「斬韓非」

                      西方極楽寺院家(伊藤  節)


 その当時はまだ、人間が悪でも善でもないと云ったような柔軟な思考は不可能であったかもしれない。そのどちらかであると決めつけるところから、諸々の「思想」は出発したようである。
 いづれにしても荀子の弟子であった韓非子が、どちらの立場に立ったかは述べるまでもないだろう。彼は韓の国の公子であったが、彼の思想はその国では受け入れられなかった。彼は吃りであったので、自分の説を主張することが難しかったとも云われている。
 彼は著作を著すことで自説を天下に知らしめた。それでも韓の国ではいっさい受け入れられなかった。韓は当時周辺国に侵略されること多くて、国力は漸次弱まりつつあった。
 韓非の刑名法術の学説は、知られている通り万民への法の厳格な適用と、君主の法への準拠を旨としていた。つまりその意図するところは権力の中央集中と富国強兵の施策であり、そうした徹底した実利主義によって国力の回復を図ろうとするものであった。
 人材の登用を勧めることでも韓非の思想は徹底していた。廉直の士が邪悪な佞臣に妨げられることを彼は嘆いたが、その彼は韓王からは「人材」として信用されていなかった。結局最後まで信頼されることはなかった。おそらく彼の鋭利な才能を畏れて、これを敬遠したものであったのだろう。
 彼自身は、己れの才能を実際の国政に生かす術において劣っていたと云われても文句は言えまい。政治的な才覚がなかったのだ。むしろ秦の国の王が、その著作を通じて韓非に心酔した。後に始皇帝となる男だが、彼は韓非に是非逢いたいと切望した。
 この当時には、すでに秦は他の戦国六国(斉、楚、燕、趙、韓、魏)を圧倒して、覇者としての最終段階に差し掛っていた。有能な人材はいくらでも欲しかったのだ。
 宰相の李斯が韓非について説明した。李斯はかつて韓非と共に荀子の学窓に学んだ者であったが、自分は韓非には劣ると常々公言していた。しかしそれは本当は、不遇な韓非を揶揄するための言い回しであった。
「予はその者に逢って交わることが出来れば、死んでも悔いはないぞ」とまで秦王が言うので、李斯は策を練った。
 兵を動かして韓を激しく攻め立てたのである。韓王は韓非を使いたくはなかったのだが、和睦の使者として止むなく秦に送ることにした。秦の側がそれを要求して来たのだ。
 秦王は目論見通りの使者を接見し、大いに議論した。王は韓非を気に入って重く用いようとしたが、もちろんまだ敵国の使者である。そのまま任用するわけには行かない。しかしそのつもりがいかにも顔に現われていた。李斯は嫉み、韓非を陥れることを謀った。
「韓非は韓の公子です。陛下が今後諸侯を併呑しようと思し召しなされますに、これを重用なさいますのはいかかがなものでありましょう。いつ寝返るかわかりませぬし、いざと云う時は結局、韓のために働きましょう。これはすこぶる危険なことであります」と讒言した。
「陛下にはこれを用いられませず、むしろ罪を宛がって誅されますのが賢明でありましょう」
 そう進言する李斯の声は何の感情も交えぬ冷淡なものだったが、相手に有無を言わせぬ鋼のような強さと明晰さがあった。国王でさえ彼の説得力に抗弁するのは難しい。
「見せしめのために、いっそきゃつめを公開の斬刑といたしましょう」
 そう付言したのは、もうひとりの側近、宦官の趙高だった。これも韓非の学才を妬んでいた。
 しかし秦王はその意見については首を傾げた。
「隣国の使者を斬に架けるのはいかがなものかな」
 李斯は韓非を投獄して拷問を加えさせた。貴公子だから、ちょっとくらいの苦痛で自殺してくれるものと考えたのだ。ところが韓非は意外としぶとかった。故なく罪に落とされたので、身の潔白を証したいと訴えた。鞭打ちにも棒打ちにも耐え抜いた。しかしどんなに訴えても牢役人はもとより聞く耳など持たなかった。
 ある日、宰相の李斯が自ら罪人の地下牢に足を運んだ。それは法家思想の実践者である彼が初めて見る、「加罰」と云うものの実態だった。一方、いかにも皮肉なことだが、その加罰を受けているのは法家の新進気鋭の理論家、韓非である。
 一日中陽の差さない地下牢は湿っていて、空気は澱んでいた。李斯が鉄格子から中を覗き込むと、わずかな燭の火で罪人の足元だけが辛うじて照らされている。その床には沁みだした地下水が溜り、油虫や百足が無数に這い回っていた。李斯はぞっとして顔をそむけた。
 牢番に、罪人を外まで連れて出るように命じた。
「どうだな、そこの居心地は」李斯はからかうような調子で尋ねた。学識ではとうてい及ばぬ、同窓のライバルの運命を手中にしたのである。軽口をたたきたいような気分だったのだろう。「これは、お主の主張通り、刑罰と法治を厳しくしたための処置だ」
「李斯、謀ったな」
「謀ったり謀られたり、それが人生と云うものさ」
「俺は無実を訴えるぞ。陛下に無実を認めてもらうまでは、死んでも死にきれん」
「馬鹿め。お主の言とも思われん。無実の人間などこの世のどこにおるものか。すべての国民が有罪であるからこそ、我々の法家の施策もまた有効ではないか。お主だけ例外と云うわけには行かぬ。そもそも俺もお主も荀子に学んで、この世では目に見える形こそがすべてだと悟ったではないか。形としてお主は世に認められず、形としてこの国でも罪に落とされた。だからお主のいっさいが敗れ去ったと認めるべきではないのか。あのアホな儒家どものように、まさかお主、この期に及んで、己れの心の真実などと云う戯言をほざくのではあるまいな」
「俺はたしかに自分の国でも認められず、何ひとつ力量の発揮出来る機会もなかった。この秦国では陛下に認められるかと思って、一縷の望みを得たとたんに、無実の罪に陥れられた。つまりお前の言う通り、俺は事実において無力で、かつ無能でもあるだろう。俺を蔑むのもいい。しかし俺はなお自分の思想に対して誇りと責任を持っている。俺が求めたのは法治による国家の発展と民衆の救済なのだ。我が思想と理念に恥べき点はまったくない。そのことを陛下にだけは御理解いただきたい。俺自身の生き様はつまらぬものだったが、俺の思想は敗れてはおらぬ。このように謂れなき罪に汚されたままに朽ちさせることは出来ぬ。今、俺が求めるのはそのことだけだ。この至誠だけは貫くぞ」
「ふん、『君子は死んでも冠は脱がぬ』か。青臭いことを言うものだな。その至誠とやらは何によって現わす?」
「俺の死だ。公の斬刑にするならしてみるがいい。その不条理な、認め難い死こそが、俺の至誠の根拠になる。あえてこの死を毅然と死んでみせよう。お前の望み通りに自殺などするものか」
 韓非にすれば、かつての楚における呉起や、この同じ秦における商鞅たちと同様に、とも言いたかったのに違いない。
 それから数日してから、ふたたび李斯が牢獄を訪れた。今度は韓非を外に出さず、鉄格子の間から服み薬の袋を差し入れて言った。
「明日、お主は広場で斬首される。世に聞えた思想家がそのような死にざまを晒すことは忍びない。この毒を服め。遺体は手厚く祖国に送り届けてやる」
 実際中国の人にとっては、身体が切断される死にざまほど恥ずべき死に方はない。
「いや、俺は刑死する寸前まで無実を訴える。この不当さを叫び続けよう」
「そんな叫びをどこの誰が聴いてくれるのか。お主は罪人なのだ。罪人として刑死する以外には、どんな意味もないのだ。この新しい現実を受け入れよ」
 しばらく沈黙があった後に、韓非は独り言を呟くように言い出した。
「李斯、俺には最初から現実はなかったような気さえする。こうしてすべてが嘘と偽りの中に潰えて行くではないか。俺は長年、施政の真実が何であるかを追及して来たが、そして民衆とは何であるかを探ってきたが、そんなものが分かったところで何になろう。所詮はひとつの解釈に過ぎない。どんなに解釈の奇をてらったところで、その後にはまた別人が別の解釈を出す。永遠の徒労だ。どこに現実があろう。どこに真実がある   」
 李斯は黙った。韓非の諾否も聞かぬまま、人差し指と中指に挿んだ薬袋を獄屋の床に落とした。それは木の葉のように、ゆっくりと舞い落ちた。
 翌日の朝、牢役人が韓非が服毒自殺したと告げに来た。入れ替わりに秦国王より使いが来て、韓非の赦免を命じた。李斯は韓非の遺体を約束通り、韓に送還した。もちろん彼が罪人として獄中死したことなどは毛頭言わなかった。
 後に韓非子の教えに私淑して国政に与る者は、どれも法だけを尊んで、人情や道義などはいっさい無視する、酷薄で怜悧な為政者となった。「愚かで不明な」民衆は、権力が不断に与える恐怖心によって導かれねばならないとする強迫観念が、彼ら、法家には共通してあったのだ。人の内に秘めた心の、その主観的価値など決して認めないと云う信念でもある。
 その反対に民衆の心を尊重した思想家もあった。たとえば韓非の現われる百五十年も前に出た衛の人、呉起である。
 彼は始め魯の国へ行って大将として成功した。しかしそこに居辛くなって、やがて魏に行って文侯に仕えた。ここでも呉起は戦の大将として秦の城を五つも落とす活躍を見せた。
 なぜそんなに強いのかと云えば、彼が戦に出る時には、士卒の最も低位な者と衣服も食事も同じにして、寝るにも褥を用いず、行軍にも馬を使わず、自分で兵糧を腰にしてすたすたと歩き、それこそ士卒と苦楽を共にするように心がけたからだった。つまり彼は士卒たちを「泣かせる」大将だったのだ。
 ある時などは、壊疽を病んだ兵があって、呉起は自らその膿を吸い出してやった。その兵卒の母親が、この話を聞いて嘆き悲しんだのは無理もなかった。
「以前に、呉起さまはあれの父親の膿をやはり戦場で吸い出しなすった。おかげで良人は戦で、ひと足も引かずに戦ったあげくに討ち死にしました。今度はまたあの子に同じことをしなすったと聞いて悲しんだのです。あれもまた同じように死に物狂いで御奉公をするでしょうから」
 文侯は呉起の用兵のうまさと、士卒の人望のあることを認めて、彼を西河の大守に任じた。呉起は文侯が死ぬと、その子武侯に仕えた。
 その武侯が西河を訪れて船で河を下った。峨峨たる山塊を映す、大河の瀞をなした千尋の河面に見入っていたが、やがて王は呉起を振り向いて、満足気に言ったものだった。
「さても立派なものだな。この山河の険峻な有様は、まさに天然の要害だな。これぞ魏の国の宝であろう」
 呉起はそれを聞いて、しばらく風景を見渡すふりをしたが、やがて重々しい口調で言った。
「国の守りは徳であります。険阻ではありません。昔、夏の桀王の国土は黄河を左にし、泰山と華山を右にして、伊闕の山を南にし、羊腸の険路を北にしておりましたが、その政治が不仁であったため、湯王がこれを放逐しました。殷の紂王は、孟門を左に、太行山を右に、北には常山を、南には黄河を抱えておりましたが、政治に徳が欠けていたために、武王に討たれました。ことほど左様に、すべては徳の如何にあるのであって、険阻にあるのではありません。もし今しも我が君に徳がないと云うことになりますれば、この船に乗っている者は皆、あなた様の敵となりましょう」
 たしかに彼、呉起に人望が集まったのは間違いなかろうが、はたして彼に仁徳があったかどうかとなると、これははなはなだ疑わしい。
 かつて魏に宰相職が新設された時、これにはてっきり自分が任ぜられるものとばかり信じていた呉起ではなくて、田文なる隠君子が抜擢された。呉起は面白くないので、田文に喰ってかかった。
「貴殿はこのたび目出度くも宰相の地位に就かれたが、貴殿と拙者の手柄を比較検討しようではないか」
 年長けて、磨いたように清らかな人柄になっている田文は笑みさえ浮べてうなずいた。呉起の言いたいことなど、先刻承知と云った顔つきである。
「三軍の将として合戦を行なっては、連戦連勝し、士卒が喜んで死に、四囲の敵からは畏れられているのは、貴殿であろうか、それとも拙者であろうか」
「御貴殿でありましょうな」
 田文は素直に認めた。
「文武百官を取り仕切り、万民から慕われて、国庫を充溢させられたのはどちらの働きであろう」
「それも御貴殿の働きでしょう」
「治めるに難しい西河の地を守り、強敵の秦の侵入を防ぎ、韓と趙に睨みをきかせているのは、誰の功績であろうや」
「もちろん呉起殿の、御指導のよろしきがあればこそです」
 そこで呉起は畳み掛けるように詰問する。
「この三ヵ条について、貴殿はいづれも拙者に劣ると言われるのだな。されば位のみ拙者の上に立たれるのは、いったい何故でござるか」
 呉起は感情を昂ぶらせて、血走った目で田文を睨んでいたが、田文は動じる気配もなく、相変わらず村夫子然たる落ち着きで、逆に問いを放った。
「主君は幼く、大臣は心服せず、家臣は動揺し、国の民は不安に思っている。そのような時節に、はたして貴殿に国家を任されるであろうか、それともこのやつがれに任されるであろうか」
 その問いの意味を考えるうちに、呉起の顔色が平静になって来た。
「なるほど、それは貴殿が相応しかろう」
「拙者の位が今、たまたま貴殿の上にあるのは、他でもない、その所以じゃ」
 呉起はそれでおとなしく引き下がったと云う。
 ところがこの田文が死んだ後に、宰相になったのはまたしても呉起ではなくて、公叔と云う男だった。これは先代魏王(文侯)の娘婿であること以外には、何の取得もない人間だったから、呉起の実力を恐れ、かつ妬んでいた。そこで武侯に讒言した。
「呉起は己れが民や臣下に人望のあることを鼻にかけておりまする。その上、このような小国に燻っていることが不満なのです。あの者の本心を探るために、先代陛下のもう一人の公主(王姫)、すなわち御妹君を妻わせようと仰せられませ。あの者になお忠義があれば受けましょう。なければ他国に逝くつもりですから、謀反と同じ。ただちに斬刑に処するがよろしいかと」
 そしてその足で直ちに、公叔は呉起を屋敷に招いた。屋敷では、先王の娘である正妻が夫の公叔を嘲弄したり、面罵したりして騒いだ。呉起の目の前で、公叔は妻にひたすら頭を下げっぱなしの、お恥ずかしい様を晒したが、もちろんこれは仕組まれた茶番であった。王家の娘などを妻にすれば、いかばかり苦労するかと云うのが、その「寸劇」の主題だった。
 そんな猿芝居がなくても、人事に不満のある呉起は魏の国など見限ってさっさと立ち去るつもりだった。
 武侯は呉起に縁談を断られると、常日頃からも呉起が民衆の人気に驕っているのを心よからず思っていたので、益々疑いを深くして、宰相公叔の勧め通り彼を引っ捕えるように命令を発した。
 呉起は奔って楚の国へ遁れた。楚国の悼王は呉起の才覚と人望を聞き及んでいたので、彼をただちに宰相に任命した。
 宰相となった呉起はそこで思うさま辣腕をふるった。兵家である彼はまずもって兵力を強大にすることに努め、それ以外の出費はとことん切り詰めた。不要不急の官を廃し、王族や家臣の封禄を削り、議論ばかりして実行のない者たちを退けた。そうして南では百越の諸部族を平らげ、北では陳と蔡の二国を併呑し、西では秦を撃退した。
 これだけの外征を行なうために、彼は人民に莫大な負担を強いて、容赦なく税や労役を取り立てた。しかし彼は彼らしいやり方でやはり「人望」を集めた。国の民は際限のない苛斂誅求を受けながらも、呉起の「人情味のある」人柄を慕った。
 何しろ事ある毎に、民衆の前に出て行っては「病人の傷口を吸ってやる」式のパーフォマンスをやってのけるのだから、いやが上にも人気が高まった。
 彼自身はいったん手に入れた宰相の地位を失いたくなかっただけのことだが、民衆は彼の一挙手一投足に喝采を送った。しかし一方で彼の強引なやり方は、宮廷内部で彼自身を孤立させ、いつかは破局を招かざる得ないまでになっていた。後ろ盾である悼王が死ぬと、冷遇された重臣や王族たちがたちまち反乱を起こした。
 呉起は逃げて、悼王の遺骸のある部屋に隠れた。反乱者たちが彼を追って来て、矢を放ち、彼を槍で突き、ついには切り刻んで、いわゆる「八つ裂き」にした。王の遺骸にも流れ矢が刺さった。
 悼王の葬儀が済むと、太子が王位に就いたが、国中の民が呉起の「徳」を慕って嘆き、反乱者たちへの怒りを募らせるので、止むなく王は反乱に加担した者らをすべて誅滅した。王の遺骸に矢を立てた者はもとより、すべての関係者を処刑したが、これに連座して一族悉く誅された家が七十あったと云われている。
 国の守りは険阻よりも、政治の徳であると常々主張していた呉起の本領は、死んで後も発揮されたと云うことであろう。
 しかし若い頃の彼はそんなことは言わなかった。衛の国の分限者の家に生まれ育った彼は、仕官しようとして諸国を巡って一度失敗したことがあった。財産をすっかり使い果して、尾羽打ち枯らして郷里に帰って来た彼は、当然のことだが、親類一族からは嘲られた。
 この頃の呉起には「徳」のなかった証拠には、郷里で自分を謗った者たちへの怒りが押さえがたく、ついには三十人あまりの人間を叩き斬って殺し、そのまま東へ逃げた。
 衛の都の城門を出ようとする時、母親が追い付いて来た。彼は肘を噛み破って血を出して、血文字の誓い文を書いたとされているが、おそらく闘争のおりに受けた傷の血を使ったのであろう。
『大臣宰相にならねば、二度と衛の門はくぐらぬ』と彼は誓い文を書き付けて去った。
 そして曾子の門に入った。ところがしばらくして母親が死んだとの知らせが入ったために、彼は破門された。呉起は自らの誓いを守って帰らなかったのだ。曾子と云えば、孔子門下でもとりわけ親への孝行を尊ぶことで有名な儒家で、こうした呉起の態度を見下げ果てたことだと思ったのも当然だった。
 呉起はそれから魯の国へ行き、そこで今度は兵学を学び、そしてようやく仕官の機会に遭遇した。斉の国の軍が魯を攻撃して来たのだ。魯国では兵学に明るい呉起を大将にしようとしたが、しかし彼の妻は斉の出身であったため、その決定はためらわれた。
 当時の呉起は、いやそれから後の彼も同じかもしれないが、何が何でも出世したいの一念に凝り固まっていたのであろう。魯の人たちの疑いを解いて大将になりたい一心から、妻を自ら斬って殺した。
 結局これによって彼は大将の地位を得て、斉との決戦に臨み、みごと大勝利を博した。もしこれが別の国でだったならば、彼は自分の希望通りの出世を果たした平凡な野心家として、歴史に名前すら残さずに終わっていただろう。
 しかしそもそも魯は孔子の出身地でもあり、元来仁義礼節には喧しい土地柄であった。出世のために母親の死を弔わず、妻さえ斬り殺すような男は、たとえ有能であろうとも、これを支持する者はなかった。せっかく大功を立てたのに、魯国では誰も彼を良くは言わなかった。そこで国王も呉起を謝絶したのだった。
 こうして魯の国を去って魏へ行ったのであるが、その頃から彼の表向きの態度が変わった。よろず民衆の中に入り込むようになり、彼らの気持ちを捉えることに、そして彼らに好まれ尊崇されることに心を砕いた。実際そのことに成功し、彼は合戦に出ては百戦百勝、戦って敗れることはないと云った兵法家となったのである。
 その呉起が魏で活躍していた頃に、彼の郷里の衛にもう一人の傑物が生まれた。名は鞅、姓は公孫氏。刑名の学を修めて、魏の宰相公叔に仕えた。これはおそらく呉起を放逐するように謀った人物と同一人であろう。
 小悪人であるこの宰相は、死に際して魏王に遺言した。公孫鞅を国政に重用なされるようにと、これは奇才の政治家であると言うのだった。そしてもし用いない場合は、他国に行かないない用心に殺してしまう必要があるとも。
 魏王恵はこれを年寄りの妄言として聞き流した。そしてもちろんそのことを後に、大いに悔いると云うことになる。
 公叔が死ぬと、公孫鞅は魏を去って秦に行った。当時の秦はまだ西方辺域の鄙びた国だったが、人材を求めることに熱心であった。そこで秦王孝公に仕えて、いわゆる「変法」の改革を断行して、郡県制の施行、家族の細分化、耕地整理、度量衡の統一などの諸政策を果断に行なって、富国強兵の実りを上げた。しかもその政策遂行のために徹底的な賞罰主義を課して、法家思想の最も有能な実践者として世に喧伝された。
 こうした一連の鞅の施策によって、人口、資源、生産力のどれを取ってみても乏しい、西方の辺境国家、秦は後に全国制覇を遂行する最強国へと発展するための切っ掛けをつかんだのである。
 そもそも彼は堂々たる体躯を持った、自信と活力に溢れた男だった。己れの才能と行動力に一点の疑いも抱いていないタイプの、押しの強い政治家である。断固として行なう、欺瞞に満ちたアクの強い策略も、こうした男にとっては善悪の彼岸にある一種のテクニックに過ぎない。手段の選択において、彼はためらうと云うことはなかった。
 秦の孝公に取り入るについても、鞅は宦官の佞臣(そもそも佞臣でない宦官などあることだろうか)景監なる者を使い、その紹介をもって王に近づいた。論客として、彼はまず国王に「帝道」を説き、それから次には「王道」を説いた。どちらも聖人君子の方法論であり、王の気には召さず、景監は鞅をなじった。
「お主はとんだ食わせ者だ。陛下はあのような、ありきたりのきれい事には飽きあきされておられるのだ。もう少しは骨のあることを論ずるかと思うたに   儂の見込み違いであったか」
「どうかそのようにおっしゃられませず、いま一度機会をお与え下され。そもそも拙者は陛下に三度説くと申しておりました。三度目には、拙者の意のあるところを思し召しなされるでありましょう」
「大丈夫であろうの。もし三度目も陛下の御不興を買ったら、儂の命でお主を斬に架けるぞ」
 かくして当初の目論見通りに、三度目には「覇道」について語り、王はこの時は膝を乗り出して聞いたと云われている。そのまま三日間続けさまに語らせて、王はなお飽きなかったと。鞅は、こうして出世の糸口をつかんだのである。
 朝廷の議場で居並ぶ百官を前にして、朗々と響くすばらしい声で、彼は自分の思想を実践するための論陣を張った。儒家の徳治や人道主義、祖法遵守や慣習尊重の考え方を非難して、それらの論者たちと真っ向から渡り合った。
 相手は特権を貪っている貴族や官僚たちだった。彼らは変化と云うものを虫酸が差すほど嫌いな連中で、変革のための策動をちょっとでも起こそうとする者には、打って一丸となって抵抗し、その方策の些細な問題点をしつこくあげつらった。
「智者は法を作り、愚者はそれに制せられるもの。賢者は礼を改め、不肖の者はそれにこだわるもの」
 そう言いきる鞅は、断固として変革を実行する決意を示した。
 あるいはこうも言った。
「人よりも高き行いある者は、すべからく世に謗られ、独創的な先見者は必ず民に罵られるもの。究極の徳を論ずれば俗人に一致せず、大功をなす者は有象無象には相談などはせぬもの」
 いくら戦国の時代とは云っても、彼ほど明確なビジョンを持った政治家は珍しかったかもしれない。公孫鞅の自信は単なる虚勢ではなかった。彼にはたしかに思想的な裏付けがあったのだし、その実行力は鬼神のようであった。
 そもそも「覇道」を国王に薦めたこと自体が破天荒なことであった。もちろん世は戦国であるから、諸侯は実際には覇道を競い合っていたのだが、建前はあくまでも王道を目指すと云うものであった。それを何の遠慮もなしに、ずばりと秦王に進むべき悪の道を、すなわち強者の道を謂ったのである。
 初め諸施策を布告するに当っても、彼は策を用いた。棒杭を都の南門に立てて、これを北門に移した者に十金を与えると云うのだ。誰も訝って実行しない。五十金の賞金にした。一人の男がついに棒杭を運んだ。これによって彼は五十金を儲け、お上は「布告」と云うものの真剣さを民に知らしめることが出来た。
 そうして始まった厳しい信賞必罰の制度は人々を始めは苦しめたが、やがて社会に一定の秩序と発展が起ってくると、逆に人民を喜ばせた。さらに喜び過ぎた軽率な者らが、見せしめとされた。
「結構な法でございますな」などと、わざわざ公孫鞅のところに世辞を言いに来た連中を、引っ捕えて辺境の地に流した。御政道について云々すると云うこと自体が、謀反の始まりであると断定したのだ。その他、少しでも民衆に瑕疵があれば、ただちに逮捕して、「疑わしきは罰する」を原則として、「腰斬」のごとき厳罰を適用した。しかも公衆の教育も兼ねて、市中の広場で晒しものの処刑に架けるのだ。
 鞅の宰相十年にして、秦国は最も強力な国へと成長した。そして魏を攻めた。闘っても勝ち目のない戦を恐れて、魏王恵は西河の領域を秦に割譲した。呉起がかつて治め、人望を博した地である。
 その功績に対して、公孫鞅は商の地を与えられたので、以後商鞅と呼びならわされるのであるが、その頃が彼の絶頂期である。しかし一方であまりに厳しい法治主義を布いたので、貴族からも民衆からも深く恨まれるところとなって、孝公の死後、彼はたちまち失脚して、今度は謀反人として追われる身となった。
 過度の自信家は、挫折した時の精神的反動も大きい。国境まで遁れて、宿に泊まろうとして、彼ほどの男が泣き言を言ったのである。
 宿の亭主が拒絶して言うには、商鞅様の御法令により、身分証明書のない旅人を絶対に泊めてはならないとされております、と涼しい顔をして答えた。あるいは亭主は相手が商鞅本人であることを知っていて、わざととぼけたのかもしれない。
「法の弊害はかくまで甚だしいか」と、この時商鞅が嘆声したと云うのは有名な話だが、そもそも先覚者が民衆や俗物どもから憎まれ、迫害されることは十分に知っていたはずの彼である。そんなことを口走るのも彼の気の弱りであったろう。
 ましてやこの時、よりによって魏の国へ逃亡するなどと云うのは、彼らしからぬ錯誤と混乱である。領土を侵略した張本人を、その被害国が庇護するわけはないし、むしろその場で殺されなかっただけでも好運であったと云うべきであろう。
 しかしいづれにしても魏で捕まって送り返され、秦の国都で車裂きの刑に処せられた。その裂かれた遺骸は民衆の前を引き回され、一族もすべて誅された。これは楚国における呉起の末路にも似ていよう。どちらの自信家も、彼らの強引な施策によって既得権益を奪われた貴族、王族が起こした宮廷クーデターによって倒されたのだ。
 韓非は結局、その祖国韓においてまったく用いられなかったので、そうした憂き目に遭わずに済んだのである。
 とまれ商鞅の法家思想に基づく体制は秦国に根付き、それから約百年後の始皇帝の中原制覇の母胎となる。商鞅個人の人生は悲惨な結末に終わったのだが、その「仕事」は後の世に開花したのである。その全国制覇の時代に、李斯は実質的な為政者として、この商鞅の政策を受け継ぎながら、韓非の思想を実践させて始皇帝の偉業を補弼した。

 彼は楚の国から流れて来た人間だったが、始皇帝の片腕となって以来、三十年以上も秦の国政を指導した。痩せて背が高く、表情は鉛のように冷たくて、いかにも近寄りがたい人間ではあったが、頭の回転の素早さには神がかり的なものがあった。
 基本的には商鞅の引いた路線の上を突っ走ったわけだが、彼もまた徹底したリアリストで、かつ出世主義者であった。「大功を成す者は他人の過失にでもすかさず付け込み、人間的な感情などいっさい度外視してやってのけるもの」と云う信念を持っていた。たしかに旧友の韓非に対する仕打ちを見れば、彼が自己の人生と権力をどういうふうに考えていたかが分かる。
 また地位の賤しいほど恥とすべきものはないとも言い切っている。鼠を使ったこんな寓話がある。彼が楚国の県庁で小吏をやっていた時、便所の鼠は人の影に怯えて、いつもびくびくしていると気づいた。反対に、穀物倉庫の鼠はたらふく食って、人を見ても平然としているとも。
 つまり人もその与えられた環境によって人間性が左右されると云う、あからさまで冷徹な現実主義である。そこから学んで彼は、自分が何であるかではなしに、自分が何に見られるかを重視する人間となったのである。
 彼は楚国を去って、荀子の門に入り、そこで韓非と机を並べた。頭は切れるが、寡黙で、自分の意見を容易に謂わない若者だった。しかしある日荀子に決別して、秦へ行った。秦ではまず影の実力者であり、始皇帝の実の父親でもあったらしい呂不韋なる丞相の食客となった。
 商鞅の時代の秦はいまだ発展途上であり、彼は有為の人材として自らの活躍の場を求めて西へ行ったのであった。しかし李斯の時代には、すでに秦国は他の戦国六国を凌いで、これらを漸次併呑する勢いであった。したがって李斯は初めから、「勝ち馬」に乗るつもりだったのである。そこで怜悧な奸策を次々と提案して、頭角を現わした。
 その奸策はいかにも李斯らしいものであった。献策と共に、彼はそれを実行するための職権を与えられた。すなわちその策とはスパイを秘かに諸国に送り込み、重臣を買収させたり、買収に乗らない者は暗殺したりして、君臣間を離反させると云うあくどい謀略外交の術であり、彼はそれを統括指揮する長吏(長官)に任ぜられたのである。李斯の謀略の後には、始皇帝は蒙武、蒙恬などの将軍に精兵を付けて遠征させ、諸国を攻略させた。
 国内における李斯の政治手法はもちろん、民衆に対しては非情で冷酷で、法治による権力主義をどこまでも推し進めようとするやり方だが、こうした内政における厳しい緊張状態の維持と、対外的な拡大主義とがついに秦国をして戦国の最終的な勝者たらしめたものでもあった。
 そうして打ち建てられた国家は、実に抽象的なほどの観念「帝国」でもあったのだ。「帝国」と云う理念に基づいて、人為的に生み出された社会だった。
 諸侯を廃し、人民と領地と権力のすべてを皇帝に集中させる機構が生み出されたのである。そんな社会は中国では初めて出現したものだった。生臭い人付き合いや縁故で成り立つ、人間主義的な封建社会から、法と制度の抽象が完全に支配する帝国へ。未曽有の大変革である。
 その理論構築をしたのは、彼が死に導いた韓非だった。しかしその韓非はあくまでも思想家として思索しただけだった。一方、李斯は理論では劣ったかもしれないが、現実に生きた政治の中でそれを実現させたのは、間違いなく彼の功績である。そのことこそが大事なのだと、李斯は韓非に言いたかったのであろう。
 合従連衡の政治的妥協や均衡を打破して、一気に中原を征服し、商鞅の郡県制をより発展させて全土に中央集権体制を敷き、度量衡を統一し、焚書坑儒を行い、帝国の礎を成したのは自分なのだと彼は信じていた。その李斯もまた、いかにもありそうなことだが、始皇帝没後に政争に敗れて刑死した。
 しかし少なくとも始皇帝の生存中には彼の権力は安泰であった。よって李斯自身の栄達もまた華々しかった。彼はもちろん人臣の最高位を揺るぎないものとしていたし、彼の一族も皆その余慶にあずかって望み通りの官位を得た上に、また息子たちはすべて秦の公主(王女)を妻とし、娘たちはすべて公子に縁づいていた。
 都・咸陽の邸宅で宴を催した時などには、文武の百官が門前に車馬を何千と連ねて、あいさつの順番を待ったほどである。それでいながら李斯は宴の佳境の時に、ふとつまらなそうに顔を背け、溜め息まじりにこんなことを呟くのだった。
「儂は元は、楚の国の一布衣、すなわち名もない一平民であった。陛下のお取り立てでここまで成り上がり、人臣位を極め、富貴は誰よりも優っておる。しかし儂は知っておる、物事が栄えの頂点に達すれば、その次には確実に衰退が来ることを。そのようにしながらこの世界は動いておる。さながら馬車が休みなしに山や谷を駆け登り、駆け下りしておるようなものじゃ。さてさて、儂の馬車が最後に停まってくれるのはどこであろうか」
 しかし贅をきわめた盛宴の歌舞音曲の中に、場違いなその呟き声は埋没し、人々はこの世ならぬ栄耀栄華に酔い痴れて、誰一人、最高権力者の憂いに本気で思いを致す者などはいなかった。『歓楽極まりて、哀情多し』の叙情的な感傷に浸っていただけなのか、それとも辣腕の政治家としての勘によって、出来上がったばかりの帝国の傾危をすでに予兆していたのであろうか。
 始皇帝が行幸途中に沙丘と云う場所で突然に亡くなり、この時に随行していた李斯と宦官の趙高との、二人の画策によって二世皇帝(胡亥)が立った。以後、李斯は趙高と激しい権力闘争を演じるのだが、ついに敗れたのだった。
 そもそもふたりは結託して、始皇帝の遺詔を改竄し、本来後嗣たるべき嫡男扶蘇を自殺に追い込み、何の取得もない、末子で遊び人の胡亥を皇帝位に就けたのだった。扶蘇は焚書坑儒の施策について、父親を諫言するほど節のある嫡男であり、始皇帝の遺詔にも彼の継承が記されてあったと云われている。
 はじめ李斯は沙丘でこの陰謀に誘われた時に、趙高に反対し、正体の知れぬこの佞臣をなじった。
「何と恐ろしいことを言う。宦官の分際で、始皇帝陛下の御遺書を改竄して、扶蘇殿を廃し、別の公子を立てるなどとは、人に知られたら斬刑では済まぬぞ」
 趙高は大いに畏れ入ったふりをして、どこまでも卑屈に腰を屈めながら、なおも李斯の耳元に食い下がった。
「よろしいのですかな、このまま扶蘇様とその側近蒙恬将軍とが政権を取られましたら、李斯殿、はたしてあなた様の地位はこのまま安泰であられますかな?幸い、今、御ふたかたは匈奴への備えに北辺に進駐しておられます。今この時をおいて、事態を好転させられる機会は永久に現われませんぞ」
「儂は私利私欲で帝国建設に尽瘁して来たのではない。どんなに民衆に辛く厳しく当ろうとも、それは結局民衆自身のためにやって来たことじゃ。お主のような、さもしい根性で丞相まで登り詰めたのではない。扶蘇様の思召しに添わなければ、いつでも野に下ろう」
 趙高の媚びた、猫撫で声が変じて、強く詰問するような語調になって、李斯に迫った。
「それは表向きのきれい事。ひとたび清廉潔白を売りものにした、融通のきかぬ扶蘇様が帝位に昇られたあかつきには、あなた様が過去になされた、よろしからざる事績はすべて暴かれて、あなた様はもとより六親眷属に至るまで一族すべてが罪に問われるは、火を見るよりも明らか。それでよろしいのか。その時になって後悔しても始まりませぬぞ。そもそも蒙恬と争って勝ち目があるとお思いか?」
 李斯は言葉に詰まり、深く考え込んだ。たしかに趙高の言うとおりであり、権力者として次の世代も生き残りたければ、今こそその策をなす時だった。敗者は結局弱者なのだと、李斯はその生涯で幾度自分に言い聞かせて来たことであろう。今もう一度、それを呟かねばならない。
 ふたりの陰謀家は結局、始皇帝の喪を秘したまま、玉璽を私して偽の遺詔を作り、扶蘇には自決を、蒙恬には刑死を賜るように工作したのだった。この邪魔者のふたりが偽の遺詔にだまされて死んでしまうと、都・咸陽で胡亥を無事二世皇帝へとまつり上げて、ふたりの陰謀家はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
 一方、彼らの担いだ胡亥はまったくの愚者だった。二世皇帝に就いてからも、明けても暮れても美酒と淫蕩に耽溺して、政務をないがしろにしていた。その上趙高がうまく騙しすかして、この「馬鹿殿様」を宮中奥深くへ奉って、余人との接触をいっさい断たせてしまっていた。
 そもそも二世皇帝・胡亥とは、幼少の頃から、宦官趙高がその養育を担当して、育て上げた公子だった。二世皇帝を掌中に出来るのは、当然のことだった。
 そうしておいて趙高は、皇帝の威を借りて粛清の鉄拳をほしいままに振るった。始皇帝には他に十二人の公子があったが、すべて斬に架け、市場に晒した。反対派の高官たちも全員酷たらしく殺した。
 残る「大物」は李斯だけとなった。李斯はこの事態に気づいて、皇帝に諫言するため奥の院に近づこうとするが、趙高にさいさい拒まれた。代わりに趙高は、皇帝がとりわけ都合の悪い時を見計らって李斯を呼び入れた。三回李斯は奥の院に拝謁に上がったが、三回とも皇帝陛下が美女たちと戯れている場面であったので、三度目にはついに二世皇帝は激怒した。李斯は追い出され、さらにその二世皇帝の怒った頭に、趙高が李斯を讒言する言葉を注ぎ込んだ。丞相李斯が謀反を企んでいる、と告げたのである。二世皇帝は李斯の逮捕と取り調べを命じた。
 獄に繋がれた李斯は自らの罪を自白するように強制された。彼は趙高の命で千回、棒で打たれた。
 李斯は自殺しなかった。代わりに自分の罪を認める上奏文を書いた。そこに列挙された「罪」は次の通りである。
 第一の罪、秦国王に中国を統一させて皇帝と成らせたこと。
 第二の罪、辺境の夷狄を平らげたこと。
 第三の罪、大臣長官などの有能な官僚を育てたこと。
 第四の罪、秦国の祖廟を立派にして、その賢徳を明らかにしたこと。
 第五の罪、法令を整備して、度量衡を統一したこと。
 第六の罪、帝国内の道路や万里長城などの土木建設を進めたこと。
 第七の罪、皇帝の人望が高まるように人民を宣撫したこと。
 以上の「罪」を以て、宰相李斯は万死に値しようが、皇帝が自分をなお使おうと思し召すならば、まだ存分に働きましょうと云う意味だった。しかしこの上奏文は趙高によって握り潰された。
 さらに厳しい尋問が続いた。李斯は有罪であることは認めた。しかしその事実関係を訴えるのだった。鞭や棒がそのたびに、老いたこの宰相の背や肩に打ち降ろされるのだった。
「有罪と認めておるではないか。これ以上何の謂れがあって、儂を打つのだ」
「何の謂れも、理由もない。ただ貴公の存在そのものが許されぬのじゃよ」
 獄の外の刑場の入り口に立って、趙高は甲高いキンキン声を四囲の暗い壁に反響させながらしゃべった。宦官らしく豪華で、気違いのように派手な服装をしているのはいつもの通りだった。
 青白い、爬虫類のような顔がねっとりとした笑みを浮べ、五寸も爪を伸ばした指が柳の枝のように揺れている。
「儂はこの権力を得るために何もかもを犠牲にしたのじゃよ。男であることも、子孫を持つことも、自尊心も、快楽も、耽美も、何もかもじゃ。どんな聖人君子と云えども、儂ら宦官ほどに禁欲を行い通す者があるだろうか。さればこそこの帝国の重責を担うに相応しいと云うものじゃ。儂の生には何もないが、純粋な権力だけが今こうして残っておる。それに引き代え貴公は何を犠牲にしたと云うのか。荀子や韓非の思想を借りて成り上がったくせに、位人臣を極め、しかも子々孫々まで栄えて陛下をも凌ぐほどの富貴を得た貴公を儂は常々、いつかは追い落としてやろうとねらっておったのじゃよ。それにしても李斯、貴公も焼きが回ったな。生涯、人に優って勝つことばかりに努めて来た貴公が、宮廷の中ではこの儂を目端にも掛けなんだな。宦官など人間とも思うておらなんだのじゃろう。ところが沙丘での儂と貴公との共同の陰謀の後で、二世皇帝を奥の院に押し籠め奉った時から、儂の勝ちは決まっておったのじゃよ。それが見抜けなんだとは、貴公も年を取ったな」
「何が望みだ。貴様にしても、宦官としてすでに郎中令(宮内長官)と云う最高の地位を得ているではないか。半分人間を失っている貴様が、これ以上富貴や権力を得たところで、何の享楽が持てよう」
 李斯は鋼鉄の鎖で手足を縛られていた。顔も体も鞭打たれて無残な有様であったが、さすがに春秋戦国の数百年間の混乱を終息させて、中国に統一政権を成り立たせた陰の立て役者の、その強靱な気迫は衰えてはいない。膝を屈しながらも、三白眼の猛禽のような眼差しが宦官の長官を激しく睨み据えていた。
 一方、趙高は酔ったような目を天井に向けていた。李斯に語ると云うよりも、自分自身に告げているような具合だった。
「この帝国は、鉄の法治秩序と最強無比の軍隊を持った千年帝国なのだ。春秋、戦国と続いた混乱と試行錯誤の永い歴史の中から、ついに生み出された宇宙の中心、世界の基盤なのじゃ。これはもはや人間の能力と英知をはるかに越えた創造物ではないか。この数百年間諸子百家の論客、思想家たちが無数に現われては挫折して消えて逝った。今となって見れば、奴らはいったい何だったのじゃろうか。奴らが残した御託宣の一千万言とは無関係に、ここにこうして史上最初で、最後の不滅の帝国が生まれたのじゃよ。この帝国と云う器は、子を生んで育てたり、腹が減ったり、泣いたり笑ったりする、そんな愚かしい動物としての人間に能く管理しきれるしろものではない。些末な欲望に左右されることなく、賞罰について神のごとき崇高な徹底性を保つことが出来るのは、他ではない、この儂じゃ。この儂こそが、宇宙を支配する唯一の有資格者じゃ」
 趙高の表情と目付きが只ごとでないのを感じ取って、李斯は反論を控えた。こやつは自ら皇帝の位を狙っている。二世皇帝は趙高に完全に骨抜きにされていて、「鹿」を「馬」だと強弁されれば、そうかもしれないと思ってしまうほどにコントロールされていたから、帝位を禅壌させることは容易いことだろう。
 そう考えると同時に、李斯にはもうひとつの疑念も自然に湧いてきた。すなわち沙丘で始皇帝が急死したのも、こやつの差し金であったかもしれないと云うことだ。たしかに側用人として一服盛るくらいのことは朝飯前であったろうし、あらかじめ皇族として胡亥だけを随行させていたことも、さらに遡って有能な扶蘇や蒙恬が北辺守備に出払っている隙を見計らって、始皇帝を行幸に連れ出したこと自体も、すべて始めからこの佞臣の邪悪な脳髄から沁み出した計りごとであったに違いない。
 李斯は権力者となって以来、初めて他人の心の深淵を覗き込んだような気がした。
 自分の主張を言いたいだけ言ってしまうと、趙高はしばらく恍惚とした表情で考え事をしていたが、やがて身内から噴出する愉快にくすぐられるように身体をくねらせながら、長い爪で李斯を指さした。獄吏がふたたび鞭を振り上げて、拷問を再開した。
 二世皇帝二年七月、李斯は五刑と云われる極刑に処せられた。これは顔に刺青を入れ、鼻を削ぎ、両足のくるぶしから下を切断し、鞭で打って殺し、その首や塩漬けの肉を市場に晒しものにすると云う刑だった。その一族もまた全員が謀反人として、そうした刑を強いられた。
 李斯は秦国の宰相として法家思想を実践し、法をこの上なく厳格に運用することで帝国の基礎を築いて来たのだった。厳罰主義は李斯政治の真骨頂であり、その過程で彼の最後と同じような残忍な処刑を受けて死んだ者は数えきれない。民衆は李斯に代表される、秦帝国の官僚機構に恐れ戦いていたのだ。
 そのため秦帝国では、始皇帝が崩御するとたちまちにして、国内各地に反乱が沸き上がって来た。民衆の多くは息詰まる絶対権力体制の、その桎梏から逃れようとして反乱軍に馳せた。そうした群衆の頭目の中に、漢の高祖劉邦の姿もあったのである。
 春秋戦国期を通じて民衆は、諸侯の権力に対して隠然たる勢力を温存させていた。諸侯同士の争いだけでなく、その民衆の気持ちから離れた権力者にもまた、転落の奈落が用意されていたのだ。
 ところが西から秦が征服の範囲を広げるにつれて、そうした民衆の中の力は根こそぎ奪われてしまい、権力は皇帝に集中させられた。そのために李斯の布いた厳罰主義は凄まじい効果を上げたのだった。
 その方策を思想的に完成させたのは、李斯が二十五年前に自殺させた韓非であったことはよく知られている。思想の先覚者として志半ばにして倒れた不遇な韓非であったが、皮肉なことに彼を殺した国が、彼の政策を徹底して実践して行ったのだ。
 一面では李斯は己れのライバルの思想を忠実に実行して来たとも云えるかもしれない。韓非の著書「孤憤」と「五蠹」を始皇帝に紹介したのも李斯であったと言われている。それらを一読後、始皇帝がすっかり韓非の才能に惚れ込んだのである。すなわち韓非個人の栄光と破滅もこの時の李斯に依ったのである。

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 家族と共に同じ縄に結ばれて、都・咸陽の市場へ引かれて行く李斯は、ふと最期に獄中で会った時の韓非の目の不思議な輝きを思い出した。
『あいつは現実などどこにもないと言いおった。わけの分からんことだ。   いづれにしても、あいつは今でも俺を裏切り続けているのだ。自殺はせぬと言い張っておきながら、そして俺もあの時はさすがに韓非だと内心感服しておったのに、あいつは結局俺の勧め通りに楽な道を選んだ。だから俺だって立派には死なんぞ。民衆どもは心の底では、自分たちを長年支配した権力者への畏敬を保ちたいと願っておろうが、そんな期待は蹴飛ばしてやるわ』
 そして李斯は公衆の面前で、声を放って泣き叫び、命乞いをした。
 炎天下の街路では砂ぼこりが囚人の足元からわき上がり、沿道の民衆は歓声と嘲罵の叫びを上げてこれを迎えた。李斯たちの泣き叫びは、その騒音によってかき消された。馬に乗った刑吏が容赦なく、囚人の縄を引いて行く。市場の斬頭台では、巨大な鉞が磨ぎ澄まされた光を放って、囚人の生首を待ち構えている。すべては抗い難い、既定の手続きの形を取っていて、そのシステマティックな非情さに戦慄して李斯は号泣を止めた。
 具体的に民衆と触れることのなかった韓非は民衆に裏切られることも、また始めから裏切ることもなかった。しかし李斯はまさに民衆を相手にして、民衆と闘ったのである。韓非は民衆の性は本来、悪であると断じた。
『政を為して民に適うを期するは、皆な乱の端なり』とも言い切っていた。民衆の決して喜ばぬ政治をせよ、との主張なのだ。
 しかし韓非は頭の中でそう考えただけだ。政治の「理想」を言っただけだ。自分、李斯はその民衆の悪と真っ向から、怯むことなく闘って来たのだ。その果てに、彼らの前で晒しものの処刑を受けるのは、あるいは本望と云うべきかもしれない。そう考えて、李斯はふたたび昂然とした気持ちになった。
 見回すと、たしかに都大路を埋めた男も女も、皆一様に彼の死を喜んでいる。お祭り騒ぎだ。汚いものが囚人の一行に無数に投げつけられる。人々は嬉しそうに笑っている。
 李斯は思う。この連中のために、三十年余も国家建設に邁進して来たと云うのに、いったい俺の生涯の努力とは何であったのか。いま後悔することは、二十五年前に韓非を自殺などさせずに、このように民衆の嘲罵を浴びる、最も恥べき晒しものの斬刑に処すべきだったと云うことだ。
 何ひとつ変わるものか。法家だろうと、儒家だろうと、この民衆の何を変えられると云うのか。何も変えられぬし、何も変わらぬ。それなのになぜ韓非は牢獄でひっそりと自殺することが出来て、俺は三十年余の労苦の後にこうして惨めな極刑を受けねばならぬのか。あいつも斬に架けてやればよかった。この魂の引き裂かれるような空しさの、万分の一でも味合わせてやればよかった。
 市場に近づくと、民衆の歓声はいっそう高まった。その汗まみれの異様な顔また顔を見渡して、李斯は一瞬目の前が眩み、真夏の太陽の下で時間が崩れるのを感じた。中国三千年の歴史がいきなり沈黙し、かつ停止したのである。そしてその時間には前も後もなくなったのである。

                         了