就によって誅殺されている。元就が家督を継いだ直後に行なった粛正の犠牲者の嫡子だった。大永四年に渡辺一家が殺された時、幼い彼は身ひとつで逃れ、備後の山内氏の元に匿われ、そこで成人した。後に山内氏が毛利氏と同盟する時に、その取り成しでふたたび元就の家臣となったと云う経緯がある。そしてこの天文十二年五月、降露坂にて渡辺通と仲間六人は見事影武者の役を果たして、元就本陣を安芸に逃れさせる一方、自らは海岸へ引き返してそこで壮絶な討ち死を遂げた。これを「七騎落ち」とも云う。元就はこの忠義に感じて、後々まで渡辺家を家臣第一等として厚遇している。

 この時隆元は元就の側に従っていたはずだが、この劇的な瞬間をどのように見ただろうか。渡辺通にとってはかつて実の父親を誅殺して、幼少の自分に艱難辛苦を与えた張本人が元就であり、その身代わりとなって、命を捧げるほどの決心をその若者に進んでさせたほどの動機、それが何であるのかを考え込んだことだろう。君臣関係の理想像と云えばあまりに美談に過ぎるが、実際に彼隆元の眼の前で起ったことである。そんな剥出しの「美談」は少しでも世間擦れした人間の好みには合わないはずだが、心根の純朴な二十一歳の隆元にとってはどんな印象を与えただろうか。
 実際にはこの殺伐とした時代には、生命を差し出すほどの忠義もまたひとつの打算のパーフォマンスで、他に取得のない人間が己れの命を代償にして、主君から子々孫々の繁栄を保証してもらうと云った下心は珍しくもない欲念だった。そうした事情は現代の組織の中でも云えることかもしれず、能力のない人間が自己犠牲を唯一の売り物にして点数を稼ぐ有様はさして珍しくもない事柄である。
 隆元はこの時、五年間の山口大内家での人質生活を終えて二年前に安芸吉田に戻って来て、このたびすぐの出雲遠征出陣だった。隆元を大内家の人質として差し出すことは、元就一流の政略とも云えたし、また尼子の攻撃に対する保障として当然の処置でもあったであろう。ところが大内義隆はこの安芸の田舎領主の継嗣である少年をよほど気に入ったらしく、彼が山口に到着するとただちに、自らが烏帽子親となって隆元の元服式を行なってやった。編緯を授け、その贅を尽くした築山館で、身内と同様な厚遇でもって暮らさせた。このため隆元は十五歳から十九歳までのもっとも多感な少年時代を、その豊かで多様な文化をもつ当世一の華やかな町、山口で過ごすこととなった。大内家そのものが足利幕府を支えた名門の守護家であり、しかもその殷賑を頼って都からは有名無名のあまたの公家たちが移り住み、また諸国からも文化人たちがひきりなしに参集していた。また時には明人や朝鮮人、あるいは南蛮人たちが三々五々通りを行く光景にも出くわすと云った町で、隆元の異郷での青春時代は人質と云う身分ではあっても、十分に豊穣なものとなりえたはずであった。
 義隆については、政治軍事を顧みることなく、日々詩歌管絃にのみ熱中して文弱に流れた公家大名とする見方もあるが、一方で「大内義隆記」によれば、「文武に達して双びなく、慈悲勝れて類無し」、「末世の道者とや申しけん」ともされている。しかしたしかに彼が武事を嫌って、極力その職責を避けたがったのは事実であり、そのため陶氏や内藤氏などの部将が家内で台頭するきっかけを生んだことは間違いない。いずれにしても郡山合戦に敗退した宿敵尼子氏を追って、その本拠まで易々と攻め込んで、攻略不可能と見るとさっさと自分だけ逃げ出してしまった事歴を見ても、彼が戦国乱世を自らの腕力で切り抜けられる指導者でなかったことは間違いない。
 元就は九死に一生を得て安芸吉田に帰還すると、ただちに安芸国内の国人衆と起請文を交わして同盟関係の維持に奔走し、尼子軍の再度の侵攻を国境辺で必死に防いだ。元就自身が二度の危難を通じて学んだことは、他国の大名がいかにあてにならないかと云うことであり、振り返って長年守護大名を受け入れなかった安芸備後の国の境遇がいかに惨めかと云う認識だったに違いない。いまさら幕府に泣き付いて守護を派遣してもらうわけにもゆくまい。第一幕府にはもはやそんな実力は微塵もない。とすれば、この地下の国人衆の中から真に実力のある者が一国を統制して、他国の侵略から国人地侍を守る役目を担わねばならない。もちろんそれに相応しい家格や実力を備えた国人は、毛利の他にも天野、吉川、小早川、平賀、三吉などいくらでも散在するが、冷静に判断すれば今この時点で最も有利な条件を兼ね備えた一族の最右翼はやはり元就の毛利だと、彼自身確信したことであったに違いない。
 元就はなおも大内家に臣従しながらも、その内実では着々と一国支配の体制の準備を進めていた。そのために天文十五年、元就五十の年に早々と家督を隆元に譲ってしまった。これは吉川家を継いだ元春、小早川家を継いだ隆景らの兄弟と、隆元の指導者としての資質があまりにも違い過ぎて、元就が万一の場合に家督継承問題から重大な内紛を引き起こしかねない、(実際そうしていくつもの戦国名家が自壊したわけだから)それを怖れたのが第一だった。一方、神経過敏で、内向的で、孤独癖のある隆元を早くから戦国大名に相応しい人間に教育する必要もあった。隆元は二十四になったばかりであったが、始め家督相続を拒否したとされる。
 毛利家は安芸国の盟主としての地位は築きつつあったが、いまだそれは船出の段階である。元就の政略により他の有力国人家を継いだとは云っても、元春も隆景も若く、家中での基盤はなお固まっていない。向背常ない国人・地侍を相手にしてその感心をつなぎ止め、彼らを手足のように使役するなどと云う術策は、生来謹直で、小心な自分には逆立ちしても出来ないと悟っている点は、むしろ隆元らしい素直さと云うべきかもしれない。人格の高潔さにおいてはたしかにそうだとしても、しかし元就はこうした嫡男にむしろ言い知れぬ不安を覚えないではいられなかったであろう。
 指導者は窮地においてその真価が試される。大内義隆の思いつきだけの稚拙な遠征の失敗が元就にとっての、安芸国内での最大の政治的な危機だった。降露坂では七人の家臣の自己犠牲によってその命を取り留め、帰還してからも国内の国人を必死でつなぎ止めて、尼子の再侵攻を辛うじてかわした。その獅子奮迅の活躍を側で見聞した隆元が父親に感心するばかりで、自分は何もやろうとしないのに気づいて、元就はついに断を下した。無理やりにでも、気弱な長男を修羅場に引き出して、その性根を根幹から変えさせようとのつもりであった。
 隆元はたしかに文弱になっていた。そのことを元就自身が語っている。「能も芸も慰も道たても本路たても何もかも不入候、ひとへにひとへに武略計略調略かたの事までにて候」、「おさなく候時、鷹に一段数寄たる者にて候つる、在山口以来、さようの事一円数寄候はす候、当世はかやうの事ならては、更山口かかりなとにては、この境なとのすまいは不成事候まま、是非とも来年は鷹を持候て山へ罷上て可然候」
 この乱世の時代には歌も連歌もなにも要らぬ、唯弓矢の心がけが第一であると諭しているが、そもそも歌にも連歌にも相当の数寄者であった元就が(「春霞集」などの歌集もある)そこまで開き直って説教するほどに、隆元の文弱生活は目も当てられぬものであったのであろう。明けても暮れても尾崎屋敷に居籠もって腰折れ歌や随想の執筆にうつつを抜かし、乱世の血みどろの政争にいっさい目を暝り、国人や重臣たちとのつき合いを等閑にしている隆元に苛立ちをも、情けなさをも覚えたことであっただろう。元就は鷹狩りをせいの、蹴鞠をせいのとしきりに意見をしているが、肉体的にも虚弱であった隆元は年とともにむしろそうした趣向を失っていったようである。
 また隆元は神経過敏なわりには優柔不断で、「安閑とせず、物事を急いで断行し、酒色を節すべし」との元就の叱りを受けてもいる。酒毒については、元就の兄興元、父弘元の先例があるだけに元就としても人ごとならず心配だったのであろう。一方、元就は和歌、連歌に多少の娯楽を求めたが、それ以外には何の享楽生活も追わなかったと云われている。たしかに生涯二百度を越える野戦に出向き、領域を統治して、ついには一代で日本の三分の一以上を支配した男の私生活に退廃的な趣味が紛れ込む隙はなかったであろう。彼の遺品を見ても、当時流行のバサラ的な過激性や装飾性などはまったく無縁で、地方で農業生産と密着して暮す本来的な武士の質朴さがよくうかがえる。
 混沌たる乱世の領主たちにとってはその私生活においてはどんな制限もルールもないとも云えたわけで、完全な自由生活が保証されていて、いつでも好きなことが出来、好きなだけ浪費し、誰からも罰せられることがないと云う状況がある。感情の自由、浪費の自由、時間の自由があり、つまりやりたい放題の自由、あるいは何もやらないことの自由が生来的に存在し、それこそが中世の世の人の無制限な人間性の温床であったとも云えるかもしれない。あえて制限があるとすれば、それはおそらく己れ自身の肉体と精神の限界だけであっただろう。領地内で絶対権力を得ている者たちにとっては、自分自身が最大の敵であるとも云えたわけだ。
 元就は酒を飲む習慣を持たず、身体の管理には並はずれた自制心を維持したが、それあればこそ七十五までの長寿を保つことができたのに違いない。その意味でも元就の生活態度は「近代的」なものであり、元就が中世と近世の境目の時代にありながら、すでに近代的な合理主義を存分に発揮した理由がそのへんにもあると思われる。ミステリアスな様々のものがはびこり、人間性の野放図な無秩序や激情と共存していた「中世」。その現世の地平にあっては自堕落や誘惑に負ければ、それこそ際限のない頽廃へと陥ることを彼は若い頃からすでに自覚していたふしがある。元就の隆元への説教癖は今風に解釈すると、人の好い親父の老婆心と見れないこともないが、一歩踏み込んで中世戦国と云う当時の時代背景に照らして冷静に見てみると、やはりその父子関係には壮絶な緊張状態のあったことが推察される。
 一方、隆元の性格的な優柔不断、その生活の柔弱さ、依存的な立場もまた中世の色濃い残映であるかもしれない。隆元が烏帽子親、大内義隆に寄せた思慕は並々ならぬものであった。それが後には毛利家の対外政策の方針を左右する結果にもなるのだが、隆元にとっては義隆は主であると共に、人生の規範そのものであったかもしれない。大内義隆がまさに山口で演じた深いデカダンスの生の余韻が、そのまま隆元の心に反映していたとも云える。あくまでも優雅に典雅に趣味人の生活様式を追い求め、公家文化人たちと日夜交わり、歓談と美食と美酒に興じ、憂き世にありながら浮き世の夢をひたすら追い続け、死と絶望と衰退と終末の現世の現実から極力逃避しようとして、結局そこへ向けてまっしぐらに墜落して行った貴人、大内義隆。崇高なる愚者。まさに彼がこの世に残した唯一の置土産とも云うべきものが隆元であったかもしれない。
 義隆の華麗で富貴なデカダンを、その中世的な生の迸しりを、むしろ暗く陰気で孤独な形で継承したのが、皮肉なことに新興の戦国大名毛利氏の嫡男であったのだ。武張ったことを極端に嫌い、文化の上澄み液に耽溺し、文化の持つ超越性のみを愛した公家大名の命運もすでに下剋上の乱世の掟の下に確定していたようなものだった。防長の国人部将たちの欝憤が高まり、彼らの怒りと侮蔑の刃が義隆の喉元近くまで来ていたにもかかわらず、彼はそれへの対策などいっさい講ずることなく、運命のなせるままにあえて悠然と流されて行ったおもむきさえも感じさせる。
 中世的な情念と云う意味では、義隆や隆元とは正反対の性格ながらも、その破壊的な暗黒の力を存分に、しかもおそらく「意識的に」働かせて戦国大名としての光芒を放って消えて行った男を、もう一人連想することも出来よう。尾張の織田信長で、彼はその破天荒な政治手腕で日本の近世を開いた人間とされているが、実際の彼自身は元就と比較すればはるかに中世的な要素を色濃く保持した政治家であったことが分かる。信長の過剰なニヒリズム、感情過多、宗教を含めた絶対的なものへの激しい思い込み、政治的な非妥協性、そして陶酔へと向かう情念の凝縮作用。すべて元就にはほとんど存在しなかったものである。三十八歳も年上の元就が、目の前の現実の尊重と他者とのコンセンサスの確立に生涯の指針を置いた(その果断なマキャベリズムさえが「合理的」であったほどに)のとは、基本的な人間の在り方が異なっているとしか言いようがない。信長には、中世の人間の最も深い闇があり、それは彼の政治生活の中では時に最も激しい憎悪とか、あるいは究極的な野心と云うかたちで奔出したのだ。
 中世社会の根幹は農業生産であり、水田耕作は必然的に「村」、「惣」と云った共同体に立脚するのだから、その社会的な一般的性格特性は共同体への全面的な妥協と恭順にあったはずである。そしてそれが大衆の側の普遍的な社会規範である以上、生産の日常から生来的に遊離した権力者には当然それとは対蹠的な性格特性が要求されることであろう。権力者には被支配者とは明らかに異なったものが必要だったのだ。生産のための協調性や忍耐や穏便とは反対の事象にある心理や感情の特性、すなわちそれが「過剰性」で、それこそが中世における指導者の存在意義なのだから(あるいは力ある者の義務だとするなら)、一般人を支配するとは常に独創性と苛烈さと行動力とを指導者自身が試され続けることを意味する。過剰なものごとによってのみ、領主であり武将でありえたわけだ。まさに信長はその暗い精神の過剰さの集大成としての権力者であり、その力だけを頼んで時代を強引に引き回して行った男であった。
 元就もまた「中世」の濃厚な時代に生きて、そこを勝ち抜いて来た人間であった。彼自身血みどろの戦いを闘い、一部の親族や家臣を滅ぼし、ダーティな策略を弄することをためらわなかった。しかし彼のやり方には一貫して合理的な「理由」があって、衆人の納得を得ることを前提にして行動を起こし、決して独断の専行はなかったとされている。大内義隆の滅亡の前年には、家中最大の粛正を井上一族に対して断行しているが、これも半独立的な譜代家臣井上家の傍若無人の横暴を三十年以上に渡って耐えたあげく、弾劾の罪状書を起草して家中の意思を統一した上で、さらに主家の大内家の内々の承認まで得ることまでして、ようやく実行している。この粛正では、井上元兼を始め一族三十余名を、用意周到な、徹底的なだまし討ちによって斬殺している。
 もちろん勝利した側の自己正当化など何ら信ずるに足らぬであろうし、元就自身、当主隆元の障害となる有力家臣を取り除いてやったのだと語っていることからも、多分に自己中心的な動機があったのであろうが、いずれにしてもこの「荒療治」によって毛利家中での宗家の絶対的な権力が確立したと云われている。庶家の有力家臣には元就と云えども相当の気遣いをせねばならなかったのであろうし、そもそも元就の家督さえ彼らの合意の上に築かれていたのだ。
 そして大内家の内紛と、義隆の滅亡については元就は非情なほどの傍観者的な立場に撤して、あまつさえその間隙を突いて安芸備後の大内家の勢力を駆逐することまでしている。義隆自刃三日後、安芸頭崎城攻撃。翌年、安芸西条槌山城攻陥。同年、備後宮氏撃退。翌々年、備中穂田氏攻撃。同年、備後高杉城攻略。同年、備後旗返城攻陥、江田隆連敗走。備後山内氏、多賀山氏服属。もとより義隆に対しては口にはせぬながら深く恨みを含むところもあり、また戦国の下剋上の有様を知りぬいていた元就にはそんなに容易く弑逆される男の方にこそむしろ非難の目を向けたことであろう。それに勇み肌の若武者ながら、大内家塁代の武門である陶晴賢(隆房)の方により体質的な親しみを覚えたとしても、元就のような根っからの「侍」とすれば無理からぬことであったであろう。
 現代では理解しがたい不思議な情念であるが、大内義隆は自らの滅びを予感していたと云われる。天文二十年夏、陶隆房が謀反挙兵をする以前から義隆はそうなることを知りながら、それへの手立てを何一つ打とうとはせず、遊興の催事に沈潜して、政務のいっさいから遠ざかっていた。すべての死と終末を信じた男の、今生のかぎりの遊び狂いだった。「然れども、義隆卿は、陶謀反とある事を、実説とは思ひ給はざりけるかや、曾て討手の沙汰もなく、明くる天文廿年亥の八月まで、朝暮、詩歌・茶会・管絃・乱舞にて、公家衆と延年の御遊びのみ也。」(「中国治乱記」)そして謀反勃発とともに築山館に攻め込まれると、そこをあっさりと見捨てて寄食の公家たちといっしょに遁走して、海路九州方面に向かおうとした。しかし海が荒れて船は元の岸辺に引き返さざるえなかった。そこで無駄とは知りながら長門大寧寺に逃げ込み、「大寧寺へ御籠り、其の夜は意雪和尚と仏法の御雑談にて御慰みありける」。さらにここへ敵が寄せ来て、もはやこれまでと悟った義隆は、「心静かにりんじうのつとめあり、其の後腹を切り玉ふ。」享年は四十五歳だった。
 もちろん時代は戦国の最も激しい動きの時期に差し掛っていた。滅び去った者への鎮魂にかかずらっている暇は誰にもなかった。全国の新しい戦国大名がそれぞれの地域で一国支配の覇を争って、他の戦国大名たちと熾烈な生き残り戦を闘い抜いていた。この天文年間末期、武田信玄三十代、織田信長二十代、上杉謙信二十代、そして木下藤吉郎が織田家に出仕し始める頃である。毛利隆元の嫡子輝元が郡山城で生まれたのが天文二十二年であり、この時すでに元就は六十に近づいていた。その年に至ってもなお、一歩でも対応を誤れば積年の努力は水泡に帰す。かと云って手を拱いていても滅ぼされる。無秩序な戦国の世は無尽蔵の可能性が目の前に広がると共に、一日一日が魂の擦り減るような修羅場でもあったはずである。一国支配を完成させても、さらにその上の課題がただちに押し被さって来る。四隣は隙を窺う虎狼のような敵だらけ。まさに戦国の世の第一回戦から参加した元就は、その全人生を「くたりたる世」の地獄で闘い抜くことを宿命とされていた人間だったのだ。
 二十歳で初陣を華々しく飾り、二十七歳で家督を継でから三十年以上もの間、営々と安芸国人の盟主としての地位を築き続けて来た元就であったが、未だ一国支配の体制が固まった状況でもない。しかも嫡子で、当主の隆元の意思薄弱とも云える優柔不断と孤独癖のために家臣団や国人衆の気持ちが離れつつあることも心配の種だった。一方、隆元が大内義隆の滅亡で受けた衝撃には只ならぬものがあった。彼が深く親炙していた、真のディレッタント。戦国の大名としてはあえて無益で不利な「文化人」としての立場を選択し、ほとんど開き直ったようにその生き様を貫いた男のあっけない最期は、「弟子」にとっては自分自身への否定を突き付けられた思いであったであろう。
 この衝撃を境にして、隆元は仏教への帰依を急速に深めてゆく。単なる偽善、あるいはある種の宗教政策として仏教を治国の教義に据えて、君主自らもそれを奉ると云う例はいくらでもある。しかし隆元の仏教信仰の思いはそんな上辺のお飾り信仰ではなくて、この人らしく思い詰めた深刻な実質があったようである。彼は出来れば、毛利家の当主の座を捨てて出家してしまいたいと云う希望だったようにも思われるが、そしてそんな願望は一言も口に出さなかったが、もし言い出していればおそらくその方が誰が考えても似つかわしく思われたことであろう。
 真の求道者が隆元であるならば、元就の信仰は多分に「近代的」で、打算的なものであった。元就が真の意味の信仰を持っていたか否かは判断のしようがないが、少なくとも彼が政略の一環としてそれを利用したふしはある。当時はまだ迷信や怪異が真剣に民衆の心を脅かしていた時代であり、信仰を客観化して利用しようとする思念そのものが超時代的なことであったはずである。己れを律する武人の自信が、たとえば後年の宮本武蔵の有名な言葉、「神仏を尊みて、神仏を頼らず」の心境を自然と生み出すものなのか、元就の信仰生活はそれなりにひとつの人間性の基礎ではあったが、決してそれに従属するものでもなかった。彼は幼少の頃、多治比城で旅渡りの念仏僧から念仏による「後生の大事」を授かったと述懐しているが、それ以後「当年の今に至り候て、毎晩多分に呪い(祈り)候。この儀は朝日をおがみ申し候て、念仏十篇づつ唱え候わば、後生の儀は申すに及ばず、今生の祈祷このことたるべきの由、受け候つる」と言う通り、毎朝日輪に向かって念仏を唱えるのを日課とする生活習慣であった。本当にそうであったかどうかは分からないが、たしかに規則正しい暮らしぶりで長命を果たした元就であるから十分にありえることであった。
 そもそも彼の信仰は自分の生活、仕事はもとより、他人の生活や思想に犠牲を強いるようなものではなかった。そうした念仏の習慣を三人の息子たちには勧めているが、それ以外の他者に強制するなどと云うことはない。そして彼には地元の安芸厳島神社への崇敬の気持ちもまた強いが、これも明らかに政略的なもので、天文二十三年から始まる山口の陶氏一党との死生を賭た戦いを用意するに当って、厳島社の神官国人棚守家との親交は是非とも必要なことであった。当時の厳島は信仰の地と云うばかりでなく、瀬戸内海貿易の重要な拠点となってもいたのだから、元就らしい外交術でこの棚守房顕を調略したことは、後に大きな益を生むことになる。この房顕と云う男も相当の「政治家」で、元来は社内の端役の家を世襲した人間に過ぎなかったが、時流を見るに敏で、戦国大名たちの帰趨を見透かしながらうまく立ち回り、最終的には元就につくことで社家内での支配権を築いた。
 元就は戦国武将としては当然に土一揆に対してはどんな血なまぐさい殺戮も辞さなかったが、その「仁徳」を後世まで慕われことになるのは、おそらく彼が宗教的な大量弾圧を行なわなかったからでもあるだろう。長島一向一揆討伐、比叡山焼き討ち、石山本願寺合戦、加賀国平均で数々のジェノサイド(無差別大量殺戮)を平然と断行した織田信長の場合、もちろん政治的な必要があったのでもあるだろうが、同時に彼自身の思想に中世的な情念が強く作用して、「信仰」そのものに対する過剰な反応があったことは疑いない。彼は信念をもって神仏を否定したのであり、それゆえに逆に神仏を信ずる者の存在はそれ自体が彼にとってのアンチテーゼと映ったのだが、しかし考えてみればあそこまで必死になって「神」の否定の確証をつかもうとした人間こそは、真に「神」の実在に怯え続けた者であったのかもしれない。織田信長と云う、元就にとってはその子供の世代(隆景よりひとつ年下)の戦国武将は政策や戦略においては徹底した合理主義を貫き、その組織は当時のどんな戦国大名のそれよりも機能的な実力を備えていたが、彼自身の心の根底には拭いがたい中世の闇がわだかまっていたようである。合理性のさらに向うにある、人間精神の不条理な絶対志向。神がかり的な野望。闘争への陶酔的な熱中。彼が晩年、自らを安土城の「天神」として宣言したように、彼はあるいはもっとも宗教的な人間、すなわち典型的な「中世人」であったのに違いない。
 元就に関してはそうした狂気は存在しない。物事をすべて現実に立脚して見る人間、つまり素直に世間一般の見る通りに見る人間、若い頃から周囲のコンセンサスを得て人間関係を構築することに全精力を注ぎ込んで来た政治家、その元就にとっては超自然や、人間の範囲を越えた真実など信じられるはずもなく、またそんな夢想に頭を費やす余裕はなかったであろう。物心つく頃には傾きかけた国人領主の一族の、孤児に近い境遇の自分が多治比城に一人いて、その時点から彼が目にするものは常に「他者」の顔であり、その心の動きであり、しかもその他者は決して自分の思い通りには動かない存在であり、彼は常人離れした忍耐心を以てこれらのやりきれぬ「存在」に耐え、しかも他ならぬその他者の群れをひたすら結集することに成功して来た。人間らしい弱さや悪念を山ほど腹蔵して、しかも感傷的で血気に逸り易い凡百の田舎侍たちの求心力となって来た国人武将、元就。始めからそれなりに独立した「国主」であった信長とは明らかに違っている。元就の思念には、そもそもの始めから「神」の入り込む隙はなかったのだ。
 天文二十三年に元就が陶一党と断交すると、陶晴賢はただちに部将宮川房長に三千の兵をつけて毛利攻撃に向かわせた。安芸折敷畑での会戦となるのだが、その出陣間際に厳島社家当主棚守房顕より使者が元就本営に着到して、御供米と巻数を献上し、神明の加護を約束する。元就は大げさに喜んで見せて将兵を励ます。「元就合戦の首途にこれこそ愛度瑞祥なれ、明神の御威光に依て勝利を得ん事何の疑ひか有へきとて、手洗嗽して三度頂戴し給けり。」(「陰徳太平記」)多少はったり臭くもあるが、そうしたちょっとした気遣いが元就の人望の源泉のひとつであったことは間違いない。毛利両川軍は三方から宮川部隊を包囲して、この対防長戦争の前哨戦で宮川房長自身を含めたほとんどの敵を壊滅させた。敗走した宮川房長は歩兵末田某に追い付かれて、その首を上げられた。
 この戦に完勝した元就は、続いて厳島境内を決戦場と定めて謀略のかぎりを尽くして陶軍の本隊を誘き寄せた上で、弘治元年十月一日、これを希代の奇襲戦によって殲滅したことはつとに知られているところである。これほどに完璧に成功した奇襲戦は戦史上他にあっただろうか。それから五年後に、若い尾張の当主織田信長が同じく寡兵による奇襲戦を田楽桶狭間にて成功させているが、その信長の脳裏にあったのはきっと天下に流布したこの厳島合戦の情報であったに違いない。
 元就の謀略は、潔癖な隆元にとっては信じがたいほどに悪辣なものに感じられたであろうが、それなしには戦国の世を生き抜けないことくらいは隆元も理解しただろう。天文二十三年に元就は陶晴賢から津和野三本松城主吉見正頼攻撃の要請を受けた時は、始めそれに応ずるような素振りを見せておきながら、大内義隆を滅ぼした陶晴賢に遺恨を持つ隆元にわざと家内評定において反対意見を述べさせて、しかもその論議を陶方の間諜に洩らして、陶、吉見両方に期待を持たせると云う策略を弄した。そして最終的に陶方と断交すると、決戦に備えて謀略のかぎりを尽くした。それは素人見には、あまりやりすぎてかえって混乱するのではないかと思われるほどに徹底した調略だった。陶方の有力部将江良房栄を買収にかかり、それが出来ないとなると、この買収工作を陶晴賢にわざとたれ込んで晴賢自身に房栄を誅殺させている。逆に、毛利譜代家臣桂元澄を陶方に内通させて偽りの呼応を約束させる。一方、広島湾岸の陶方の諸城を速攻で片付けて、後方の障害を取り除いた。この時の戦は苛烈で、守将の野間隆実の一族郎党をすべて誅滅している。
 弘治元年厳島に囮の宮尾城を構築して、さらに裏情報を放って陶晴賢をここに誘った。ここに押し込めて陶晴賢自身を葬ってしまわないことには合戦が長期化する。出雲の尼子氏を背面に支えて、未だ一国支配も完成させていない毛利家が防長二国の覇者と長期戦が戦えるわけがない。一日も早く決着をつける必要があり、巨大な敵と共に時間との戦いをも元就は引き受けていたことになる。
 元就はやはり焦ってもいただろう。九月二十一日、陶晴賢が目論見通りに厳島に渡ってしまうと、ただちに先発隊の隆元に渡海攻撃を命じた。この時元就は草津城にあり、隆元はさらに西方の最前線、廿日市桜尾城に待機していた。隆元は毛利家当主であり、また総軍の大将でもあったわけだが、しかしなぜか隆元はその命に従わなかった。それは隆元自身に父親への抗命の気持ちがあったためではなく、おそらく彼の軍事指導者としての力量ではとうてい将兵たちが納得しなかったからであろう。一言の形式的な命令だけで死の代償を払ってまで作戦に出掛けて行く者はいない。したたかな百戦錬磨の部将たちは、なんのかのと理屈をこねて腰を上げようとしなかったに違いない。「何をしておる、早く進発せんか!」元就は歯軋りする思いで、隆元に矢の催促をした。ぐずぐずしているうちに宮尾城が落ちてしまったのでは元も子もない。元就は軍配を握って自ら決戦の指揮に向かわざるえなかった。

 九月晦日、満を持した元就は毛利両川軍を率いて廿日市西岸から強襲渡海した。兵力三千。しかも渡海の寸前から天候は急変して、暴風雨となった。しかし陶晴賢の本隊を厳島島内に誘き寄せた後の作戦の決着をつけねばならない。厳島では孤立した宮尾城で己斐豊後守以下五百の将兵が、援軍を待って絶望的な戦いを続けていた。陶軍二万人がひしめく島に、わずか三千の兵と共に、しかも台風の大嵐の中を奇襲戦を仕掛けるために、真っ先に船に乗り込んだ元就であったが、国人・地侍たちがはたして付いてきてくれるかどうか、正直言って百パーセントの自信はなかったであろう。風雨は強まり、雷鳴は轟き、水主たちは二の足を踏む。部将の中には作戦発動の延期を提言する者も出る。しかし元就はこの嵐こそが天の助けとばかりに、「元就水手共の申す所を聞給、(中略)今夜の風雨古に例しよし、今はまた敵に勝つべき時節也、一刻も早く船を出すべしとて、一番に推し出させをしける程に、誰かは一人も残るべし、皆吾先にと押し出す。」(「陰徳太平記」出典)
 一人の男の意力が、三千人の男たちを破滅かもしれない夜の底へと引きずって行く瞬間だ。鎧をずぶ濡れにして、強雨の飛沫に頬を打たれながら、六十歳の元就が大音声を上げて武将たちを叱咤勉励する。その声は暴風を貫いて響き渡る。軍船は闇の中の波浪に揉まれて岸辺の浮き草のように頼りない。男たちは嵐にうねる暗黒の海を見つめて黙り込んだままである。すでに元就は船上にある。男たちの逡巡、荒れ狂う海と闇、将兵たちは一人立ち、二人立ちして次第に大きな集団となって船端に近づく。男たちは草摺を引き上げ、決死の覚悟を固めた面相に鎧兜の紐を縛り直して、その老人とも云える一人の指導者への信頼感そのものに魅せられたように次々と船に乗り込んで行く。侍を満載し終えた船から岸を押し出して行く。その動きが大きなうねりのように高まって行く。何百と云う船は木っ端を投げ散らしたように波間に漂い出る。
 正直言って安芸国人の武将たちはもとより、それ以下の地侍や足軽に至まで、この戦には気が進まなかった。敵将は数カ国の実質的な支配者で、しかも戦歴も赫々たる陶晴賢である。動員兵力は数万人にのぼる。一方、安芸の国の国人一揆の盟主に過ぎない毛利家は今回の戦にせいぜい数千の兵力しか動かせない。元就が敗ければ連座して己れの命はもとより、命より大事な領地まで没収されかねない。単純な算術計算で云えば、ここは日和見を決め込んで帰趨を見守ると云うのが賢いやり方だったはずである。だが今、世間一般の「知恵」や「常識」が沈黙し、多数の男たちは地獄と知った合戦場へと上下心を合わせて向かって行くのだ。個々人の利害意識を越えて、ある団結感の異様な高揚時期と云うものが、人生のほんの希な瞬間に現われることがあるとするなら、元就はそうした戦士の共同体における集団的な感情の高揚を的確に演出する名手でもあったのだろう。
 一番に厳島の裏岸に着いた元就は、後続の目印とするために篝火を焚かせて、床几にかけて待った。その傍らに三十三歳の隆元の不思議なほどに冷めきった、むしろ場違いとも思われる顔がある。雨は降り続く。側近が見かねて元就に傘を差し掛ける。「児玉周防守傍らより傘差し掛けたりければ、(元就は)拳を握り傘の柄をしたたかに打ち給へは、傘は彼方へ飛びにけり」(同上出典)そうした元就の気持ちはたしかに理解できる。「将は冬裘を服ず、夏扇を操ず、雨に蓋を張らず」それが名将であろうことはたしかに現代でも理解できることだ。ましてや今決戦を前にして上下が心を一にして、まさに「百万一心」の熱気に高ぶっている時だ。全軍が渡り終えると、元就はすべての兵船を対岸に戻させた、とされている。決死の覚悟を促すための自ら仕組んだ背水の陣とも言われている。側近が元就のための御座船だけは残すようにと進言したが、元就がそれを許さなかったと云う「美談」もそれには付け足されている。
 包が浦と云うその浜に全軍を集結させると、さっそく元就は陶晴賢本陣の背後に進出すべく山越えの進軍を開始した。その途中でも彼らしいはったりが連発する。山道で鹿に出会えば、「元就唯今男鹿の来る事、明神忝くも道迎へにいださせ給たるならん、神明応護疑ひなし」と言ってみせれば、「あたりに居たる諸士共も、皆益々競へる気色あり。」(同上出典)と云うことになる。また山の尾根に達して、「元就此処をば何とか云ふと尋ね給へば、兵共博打尾と申候と答ふ」と云うことになり、さっそく「敵陣にかかる首途に、博打尾へ上る事、敵に打ち勝つ可き先表也、(中略)各勇み候へと下知し給へければ、士卒共勇気の微笑を含みけり。」
 こうして将兵の心をひとつにしてしまえば、たとえ敵が額面十倍の兵力であっても、決して負けることはないと云う、元就の長年の経験による深い洞察があったことはたしかだ。また元就が事前にあらゆる手段の調略を駆使したことはわかっているが、おそらくその過程で彼は確実に勝てると云う確信の根拠を得たものでもあろう。しかも彼は一か八かの博打に「家」を賭るような無定見な人間ではなく、その上六十に近い年令の、十分に経験を積んだ男である。この冒険的な奇襲作戦には彼なりに十二分の勝算があったのに違いない。あるいは厳島に渡った陶軍二万は、すでにその時点で内部崩壊を来たしかけていたのかもしれない。それとも何の記録にも留めていないが、民心掌握の術に優れた元就と違って、陶晴賢は厳島島内の民衆への配慮をいっさい無視して足軽どもの乱暴狼藉を黙認したために民心が遠く離れ去っていたのかもしれない。
 弘治元年十月一日の暁闇、元就は安芸国の覇権を賭た決定的な突撃を敢行した。塔の岡と云う境内の狭い領域に密集した陶軍に向って、毛利軍は兵法通り山中の高手から奇襲をかけたのである。敗れれば毛利両川家の全員が死ぬことは間違いなかった。厳島境内に血で血を染める熾烈な白兵戦が展開したが、元就自身も最前線に出て指揮を取り、また吉川元春や小早川隆景らもそれぞれの軍を率いて、自ら血刀を振りかざして突進したので、その勢いに押された陶軍は総崩れとなって島内を敗走した。元就のしたたかな交渉術によって瀬戸内海の村上水軍を調略していた毛利軍は、この海戦に長けた水軍を駆使して、元来水上兵力では圧倒的な力を誇っていた陶軍の裏をかいて、夜陰秘かに厳島の浦々に停泊していた陶軍の軍船をすべて奪取してしまっていたのだ。予想外の急襲を受けて大混乱をきたした陶軍の各隊は、逃げようにも逃げられぬ有様となった。
 能島・来島に勢力を張る村上武吉を頂とする水軍の動静は、内海での決戦の勝敗を左右すると睨んでいた元就は事前に丁重に加勢を要請していた。一方陶軍も同じ意向だったが、たかが海賊の頭目と侮ったか、参陣するようにと、ただぶっきらぼうに命じて来たばかりだった。元就は辞を低くして、一日でいいから軍船を貸してくれまいかと頼んだ、とされている。いかにも元就らしいと云えるかもしれない。お宅様もお忙しいでしょうから、と相手を持ち上げた阿諛が滲み出た交渉で、これに本当に感じたかどうか、とまれ村上武吉は三百の軍船を仕立てて毛利軍の手助けに来た。
 こうして村上水軍に海上を封鎖され、奇襲を受けて狭い島内を敗走する陶軍二万はことごとく壊滅した。陶晴賢自身はもとより、三浦房清、弘中隆兼、大和興武などの赫々たる武将が戦死して、毛利軍の一方的な勝利で終わった戦いだった。十月五日には桜尾城にて作法通り陶晴賢らの首実検を行なった。厳島の残敵の掃討を終えると、元就は軍兵に命じて、島そのものが神域であるその島内の一斉清掃にかかり、矢弾を除き、流れた人血を一滴残らず拭いとった上で、敵味方の戦死者のために盛大な供養の法会を催した。現代人の目から見れば、そんな見え透いたやり口はある種のオポチュニズムとも云えるだろうが、しかし当時ならばそうした気配りこそが世人の気持ちをつかんだであろうことは想像に難くない。元就の敬神や「信仰」とは、こうした冷めきった現実感によってとことん裏打ちされているものだった。
 毛利軍は陶晴賢を倒すと間髪を入れず、ただちに防長への経略を開始した。陶晴賢の傀儡の大内義長が当面の目標となり、山口へ向けての遠征軍が発向する。十月八日、岩国へ進駐。十月二十八日、周防鞍掛城攻陥。周防の土一揆鎮定。吉川元春、石見へ別途出征して刺賀氏、佐波氏を服属させる。
 元就の率いる毛利軍、元春の吉川軍、隆景の小早川水軍はこの頃から順調に機能し出して、周辺の国人衆を完全に圧倒してその実力を誇ることになる。それは元春、隆景の武将としての能力が開花しつつあることでもあっただろう。実際、元春も隆景も折敷畑、厳島の両合戦でその勇猛な大将ぶりをいかんなく発揮して、それぞれの家の重臣たちを十分に頼もしがらせた。それにつけても毛利家当主の隆元の在りようは諸人の耳目を訝らせた。
 総大将の隆元が自ら刀を握って飛び出すことまでは要らなくても、せめて戦陣で汗みどろになって駈け回っている将兵たちと同じほどには真剣になってもらいたい。激しい極限状態の戦場なのだから、本気で戦を指揮する態度だけは取ってほしい。それが周りの武者たちの当然の期待だった。隆元の本陣での沈黙と静けさは、太腹な大物ふうの泰然自若と云うのでは決してなかった。その目は落ち着かず、どこか虚ろで、悲し気でさえあった。自分からは何事も言い出さぬのは遠慮と云うよりも、むしろ人の悪い無関心にも見えた。矢を受け、刀傷を被って血まみれになって軍馬と共に本陣に転がり込んで来る伝令の侍の必死の形相を、この総大将は怯えたように、または憐れむように一瞥だけして顔をそむける。
 すでに「戦略」が重視されるこの時代でも、頭の古い国人侍たちの中には、「大将」たる者はかつて元就が有田合戦で見せたような「戦士」としての肉体的な勇気を示して欲しいと願う者も多かったわけだから、本陣の床几にかけたまま人ごとのように澄ましている大将と云うものが理解し難いのは無理からぬことであった。教養が深くて趣味の好い「大将」など、この場合誰も望んではいないのだ。元就の手前、国人たちも隆元に服す態度は見せていたものの、元就の目の届かぬ地点では、この無力で、孤高で、近寄りがたいほど精神的過ぎる大将などあからさまに無視した。
 そのことが如実に顕れたのが、翌弘治二年四月から始まった須々万沼城攻撃の作戦だった。この作戦において元就は隆元に初めて将として全軍を任せた。ところが須々万沼城は防長の陶方の最大の拠点で堅城の誉れも高く、その城将山崎伊豆守は名立たる猛将であったにもかかわらず、隆元は策らしい策も取らず、ただ漫然と二度の総攻撃を仕掛け、しかもどちらも侍たちが勝手放題に先駆けの功名を争ったので、二度とも失敗した。「福原、桂、志道等(老臣たち)こは何事ぞ侮りて事を仕損ずな、暫しひかへて静かにかかれと下知したりけれど、(毛利軍将兵は)曾て耳にも聞き入れず一向に押立てかかりける」(「陰徳太平記」)と云った様だったので、結局半年間も攻めあぐねた末にすごすごと退却してしまった。当主隆元の威力などは薬ほどもなかったことが、むしろ元就に痛感されただけの結果だった。隆元の軍令など誰一人本気で聞く気などないのだ。
 元就がふたたび軍配を取って出かけねばならぬ場面となった。弘治三年三月二日。すると好き勝手に振る舞っていた侍も、ふてくされてやる気をなくしていた侍も、皆とたんに人が違ったように元就の威命に服して敢然と戦に向かったので、城はたちまち落ちて、城主山崎伊豆守は自刃するところとなった。そのまま八日には若山城攻陥、城主陶長房自刃。同じ日、右田嶽城主右田氏降伏。あっけないくらいに敵は蹴散らされた。元就自身が出陣しなければ、毛利家臣団も国人衆もほとんど軍団として機能しないと云うのが実態のようであった。これ以後元就は隆元に毛利軍の本隊の指揮を任せない。
 しかもこの頃から、元春、隆景兄弟と宗家当主の隆元との間の心理的な軋轢が深まって行った。まだ若い二人は兄の腑甲斐なさをあからさまに蔑むふうであり、それは郡山城での平時においても三人の間にわだかまっていた雰囲気であったが、厳島の大合戦での彼我の働き具合の歴然たる違いを二人が問題としたがっているのを元就は察知していたようである。須々万沼城攻撃の大将に隆元を派遣した元就には、当然そうした配慮があったと考えるべきである。
 しかし作戦の頓挫によってその配慮はかえって「あだ」となり、隆元の自責の念は強まる一方で、周囲の男たちの隆元への信頼はすっかり失われる結果となった。とりわけ毛利両川体制の要の元春と隆景の感情は隆元から離れ、元就が最も恐れる危険の萌芽が芽生えつつあった。
 骨肉が家督や領地相続に関して徹底的な抗争を繰り広げることは、封建戦国の世には珍しくもなく、そのために自壊した大名はいくらでもあった。実際、毛利家においても南北朝の騒乱に際してこうした内訌があった。時親の代にその嫡男貞親と嫡孫親衡との連合に対して、時親が曾孫の元春(吉川元春とは別人)と連合して数十年に及ぶ戦いを演じている。また元就自身も異母兄弟の元綱を誅伐していることからも、彼の政治的な力点と配慮がどこにあったかは想像がつく。
 弘治三年十一月、大内義長平定後、つまり防長の実効支配が完成した後に陣中より隆元、元春、隆景へ向けての元就の「三子教訓状」が発せられるゆえんである。これは元就の思想なり、「哲学」なりの告白であるが、同時に元春、隆景に他家を継ではいるが、「是はとうざの物ニてこそ候へ、毛利の二字、あだやおろそかにも思召、御忘却候てハ、一円曲なき事に候」と説いている。いわゆる「毛利両川」体制の堅持のための宣言であり、そのために元春、隆景を再度毛利家中の運営にも参画させようとの方針の表明でもあった。後の徳川幕府の「御三家体制」の着想の基ともなる、この封建社会での特異な政治体制は、戦国大名として急激に膨張した毛利家での内部的な危機によって導かれたとされている。
 一介の国人領主であった時代には、血縁に基づく他家との人間的な紐帯こそが力の保障になった。しかしその原理がはたして一国支配の政治体制で永続して維持できるだろうか。この教訓状の背景には当然、三人の兄弟の険悪になりつつある人間関係への憂慮が見え隠れする。それこそ放っておけば元就が最も心配する「一円曲なき事」に陥ってしまうのであり、それは元就が教訓状の極秘の添え状にあるように、「当家をよかれと存じ候者は、他国の事は申すにあたわず、当国にもあるまじく候」である以上(もちろんどの権力者にとってもそれが共通の認識であるわけだが)、一族団結の微細な亀裂も一族の命取りになることを元就は訴えたのだ。そして実際に亀裂は生じていたと考えるべきである。
 中国山地奥部の大朝を本貫とする吉川氏はその地勢上、石見・出雲・伯耆方面への政略と作戦を担当し、竹原、沼田(三原)を本貫とする小早川氏は瀬戸内海水軍を主力として山陽、内海岸方面を担当する体制が自然に確立しつつある時代だった。毛利両川体制によって安芸・備後・周防・長門を勢力圏に置き、その実力は全国にも知られ始めていたこの興隆期に、内実では三家のそれぞれの当主が感情的に対立していることをよもや元就ほどの人間が見逃すはずはなかった。元春、隆景は郡山城下に屋敷を設けて、随時吉田に逗留して、毛利家中にも「にらみ」を利かせると云う体制が取られていたが、それも多分に父親元就への御愛想と云う意識が強く、当主隆元への儀礼はむしろ欠く面があったとされている。
 二人の弟たちにとっては、自分たちの侍大将としての名声と実力に引き比べて、何の業績も武勲もなく、宗教生活にほとんどのめり込んでいるような、人付き合いの悪い兄の人間性は理解しがたかったのであろう。その男を目上の長者として敬う気持ちにはなれなかったと云う率直な感情もあったであろう。郡山城城中に参勤しても二人だけで「ちこ々々」と声を掛け合って、額を寄せ合って何事か相談をし合い、隆元をあからさまに無視するとされている。「ちこ々々」は、隆元を除けにして二人だけでささやき合う時の合図だったに違いない。もちろん隆元の憤懣は堆積したに違いないが、生来気弱なこの男はわずかに父親にその窮状を書面で訴えるくらいのことしか出来なかった。
 中世戦国の世の人間は元就のような一部の傑出した指導者を除いて、人間そのものが己れの感情に対して現代よりもはるかに正直に率直に成り立っていたから、ひとたびある人間(あるいはある集団)への反感や憎悪が確立すると、それを押し留めるどんな理性も倫理も存在しないので、遮るもののない感情の荒野を人はどちらかの死によって終わるまで驀進するのが一般的であった。しかもお互いが相手に対する、徹底的に残忍で無慈悲な「死」の形態を用意しているのだ。だから隆元と元春、隆景の兄弟間はいづれ決定的な決裂に至り、戦国の掟通り、どちらかが相手方の塩漬けの生首を実検するまでは「関係」は解決しなくなる、と云うことは周囲の者たちの「常識」的な予測となったであろう。とすれば利に聡い家臣や国人が早々と隆元を見限るのも当然の成り行きであったかもしれない。弘治年間の頃には当主でありながら、その意のままに動いてくれる家臣は側近の一部だけになっていた。
 天野隆綱、赤川元保、国司就信らが孤立した(またどうやら本人もそれを望んでいる)当主を辛うじて庇って仕えていたとされる。とりわけ山口の大内家に隆元と共に人質として送られ、天文十八年には隆元と兄弟の契約まで結んだ、無二の親友とも云うべき天野隆綱が弘治元年に死去した。それは共に「大内文化」に触れて、そこで忘れがたい豊かで甘美な時期を過ごした仲間の喪失であった。その痛手は隆元には計り知れぬものがあったであろう。以後隆元は、当主でありながら政治向きへの興味や熱意は失い、かつての大内義隆がそうであったように、文学宗教の勉強三昧に没頭していよいよ家中の信頼を失うこととなる。
 皮肉なことに当主の内向性が進むのに逆比例して、毛利家の隆盛は止まるところを知らぬかのように増大しつつあった。膨張と拡大はひとたび弾みがつけば、その組織が本質的な矛盾を露呈して自己否定を起こすまではどこまでも続くものに違いない。防長二か国の完全支配への経略が続けられているのと並行して、吉川元春は石見地方平定の事業に着手し、威勢の急速に衰えた尼子氏の勢力を駆逐しながら、国人・地侍たちを吸収しつつあった。永禄元年二月、出羽氏、福屋氏恭順。出羽表の合戦で尼子軍を撃退。同八月、石見温湯城陥落、小笠原氏降伏。いったんは取り戻されたが、この時期に石見の大森銀山を手に入れて、そこから生産される銀塊は奪い取った大内家の内海貿易の権益と共に毛利家の大きな富の源泉を成すことになる。
 こうした発展の立て役者はもちろん元就自身であり、すでに六十を越えてなお衰えぬ矍鑠たる精力を発揮して、倦むことなく新しい事業に邁進して行く。毎日の規則正しい生活、質実な暮らしぶり、そしておそらく何よりも中庸を心得た精神生活の有り様が彼の健康と精力を保障したのであろう。彼の書き残したものから推察しても、彼が当時の「中世的」な、あるいは戦国的な激情の宿業からいかに免れていたかがわかる。かっと頭に血が上ると云った類の人間ではなかったし、そうであればこそ部下たちも安心して忠勤が励めたであろう。その元就の毛利家を補完する、吉川、小早川両家がそれぞれの方面地域での実力を蓄えつつあり、この三家の有機的な連帯から生み出される軍事力は急速に他の戦国大名を凌ぎ始めていた。
 一方、隆元はいよいよ父親元就の陰に隠れて、「象徴」としての当主の役に甘んじていた。隆元は隆元なりに、家内の内規や法制の整備に努力した形跡はあるが、時代はまだまだ「文治」にはほど遠く、軍事と謀略の才こそが政治家の唯一の力量と云えたであろう。
 元就の偉大さは、彼が小領主であった頃にはそれに見合った働きを見せ、また彼が一気に数カ国を束ねる国主になったおりにはそれに相応しい政略を取ることが出来たと云う、実行力と柔軟性とを兼ね備えていたことにあったかもしれない。かつて十分に有能な小領主であり(実際に大内家に使われる身の)、かつ巨大な戦国大名としても卓越していると云う男を誰もが「古今無双のさむらい」(「陰徳太平記」)と称賛するのは無理からぬことであった。「毛利元就は三世通達の名将にてましませければ、未来を鑑み他心に通じ給ふ事、恰も明鏡在台、漢来たれば漢現し、胡来たれば胡現するが如く也ける   」(同上出典)
 彼は手に入れた新しい富を自らのために蕩尽し尽くすような、パセティックな悲劇性(つまり崇高な愚かさとも云えるが)など持ち合わせてはいなかった。彼はどこまで行っても冷静で、「合理的」で、「家」と同盟国人に対して責任感を保つ人間であった。大森銀山で得た銀は、中央政界への工作資金として活用された。その献資によって元就が陸奥守に、隆元が大膳大夫にと任じられたが、もちろん飾りのような有名無実な肩書が究極の目的ではなかった。と云って、かつての大内氏や尼子氏のように中央政界に打って出て天下に号令しようなどと云う、毒々しい野心を滾らせているわけでもなかった。彼らはそうした無理を重ねているうちに、領国経営に破綻をきたしたのだ。権力が失せて権威だけが残った勢力とは、それに相応しい付き合いだけをしておこう、と云うのが元就の基本の方針だったようである。
 たしかに安芸、備後、防府、長門、石見の五ヵ国を実効支配下に置いて、毛利家にも「天下」制覇への資格は当然に生まれたのだが、元就自身は決してそんな野心を吐露したことはなく、むしろ後継者たちにそうした野心への誘惑をたしなめてもいる。そのあたりの心理と内部事情は永遠に謎のままであろうが、しかしその「謙虚さ」のひとつの要因として、嫡男の隆元の戦国大名としての不適格性が上げられるかもしれない。「大膳大夫」とは、朝廷内での食膳一般を取り仕切る文官の長官職で、かつて祖先の大江氏の有した職名とは云っても、とても戦国の世の武将が得たがるような「名」ではないだろう。典型的な文官職を得たところに隆元の意志があったかどうか、その事情も謎だが、授任したその同じ永禄三年、遠い尾張地方の小大名の若い当主が、かつて毛利軍が厳島で陶軍を破ったのと同様の奇策を用いて、今川義元の大軍を討ち破って一躍天下にその勇名を馳せた。もしその破天荒な若者ほどの異才を持つ者が毛利家の後継ぎであったならば、あるいは元就も「天下」制覇を具体的な日程に上らせたかもしれない。
 同じ年の暮れ、尼子晴久が病没した。元就にとっての生涯最大の課題を解決するための、待ちに待った好機が到来したのだ。山陰の尼子、防長の大内、この両家の狭間で翻弄され、苦しめられ続けた永い年月であった。元就自身も若い頃、一度は尼子につき、さらにこれを離れて大内に臣従すると云う苦しい世渡りを強いられた。一国支配のない地域の国人・地侍の悲哀を元就自身がいやと云うほど味わって来た。元就は自らのなすべき責務として二百度以上に渡る合戦を闘うが、彼は決して感情によって事を決する人間ではなかったし、またつまらない見栄や虚栄の野心を抱くような人間でもなかった。尼子家への個人的な恨みがあるわけではなく、すべては衆望を担った者の避け得ない責務であったのだ。その彼にとってのなさねばならない最後の、そして最大の仕事が尼子征伐だった。
 しかし勢力比がかつてとは逆転して、毛利に圧倒的に有利だとは云っても、尼子は南北朝以来の守護代の家柄であり、なお出雲、伯耆には支城を多く抱えて力を温存している。しかも九州豊後の大友氏が毛利の「下口」、すなわち豊前から長門にかけての一帯に盛んな陽動を仕掛けて来る。元就は一気に大大名へと功なり名遂げながら、この難しい局面では実に慎重に振る舞った。先の朝廷への献資や、同時に行なった将軍家(足利義輝)への忠節表明などはその準備工作とされている。
 さらに翌年には兵を九州に発して豊前で大友氏と闘っている。新興の大名とすれば、両翼に敵を抱えたのでは足元さえすくわれかねない。大友氏の出鼻を挫いておきたかったのだが、大友宗麟も名立たる戦国大名、元就の思い通りにはなってくれない。一方、足利将軍義輝は諸大名間斡旋の功を求めて、しきりに毛利・尼子間の和議を要求して来た。始め元就は引き延ばし作戦でこれを糊塗するつもりだった。そうするうちにも、征服したはずの石見地方で不穏な動きが出来して、元就の出陣が促された。永禄五年のことである。
 吉川氏の石見出征のさいに服属したはずの、国人武将福屋兼元が毛利家の所領宛行いを不満として、大友氏の豊前での騒乱に呼応して反旗を翻した。元就はすばやく毛利両川軍を総動員してこれを討つ体制を取った。一国人の身勝手な反抗だったが、見過ごせば領内全域に影響を及ぼしかねない。迅速に、完璧にこうした動きは封じ籠めてしまう必要があった。その討伐戦の直前、元就は隆元の反対を押し切って将軍斡旋の対尼子和睦調停にも乗った。もとより元就にはこの和睦を政略的に利用しようと云う意図しかなかったわけだが、当面の石見での混乱の事態を収束させるための、時間かせぎの、仮の妥協でしかなく、遠からず尼子氏の息の根は止める腹づもりであったのだ。

 しかし隆元は、そうしたあざといやり口がこの時ばかりは我慢がならなかったのか、それともすでに四十歳にもなった当主である自分をまったく聾桟敷に置いて、元就やその側近やさらには両川家の者たちが勝手に事を動かしていることに憤激したのか、彼はいつになく真っ向から父親元就の策に反対した。生来、野外での活動を好まず、書斎での儒仏古典の教養にのみ関心の深かった観念主義者の隆元としては、将軍家の権威を政略に利用するなどと云うやり方は唾棄すべき不見識とも感じたのである。いつまでも田舎の地侍並みの強引な権謀術数でもあるまいに、と隆元は自分を除け者にして急進展して行く毛利家の「外交」に対してそんな思いを募らせたに違いない。
 最初から反故にするつもりの和談など毛利家の末代までの名折れであり、大義名分が失われれば毛利の軍略はすべて覇道に帰す。陶晴賢討滅を隆元が主張したのも、陶晴賢の大内義隆弑逆とその後の暴政に対する「正義」の誅伐を加えると云う名分があればこそだった。しかし今回の尼子氏討伐にはそもそも「大義」はない。危険な隣敵を、己れの安全保障のために屠ると云うのではまったくの御都合主義ではないか。毛利家はすでに四ヵ国の支配者になっているのだから、そろそろ「王道」に就くべき時節ではないのか。
 連戦連勝の家運隆盛の中で家臣や国人たちが傲り高ぶっていたことは、ある程度間違いなかったであろう。そののんきな横面を見るにつけても、隆元にはすべてが「常軌」を逸したことに思われたであろう。泥臭い現実のやり取りの中で決定される政策と、孤立した隆元の観念教養の中で生み出される非理曲直の判断との永遠の平行線。
 この「正論」に対して元就もまた、いつになく息子を一喝した。「名ばかりをば留め候かと存じ候事、名利とも失い候へば是非なきこと」これは戦国大名の持った面白い直截な倫理感で、「利」を保てるかぎりにおいては「名」を大事にしてもよく、名ばかりの名誉、名声などは無に等しいと喝破している。「偽善」は戦国乱世においてはまだ弱者の性癖とされていたのだ。後に尼子氏が無条件降伏した時、元就は諸将の反対を押し切って当主義久兄弟の命を助けて、安芸の国で隠棲させている。「利」が得られた上は、「名」はいくらでも後から付け加えられる。そうした現実観はおそらく自己への厳しさの現われでもあったのだろうが、実務に与れぬ隆元にはそれがなりふりかまわぬ、身勝手な策謀にしか見えなかったのであろう。
 元就は当初の予定通り、孤立無援となった福屋隆兼父子を敗走させ、残されたその一族を誅滅した後には、ただちに尼子への戦端を開いた。将軍斡旋の和平によって、無難に福屋氏を討ち、その初期の目的を達した後には約束などはあっさりと反故にする。そのような「不義」は大事の前の小事に過ぎぬとの考えであろうし、おそらく将軍の権威と実力の失墜を、都に遠い安芸の山間にありながら元就は的確に見抜いていたのであろう。いづれにしても元就の政略は順調に進んでいた。永禄五年六月には出雲の猛将、本城常光が帰順する。この国人は大森銀山への影響力があるので、是非とも自陣に引き込みたかった。七月、元就は毛利両川の総軍を決起して石見路より出雲へ進攻した。
 しかし九月になると、九州方面でふたたび大友氏の軍事挑発が活発化してきた。大友宗麟は、その部将戸次鑑連をして毛利軍拠点の豊前刈田松山城を攻撃させた。元就の不安は的中した形だった。両面戦線での戦争はあまりにも無謀であると云うことを冷静に見抜ける元就は、打開策としてまたもや策略を検討していた。十一月、将軍義輝から豊・芸和睦を勧める御内書が吉川元春宛に届いた。
 将軍義輝は戦乱の諸大名の和睦斡旋をすることで、己れの政治的なイニシャティブを確保しようとしていたのであり、奥州伊達家の父子内紛や、上杉謙信と武田信玄の間をそれぞれ調停すべく画策したこともある。和睦斡旋と言っても為にすることであるから、彼は元就に一度は泥を浴びせられても意に介さず、性懲りもなく再度同じ話を寄越してきた。その辺の事情を見抜いた上で、元就もふたたびこの話に乗った。と同時に、元就は前年の福屋氏反乱の轍を踏まぬための荒療治も一気呵成に仕遂げた。
 本城常光の一族を誅滅したのだが、この時期には毛利家も戦国の最も緊迫した情勢の中で、凄惨なまでの厳しい謀略を次々と打ち出して来る。本城一族誅滅も、当主常光とその一家の暴虐無礼に対する鉄槌として記録には書かれているが、もちろんそれは勝った側の自己弁護であり、実際には大森銀山の領有を確保するためと、この有力国人が大友氏に呼応することを怖れたために、まったくの騙し討ちによって後患を除いたと云うのが有り体であった。
 隆元は出雲の出征に参陣していたが、こうした凄まじい謀略の渦からは除かれていたのであろう。当時仏教の解脱の観念にほとんどのめり込んでいて、狂信に近いくらい浄土欣求の念にかられていた隆元では「正常な」判断が出来ないものと見なされても致し方なかった。しかしそれでも隆元は本城一族誅滅の非を元就に説いたと云われている。おそらく幕営の内側で元就を、あるいは元春、隆景の二兄弟を合わせた毛利両川の首脳らを前にして、隆元は一世一代の反抗を試みたことであろう。
 彼の言う大義名分の王道論や、仏教的な慈悲の心情などは、彼以外の大将たちにはまったく分からぬではないが、さして関心もない事柄であり、何よりも生きるか殺されるかの切迫した修羅の戦線では、そのようなことに神経を使っている暇がなかったのだ。それは赤穴(赤名)本陣での出来事であった。紅葉も散り尽くして木枯らしの吹き荒ぶ時節である。一文字三星の籏指物や帷幕が寒々とした中国山地の北側の台地で風に翻り、烏の群れが暗鬱な影を冬枯れた林間に散らしている。居並ぶ武将たちは頭を垂れて当主の「説教」を神妙に聞いているが、その実誰もが隆元の他愛もないきれいごとには心を閉ざしている。どの侍たちの手もすでに血で汚れているのだ。いまさら立派なことを諭されても、どうしようもないではないか。今もし毛利家が豹変して、世間に「大義」と「慈悲」を掲げて訴え出て、自ら矛を収めて自領に引き籠もったところで戦国乱世が終わるわけでもなく、周囲の戦国大名が許してくれるわけでもない。
 元就が自らの宿命として、「元就のことは、諸人にうらみられ候て罷り居る迄に候」と述懐するのもそのことであったと思われる。弱肉強食の地平を、己れの実力ひとつで勝ち抜いて来た者にとっては安住の地はなく、彼はまさに勝ち抜き続けるかぎりにおいて己れの責務を果たすことになるのであろう。元就は決して梟雄ではなかったが、もとより彼は聖人君子でも「末世の道者」でもなかった。彼に唯一自尊を保つ所以があるとすれば、それは己れに与えられた「職務」に忠実であったと云うことだけだ。
 隆元の廃嫡と云うことも考えられた選択であっただろう。しかし元春を吉川家に押し込む際に、当時の吉川家当主興経を無理やり隠居させたものの、後の騒動を怖れて隠居所を襲撃して謀殺した例もある。廃嫡だけで安泰に帰するほど骨肉の争いは甘くはないことを、元就は知っている。それに多くの家中、国人衆からそっぽを向けられている理屈っぽい当主ではあっても、その隆元を支持する一部の勢力がないわけでもない。合戦働きの好きでない連中には、隆元の非交戦的な不拡大方針やある種の「平和主義」が自分たちの依って立つ主張になるのだ。そうした連中は廃嫡された隆元の元に蝟集するだろう。家内分裂の芽は必ず摘んでおくと云うのも元就のやり方だった。
 このまま隆元を当主のままに据え置いて、もし自分が死んだら毛利両川家はどうなるだろう、と元就は眠れぬ夜々を煩悶しながら過ごしたことであろう。陣中の仮屋の寝間はさなきだに寒風が吹き通い、老いの身には応えることしきりである。時に元就は六十も後半の年齢に達していた。人生五十年のはずが、すでにはるかに超過している。優柔不断ではあるが、これと云って瑕疵のあるわけではない当主をいきなり廃嫡することも出来ず、かと云っていまさら四十にもなった男に意見をしたところで始まらないこともわかっている。最後の、そして元就がすでに生涯幾度となく繰り返して来た「手段」に結局心が決せざる得なかったのは、彼にとっても痛恨事であったことであろう。
 実際元就は嫡男隆元を暗殺させた後に、少年の嫡孫の輝元を当主として担ぎ、これに戦国大名としての経験と教育を積ませると共に、その家中の危機感を利用して吉川、小早川両川家との結束を促して、いわゆる毛利両川体制を完成させた。皮肉なことに三兄弟の骨肉の結束を頼んだこの体制は、その中心の一人が欠けることによってかえって十全に機能し始めたのである。元春も隆景も、隆元の死後、彼の御家に対する切々たる心情と誠意とを残された書状(仏師立雪斎恵心への通信)で知って、彼への偏見を深く恥じたとされている。おそらくそうした負い目もあって、幼い輝元を懸命に支えたのであろう。逆から言えば、生前この二人の猛将が気弱で優柔不断な宗家当主にいかに辛く当っていたかが想像される。
 いづれにしても永禄五年の十一月、本城一族への騙し討ちによる誅伐の問題と、大友氏との和談工作の方針とをはさんで両者の意見は完全に衝突して、隆元の孤立は決定的になった。元就は陣中で隆元の意見を黙って最後まで聞いて、そして数日後、彼に豊前松山城救援のため出向するように命じた。付き添う兵はわずか三千人。尼子氏本拠を攻撃する最大の決戦の場から、総大将たる者が外されると云うのも異様だが、九州最大の大名の大友氏に当るのにわずか三千の救援軍と云うのも信じがたい。元就に本気で隆元を九州まで下らせるつもりがあったのかどうか。
 元就は隆元が去った後、本陣を宍道湖畔の洗合に移して、本格的な攻撃体制に入る。すなわち富田月山城の前衛拠点、白鹿城の攻略に着手する。また将軍斡旋の大友氏和談の外交攻勢も積極的に進める。一方、隆元は孤影悄然と石見路をたどり、山陽に出て、十二月二十一日には厳島社に渡って、元就の無事息災を祈って願文を奉納する。それから岩国まで進み、そこで駐留している間に翌年(永禄六年)春、豊・芸和談の事がなって、そこからふたたび出雲本陣へ引き返すことになった。
「御両家共に御領掌の御請相済み、大友宗麟の御息女幸鶴丸公(輝元)へ御縁辺の御約諾にて、御無事相済み、豊・筑両国は大友殿の御支配に成り申し候。さりながら門司の城は長州の内と候て、此御方より御抱に候。(中略)聖護院殿御事は、芸州厳島に御座なされ候に付て、隆元公岩国へ御下り成され候て、永興寺へ御待請け成され、御能仰付けらるる様に御馳走の上、葦毛の御馬に鞍置かせられ、此外品々御進物進められ候。元就公より御名代として、御使者福原貞俊罷出でられ候。」(「吉田物語」)
 当主隆元の知らぬところで事態は急進展していた。隆元は、出雲本陣から馳せ来る早馬の伝令に促されるままに進退するより他になかった。早馬は中国山地の緑深い夏山を上り下りして、汗まみれになって行き交った。
 岩国にあった隆元にとっては、豊・芸和談は予想はされたことであっても、その条件として輝元の婚姻問題まで含まれていたのは寝耳に水であった。まして輝元の婚姻はすでに五竜城主宍戸氏から入嫁することに決まっていたのだ。これを破談として宗麟の娘を入嫁させようとの策で、実の親さえ与り知らぬ事態であった。元就は政略のためにあえて宍戸家の顔を潰してまでも、大友氏との和談を取ろうとしたのだ。輝元は隆元と尾崎局との間の唯一子であり、尾崎局とは大内義隆の養女として隆元に縁付いた、その重臣内藤氏の娘であった。その局の毛利家における微妙な立場も隆元にとっては不安であったはずである。宍戸氏当主隆家の妻は元就の長女で、隆元の姉に当る。このため宍戸氏は毛利一門家とされ、その家中での地位は高い。宍戸氏入嫁を振ることで、女同士の付き合いにおいて辛い立場に立たされるのは尾崎局であることは明らかであったからである。
 七月六日、厳島社に渡って将軍義輝の調停使者、聖護院道増に再度謁見する。翌七日、廿日市に戻る。八日、緑井着。十日、多治比に着いて、この地で子息輝元と対面して語り合う。
「輝元公、其御時は幸鶴丸公と申し候て、御十一歳に成らせられ候。福原殿を御迎へなされ、城中へ進められ候て、御宿陣へ御召成され、御見参の上御三献出で、其後御供仕り候衆召出され、近年の御弓矢の次第、今度下目御和睦の儀、(中略)御心静に仰聞かれ、とかく御隔心がましき御会釈にて、御城に幸鶴丸公を御帰し成され、翌十二日吉田を御立ち成され、同国佐々部と申す所に御陣替候て、ここにて御滞留遊さる。」(出典同上)
 隆元がなぜ郡山城下まで来て入城しなかったかについては諸説があるが、一般には元就の戦陣中での苦労を慮って、儀礼上あえて避けたとされている。いかにも美談だが、しかし考えてみれば郡山城城主は隆元自身であり、彼もまた長い遠征でそれなりの苦労はしたのであり、そのような遠慮をするには及ばないことにも思える。むしろ溜まっているはずの政務を行なうために早々に入城するべきでもあっただろう。
 隆元側近が、城中の只ならぬ気配を感じ取って、隆元の入城を諫止したと云うこともあったかもしれない。すでに側近たちは出雲陣での元就や元春、隆景と隆元との決定的な決裂を目のあたりにしているので、今回の別働隊の派遣には何かわけがあるとにらんではいたであろう。入城は思い止まったが、隆元はたっての願いとして嫡男輝元との対面を請うた。
 そもそも隆元はこの遠征に死を覚悟していた。恵心師への書状には切羽詰まった胸中が披瀝されているが、出来れば戦功を樹てて、左右に家来を伴って手に手を取り合って討ち死にしたい、との希望を書き残している。たしかに今まで一度も戦功のない「大将」ではあったが、興隆期の大名の当主がなぜそこまで思い詰めるのか。おそらく彼自身も己れが死なねばならない理由を知っていたのであろう。賢明な、いやむしろ賢明過ぎる男であったのだから、きっと己れの辿るべき運命はすでに明察していたことであろう。
 四十一歳の父親として、十一歳の息子に対面したい、最後に四方山の話を語り尽くしたいと云う願いには痛切なものがあったであろう。しかしいざ顔を会わせてみれば、心底から語りたいことは憚られ、結局意に反してつまらない日常の茶飯事を言うばかりになってしまう。もの狂おしいほどの不如意を覚えたに違いない。「とかく御隔心がましき御会釈にて、御城に幸鶴丸公を御帰し成され」となるのも無理からぬことであっただろう。
 郡山城から五里ほど北西に上った江の川沿いの地域が佐々部で、ここでなぜか隆元一行は半月近く滞留している。八月五日には出雲へ向けて進発する予定であった。その前々夜、当地に別館を設ける備後国人、和智誠春の饗宴に招かれる。側近赤川元保は招聘応諾に断固反対したが、隆元はそれを押し切って宴に出向いた。深更、宿陣に戻る途中から馬上で隆元は腹痛を訴え、幾度も落馬した。陣所に戻ってただちに床に就いたが翌明け方までに逝去した。
 使用された毒物は「鴆毒」とされている。これより少し前、毛利軍は倉吉城主山名源七郎を姦計にかけて毒殺したおりも、この毒物を使っている。「此女鴆毒を酒中に入て進めける間、一両日有て源七郎俄に腹痛して卒去せり   」(「陰徳太平記」)おそらく速効性の高い青酸系の毒物であったのであろう。隆元の遺体もその同じ佐々部の地でただちに荼毘に伏された。
 翌日五日には洗合本陣に訃報が届いた。「諸軍士これは如何にと驚き急ぎ本陣へ馳せ参ず。元就朝臣少も愁ひ給ふ気色も無く、諸士に対面し給ひ、隆元逝去是非に及ばぬ次第也、然れば中陰の弔として、白鹿の城を切崩すべし、隆元に志深からん輩は別して忠戦を抽んづべしとそ宣ける」(「陰徳太平記」)
 さしもの堅牢を誇った白鹿城も、この下知に奮い立った将兵の猛攻でたちまちに落ちた。まるで隆元死去が朗報であるかのように、あるいは将来の心配がふっ切れたかのように、将士は一丸となって働いた。富田月山城の橋頭堡とも云うべきこの城を落として尼子氏包囲網は完成し、以後三年間の兵糧攻めが続く。永禄八年には輝元が参陣する。永禄九年十一月、万策尽きた尼子義久三兄弟が毛利の軍門に下る。翌年二月、出雲の陣を払って安芸吉田に凱旋する。
 その翌月、元就は隆元に近侍した老臣赤川元保に切腹を命じる。元保は天文九年の郡山合戦ではゲリラ隊を率いた斬り込み隊長として武勇をはせた古武士であったが、無口で謹直な人間でもあり、かえってそうした年配者であったればこそ、気弱にも見えた隆元をよく理解し、誠実な忠勤を励んだものであったかもしれない。切腹の理由は、隆元が和智氏の饗応に行くのを側近として止めえなかったと云う見当違いなものだったが、元保は従容として腹を切った。さらに二年後、隆元を饗宴に招いた和智誠春を厳島で誅殺する。
 尼子を討って中国地方を平定はしても、長年望んでいた「楽隠居」と云うわけにはゆかず、九州、伊予へと遠征の事業は続き、領内の反乱も止むことなく、七十を越えてなおも元就は第一線で統率せねばならなかった。輝元を隆元とは違う、真に戦国の大名家にふさわしい当主として育て上げるまでは、老骨に鞭打ってもと云う気概だったのであろう。隆元とは違って、輝元には幼少から合戦に出陣させている。しかし彼は元就が望んだように成長したであろうか。
 輝元十五歳の時、後見役を降りると言った元就に対して輝元は猛然と反発した。父隆元は家督を受けてから長年元就の支援があったればこそ毛利家当主を勤めて来られた、なぜ若輩の自分を祖父元就は見放すのかと輝元に言われて、元就は心底げっそりときたことであろう。七十を過ぎて、なお楽隠居が出来ない。実際彼は死ぬまで働き続けねばならなかった。合戦に生きた戦国武将には合戦の野辺こそが死に場所として相応しいのであろうが、その仁徳のいたすところか、幸いにも彼は郡山城で親族に囲まれて、元亀二年六月十四日、大往生を遂げた。享年七十五歳。その年の桜の宴に詠んだと云われる歌、
   友をえて猶そうれしき櫻花
      昨日にかはるけふの色香ハ   
 そう、元就は自らが努力してうち立てた栄光の頂点で死ぬことが出来たのである。各地の国人、地侍たちが慕い来る。毛利軍の一文字三星の旗幟は日本の三分の一の領土に翻り、瀬戸内海を牛耳って水陸共に威勢を誇る。その目の前の繁栄を、かつて郡山城に家督を継ぐために多治比からやって来た日と引き比べて感慨無量なものがあったであろう。「くたりたる世」ではあっても、彼は何ものかをたしかに得たのだ。
 元就の葬儀には一面識もない、東海の新しい勢力、織田家の当主信長から輝元宛に弔詞が届けられた。この希代の戦国大名はかなり元就を意識していたふしがあるが、それから二年後信長は足利義昭を追放して幕府を倒壊させ、浅井・朝倉両氏を滅ぼし、さらに二年後には長篠合戦で武田軍を討ち破る。いったんは織田包囲網で苦況に陥っていた信長は、その圧力を跳ね返し、中部・近畿一帯を席巻しつつあった。元就なき後の毛利両川軍はこの新しい、日の出の勢いの勢力とやがて雌雄を決すべき宿命であることを強く意識し始めていた。

                了

   元就事歴
 明応六年(1497) 安芸吉田郡山城に生まれる。
 永正十四年(1517)有田合戦で武田元繁を討つ。
 大永三年(1523) 郡山城に入って毛利家家督を継ぐ。
 天文九年(1540) 尼子軍三万、来襲。寡兵にてこれを防ぐ。
 天文十二年(1543)大内軍として出雲出征、敗走。
 天文十六〜二十二年  備後経略。
 弘治元年(1555) 厳島合戦。陶晴賢を討つ。
 弘治二〜三年     防長経略。
 永禄元〜五年     石見経略。
 永禄六〜十年     出雲経略。
 永禄十一年(1568)伊予出征。
 永禄十二年(1569)九州出征。
 元亀二年(1571) 安芸吉田郡山城に逝去す。