「暗黒管領」

                  西方極楽寺院家(伊藤 節)

 明応二年の四月(旧暦)二十一日、京の都に怪獣が現われたと記されている。それは気味の悪い化物であるが、その頭は馬で、尾は蛇であったとされる。しかも蹄は牛であった。化物は「右京兆屋形」より出て、天竜寺辺りまでとことこ歩いて行ったとされている。公家の日記『蔭涼軒日録』に云われているが、「右京兆屋形」とは細川勝元の子息政元(通称「右京兆」)の屋形のことであり、天竜寺は知られている通り足利将軍家建立になる臨済宗大本山である。
 さらに日録は云う。二十一日の前日、二十日には右京兆屋形の辺りで「羊角風」が大いに吹いて人々が皆驚動した、と。「羊角風」とはとむじ風であるが、その大なるものであるから、竜巻だったのだろう。しかも恐ろしいことには、その風の中には鳶が舞っていて、火に包まれて飛行していたとされている。
 歴史上、明応の二年四月と云えば、いわゆる細川政元のクーデターが起きた年月として知られている。この年彼は二十八歳であるが、この大胆な政変劇を経て、彼は応仁の大乱後の足利幕府内で最大の権力者へ成長して行く。いわゆる「半将軍」、「副将軍」などと称される、独裁的な管領としてそれから十数年を閲するのだ。
 管領とは、足利幕府の施政庁である政所、評定衆、問注所、侍所の四庁を統括する、征夷大将軍の直下にある「宰相職」である。足利幕府開幕以来、細川、畠山、斯波の三家のみがこれに当るとされていた。したがって管領職をめぐる三家の確執は凄まじく、また同氏同族内部においてもその争奪は熾烈を極め、政争は止む間もなかったが、こうした幕府内の政治抗争が巨大なカタストロフを呼んだのが応仁の大乱であった。
 彼、細川政元が生まれたのは文正元年(1466年)であり、これは応仁の大乱の勃発を翌年に控えた、糾える縄のごとき政争の真っ只中の年である。足利将軍家も、その幕府の三管領家と呼ばれる細川、畠山、斯波もそれぞれ内部が二派に分かれて、事ごとに対立して、その緊張状態がすでに頂点に達したかの感のある時期である。
 第八代将軍義政は、いったん後嗣と決めていた弟の義視を排斥して、晩年の実子義尚を挙げようとした。もちろん義尚の母親である、一代の妖婦日野富子の強引な策略が背後にあったことは明らかである。義視は山名宗全に依った。一方、義尚らは細川勝元に頼った。その他、幕府内外のあらゆる勢力が、長年の行き掛りや、義理や付き合いの関係因縁に引かれて、このふたつの陣営のどちらかに吸引されて行った。山名、細川の二大勢力の対決の構図である。
 しかしその直前には、義視はいったんは細川勝元に就こうとしたのであり、富子義尚母子は山名宗全に後ろ盾を頼んでいたのだから、両派の首領とも、お互いに自分の担ぐ御旗を取り替えたことになる。要は拮抗する二勢力が、勝敗を決するための口実が欲しかっただけのことであったようだ。応仁の大乱とは、言ってみれば蓄まりに蓄まったエネルギーのはけ口を求めて、人々が積極的に目論んだ一大イベントであったかもしれない。
 まさに彼は、その一触即発の京都政界の内部で、一方の最有力者、細川管領家当主勝元の唯一子として、応仁元年の前年に生まれたのである。京の街が史上最も破壊されることになる戦乱の、その風雲の重苦しく立ち籠めた最中に彼の生はやって来た。まさに後の「怪物」細川政元に相応しい生年である。
 室町後期、社会そのものが過剰なエネルギ−を持て余しているために何もかもが歪み、矛盾だらけであったとすれば、その成員が闘って闘って闘い抜くことで、あるいはすべてを焼き尽くし、破壊し尽くして蕩尽することで、過剰なものが「瀉血」されてようやく元の平安に達せられる、そんな戦乱が宿命的な時代であったのかもしれない。諸国に一揆も頻発した。百姓も商人も闘った。在地々々で国人、地侍が領地の一遍土を奪い合って合戦した。過剰なエネルギーがどす黒い汚血のように各地で噴き出していた。
 彼、政元がこの世に生まれて以来少年になるまで見て来たのは、戦火と破壊だけであった。数十万の軍勢同士が、都の中でぶつかり合い、殺し合い、奪い合い、そして聖俗かまわず建物と云う建物をいっさい焼き尽くすのを、彼は見て育った。日毎、年毎に京都は焼亡して行き、鴨川はいつでも血の色に染まり、紅蓮の炎は必ず夜空を焼き、街角には春夏秋冬を問わず死体の山が築かれている。その臭気と砂埃、戦の阿鼻叫喚、無数の白刃の舞い、矢鳴り、避難民たちの群れ、飢えた民衆の怨嗟の声。そんな日常の中で彼は人となった。人の無数の悲惨と死を貪り食って飛び立つ、魔鳥のようなものかもしれない。
 応仁の大乱は、文明五年に西軍大将山名宗全と東軍大将細川勝元の相次ぐ死によって京都地区では自然消滅となったため、形式的には八歳の政元が東軍の代表として講和の席に着いて終了がなったものである。彼の政治家としての、それが第一のデビュウと云っていい。将軍位には義尚が就き、義視は西方大名土岐氏と共に地方へ去って行き、その他の有力大名も自然解散して郷国へ帰って行った。後には、焼け野原だけが広がった。
   なれや知る
     都は野辺の夕ひばり
        あがるを見てもおちる涙は
と、歌われるとおりの焦土の上の廃墟である。たしかに政元も焼け野原の都に立ちすくんで、夕ひばりを呆然と見上げたひとりであろう。幕府は瓦解寸前、父親は亡く、自分自身はあまりにも幼かった。
 この若い細川家の管領候補者、幼名を聡明丸、通称が九郎。八歳で父勝元の死去にともない、細川宗家の家督を継ぐ。文明十年(13歳)に足利義政の偏諱を受けて「政元」となる。文明十八年、右京大夫、幕府管領となる。管領職は畠山政長に一旦戻したりするが、これは政長が応仁大乱以来の最有力武将であり、東軍側の細川勝元の庇護を受けたとは云っても幾多の経験を積んだ壮年の政治家である以上、その実力からしても止むを得なかったものであろう。政元とは二十四歳の年の開きがある。
 よって当面の政元の政敵は、かつて彼の父親が庇護して応仁の大乱のきっかけを成した畠山政長と云うことになる。かつて畠山持国の養子となって、持国に実子義就が生まれて、これと長年壮絶な家督争いをやって来て、なお決着のつかない政長はこの頃、すなわち長享年間から延徳年間にかけての頃、細川政元とは目紛るしく管領職を交替し合っているが、一方の政元が二十歳ちょっとであるにもかかわらず、政長はすでに四十代半ばの堂々たる貫禄である。幕政の主導権が政長に握られ、専ら政長の都合次第で、政元の管領任免が動いたのも致し方ない。
 その政長にも難題が山積していた。同族の宿敵畠山義就は、応仁の乱を山名宗全に就いて京都の街で目一杯闘い抜いて、細川、山名が手打ちをした後にも、河内に退いて、幕府の畠山政長と激しく対立していた。
 幕府内部でも細川政元は政長にとっては目障りな存在であった。政長は一気に幕府内での権力を確立するための勝負に出た。将軍義尚が近江、六角高頼を攻めるために出陣して、鉤の陣中で急死したことを受けて、彼の策謀が開始されたのだ。ふたたび将軍継承問題できな臭い匂いが漂い始めた。
 地方で逼塞していた足利義視が息子(後の義稙)を連れて都へ上がって来る。日野富子が義政の陰から発言しだす。隠居の足利義政、細川政元は義稙の継承に反対、日野富子は甥に当る義稙を押す。畠山政長がそうした中で義稙を将軍職に据えようとするのには始めからそれなりの目論見があった。かつての西軍方の名目的な首魁を押し立てることで、細川氏を中心とする幕府内の旧東軍方の勢力を牽制しようと云うのだ。そして政長はその政争に勝利した。
 ここでも政元はすんなりと率直に引いて見せた。しかしそうは云ってもこのまま沈黙していれば、政長の威勢は募るばかりで、細川勝元が都を灰燼にしてまで勝ち取ったはずの東軍方の勝利は、畠山家にすんなりと横取りされてしまう。
 政元も焦ったであろう。もとよりその辺の心境や存念は伝わらないが、政元の胸中の感情や本音がいづれにあろうとも、少なくとも一個の組織としての「細川家」にとっては安閑できる情況ではなかったはずである。しかし情勢は動いた。
 細川政元はそもそも人間世界の政争や抗争には始めから見下げるようなところがあった。醒めていたと云うべきかもしれない。管領を降りろと言われれば、素直に言いなりになった。朝廷や幕府と云った「政界」で派手なスタンドプレーもしなかった。諸国の大名の感心をつなごうと努力もしなかった。当時の武家なら常識であった、結婚政策による勢力扶植を図ろうともしなかった。何せ幼年でさえ許婚を交わして、他家との関係を築こうとするのが一般的であった時代に、二十代半ばを過ぎてもなお独身を通していたのは少々変わっている。
 もちろん家臣たちはそんな主君の変人ぶりには心配を募らせていた。俗欲を持たないのは、この騒乱末世に何の人間的価値とも考えられない。政元と云う青年が果たして武家の指導者たり得るか、と云う疑念。それは目元の涼しい、いかにも高家の出らしい、優しいふくよかな容貌をしている上に、応仁の大乱の中に生まれ育ったにしては、人柄に一点の暗さも翳もないことによってかえって一層強められる。都を舞台にして合戦に明け暮れたあの日々を、先代勝元と共に生き抜いた家臣たちには、その政元の人となりと政治的野心の欠如とが不思議なことにさえ思われるのも無理はない。
 だが、政元は愚かではなかったし、優柔不断でもなかった。むしろ彼には、弓矢取っての合戦働きに意地を張る、昔風の古武士とは違った意味での闘志があった。おそらく頭脳を使った政略では、当時の老練な政治家たちでさえ舌を巻くほどの実力を秘めていた。しかもそこには旧来の為政者たちにはまったく思いつきさえ出来ない発想の転換があった。
 彼にも人並みに「野心」はあった。しかしそれは周辺に往来する人々とは、その野心の赴く先が違っていたと云うことだ。彼が本当に成りたかったのは何かと言えば、それは「天狗」であった。

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 都の天の下にはふたたび血なまぐさい匂いが漂いだした。足利義政が死んだのである。この時期、細川政元は彼の意を帯して動いていたようにも見える。政元の権謀術数の冴えはこの頃からそろそろ見え始めていた。政治的自意識の強いこの男にとっては、畠山政長の後塵を拝するような様は面白い境遇ではない。
 政元は、将軍義尚が急死するとただちに天竜寺香厳院に人を使わして、清晃なる学僧を説得していた。畠山政長が義視父子を都へ呼び戻そうと画策していた、ちょうど同じ時期である。清晃とは堀越公方足利政知の子であり、政知は義政の弟で、政知自身もかつて天竜寺で出家として過ごしたことがある。この政知は、足利成氏(古河公方)が幕府と争ったおりに、還俗させられて公方(堀越公方)として関東へ派遣されたと云う経緯がある。その子清晃、すなわち後の足利義澄を政元は、政長の義稙に対抗して次期将軍職へ推挽した。応仁の乱の前夜と同様な対立の図式である。
 しかし延徳二年義政が死んで、政元側の計画は頓挫した。加えて政敵政長には好都合なことに、長年の宿敵畠山義就が死んだ。政元は折れた。真っ向からぶつかっても勝ち目がなければ、彼は勝負には出ない。次の機会を待つ。待つ間には、彼は屋敷の奥で、護摩を焚いて呪法に専念していた。その屋敷には、修験道の山伏の「先達」なる怪しげな指導者たちが足しげく出入りしていた。
 都にある名家の武家であるにもかかわらず、彼は歌道古典や有職故実の学や儒仏の教えを学ぼうとはしなかった。戦乱の巷に、そのような観念教養をいくら身に付けても始まらぬと、開き直ったのかどうか。彼の心を占めていたのは、後にも先にもただ修験道だけであった。それは呪術であり、心身鍛練の修業の実践である。個人的な精神、肉体の超越を目指す土俗的な信仰である。厳しい、超人的な行法でもって己れを鍛えぬき、得られた不抜の心身から絞りだされる霊魂の験能を駆使して人知を越えた呪術を行なう。それが当時の修験者の理想であった。また妻帯しないことも、彼らの行法の必要条件であった。
 老臣の薬師寺元一は、この主君の奇妙きてれつな「趣味」を始めは笑って見逃していた。若気の至りと云うこともある。むしろ色事にうつつを抜かすよりは、よほど性根がしっかりしている。何しろ斎戒沐浴を欠かさず、常に身養生に努め、鍛練に怠りない。自分には何のことか訳の分からぬ修業の内容ではあるが、傍で見るかぎりでは、今時の若者には珍しい自己抑制の心意気であろう、とせいぜいそんな呑気な感想だった。
 薬師寺に限らない。当時の権門の近臣たちには、その仕える主君の個性や思想などどのようであろうと構わないのだ。宮仕えする侍とは、多くの場合、外面だけは取り繕ってなかなかに毅然とした風貌に構え、ものにも動ぜぬ落ち着きすました体裁をなしているが、その実中身の精神はそれほど不惑なものではなかった。何しろ下剋上の時代である。その信ずるところは、己れの立身出世ばかりで、そのための手段として主家の隆盛を願うのみであり、この「為あって」する忠義奉公を何か崇高な自己犠牲のようにも自分で信じ込んでいるのが有り体のところである。
 であるから、出世や栄誉についての同朋との鞘当ても凄まじく、顔では愛想よく付き合ってはいても、内心では人を出し抜くことばかりに執心していた。ましてや競争に負けて、下手に下がったとあっては、その嫉妬は狂気にも等しいものとなる。したがって主家も同族同士で内訌に明け暮れていたが、その家臣たちにしても家中に派を成しては絶えず暗闘していたのだ。
 政元の家政機関には、十名近くの重臣の評定衆が構成されていた。それがあったために、政元が八歳で家督を継いでからも、彼が成人するまで家政が保たれたのである。薬師寺元一もまたその一員であり、他に安富、香西、上原と云った譜代の家臣が加わっていた。薬師寺は摂津守護代も仰せつかり、細川家評定衆の筆頭として重みを備えていた。こうした家政の内も外も知り抜いた老臣の存在が、闘う大名にとっては不可欠であったが、同時にそれは最も危険な存在でもあった。
 彼らとすれば、かつて「六分の一殿」とも称されて、日本国の六分の一を占めた山名氏が応仁の乱で衰えた上は、幕政の中で政元に不動の権勢を打ち立てて、細川家の栄華を咲かせてもらいたい、その栄華の一端に与ってこの世の富貴を楽しみたいと云うのが本音であった。政元への期待は、政元個人の意向や考えとは別に、家臣団の中ではのっぴきならぬまでに高まって行く。
 ところが老練な畠山政長にしてやられた形で、細川家はしばらく「冷飯食い」を余儀なくされた。名門の公家や武家が次々と没落して、乞食同然の姿で行き迷っている中では、そんな政治的な不遇などは取るにも足りない不幸であったろう。そこで政元が意志表示としてやったことは、熱心な呪法の加持祈祷であり、日々繰り返される仇敵殲滅の呪いは闇を裂くかと思われるほどであったと云う。
 と共に山伏ならぬ、別種の怪しい人体の男どもが出入りするようになっていた。決して身分の高くはない者たちではあるが、一応武士ではある。どこかの田舎の国人侍の、その被官でもあろう。細川家の重臣衆の誰ぞが、これらを裏庭などへ呼び付けて、ひそめくように話をした。被官たちは、懐から書付を取り出して細川家の者に渡したりするが、逆に別の書状を受け取って早々に立ち帰ることもあった。
「畠山義就のところの越智家栄めは、こちらの思い通りに動く男かな。義就が急死して、河内畠山の家臣どもも動揺しておろう」
 政元は、いつものようにのんびりした口調で、密使を取り次ぎに上がった家臣の一人に問いかけた。
「こちらの存念に関わりなく、政長と義就は、その家臣団同士までが応仁以来の不倶戴天の仇敵同士。必ずどちらかが倒れるまで、抗争は続きましょう。義就亡き後は、嫡男基家を押し立てて政長に対抗するとの連絡もござった。よってこちら細川家が役に立つと思えば、かつての東軍西軍の違いなどこだわりなく内応するでありましょう。まんざら他家との喧嘩よりは、同じ釜の飯を食った同族同類同士の対決の方が徹底して執念深いのが世の常でござろう。何さま、世は末も末でありますから」
 悪辣さにはいかにも長けた面魂の家臣が、毅然と言い放つ。
「大和の古市澄胤とか云う国人は使えるやろか。これが万一、政長に就くことになれば、策略は頓挫しよう。」
「山城、大和の一帯はここ七、八年ばかり国人どもが勝手に差配する一揆持ちの国となり果てております故、どのような権威にもなびかぬ気風が充満しておりまする。この者も本音は奈辺にあるかはわかりかねまする。澄胤とは元はこれ、興福寺の衆徒であった者、悪僧どもを束ねて他人の荘園を掠め取っては勢力を伸ばし、いまでは大和の有力な国人と成りおおせた輩。こちらに就くが利があると見ればいったんは呼応しましょうが、いつ刃向かわぬとも知れませぬ」
「さもあろうな。これもまた下剋上の者よ。義就が死んで、去就に迷うてもおろう。しかも折りあらば、大名手付かずの山城国の南半分でも欲しいと狙ってはおろう。それを暗に促してやるのだ。古市にしても文句はあるまい。山城の国人一揆はそもそもこちらが手を下して生み出したもの、河内の義就と内通し、大和の古市を抱き込めば、政長殲滅の輪は完成するのやが」
 政元は、管領畠山政長を南河内まで誘い出して討滅すると云う策謀を得意げに語って聞かせているのだ。それに対して一座の者たちも濁ったような笑い声で応じる。謀り事は成功しそうだと云う漠然とした自信があるので、誰の顔にも余裕がある。それはなぜか。それは政元が、畠山管領から小僧扱いされて歯牙にもかけられていないからだ。
 しかし一方では、そうした陰険な謀略を心よからぬ家臣も細川政元の側近にもいたようである。これはむしろ正々堂々たる合戦場での、戦働きに誇りを持つ一徹な古武士のタイプで、薬師寺元一などがそれにあたる。彼は、若い主君のそうした策謀の相談を聞き咎めるように、おもむろにしわがれた声を発して忠告を始めた。
「されど殿、古市澄胤は応仁の乱の際には西軍に就いておった者、また幕府の威令を無視し続ける山城一揆にもそれとなく組する者でもありましょう。このような者に関係持たれることは、東軍方大名家の疑念を呼びましょうし、また幕府重鎮たる我が細川家の面目にも関わりましょう」
 政元は血色の好い頬にわずかに不快の影を差した。家臣がずけずけと遠慮なしに、主君に意見するのはすでに応仁の大乱以来当たり前のようになって来ている。いまさら怒ってみても始まらない。
「いいではないか、元の東軍だの、西軍だのと云っても、所詮は利害のある方に就くのが武士の本領だ。第一、政長を見よ。応仁のおりに敵方の担いだ義視の息子を、今ではうまいこと利用しているではないか。調略だろうと裏切りだろうと勝てばいいのだし、勝つためには己れ一人を頼るしかないわな。己れの何を信じるか、だけどな」
 しかし薬師寺はそんな理屈では梃子でも引くような男ではなかった。元一は政元の左手最上座にでんと腰を構えて、断固抗弁する態度を示す。
「六年前の文明十七年に、山城の国人や百姓を唆して、政長と義就の軍勢を山城国から立ち退かせたのは上々の首尾でござったが、一揆持ちの国になって以降は、勝手放題の仕様。何かと言うと徳政の強訴。気に入らねばたちまち徒党を組んでの討ち壊し、逃散と手も付けられぬ仕儀でござる。先般も幕府の許可もなしに、きゃつらが設けておりました関所を撤去するについては、随分と悶着があったではござらぬか。そもそもあのようなる地下人どもを、裏に廻って焚き付けるのは当座の調略にはなりましょうが、長い目で見れば我が方を脅かす事由を増やすだけのこと。その辺のことをよくよくお考えの上、政略を願わしゅうござる。拙者愚考しまするに、やはり武家は武家らしく戦場での一騎打ちの闘争によって勝敗を決するがその真骨頂でござろう」
 細川宗家の若い当主は、わかったわかったとうるさそうに頷いて手を振った。薬師寺元一の説諭癖は今に始まったことではない。時代は彼のような古武士の観念とは別な次元で流れ、源平合戦絵巻の頃のような具合には何ひとつ物事は進まないことを頑迷に受け付けない。ある種の無恥だな、と「新しい」幕府政治家細川政元は思っていた。
 政元は、それっきりその話題から外れた。しばらく修験者の使う火扇を使ってあおいでいたが、ふと思い出したように元一に尋ねた。
「清晃はいかがいたしておるか。天竜寺から引っ張りだして以来、それっきりになっておるが」
「はあ、上原殿の屋敷内に御住まいいただいておりまするが、将軍にならせると言うから還俗したのに話が違うの、待遇が悪いのと何かと御不満の多いようで。朝から御酒に耽っておいでだとか、聞き及んでおりまする」
「捨てておけ。そのうち使いみちも出来て来よう。好きなだけ酒も飲ませてやれ。女も宛がってやれ。人間として腐れ切った奴ほど使いやすい。のう、そうであろう」
 近臣の侍たちは苦笑う。政元はそんな家臣どもの反応などほとんど頓着しない性格だった。そこでいきなり妙なことを命じつけた。
「梯子を用意いたせ」
 藪から棒の命令に、表座敷にいた侍は皆、目を見開いた。
「はあ?何でござりまするか。箸でござるか」
「梯子じゃ。梯子。屋根に登るじゃによって、即、用意いたせ」
 政元は立ち上がって、奥の私室へ引き上げかけたが、怪訝そうな家臣たちに手短に訳を告げた。
「天狗になるための最大の難関は、飛天の行法じゃ。これが出来ればもう修業は達成されたも同じ。本日は気分も優れて、何やら出来そうな気がするぞよ」
 と言って、政元は嬉しそうに破顔した。

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 これはある種の不可思議な情念と云うべきかもしれない。彼は京の都の廃墟の上に立って、この世の終末を見ながら生きてきた。果てしもない死の世界だけがあった。すべてが焼き尽くされ、破壊し尽くされた後の世界であった。
 もちろん街は復興し、都もその外観は修復された。経済活動は戻り、流通は潤沢になっていた。だから彼が見た、見続けた荒野とは人の心の内であったかもしれない。あれだけの戦乱と政争を経た後であるから、人間不信の気持ちが一般の人々の間にまで広がっていたのは当然のことであっただろう。その上しばしの小康期間があったために、むしろ現世の欲望を追求する傾向に拍車がかかった面もあったかもしれない。
 世間の人々の感情はどこか荒んでいて、しかも刹那の快楽や富貴ばかりを追い求める風潮が強かった。あまりに果なく、虚しい快楽謳歌の時代相であったから、すべてが荒野の蜃気楼のように見えたとしても無理からぬことであったろう。高貴も、権勢も、愛欲もすべて行き着く果ては焼け野原の白骨であることを彼は知らねばならなかった。己れの核になる思想なり、信仰なりを真剣に求めたのは彼だけではなかったはずだが、政元の求道はまた一風変わっていたのだ。
 彼には世の人々のように、出世がしたい、富貴になりたい、美女が欲しい、名声が得たいなどと云う欲念が始めからなかった。もちろん生れながらに「政治家」であることを宿命づけられている彼は、日常においてはそれあるかのごとくには振る舞ってはいる。八歳で彼が、応仁の乱の山名、細川の和議停戦の席へ引っ張り出されて以来、彼は否応なく管領家の人間として「政治」をやらされていたのだ。それは一般人を相手にして、一般的に振る舞うことを義務とされていた姿である。見え透いた、様々の欲念を抱えた人たちを懐柔したり、脅迫したりして動かして行く「仕事」に他ならない。
 一方では彼は人間と権力の限界も知っていたはずである。あれだけの盛衰を目のあたりにし、白骨の山を見て来た人間が「一般的な」幸福で満足出来るはずもない。彼が個人的な世界の内では、生者必滅の理から超脱する方法として、自力でもって「人間」を越え出ることを必死で目指したとしても、その執念を笑うことは出来ないだろう。
 その日の夕刻ごろ、政元は白の浄衣に狩衣を着て、頭には兜巾をつけ、脚には脛衣を巻いて、藁沓を履くと云ういでたちとなって屋敷の屋根の上に立っていた。修験者のなりである。手には羽団扇を握りしめて、顔つきは真剣そのものである。彼は念力を凝らした。最前から懸命に九字を切り、印を結び、陀羅尼を称え続けている。「オンアビラウンケンソワカ」、「オンアビラウンケンソワカ」
 屋根の上から眺め渡す都は、町屋や屋敷街はすでに建て直されて、その町並みは旧に復しているが、内裏を始めほとんどすべての公共物、名刹、社殿は焼け落ちたままの空き地となっている。盗賊どもの巣窟になった廃墟もある。一方で、室町幕府では日夜倦むことなく政争が闘われ、連日連夜の酒宴で大名小名たちは酔い痴れていた。
 普通の人間の集うところに嘘や欺瞞や虚栄がはびこるのは無理からぬこととしても、そして戦乱ですっかり権威の地に墜ちた足利幕府政権であっても、その内部ではやはり十年一日狐狸のような暗闘が繰り返されている。今も今とて、人々は様々な悪念に突き動かされて幕府内で権勢を求めてうごめいている。こんな卑賤で些末な人間どもの欲望や、相もかわらぬ政争などは政元にはうんざりだった。一刻も早く「天狗」となって、深山の奥域へ飛んで行って、永生を得たい。彼の希望はそれだけだった。
 修験道においては、「天狗」とは深山に棲む特別な能力、すなわち神通力を有する超人のことである。人のかたちはしていても、それは人ではない。修験の道を極め尽くした果てに、人が生きながら到達するかもしれない境地である。それは騙し騙される修羅の世界で生きて死んで行く他にはない、哀れな人間が心の狂うほどに憧れ求めるに足りる境地であるはずだ。
 胸に思いきり息を吸い込むと、身体は羽のように軽くなった気持ちがする。護摩を焚く呪法も夜を籠めて行なった末には、朦朧とした脳髄の先に時おり絢爛たる極楽浄土を垣間見ることがある。と同時に炎に揺れる地獄図を見ることもあるが、いづれにしろ念を凝らせば何ものかに達することを彼は知っていた。
 細川宗家当主、右京大夫、武蔵守、従四位下、摂津、丹波、讃岐、土佐守護職のこの二十七歳の青年は、掛け声も凄まじく、まだ残暑のわだかまる初秋の夕暮の空へ向かって、羽団扇を翻しながら飛び上がった。

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「で、実際に飛んだのか」
 畠山政長は脇息にゆったりともたれ、立派な髭をひねり上げながら側近侍の話に調子を合わせた。侍も自分の提供した話題に吹き出しながら、受けた話の「オチ」を語るのを喜んだ。
「なんの、修業いまだ足らずのていたらくで、庭の地面がかの御仁の足首をしたたかに挫いただけで終わったそうでござりまする。屋敷の者どもの大騒ぎすることと云ったら、それはもう夜討ちをかけられたような按配でござったそうな。しかもそれで懲りるような御仁ではないそうで、今日も今日とて、両足に包帯巻いたかっこうで加持祈祷に専心しておられるとか」
「よくよくのうつけと見えるのう。これで三管領職のうち、とうとう細川の家も立ち消えじゃな。そのうち折りを見て、政元は儂が成敗してくれよう。斯波家もすでに都から姿を消した。残ったのはこの畠山の家ばかりじゃが、   」
 そこでしばらく言葉を服んで、気掛かりなそうな遠い眼差しを宙に遊ばせた。
「   河内の義就の息子がまた暴れておるらしいのう」
「山城の国人一揆の方にも工作をかけておるそうでござります。長年、こちらからも義就方からもいっさい差配を受け付けなかった一揆が、もし敵の側に内通するようでありますと、なんせ膝元であるだけに容易ならざる事態と云えましょう。義就の遺児基家が勢力を持たぬ先に、一気に殲滅するのがよろしかろうと思われます」
 政長は興味がなさそうにうなずきながら、ぼんやりと別の思念を追っているようでもある。
「所詮は、これは終末の世じゃ。合戦の種は尽きず、いくら誅伐しても敵は必ずその屍の向うから現われ出て来る。『天下は破れば破れよ、世間は滅ばば滅びよ』とはよく言ったものだ。もはや正義も道理もない。闘って勝つか、闘って負けるか、そのどちらかがあるだけだな。儂はすでに半生を、闘いで明かし暮らして来た。そして儂はいつまで闘い、どこへ行くのだろうか」
「長い争乱の年月でござりましたな。あの血みどろの大乱に参加して、いまだに生を保っておられますのは御殿ばかりでございましょう。伊勢貞親、山名宗全、細川勝元などは皆亡くなり、将軍家もすべて代替りしました。宿敵の畠山義就も先日死んで、まさに御殿の御盛運は今こそ輝いて見えまする」
 側近侍は、老臣らしい感慨をこめて言う。その追従を聞いてか聞かずか、管領畠山政長はひたすら自分一人の独白の中に沈んで行く。
「養父持国の跡目を、義就と争い出したのは、実に儂がまだ十といくつかの元服したばかりの頃だった。あの頃からであろうか。世間の上下貴賤を問わず、すべての者たちが我意を欲しいままにして争論に及び、おのが意見が通らねばすなわち武力に訴えると云った、荒みきった世相となったのは。徳政の一揆、土一揆のと百姓たちまでが思う様の強訴を繰り返す。鎮護国家、求法済民をなすべき仏家でさえが矛槍を構えて争う。しかもそうした世間の荒れるにまかせて、将軍家も幕府も見て見ぬふり、己れ一人、一時の悦楽に耽るのみと云った風潮であった」
「そういえば、長禄三年の頃でありましたか、天にふたつの日輪が昇って、世間がその不吉さにたいそう動揺しましたな。それに続く年には三年続きの大凶作。全国津々浦々で疫病が広がりました」
「誰も、誰一人も天下の平安を図る者はおらなんだ。みんな目先の利害ばかりにこだわり、わずかの私怨や行き掛りのために地獄のごとき合戦に明け暮れた。大名も、小名も、国人も、地侍も、民百姓も、みんながつがつと飢えた野良犬みたいに土地と利権を貪り合った」
「まことに天下には大乱の予兆が濃厚でありました。御殿は細川勝元の後ろ盾を得られて、寛正五年にはすでに管領となられました」
 それを聞いて、当の政長は自嘲気味に苦笑った。
「ふふ、実際にはもうあの頃には、管領と言っても名ばかりの職ではあったのだがな。世は細川と山名の二陣営に急速に収斂して行った。あの一大合戦めがけて坂を転がり落ちて行くような時代の勢いは、今思い返してもそら恐ろしい。全国の武家がこの都のふたつの勢力によって二分されておったのだからな」
 政長は、そう言いながら脇息の上で身体を起き直らせる拍子に、絹織りの豪奢な直垂の袖を打ち払った。虫かなんぞが付いたのかもしれない。居並ぶ家臣たちが顔を起こした。しかし別段意味のない動作である。余裕のある権力者と云うものは、時おりはそんな無意味な所作によってさえ己れの力の重みを確認したがる。
「儂が細川方に就いたのは、勝元と云う人物に心酔したためではない。畠山の宗家の家督を義就と争った際に、儂の側に立ってくれたからじゃ。当然義就は山名の側へ付く。皆すべて、己れの為にすることだ。斯波家も、将軍家も家督相続の問題をこじらせて、この二手に分かれてしまった」
「まことに天にふたつの太陽があったも同然の有様でござりましたな」
 老臣がしたりげに応じる。なぜ政長がこうもしつこく懐旧談に時を費やすのか、少々いぶかりながら。もちろん単なる感傷ではあるまい。そんな「柔な男」ではないことは、家臣一同承知していた。すると先々の方策のための思考を凝らすために、過去の経験を整理しようとでもしているのだ。
「儂はこのふたつの力の結集が必ず大合戦につながると見ていたから、早々と軍勢を都に入れたのだ。たとえ身に管領の位を帯び、細川方の後ろ盾を得ていても、いったいこんな時代に何が本当にあてに出来ようか。儂が前車の轍としたのは、儂が生まれた頃に起った将軍義教暗殺事件であった。第六代将軍義教は権威も権力も具備したなかなか強剛な男であったそうなが、赤松満祐のだまし討ちに遭って滅びた。酒宴に招かれ、のこのこと赤松邸に出向いて行ってやられたのだ。幕府にとっては前代未聞の不祥事だが、儂に言わせれば、非はすべて将軍にある。そもそも赤松がその直前に都に相当の軍勢を入れたことに気づかぬほどに迂闊であったのが、その第一の失態じゃ」
「まさに応仁と年号が代わった頃に我らは一触即発の事態に応じて戦揃えをなして、決戦の決意を固めるために屋敷も自ら焼き払い、上御霊社の森に出陣しましたな」
 老臣が懐かしそうにつぶやく。表座敷に居並ぶ侍たちのうち、あの戦の生き残り組が皆ひとしく、応仁元年一月の寒風の中に舞い上がる紅蓮の炎を網膜の上によみがえらせた。
「都を火の海にしてでも闘うつもりじゃった。あの義就などと云う、持国の妾腹の青二才に負けて退くくらいなら死んだほうがはるかにましだと思っておった。我が軍勢はたしかによく闘った。あの日雪あられ降りしきる中を、義就軍と真っ向から激突して、散々に痛めつけてやったが、やがて山名宗全が横合いから加勢に出て来て戦況は一変した。なんせあの者は戦が飯より好きな根っからのもののふ。しかもその軍勢には当時比肩できる家は他になかった。こちらも最大の後見者の細川勝元に加勢を請うたのに、待てど暮らせど一向に援軍は来ない。あの時の儂の本心は、敵の宗全よりも、勝元に対して憤激しておったのだ。あれほど実意のない、冷酷な官僚ふうの武士も今の世には珍しかろう。カミソリのように切れる男などと言われておったが、決して他人に心を許さず、ましてや意気に感ずるなどと云うこともない。薄情で腹黒い、険悪な男であったと儂は思う。人を利用することしか知らぬのだ」
 政長は苦々し気に黙って、不愉快な記憶から去ろうと首を振った。武士にとって、せっかく忠義立てしかけていた相手から見捨てられるくらい、情けなくも、屈辱的な経験はない。その嫌な思い出に迂闊に戻ってしまったのだ。内心の落ち着きを取り戻してから、政長はさらに言葉を続けた。
「ともあれ、あの日の夕暮までには、我が軍は二方面から夾撃されて立ち行かなくなり、止むを得ず撤収した。儂は悔し涙で松明の火さえ歪んで見えた。撤退の夜道で腹をかっさばこうとしたが、お前たちが押し止めたよの。あの一戦こそ世に応仁の大乱と言われる動乱の端緒となったものであった」
 秋の静謐な夜長を、足利幕府管領畠山政長の野太い、沈痛な声が揺るがせる。居流れる家臣たちは微かな虫のすだきの中に、かつて憶えのある合戦の大音響の幻聴を聴く。部屋の隅々に置かれた灯の芯が、火を繰りながらちりちりと静かに、執念深く時間を燃やしているのが、むしろ信じがたい幻のようにさえ感じられる。そうだ、部屋の誰もがあの日から何年間も合戦に明け暮れる日々だった。そして戦が刻み付けた、呪わしい映像の数々を脳裏に過らせて戦慄した。彼らの誰もが、あの大乱の十年間家々を焼いて廻り、人々を殺して歩いて、破滅の火輪を回し続けたのだ。
 まさに『天下は破れば破れよ、世間は滅ばば滅びよ』だった。その言葉を念仏のように誦しながら、白刃を振るって都を駆け廻ったのだ。政長の思い出語りが合戦のひとつひとつの場面を再現させる時、家臣たちの耳には雄叫びや、鉦やどらの響きが湧き、鼻孔には家屋や死体の焼ける臭いが充満する。
 一方、それを執拗に家臣たちの脳裏に再現させる政長はと云えば、すでに初老の年に達して、かつての精悍で不遜な気配は多少減じかけているものの年相応の倦怠と疲労を漂わせ、どこか哀しげでさえある。しかも今はまた政治的な煩悶に苦しめられて、憔悴した色が濃く出ていた。しかしそれでも灯火に隈どられた顔面は、やはり濃い影を刻み、歴年の闘志と残忍さをなお色濃く残して凄味のある面貌を形作っていた。
「それにしても大乱が終わっても、なお儂には義就との決着が残っておった。あれはいつであったか。山城国で両軍対峙しておる時に、突然一揆どもが押し寄せて、談判に及んだこと前代未聞の珍事じゃったな」
 政長はその記憶がよほどおかしく思うらしく、語りながらうそ寒むそうな笑みを浮かべた。
「長生きはするものよのう。百姓が武士に命令するような時世が見られるじゃによって」
「まことに驚くべき事態でござりましたな。しかし我が方も引く代わり、義就方も引くとあっては、まず痛し痒しの幕切れでござりました」
「しかしあの山城の国人ども、本当に己れらの団結だけであそこまで決めて来たものであったろうか。どうもいまだに誰ぞが陰で入れ知恵したように思えてならぬわい」
 陰気な沈黙が降りた。それはたしかに畠山家の者たちにとっては、面白くない想像であった。まさかとは思いながら、その不吉な予感の先には、疑惑の霧に包まれて細川家の「お坊ちゃん」の顔が明滅するような気がしてならないのだ。家臣たちの酢を飲んだような気分にかまわず、政長の自問自答が続く。
「あの細川のうつけの総領、存外食えぬ奴かもしれぬな」
「たとえどのような小賢しい画策をしようとも、今となっては我が方には将軍家を担いでいると云う強みがござる」
 家臣のひとりが一同の気を奮い立たせようと口を挿む。
「前将軍義尚が近江の陣中で急死した後、ただちに美濃に逼塞しておった義視親子を呼び戻されて、間髪を入れずにこれを将軍職に就けられたのは、さすがに御殿の御手腕の冴えでござった。それ以来畠山義就は死ぬは、新将軍義稙の背後で大きな面をしだした義視も死ぬはと、我が家にとっては好運続き。なにさま御殿は練達の為政者。細川政元のような青二才が、いくらあがいてもとても適う役者ではござらん。のう、皆の方々」
 家臣一等の老臣の音頭で、全員がおうと元気よく答える。政長はうるさそうに顔をそむけて、ふたたび脈絡もない独白にこもる。
「義就が死んで、それで河内一帯は儂の手に帰すかと思ったに、豈図らんや、義就の息子の基家が今度は刃を向けて来る。さらにかつての西軍方だった義視に肩入れしたことで、かつての東軍方の大名の中に儂をとやかく言う者もあるそうじゃ。儂は自分のどんな裏切りも策略も言い訳はせぬつもりじゃが、世間の心は読み切れぬものじゃ。最近、幕府内で儂ひとりが浮き上がったような気がしてならぬ」
 政長は、腕を伸ばして、膳の上の冷え切った杯の酒を音をたてて吸った。うまくも何ともない。すでに酒盛りはとうの前に終わっていて、食膳は片付けられるのを待つばかりだったのだ。
「とまれかくまれ目の前の敵はひとつひとつ始末せねばなるまい。それにしても、山城の国人一揆もそろそろ四分五裂の有様じゃ。大和の古市澄胤は利をもって誘えばいくらでもなびく男。やはりここは幕府管領の権威をもって諸軍兵を募り、一気に河内の分家の者どもを片付けてしまうにしくはあるまい。基家があまり実力をつけぬ先にな」
「畏まってござりまする。山城には人を使わし、大和にも密使を送りましょう。御出陣の際には、将軍家と細川殿にも御出馬願うのがよろしかろうと存じまする」
「そうだな、左様いたせ。将軍家にはよもや儂の意を受けぬと云うことはあるまいが、政元めは先年の近江出征の際にも己れだけさっさと陣抜けして帰ってしまった前歴がある。まったくあてにはならぬ者ゆえ、言を左右にして応じぬかもしれぬ。だがもしそうなら、その時はそれを謀反の証左として、河内の基家征伐の後に、返す刀で成敗してくれよう」

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「何をぼやぼやしておる。もっと攻めよ。攻めて攻めて、攻め潰せ。あの足軽どもはなぜ押し出さんのか。日頃、戦場や都で押し入り強盗を働いたり、女子を手ごめにしたりする時には、遠慮会釈もなしにやってのけるくせに、こんな小城に取りかかるさえ処女のようにためらっておる。まことに言う甲斐なき者どもよ」
 大鎧を重々しく着込んだ管領畠山政長が、頭を沸騰させながら、側近部将たちをどやしつけている。そのたびに本陣から伝令が早馬に鞭をくれて駆け出し行く。
 必死の督戦にもかかわらず、河内征伐は遅々として進まない。政長は業を煮やしていた。政情不安定な都を留守にして河内まで遠征して来て、こんなに日数の費やされるはずではなかった。義就なき後、河内に盤踞する畠山一族は衰退著しいはずであった。一揉みにすればたちまちに潰え去るはずと高を括ったのは、あるいは歴戦の勇将政長の致命的な錯誤であったかもしれない。
 計算違いであったのは、大和の狷介な国人武将古市澄胤の動静であった。元は義就側の人間であったが、河内の形勢不利と見ると、さっさと政長側に就いて来た。それがいざ決戦となると、一兵も動かそうとしない。面従腹背などは少しも珍しくない、乱世の時代相とは云っても、みすみす敗者の方へ就くとは解せないことではあった。しかしこの計算違いのために、将軍義稙と畠山政長の軍勢は、宿敵畠山基家の本城、誉田城を包囲しながらも十分な攻撃体勢が取れずに(つまり周囲のいつ寝返るかわからぬ、国人土豪たちへの備えも取らねばならなかったから)、徒に時間を浪費していた。
 さすがに政長はこの敵地での戦線膠着に危険を感じていた。明応元年の秋頃に討伐を決定して、翌明応二年の年が明けてから、戦支度を本格化して、夏の近づく旧暦四月にしてようやく河内の国に攻め込んで来たのである。大軍ではあり、自分が据えた将軍義稙を金覆輪の鞍に押し乗せて、威風堂々と出征して来たまではよかったが案に相違した戦となって、陣中には少なからず動揺が広がり出していた。
 逆に、景気づけの飾りとは云え将軍を担いで出て来た以上、戦果なしにすごすごと引き上げるわけにも行かない仕儀となっていた。引くにも引けないと云った立場で、これも彼の思いもかけなかった失策のひとつであった。権威を利用するつもりが、逆にそれに足を引っ掛けて蹴躓くことになりそうな雲行きである。
 彼は心理的にも混乱しはじめていた。侍大将たちに当り散らし、無益な突撃ばかりを繰り返させた。さらに山城の国人一揆の動向が不穏だと聞くと、軍を京都へ戻そうとしたり、また思い直して誉田城攻撃に取りかかったりと、思考と判断は次第に支離滅裂に近付いていたのだ。
 城の櫓の上では、基家側の実質的な指揮者の家老越智家栄が、政長軍の明らかに見て取れる狼狽ぶりを見渡してほくそ笑んだ。
「待っておれよ、政長め、応仁以来の意趣を返してくれようものを。そもそも他家から養子に入って来て畠山宗家を乗っ取りおって。こんにちこそ義就様の御無念を晴らしてやろう。いくら末世とは云え、天罰は必ずいつかは落ちるものよ。権勢得たいは武者なら誰しもじゃが、そのために手段も方法も選ばぬと云っても、かつての敵方の主君の後嗣を戴くとは、横道も極まれりと云うもの。あの男、権勢を求めて足掻けば足掻くほど、地獄の穴に益々沈んで行くようじゃ」
 そんな嘲弄が聞こえたか聞こえなかったか、とまれ政長は陣中で焦りに焦っていた。そして大将が動揺すれば、当時の武士たちの常として、負け戦の匂いを臭いでこの戦、利あらずと見做してさっさと自軍をまとめて故郷へ帰って行く。実にあっさりしたもので、それを非難するどんな道徳的な規範も実は大将たちでさえ持ち合わせていないのだ。
「去りたい者は去れ」と、政長は苛立ちながら強がりは言うが、同時に城をにらみながら、陣中の者たちに問うた。しかしその言う調子は懊悩困憊して、ほとんど泣き言に近くなっていた。
「なぜあやつらは、投降せぬのか。どうせどんなに持久したところで、これだけ重囲しておれば、いづれは陥落するのは目に見えておる。早く降りれば、それだけ罪も軽いのが合戦のしきたり。それがわからぬ奴らではあるまい。いったい何を頼りにして頑強にねばっているのか。神保、お主はどう思う」
 問われた神保長政は畠山宗家の有力家臣である。主君のいつにない焦りと我を忘れた激昂に辟易しながらも、物に動ぜぬ太腹を据えて整然と控えていた。
「左様、これだけ攻めても落ちぬとは、どこやらに与力する者があるように思えてなりなせぬな。ひとまずここを引いて、我が本拠地正覚寺城に入るがよろしかろう。ここで長陣しては、もしや伏兵でも現われれば、城方との間で挟み撃ちに遭いましょう」
 その意見は入れられて、将軍義稙を戴いた畠山政長の軍は陣を払って、後退しだした。彼らが往路のついでに火をかけて焼き落とした、たくさんの路傍の民家がなお黒々とした残骸を呈している道筋を、この悄然とした軍団は北行した。疲れきった足軽や武士の、長々とした取り留めのない行列。夏の太陽がすでに頭上で輝いている。長刀や槍の剥出しの穂先が、光を強烈に反射して目を射る。暑い。政長は兜の下の額の汗を幾度も拭った。拭う度に、広々とした河内平野の彼方、地の果てを絶望的な眼差しでうかがい見た。
「まだ正覚寺城は見えぬのか。早う着かねば、このような様ではいつ野伏せりに襲われることか。それにしても、これはさながら敗軍の様じゃな。応仁の大乱さえ切り抜けてきた、この儂ともあろう者がこのような惨めな様を晒すとは。ひと月前には考えもしなかったことだが」
 轡を並べる部将たちの誰も、政長の耄碌じみた愚痴など聞いてはいない。すでに逃げ去った武者も多いが、そろそろ去り時と心に念じている者も少なからずあった。
「やや、あれは何じゃ。敵か味方か」
 政長が指し示す方角から、大軍勢の砂塵が舞い上がって迫って来る。と同時に左手の森の中から騎馬武者の大群が姿を現わして、てんでにおめきながら突撃して来た。その大喚声と、鉦や太鼓の音、そして地を震わすどよめきの中で、政長は呆然と鞍上に放心した。前衛の伝令が駆け寄って来て告げた。
「正面からは、赤松政則の軍勢、左手からは細川家家臣安富元家、上原元秀の軍勢が寄せて来ます」

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 細川政元は衣冠を整えて、さっそく室町幕府将軍御座所に参上した。夜である。かすかな灯明の明かりの元で政元が拝礼した相手は、第十一代足利将軍義澄である。実際の将軍任官は翌年であるが、すでにふたりはそのつもりで「役」を演じていた。奏上する政元は幕府管領職である。
 「政変」は申し分なく成功していた。管領畠山政長が河内へ畠山基家を成敗しに出陣するやいなや、政元は諸大名を幕府政庁に呼び入れて、将軍交替を宣言した。元東軍方の有力大名たちは、政長がかつての西軍の足利義視とその嫡男を担いだことに憤っていたので、細川政元の提言は難なく受け入れられた。と云うよりもむしろ、実力のある畠山政長の独裁体勢がこれ以上固まることを危惧して、より扱いやすい、若手の政元を押し立ててクーデターを惹起したと云うのが真相であろう。政元、二十八歳である。
「ただいま早馬伝令があり、謀反人畠山政長を正覚寺城に追い詰め、政長は敗戦の止むなきを悟って自害したとのことであります。また前将軍は我が手の上原元秀の軍に捕われたとのことであります」
「大儀であった」
 型通りのやりとりを行なって、政元は細川屋敷に帰って来た。家臣たちの祝福の言上もそこそこに聞き捨てて、彼は屋敷奥の私邸に入り込んで、護摩行に取りかかった。彼は今回の政変の成功を、人間の浅はかな知恵や策謀の所産などとは夢にも信じていなかった。
 すべては彼の行法の効果であり、修験の秘法を日に日に体得しつつあることの証に他ならない。修験道の最高の境地、「天狗」にはまだまだ距離があるだろうが、少なくとも人を呪い殺すだけの「魔法」の術力には自信を持っていいと自負した。
 魔法の効用にしろ何にしろ、ひとたび運が向き始めると、本人にも信じられないくらい強運が踵を接して訪れるものだ。何かが自分を故意に押し上げているとでも思うのが、一般人の嬉しい感想なのだろうが、もちろん政元にはそれらすべては修験の成果、天狗へと近づこうとする自力の成せることと思ってはいたのだが。
 実際、情況は日を追って彼に有利に展開して行った。明応年間(二年から九年まで)はまさに彼の独断場であった。足利義澄が正式に将軍位に就くと、政元は当然のごとく管領職に任命された。当たり前のことである。第十一代将軍義澄とは、かつて天竜寺から還俗させていた足利政知の子、清晃だったから、政元にとってこの将軍は、畠山政長にとっての前将軍義稙と同様、単なる飾り人形に過ぎなかった。
 幕府にとっては目の上の瘤のようだった山城国一揆も、これをむしろ政元は畠山政長討伐のために裏から利用したのだが、それでも心配の種であることには変わりはない。ところが八年間続いた自治組織もいとも容易く内部崩壊してしまった。味方に引き入れた古市澄胤に大和国から南山城へ侵攻させることで国人一揆に恫喝をしかけ、逆らう者は討伐し、ついに幕府からの守護職を受け入れさせたのだ。管領政元の面目躍如たるものがあった。
 前将軍義稙が家臣の上原邸から遁走して、元畠山政長の有力家臣で越中の実力者神保長政の元に身を寄せたのは失態であったが、このような元々飾り人形に過ぎない者がどのようになろうと大勢に影響はない、と気にも止めない。しかし実際には、この男の東奔西走によって後々意外な苦渋を舐めさせられることになる。
 しかし何よりも胸が安堵したことは、「妖婦」日野富子が明応五年に死んでくれたことである。あの果てしない争乱と破壊の時代を陰で演出した、最大の立て役者が死んだ。銭儲けのためには、合戦中の大名にまで高利貸しをしたと云われる、地獄の守銭奴。この女のエゴのためにどれだけの民衆が命を全うせず、家を失い、困窮のどん底に落とされたことか。戦で親を失った孤児がどんなにたくさん路頭に迷わねばならなかったことか。
 また政元に対しても最後の最後までうるさく横槍を入れて来た、政治的邪魔者。おそらくこの女にだけは、彼の呪法もいっさい通用しなかったのであろうが、寿命と云う運命にはさすがに逆らえなかったらしい。これで応仁の乱の登場人物はすべて消え去ったことになり、さらに明応年間のうちには、本願寺蓮如、山名政豊、後土御門天皇と亡くなって行く。幕府内部にはもはや彼を逐うような勢力は根絶している。彼の時代の到来以外の何ものでもなかった。
 そして彼の修業もまた熱狂的な盛り上がりを見せて行った。不動明王や蔵王権現などの憤怒の形相の諸仏を本尊として、夜な夜な屋敷内の行堂に籠もって、護摩木を焚き、呪文を称え、一心不乱に加持祈祷に専心し、その験力をもって物体を移動させ、中空を歩き、さらに未来をも予言した。
 また彼は修験道の一派と関係を持つことによって、普通の高位の武家たちが決して知ることの出来ない諸国の情報に接し、さらには彼ら修験者を通じて世外の者たち(アウトサイダーたち)との人脈も広げていた。足利幕府の高級官僚としては、極端に異質な政治手法と気質を持った男が活躍しだしたのである。
 山伏修験の行においては、当然に霊山への山岳登拝の修業が欠かせない。これをしないことには、法力も本物とはならない。いわゆる山岳回峰の「頭陀の行」が要るのだ。そのことが常々、政元にとっての気掛かりの種だった。一方、老臣の薬師寺元一も主君政元の身を本気で案じ始めていた。
「殿、いかにも嫁取りをなされませんと、細川宗家の血筋が絶えましょう。顕密の教え、修験の行も結構でござるが、そのような余事にあまりに執心されるのは世間の侮りを受けるもととなりましょう。殿は御年すでに三十と五を越えられました。身に帯した位も、足利管領職は申すに及ばず、将軍御相伴衆、数カ国の守護を兼任され、はたまた朝廷よりは武蔵守、右京大夫、従四位下を賜っておられます。しかるべき婚儀をなされて、細川宗家繁栄の礎を磐石のものとなされませ」
 またか、と云った顔をする政元。ふっくらとした頬にも、つぶらな大きな瞳にも、何の感情も見せず恬淡とした顔つきをしているところがむしろ曲者である。老臣のいつもながらの老婆心の説教にもあえて抗弁することもなく、悪意のない聞き流しにしてしまう。
「時に、修験の道場としてもっとも霊現あらたかなのが、陸奥の霊山と云うことやそうな。近々、一人で行って見たろう思うてるよって、用意を頼むわ」
「な、な、何をお戯れなことを。天下の管領職が陸奥の奥地へのこのこ出掛けて行くなど、どこの世界にありましょうぞ。ましてや今は戦乱攻伐の世情、殿御一人で一歩でもこの都を出られるはずもござらぬ。殿がよく御忍びにて、愛宕山へ詣られることはこの元一、もとより重々承知しておりまする。その際も屋敷の若い者どもを、それとなしに警護につけておりますこと、よもやご存じありますまい」
 たしかに逆茂木や鉄門や櫓の武備を施した屋敷を一歩出れば、そこは無法の荒野であった。足利幕府の余命がなお続いているとは云っても、応仁の大乱以降、もはや幕府が管轄し得るのは畿内のほんの一部、しかもそれさえも国一揆や「悪党」に侵食されてほとんど実態はない。ましてや諸国は成り上がって来た戦国武将や大名たちの領地争奪戦の現場と化し、将軍家の権威など名ばかりのものである。


 当時の公家の日記には日毎に、「兵火」の字が並んでいる。すでに応仁の大乱が一世代も過去の時代になっているのに、そのような混沌と無秩序が日常化しているのだ。私兵化した武士団(悪党)が、野盗や山賊たちといっしょになって畿内を荒らし回る。それに対して地侍や農民も武装して防御するし、また逆に一揆となって合戦を仕掛けることもある。
 さらに膝元の都でさえ、うち続く戦乱で荒廃しきって、かつての名家はことごとく没落して、余禄のある公家は地方の大名、小名を頼って移り行き、それさえ出来かねる者は諸国の武士が引き連れて来た足軽どもの乱暴狼藉に怯えながら、廃屋のような屋敷に息を詰めるように隠棲していた。
 ましてや庶民などは浮浪者の群れと変わらない。合戦で焼け出された難民が道端に、破れ築地の陰に家族で群れをなしている。蓑だけを負い、わずかな家財道具に取りすがって、都の大路や小路のおちこちでその日暮しさえ堪えかねて呻吟している。通行人に施しを求めても、求める人間があまりにも多すぎる。一般の名もない庶民にとっては、あの世以外に逃れ場所はないのだ。身体さえ丈夫で若ければ、男は夜盗盗賊、雇われ足軽に、女は遊女、夜鷹がしばしの棲家となる。
 政元は幾度も一人で巷を彷徨し、その苦吟の呻き声の充満した通りを抜けて行ったことがある。姿は修験者である。笈を負い、錫杖をついて脇目もふらず、すたすたと歩き過ぎるが、どの街角にもたしかに死と悲惨と破壊の匂いが充満していた。河原にはいつでも疫病や飢餓や殺人による死者が山と積まれている。子供の死体も多い。裏通りを歩けば、夜鷹が袖を引くことも珍しくはない。
「なあんだ、修験さんか。それじゃあ、精進落としにまた来てちょうだい」
 そう言われて政元は邪険に袖を振り払うが、そうした女たちの中には没落した、高家の娘たちも少なくないことを知っている。一目でそれと知れる、見目の麗しい遊女も中にはいるのだ。
 しかし彼、政元はそうした悲惨に心を開いて共鳴することを自分に許さなかった。あるいは女を怖れていた。女そのものよりも、女を愛することを怖れていたかもしれない。なぜなら彼の人間としての究極の理想は「天狗」となることであり、天狗がそのような人間界の些末な事象に感情が左右されるようであってよいはずがなかったからである。
 見も知らぬ女たちの苦界や子供の悽惨な死骸を目にしたところで、その血色のよい頬に一点の曇りも生じさせないだけの「胆力」。そんなことを政元は本気で信じていたのか。一種の観念的な強がりであったかもしれないし、無関心を装った現実逃避であったかもしれない。しかし一個の人間に、崩れ行く巨大な時代の流れをどのように押し止めることが出来よう。末世と云う決定的なカタストロフを前にして、人間に出来るのは祈ることか呪うことだけだ。
 彼の身分では不可能に近いことだったが、何としても山岳修業の「実践」を行いたかった。それなくしては修験者とさえ言えたものではあるまい。それを幾度行なったかで、修験社会での位階も決まってくるのだ。
 深山渓谷に籠もり、穀物を断ち、木の実と山菜だけで命をつなぎながら、峰から峰へと昼夜兼行で経巡って行く荒修業。そうするうちにはやがて精神は研ぎ澄まされて、この世ならぬものの姿も音も見聞き出来るようになる。人が動く距離など何の意味もなくなる。一呼吸で陸奥霊山から都まで飛んで帰れる。さらには生死の境も自由に往来出来ることとなり、もはや死を恐れる理由もなくなる。したがって食物も飲料水も必要でなくなる。そうした境地に立った時こそ、まさに「天狗」とは称せられるのだ。
「拙者は、是非とも陸奥の山へ籠もって修業をする心づもりだ。従者は数人でええわ。どうせ今は幕府の用向きも暇やし、拙者一人、長休暇を取ったところで、何の影響もあるまいよ。ある意味では、拙者がよく修験の道を極めれば、それはそれで幕府管領としての仕事にも生かせて、謀反も一揆も難なく防いで、足利幕府は益々もって安泰と云うことになるやろ。めでたいことやないか」
 老臣薬師寺元一は、陰欝な溜め息を深く、深く押し出す。冗談にしてはしつこ過ぎる。何度も何度も同じことを聞かされては、狂気の企ても現実味を帯びて来るから不思議だ。その聞こえよがしの溜め息によって、主君の末路を暗示しようとしたのであろう。
 修験道への尋常ならざる入れ込みは、あるいはそれほど非難すべきことではなかったかもしれない。この時代、モノマニックはむしろ一般的な性癖であり、ある程度以上の知性を備えた人間たちほど、現世の「憂き世」を忘れるために、己れ一人の孤独な趣味、愛玩に惑溺して、ほとんど狂気のような執心に至り着くが、それはあるいは色欲であり、出世欲であり、金銭欲であり、あるいは宗教的な情熱であった。そうした熱中がなければ生きて行けぬほどに、当時、すなわち中世の末期、戦国の初期においては人々の心に巨大な空白が満ちていたのかもしれない。
 薬師寺がむしろ腹立たしくも、情けなかったのは、やはりどんなに説いても政元が妻帯しようとせぬことであった。そのことについては薬師寺元一は、朋輩の赤沢宗益と会う度に再々相談していた。文亀二年の春、元一は心に期したことを述べようと考えて、赤沢の屋形を訪ねた。眉毛の太く、精力的な禿げ頭をした、いかにも猪武者と云った大兵の中年男に向かって元一はしゃべった。一方の元一は痩せて、半白の顎髭をふるわせる、儒者のような相貌で、その人柄の持ち味は沈静な、渋茶のような落ち着きだった。
「殿の妻帯されぬ御意志はどうにも動かせぬ。それが修験のしきたりなのだそうな。致し方あるまい。ここまで変り者であれば、養子を取って細川宗家を継がせるしかあるまい。かつて畠山政長を持国の養子としたために、長年に渡る家内内訌が起った。斯波氏もそうであった。他家から人を迎えることは、それだけで分派のきっかけとなるのは自明の理じゃが、殿がこうであればそれも止むを得ぬ。しかしそれも早急に対処せねば、遅くなればなるほど、事は紛糾する」
 薬師寺はそこで一呼吸置いて、胸の内の存念を開陳する者の神妙さを顔に浮かべた。
「そこで拙者の存念じゃが、この際同じ細川家から、阿波の成之様の御孫を迎えればと思うておる。阿波細川家は、もう六、七代前の頼春様の時に分かれた血脈であるが、同じ細川であるに違いはない。まんざらの他家から迎えるよりは何かと都合もよかろう」
「貴殿は知らぬのか。養子についてはすでに殿が御決めになっておられる」
 赤沢宗益は愚鈍で配慮のない、武辺一統の侍であるから、知っていることを事もなげにずけりと申し述べた。思いもかけぬ話に薬師寺は目を見開いた。
「それは誰じゃ」
「前関白九条政基殿の御子息で、香西元長殿や、貴殿方の御舎弟長忠殿などが取り仕切って、今その準備を内々に進めておる。細川家に入られては、澄之と名のられるはずじゃ」
 会話が中断した。まさに青天の霹靂であった。薬師寺は扇子を握りしめて天井をにらんだまま、相当の時間を気持ちの整理のために費さねばならなかった。そして最後に、はあ、と気の抜けたような溜め息を吐いた。
「そういうことであったか。家臣筆頭の拙者の与り知らぬ間に、そのような策が行なわれておったのか。そもそも前関白と申し上げても、九条政基公は何かと問題を起こされた公家であろう。かつて家人から借銭しておきながら、その銭を返せぬとなると家人を殺してしまったと言われておる御方じゃ。御母方の血筋につながるとは申せ、そのような公家と結んで何の得になると、殿はお考えなのか」
 赤沢は不敵な薄笑いを浮かべた。
「さあ、そのようなことは儂の与り知らぬこと。殿のお考えは天狗でもなければわかるまいよ。正直言って、あのような方の考えは儂らのような凡俗には到底理解しかねる」
「今すぐにも殿に目通りして、事の経緯を問い正そう」
「無理じゃ。殿は諸国回遊とか申されて、昨夜丹波へ向けてお立ちじゃ。従者の侍ふたりだけ連ろうての、忍び旅ゆえ、追うても見つかるまい。よいではないか、あのような困りものの主君など、このままどこなと出奔して盗賊に殺されるなと、そのまま行き倒れるなと好きにしてくれれば、それでむしろ細川家も幕府も安泰じゃ」
 これも元一の聞かぬことであった。度重なる政元の裏切り的な行為を聞かされて、薬師寺の顔には朱が注がれた。しかし表面はぐっと堪えて、口ではこんなことを言った。
「戯けを申すな。拙者は殿を幼少の頃から育てて来たのだぞ。昨日今日の臣従とはわけが違う。ところで将軍家は、殿にそのような許可を下されたのか」
「下すも、下さぬも、将軍義澄は我が家が押し立てた傀儡ではないか。否やはないものを。それに将軍家と殿はこのところ何かと御意見が食違い、齟齬が絶えぬ。例の即位の大礼や拝賀式の費用をいっさい断られたことが、いまだに後を引いておるのだが、いづれにしても将軍家としてもうるさい奴が目の前から消えてくれるのは悪いことではあるまい。将軍家は二つ返事の御裁許であったそうなわ。殿も大喜びで、いつもの修験のなりをして出て行かれたぞ。帰りは、天を飛んで帰るのだそうな」
 赤沢は鼻先でせせら笑った。一方、薬師寺は考えを凝らしていた。たとえ修験のなりをしていても、向かうべき街道は限られている。しかも大の男の三人連れだ。探して探せぬはずはない。突然の出奔の理由は赤沢宗益の言うとおりであろう、と元一にも思われた。将軍義澄との不仲に業を煮やして、「頭を冷やす」ためにこの頃流行る諸国回遊の旅にふらりと出たのに違いない。
 先年、朝廷は細川管領家と面白くない争論を経験していた。明応末年、後土御門天皇崩御の後の、翌文亀元年の即位大礼の資を幕府に求めたおり、実質的な責任者細川政元は、この朝廷側にとっては当然過ぎる要請をすっぱりと断わった。朝廷にとっては室町の足利幕府に権威を与えている以上、幕府が朝廷出費の面倒を見るのが当たり前のことであった。出せ、出さぬの押し問答の最中に、朝廷側は今度は将軍家を参議兼左近衛中将に任じてやろう、と云う新提案を出して来た。将軍義澄は感激して、それを受けた。ついては御礼の出資が要る。
「政元殿、いかがじゃ。この度の叙任について帝への御礼拝賀の式も行なわねばならぬし、かねがねの御申し越しであられた即位礼の資についても、この際快く引き受けてくれぬか」
 将軍義澄は遠慮がちに、管領政元に頼んだ。政元は暇さえあれば口の中で真言の呪文をぶつぶつと称える癖があったが、この時もわざと将軍の耳に入るほどの声で呟いていた。聞こえぬふりをしたのだ。
「どうじゃ。右京大夫殿」
 将軍義澄は苛々しながら再度尋ねた。
「要りませぬな。そもそも将軍家は征夷大将軍の位を以て武家の棟梁であられる。それ以上の権威は無用。また上つ方におかせられても、我々の幕府がその尊貴を認めるからこその帝位なのであって、我々がそれと認めねば詮なきこと。したがっていまさら、天下に即位をしろしめす必要はさらさらない。幕府は打ち続く合戦で、手元不如意。どちらの出費も承服できませぬな」
 本来下司に当る管領職から、そんなことを言われて、何をぬかすと大見得切って怒り飛ばすような力は、この期の将軍家にはもちろん皆無である。まして義澄は政元が据えたお飾りである。応仁以後の乱世にあって将軍家には自らの一身を守るだけの兵力さえまったくない。少なくとも細川家には摂津、丹波、淡路、和泉の近畿と、讃岐、阿波、土佐、伊予の四国に一族の領域があり、そこから軍勢を徴発することが可能であった。
 その場の義澄とすれば、苦々しく黙り込んで、膝元の扇子の開閉に神経質な怒りを紛らせる他ない。そんなこんなで将軍義澄と政元とは、人間関係の上からも決定的な決裂状態にあった。最近では管領が御在所に出仕して来ても、義澄から話しかけることもないし、政元が奏上することもない。気まずいような、緊迫した沈黙だけが二人の間にとぐろを巻いていた。
 そこで政元は出奔した。丹波の方面にすたすた歩いて行ったのである。のどかな田植え最中の田園風景の中に小休止するため、彼は田圃道の端に腰掛けて陰気なもの思いに耽っていた。近くでは黒牛が鋤の策綱を付けたまま突っ立ている。牛は涎を垂らしながら、政元の存在を咎めるように、うさんくさげな目でにらんでいる。
 彼は苦渋に満ちた自己反省に陥っていた。胃の悪い時の、酸っぱいゲップのように、嫌な自己嫌悪や自己否定の想念と感情とが胸の奥からいくらでも沸き起こって来た。あらゆる自信喪失の根底には天狗にはやはりなれないかもしれない、と云う心弱りが影響していた。もう何年修業を続けたことだろう。それでも空を本当に一度でも飛べたろうか。魔法で社会を動かしただろうか。
 畠山政長を倒してからの十年間は好運も手伝って、政元の権勢は隆盛を誇った。父親勝元以上であるとも言えたであろう。逆らう者を誅伐し、逆らわない者にも恐怖を与えた。そして日夜、馬鹿のひとつ覚えのように呪法に専心した。己れの権力と法力とを信じていた。しかしそれももう飽いた。
 今冷静に振り返って考えれば、畠山政長を討てたのはたまたまそうした時流に載れたからに過ぎなかったかもしれない。俺はやはり天狗などになれる能力も、運命もないのだ。第一山岳修業さえ満足に行なう身の自由さえない。そんなことでいつ「天狗」になる機会が生まれて来よう。いつまでも一人きりで持仏堂に籠もって、自分勝手な呪法を行なうばかり。所詮は無駄ごとの積み重ねに終わるかもしれない。
 いっそ何もかもを捨てて、都を逃れて、裸一貫の修験者になってしまい、諸国の霊山巡りに生涯を費やすか。彼はこんなことを思いながらも、空想だけの生活設計に耽るだけの天真爛漫な甘さも持ち合わせていなかった。幸か不幸か彼は生まれながらの、冷徹なリアリストであった。そのように活動し、そのように人を倒して来た。だから彼には自分が天狗になると云う夢以外には、どんな夢も見られないのだ。
 また実際の生活においても自信は日に日に失せている。あれだけ調略に努め、人を動かして、幕府での地位を不動のものにしたはずなのに、今では逆に孤立して、早々と行き詰まってしまった。細川家内部でさえ、彼はもう重臣どもから用なし扱いにされかけている。家臣たちは二つにも三つにも分裂して、彼の目の届かぬところで陰湿な抗争を演じている。
 幕府は細川家の独断場となったが、その肝腎の幕府の威勢が凋落著しい。各地の大名と小名、それに一揆どもが伸し上がるに従って、幕府の力は急速に衰えて来ている。応仁の乱で致命的な打撃を受けた幕府は益々、形ばかりの政権へと衰退しつつある。それを立て直すのが政元に課せられた仕事だとすると、栄光を得たのではなく責務ばかりを負わされたことになる。
 山城、摂津、河内はどうにか治めたが、それから西に向かうにしても東に向かうにしても、幾段もの険しい壁が立ちはだかっているのと同じだ。将軍義尚の時代に近江の六角氏を討とうとして失敗して以来、幕府は東征に消極的になっていた。しかし政元は東へ行きたかった。修験修業に陸奥遊行をほのめかすのもそのためだった。
 今回の丹波出奔もまた、政元の粋狂ばかりではない。西征する場合の、第一の攻撃目標であるこの国の情勢を穏密に探るのが目的だったのだ。丹波は名目上は細川家の領国であるが、実際には隣国丹後の一色氏がちょっかいを出して体制定まらず、また多年に渡って国人一揆が勢力を張っていた。西へと進んで行くには、まずこの丹波国に調略をかけ、気長な手順を踏んで、一歩々々切り崩して行くことから始めなければならない。
 さらにその次には丹後、但馬、播磨と続けて行けば、島津の薩摩まで行き着くには、気の遠くなるほどの労力と年月を要する。それまでには西国の太守、山口の大内氏をも倒さねばならない。前将軍義稙を擁して、対明貿易の権限を細川家と奪い合っているこの「左京大夫」、従四位下の当主大内義興と細川政元はいい勝負だった。中四国地方の国人武家の動静は、この二派に分かれて混乱を極めるが、それはもう少し後のことだ。
 ともあれ政元は、生きて行くのも面倒くさいほど先々が思いやられ、幕府内部では怪物のように恐れられている自分が、実は逃げ出したいと思わない時がないと云うのは、むしろ滑稽なことにさえ感じられた。
 俺は、と政元は呟く。どこへ逃れることが出来る。どこにも逃れようもない。だから俺はこんな片田舎を浮浪者のようにさまよっている。俺は天狗にもなりきれず、幕府管領としても資格を失いかけている。そんな苦い思いばかりが胸をついて沸き上がって来るのだ。
「修験殿、丹波にお行きになるか。篠山の辺りは合戦が激しいですぞ」
 じっと考え事に没頭していた政元の横に、いつの間にか旅姿の僧が座っている。老人である。顔を見ただけで、もっさりとした、ものに拘らない人柄であるのが知れるが、それだけにいっそう怪しいとも云える。
「御坊はどちらの衆徒であられる」
「一所不住の遊行僧でござるよ。とは申しても、今より高野山へ登る途上の高野聖ではござる。さるにても、近ごろ流行るのは人さらいと棺桶屋だけじゃな」
 話のしたい旅人なのであろう。政元も適当に調子を合わせることにした。
「一揆が諸国を乱しておりますさかい」
「毎日毎日合戦をしておる。よく飽きぬものじゃと思われぬか」
「末世でござるよ」
「いや、そうではない。この世はいつでも末世であった。人間が変わったりしますものか。闘う者、怒る者、疑う者は未来永劫現われ出る。そういう連中が天下を乱しますのう。今の世は侍ばかりか、百姓町人、公家までが刀槍を持って闘い回っておる。浅ましい世の姿かな。心底から戦のしたい者はおらんが、しかしそうでもせねばこの世が死んだように停滞する。それが皆恐ろしいのじゃろうて。人間とはつくづく哀れなものじゃと思うよ」
 そんなことは別段珍しくもない知識ではないか、と政元はうんざりする。
「滅びよと願っても、この世は滅びるものか。御坊は人間を少しかいかぶっておられよう」
 おしゃべりな僧はしばらく黙った。相手を見くびっていたことにようやく気づいたのであろう。
「山伏殿、貴殿のお顔はさながら文殊菩薩にも見えまするぞ。お若いのに、さぞかし大徳を持たれておられそうじゃな。功徳にあやかりたいものじゃ」
「俺は、天狗でござるよ。この世に争乱と奸悪を撒き散らすためにやって来た男。暗い世を益々暗くするのが、どうやら俺の役目のようや」
 僧は杖と編み笠を持ち直して立ち上がりかけていた。最後に、隣の政元をじっとにらんで、悪戯っぽい皮肉な笑みを浮かべて言った。
「貴殿は、今を時めく西京の細川管領右京大夫殿でござろうか。それなら御無礼をつかまつった。今後もひとつ、例の魔法を使って諸国を平定してくだされや」
 旅僧は、そんな茶化したような捨て台詞を置いて、さっさと後も見ずに立ち去って行った。政元もその後姿など目で追いもしなかった。
 ぼんやりとした、無力そうな眼差しを遠い丹波の山並みに向けた。道端に座り込んで放心しながらも、彼の内面は足掻いていたのだ。彼はふたたび自分の精神的な立脚点を探り、将来と過去に均衡と統一を回復させて、自信と覇気に満ちた己れを再構築したいと焦っていた。そのことに成功したかどうかはわからない。ともかく彼は歩いて行こうと思って、立ち上がりはしたのだ。従者を呼び寄せた。
 と、道端の農耕牛がいきなり彼の方を目掛けて角を突いて来た。彼は覚えず、真言の呪文を称え、裂迫の気合いを以て、数珠を牛の顔前に突き出した。黒牛は目を真ん中に寄せて、静かに倒れた。それ見よ、俺の法力はやはりただものじゃあないんだ、と別の政元が脳裏にささやいた。
 政元出奔を聞くと、薬師寺はただちに自ら早馬に飛び乗って、丹波への街道に主君の旅路を追った。家臣第一等の自分が天井桟敷に置かれたことの、内心の腹立たしさはいかばかりであったろう。篠山の手前で追い付いて、道に土下座せんばかりに説得して、ようやく都へ連れ戻した。都の屋敷に何食わぬ顔で帰り着いた政元は、ただちに将軍義澄を籠居にした。

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 薬師寺元一はほとんど独断で兵庫の浦から、阿波国を目指して舟に乗り込んだ。阿波の細川家へ使いをするつもりであった。諸国が戦乱に荒れているこの時期、交通は途絶し、物見遊山の旅など願うべくもなかったが、摂津守護代の元一にとっても久しぶりに海に乗り出して、明石を過ぎ、鳴門の渡を越えて行く旅行は、心が晴れ晴れとするものだった。のどかな内海の光の中に浮かぶ島々の景色は、夢のように美しい。その景観に魅せられて、しばし渡世の心労を忘れる思いであった。
 阿波国では守護細川成之に対面した。薬師寺の要請は、成之の孫澄元を細川宗家(政元が当主)に養子として迎えることであった。むづかしい説得であった。阿波家とすれば、ただ言われるままに出したのでは人質に等しい。あくどい策略家の政元が養子縁組を口実にして、将来強引に阿波細川家を併呑してしまわないとは限らない。
 元一にとっては、熱弁をふるい、漢朝本朝の故実まで引いて長時間説得した甲斐があった。彼の篤実な人柄も功を奏したのであろう。辛うじて成之の承諾を得たが、ただひとつ絶対の条件があった。政元はすでに前関白九条政基の末の子を養子としているが、細川澄元を養子に出す以上は、必ず家督相続は澄元に来ること、と云う条件であり、その目付けとして家老の実力者三好之長を澄元に同道させることも合わせて薬師寺は服まされた。
 と云うよりも、元一は細川成之、三好之長らと謀ったのだ。そうした周到な根回しを基礎にして、元一は阿波家を細川宗家に引き込むことで、九条政基の子澄之を担ぐ一派(そこには彼自身の弟長忠も加わっていたが)に対抗しようとしていた。
 三人は談合を終えて酒を酌み交わし、誰にとっても好ましい結論となった話し合いに満足しながら会心の哄笑を連発した。これにて細川家も安泰、などと元一は言ったが、それから数か月後には主君政元に攻め滅ぼされるなどとは夢にも思わぬ上機嫌であった。
 こうした養子問題で家内がごたごたしたのは、すべて政元が妻帯しなかったことに責任があるが、しかし実子があっても養子や他の実子とが家督を争奪し合うのは少しも珍しくないことだったから、むしろ後継問題は初めに家臣の派閥抗争があって、それに利用された面の方が強かったのかもしれない。
 都に帰った薬師寺は事の顛末を政元に報告したが、主君からはまったく気のない生返事だけが返った。そもそも養子問題などと云う俗事は、この神秘主義的絶対主義者には一眼する値もない些末事であったであろう。家臣どもが勝手に画策していることなので、政元は好きにさせているだけと云った調子だった。
 薬師寺元一は、朋輩の赤沢宗益に耳打ちした。摂津淀城内の薬師寺私邸での、人を遠ざけての密談であった。夜気がしんと静まり返った、初秋の明月の夜である。庭の虫の音さえが一斉に群がり寄って、ふたりの密談に耳を凝らしているような雰囲気でもあった。
「殿のもの狂いも、ここまで至れば処置なしじゃ。幕府出仕もなさらず、家内評定にもお出にならぬ。代わりに、以前にも増した日毎夜毎の修験呪法の道楽じゃ。これでは前将軍義稙公を担いだ防長の大内義興が攻め上がって来れば細川家はひとたまりもないかもしれぬ」
 元一は普段の誠実な人柄の外貌に、いっそうの真摯な苦悩の気配を添えて、腕組みしたまま首を投げる。誠か演技か、その額には千年分の苦悶が刻まれている。根が単純な赤沢は、その相手の顔をまじまじとにらんで、たちまち共鳴してしまった。わざわざ元一が危険な打ち明け話をしなくてもよかった。
「いやさ、拙者もつねづね案じていた通りじゃ。あの殿では、いかに云うても細川家はもたんぞ。いっそどうじゃ、政元殿を誅し奉って、阿波細川家の澄元様を押し立てようではないか」
 元一はもとよりそれを目論でいた。しかし自分から下剋上の謀反人になることを宣言するのはためらわれた。元一は、思い通りの発言を赤沢から引き出しながらも、苦渋の色をなおいっそう深めるような顔つきをした。もちろん赤沢の恐るべき提案に反対するふうでもない。
「貴殿がこの淀城から京に攻め上れば、拙者も河内から後詰めをいたそう。名分は、籠居されておる将軍家をお救いすると云うことじゃ。元一殿、やられる前にやってしまわねば、己れの首は保てませぬぞ」
「されば、この秋頃でも、また殿が諸国遊行などと称されて出奔されたおりに決起するといたそうか。他の評定衆も皆、我らと同じ心持ちであろう。助太刀せぬまでも、兵を挙げて抵抗などはしはすまい。ただし決して香西の一派には気取られぬように御注意されよ」
 細川家評定衆の一人香西元長は、もうひとりの養子澄之の世話人であり、阿波細川家の勢力が容喙してくることには断固反対の立場であった。謀反のついでに、香西の一派も粛正してしまうことを申し合わせて、薬師寺元一と赤沢宗益とはほっとひと心地ついた。危険な秘密を分け合った者同士の友情のような感情が、胸中に暖かく沸き上がるのをふたりは意識した。
 と、その時突然、裏庭辺りに家来の侍どもが罵り騒ぐ声がした。何事か。元一は人を呼んだ。殿居の侍が、暗い廊下を足音を蹴立てて注進に来たった。
「先程、この書院の床下より曲者が走り出て、塀を飛び越えて遁走したとのことでござりまする」
「その者の人体はいかに」
「しかとは目撃出来ませなんだが、月明かりに映ったのは、何やら山伏のなりをした男であったそうでござりまする。さだめし食い詰めた山伏が物盗りに入ったものと思われまする」
 山伏と聞いた元一と宗益は、愕然として互いの青ざめた顔を見つめ合った。

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 密偵の山伏は、さすがに山岳回峰で鍛え上げた脚力だけに、その夜のうちに摂津、京都の間を走り抜いて、西京の細川屋敷に駆け込んだ。山伏修験者はこの屋敷では勝手御免に出入りする。この男もお咎めなしにさっさと政元の居所に直行した。秋の、しっとりとした夜明けが始まっていた。今秋最初の露が降りたのに違いない。山伏の脚絆が濡れている。
 密偵は元一屋形の密談の内容を事務的に報告した。密偵の話し方、その声、その表情は、その仕事の性格に相応して暗く陰欝である。とつとつとして要領を得ない話の中から、政元は重要な情報だけを抽き出していた。それにしても政元は目の前の、薄気味の悪い沈鬱で、疲れきったような顔を見ていると、自分の心さえ裏返されるような気分にされる。密偵は、この夜に聞いた密談の他にも、別の情報も付け加えて報告を終えた。
「というわけで、すでに淀の城には兵馬、兵具が集結されておりまする」
 政元は早朝の祈祷の最中であった。報告を聞きながらイラタカの数珠を握りしめたまま、護摩壇に向かって不動明王像を睨みつける。
『不動心』
 それが政元の闘争的人生における最大の主題であった。
「小癪な元一め。日頃したりげな分別面で伺候しながら、己れの欲得のために、長年仕えた俺に牙をむくのか。応仁の大乱の中で生まれ育って、他家の謀反を陽動することで力を付けて来た俺にとって、そんな手前の家臣の謀反など何ひとつ驚くには当らぬ」
 と、もごもごと口の中で独り言を言ったが、少なからぬ衝撃を受けたことは目の色に現われている。政元は振り返って早朝の薄明の差し込む廊下に向って言葉を発した。その廊下に中腰のままでいる密偵に矢継ぎ早に命じたのだ。主立った細川家臣を屋敷に呼び集めるように指示して、さらに言った。
「山伏どもを手分けして、都中の大名どもの軍兵を集合させよ。また摂津、河内、和泉に使いして我が家の郎党を呼べ。さらに諸国の一揆の国人にも、在所で闘うように指示せよ。合戦じゃ。また紅蓮の炎の乱舞が見られるぞ。こんなちょこざいな護摩の火など比較にもならぬ、壮大な行法じゃ。焼いて、焼いて、焼き尽くす。そうすればすべてがまた浄化されよう。人間の罪悪も煩悩も欲望も、悲しみも喜びも、すべて焼いて、元のすっきりとした平安に戻すのだ」
 政元の目は輝いていた。彼は昔からどんな些細なことにも感激する性質だったが、とりわけ炎を見ることには狂気のような喜びを発した。
 永正元年九月、都は驚天動地の騒ぎとなった。政元方に就く大名や家臣たちの軍勢が、完全武装して都大路を駆けまわる。またもや都中で大合戦が起きる。それはてきめんに、火炎と流血と死と困窮を意味する。

 それより前に細川家の評定衆が緊張して寄り集まって来た。その顔触れは、薬師寺元一と赤沢宗益を除くすべての者たちであったので、まず政元は安堵した。たちまち河内方面からは赤沢宗益が手兵を率いて、伏見辺りまで攻め寄せて来た。宗益は事の漏れたことを知って、破れかぶれになって暴発したのだ。淀城に籠もった薬師寺も決死の籠城戦を標榜する。もはや誰が見ても戦であった。下京の避難民が家財を担いで道々に溢れた。
 政元方への味方を示すために細川邸に集まった家臣の中には、元一の弟薬師寺長忠の顔さえ見えた。その男に政元は目を止めて、冷やかし半分に声をかけた。
「長忠、その方、淀城攻めの一番手じゃ。手柄を立てよ」
「ははあ、畏まって」
 と、大鎧の姿で庭前に額づいたが、その顔は意外と平静で、むしろ秘めた闘志さえ感じさせた。
「その方、実の兄と闘うこと、何とも思わぬのか」
 政元にとっては、謀反人の弟に残忍な試練を課したつもりであったのに、逆に「やる気」を見せつけられて鼻白らんだ。薬師寺長忠は、政元に問われたのに対して、ニヤリと笑ったのだ。
「孝よりは忠でござりましょう。存分に働きまする」
 篝火がごうごうと音を立てて燃え盛り、その火照りが鉢巻きした長忠の、世間を小馬鹿にしたような不遜な面構えをいっそうおどろおどろしく映していた。直垂のままの政元は廊下からその面魂を見下ろして、こいつもまた修羅道からほんの一刻、この世に紛れ込んだ悪鬼だなと感じた。
 軍は獲物を追う猟犬のように、てんでんばらばら、己れの戦功名だけに喝して都を発行して、一散に南下して行った。赤沢宗益はその勢いに怖じけて、たちまち降伏した。残るは淀城の薬師寺元一だけとなったので、全軍がそちらへ寄せた。寄せ手は堀に飛び込み、塀に齧りつく勢いで攻め立てた。元一は、阿波細川家からの援軍をひたすら頼んでいたが、ついに何の音沙汰もないままに城を落された。
 元一は身ひとつで逃げた。淀川の葦の茂みに潜り込んで息をひそめていたが、舎弟長忠の軍兵にひっ捕えられて都へ連れ戻された。

  めいどには
    能わか衆のありければ
      おもひ立ちぬる旅衣かな

 このふざけたような歌が、薬師寺元一の辞世となった。この男、呼び名が元一であり、元の名は興一と云う。その菩提寺は彼が建立したもので、これを一元院と云う。すべて「一」に所縁の名で、この字が好きだと日頃広言していたが、まさにその好み通り腹も真一文字に掻き切って果てたと云う。
 政元はその話を聞いて、さもあきれたように笑った。応仁以前からあまたの合戦を経巡って来たはずの、百戦錬磨のあの男の考え付くことがその程度のことか、と嘲笑った。
「拙者が」と政元は、誰にともなく話しかける。「天狗の境地を目指しているからと云って侮ったのであろう。しかし元一、お主らのような俗世にばかり気を揉んでおる者どもにしても、つまらぬ夢を見ておるではないか。俺は天狗になりたい。お主は栄耀栄華が欲しかった。どっちもどっちよ」
 この年、政元は三十九歳であった。年令も壮年に達し、かつてのライバル管領家の畠山氏も斯波氏も衰退して、都の中に彼の政治力を脅かす勢力はすでにない。将軍家そのものを押し籠めて、完全な傀儡としてしまっていた。彼に対抗し得る唯一の大名といえば、周防、長門、豊前、筑前一帯の覇者大内氏だけであるが、これもたちまちは都へ攻め上る余力はない。その間に近畿一帯を次々と征伐して、彼の威勢はかつての細川氏のどんな当主よりも現実的なものとなっていた。世間は彼のことを、「半将軍」などと呼んで怖れた。
 しかし彼は修験の行法に凝り固まり、それなしには一日も立ち行かぬ様であったので、彼が政務に目が届かぬのをいいことに、その家内では重臣たちが思うさま好き勝手なことを行なう気風も現われていた。政元の養子はふたり、しかもまったく別々の家系から来たって、いきなり足利幕府管領と云う絶大な権力の相続の可能性に行き当たり、ふたりとも頭が少々おかしくなった。と云うよりも、それが当時では極当たり前の心事であったかもしれない。食うか食われるかの、容赦ない抗争を闘い抜いて勝ち抜いた者だけにこの世の幸福と安寧が訪れる。それが現実だった。家臣団がこの二人の養子の元に、二派に分かれて壮絶な暗闘を演じていた細川屋敷で、唯一超然としていたのは当主政元だけであったろう。
 政元がなぜ、わざわざ家内対立の芽となる養子の両立を図ったのかは謎である。後の世の官僚体制に組み込まれた家臣団組織と異なって、この当時の家臣はそれぞれに自前の領地を有し、自分の意志で主君に仕える半独立的な存在であった。それだけに家内組織が分裂することは日常的なことであり、ましてや対等の資格を持つ相続権者を並立させることは、わざと派閥抗争を誘い掛けているとしか思えない。
 政略、謀略に精通したこの「乱世の怪物」が、いったい何を企んで、このようなあらずもがなの「政策」を取ったのかは謎としか言いようがない。澄之を丹波の守護(永正三年四月)、澄元を摂津の守護(永正三年二月)にそれぞれ補して、その担当地域での行軍政を任せたところを見ると、後に織田上総介信長が取ったような、責任分担的な「方面軍」方式の戦略組織を構想していたのかと思えなくもないが。
 その彼は毎日斎戒沐浴して、修験の怪しい者たちと共に呪法に熱中している。彼は、「飯縄の法」と云う魔法に凝っていた。これは狐の憑依によって人を呪い殺す行法で、かつて畠山政長を呪い、さらに家老薬師寺元一を呪ったことが功を奏したのに自信をつけて、その術にいっそうの磨きをかけようと励んでいるものだった。
 ところがその呪う相手は年を経るにしたがって増大する一方であった。とりわけ最近とみに仲が険悪になっている将軍義澄であり、また群百の大名であり、さらに意に沿わぬ家臣たちであった。しかし呪えば呪うほど、呪うべき相手は増えて行く。かつては将軍義稙を呪って、これを駆逐した。ところがこれは殲滅されるどころか、各地の大名を転々として反細川の狼煙を上げ、時には兵さえ募って、地方で虎視眈眈と復権を狙っている。
 ことほど左様に、大名たちを呪えば敵になる。家臣を呪えば、己れの手足をもがれるのと同じ結果となる。こんなことをしていれば、所詮将来はない。そう思い悩んで、彼はまた突然ふらりと出奔する。
 それは永正四年三月下旬、丹波征圧後に、丹後にまで細川軍を進攻させた時のことだった。丹後の守護一色義有と交戦中の陣中から突然「総大将」の細川政元が、わずかの従者を連れて「諸国遊行」の旅に出て行ってしまったのだ。

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 田舎道を修験者姿で行く数人の旅人の群れ。戦乱で村人が逃散した村落の、家屋も田畑も荒廃するにまかせた風景の中、別れ道に突っ立ったまま道筋を探る主人ふうの男が、重たそうな笈を負うた従者らしいふたりの若者につぶやく。
「いったいどちらへ行けばええのやろうか。丹後の陣をまんまと抜け出しては来たけど、さて路程はさっぱり不案内でどこへ向かって一歩を踏めばええのか」
「右が摂津、左が若狭でござる」
「そんなことはわかってる。俺が言うのは、己れの生き方の問題やがな」
「陸奥国へ参られるのではござりませぬか。そのために若狭へ向かっておられるのだとばかり思うておりました。東国北陸で一向一揆の輩と連絡をつけて、これを駆使して出来星大名どもを干上がらせてやることが、殿の遠謀術数と拝察いたしておりました」
「政略、謀略にはもう飽き飽きしたぞ。どんなにやってみたところで、今の幕府の力ではせいぜい畿内を鎮定するのが精一杯、百年河清を待っても、天下を統一するなど夢のまた夢よ」
「そのようなお気の弱いことをおしゃいますな」
 従者の竹田孫七が気休めなことを言った。若い侍で、かつて丹波地方遊行の際にも、もう一人の従者福井四郎と共に政元に同道したことがある。他には柳本又次郎、横川彦五郎、井上又四郎と云った近臣侍、それにおそらく修験者と思われる登阿弥なる男が召し具されていた。政元にとって、現在、すなわちこの永正四年春の時点ではこの連中よりほかに心の許せる人間はいなかったのかもしれない。
 たしかに政元は登阿弥とは別にも多くの修験者たちと付き合い、とりわけ聖護院系統の山伏たちとは上から下まで昵懇であり、彼らから呪法の奥義を伝授されたり、また彼らを駆使して諸国に動乱を巻き起こしたりしたのだが、その山伏たちには心から親しむと云うことは出来なかった。山伏たちはそれ自体が鉄の規律の下に統制された組織集団の一員であり、彼らがどんなに政元のために動き廻っても、それはあくまでも組織の利害に応じた忠義である。彼らは決して打ち解けることにない組織の顔を、時としてあからさまに覗かせることがあった。
 従って、謀略や策略にうつつをぬかした政元には、友人などと云える人間はただの一人もいなかったことになる。そして妻帯を拒んでいる以上、家族もまた一人もなかった。権力の頂点にあって、彼ほどに孤独だった男も少なかろう。しかもその地位は、一瞬の油断から命をあっさりと落しかねないほど危なかっしいものなのだ。光明の一点もない闇夜の底を這いずり廻っているようなこの時世では、どんな権力も頼むには足らない。そのことを政元はもっともよく知っていた。
「寂しいものやな。この焼け落ちた村落や、荒蕪地に変じた田畑のように、俺の心にはいくら修業しても変わらぬ茫漠とした心境がある。始めからどこにも逃げようがなかったのかもしれんな」
 そう語りながらも、まだ宮仕え人生を始めたばかりの二人の若侍に、何も理解も出来ないことは政元も知っていた。ただ二人が若さの純真さから、ひたすら主人の語る言葉の意味を理解しようと努めている、その健気な神妙さに励まされて、足休めに立ち止まったまま無意味な述懐を述べ続けているのだ。やがてその口も重々しくなって来た。つい愚痴のような言い方にもなった。今回の丹波・丹後討伐戦でも澄之の采配のまずさや、その一派の家臣たちの働きの悪さへの不満が口をついて出て来る。
「応仁の大乱の頃はまだ人々に精気が溢れておった。天にふたつの太陽があったと云われたのも宜なるかなだ。ところが今は天に陽はなく、地を覆うのはただ漆黒の闇ばかりだ。あの養子にしたふたりを競わせて、もう一度この世を生き生きとした闘争の渦に変えようと思ったのに、とんだお見込み違いやった」
 そして誰それは愚図、誰それは馬鹿、某は嘘つきの怠け者とあげつらって罵り、日頃の欝憤を嘔吐のように吐き出した。そこまで言って政元は疲れきった顔で、面倒くさそうに黙り込んでしまう。当たり前のことだが、周りの誰も聞いてはいないのだ。
「では殿は、阿波家と今後いっそう誼を通じる御所存であられまするか」
 福井四郎は、主人の興を呼び覚まそうとして、苦し紛れの合いの手を入れた。
「いや、そのようなことを言っているのではない。そういうことではないのや。俺の言いたいのはなあ、人間はどこまで行っても独りやと云うことなんや」
 政元が二人に理解させようとすればするだけ、二人は畏れて逃げ腰になる。難しい話をされても、二人には何のことかわからない。むっつりと、力なく黙り込んでしまう他ない。政元の容貌には、かつてのようなふくよかな血色の良さはない。すでに四十二歳。暗い、ものに憑かれたような光を放つ瞳は眼窩に窪んで見える。頬の色艶も失せている。身体も痩せて来ている。屈託のない若さに輝く、ふたりの壮健な侍たちには、そうした目上の人間の退廃的な様相はそれだけで呪わしいものである。まして縷々聞かされる話は小難しい、人生に否定的なすね者の言辞である。
 そんな懊悩や困惑をよそに、空には雲雀が舞い上がる。のどかな焼け野原の情景。二人の侍は、こんな日には駒を馳せて、気ままな遠出がしたいと感じていた。一方、彼らが今せなければならないのは、この気違いじみた主君の付添いと、さらに重臣たちから主人の動向をそれとなしに探るようにと密命を受けていることを果たす仕事と、その面倒な任務を続けることであった。政元の話を聞き流しながら、胸中では気の遠くなるような溜め息を吐いている。
 さんざん自分勝手な話を聞かせた後に、政元はいきなり声を改めて宣言した。
「では、若狭までまいろうか。ようやく気も晴れた。儂はもう陣中にも、西京の細川屋敷にも還らぬ所存だ。ここに引き連れた家来だけが、以後儂と陸奥まで行って、修験の奥義を極めるのや。その余の家臣はすべて澄之と澄元に付けてやるわ。彼らも、己れ一人の力を頼みとしてこの乱世を切り抜けるように心がけるべきじゃ。俺の管領職はふたりのうち、争い勝った方が継げばよい」
 政元は従者たちの反応などお構いなしに、さっさと若狭国へ向う道を歩き始める。政元は日頃から身体の節制に努め、鍛練も怠りなかったくらいだから、四十過ぎの初老の年令であっても、旅足は健脚そのものであった。むしろ若侍たちの方がついて行きかねた。やがて幾十歩も遅れて来るが、主君は別に咎めない。
 福井四郎は、竹田孫七にそっとささやいた。その距離なら主君に聞かれることがなかろうと思ったからだ。前を行く主君は何と寂しげな後姿なことか。あのように陰気で、しおたれた人間の後姿などと云うものは見たことがないぞ。たとえ衰えたりとは云え、あれが本当に足利幕府の管領を勤める人間の後姿であろうか。香西殿も言われたとおり、もはや御主君に神通力などあろうようにも見えぬわ。
 長々とした春の午後はなかなか暮れきらない。まだ西の山の端に日はかかってさえいない。孫七はじっと前方の政元を見つめたまま、返事も頷きもせず歩き続ける。そして孫七の目がかっと見開かれていることに、四郎が気づいた時、彼もまた「異様」を知った。孫七は奇妙なものを目撃したのだ。
「何じゃ、あれは。殿の影が鳥の姿に見える。鳥の嘴が影についておる。それにこの足跡は何じゃ。鳥類の足爪ではないか。これは異形じゃ。異形じゃ」

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 丹後の陣中では、御大将の政元が出奔して大騒ぎとなっていた。一色氏討伐の一歩手前まで持って行きながら、肝腎の大将が陣抜けして、しかも陸奥旅行へ行ったなどとはお話にもならない体たらくであった。政元一行が若狭に到着した頃、薬師寺長忠、長塩弥五郎などが、おっとり刀、馬を飛ばして追っ掛けて来た。若狭の宿所では、しかし政元が奥に引き籠もったまま会おうとしない。どんなに嘆願愁訴しても、頑として対面を拒否する。
 そこで当地若狭の守護で、細川家に味方して丹後陣に出ていた武田元信(若狭武田氏)が出向いて来て説得に当たった。また京都からは細川澄元本人に、三好之長が付いて下向して来て面会を求めた。ここまで騒ぎが大きくなれば、もはや奥州遊行などは適わぬことと悟ったか、参集した養子、家臣、大名たちを奥の間に入れて、その説得に耳を貸した。どれもこれも分かりきった、他愛もない理屈や分別を説いて、口々に丹後本陣への帰還を促した。
 政元は心底うんざりして聞いていたが、澄之にも澄元にも自分こそ政元に替わってやってやろうなどと云う覇気はないし、家臣は家臣でこんな場面で少しでも点数を稼ぐことばかりに配慮している。すなわち本気で一色氏征伐をやる気のある者がないことがわかった。その様が見え透いているので、政元はせめて丹後平定までは自分が戻らざる得ないことを理解したようだ。
 そんなふうにしてドタバタとする内に、永正四年の五月から六月へかけての日数が過ぎて行った。丹後の陣は一進一退の攻防が続いていた。足利義満の百年遠忌追養法要を催すのを口実にして、政元は京都へ帰った。澄元や三好之長も都にあって勢力を蓄えていたので、丹後の陣に残された澄之派は心安からず思い、寄り合っては焦慮を募らせることになる。

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 福井四郎は槍を構えて、湯殿の陰にすでに一刻も潜んでいた。竹田孫七は、反対側の戸口の裏に小太刀の鯉口を切って待ち構えていた。永正四年六月二十三日、細川屋敷。宵である。修験道の重要な儀式、「御月待の御行水」を厳粛に取り行なうために、この日政元はいっさいの政務を休んだ。家臣たちは珍しくもない、こうした主君の粋狂にうんざりしていたが、誰も係わる義務も必要もないことなので、知らぬふりをしていた。
 主君がそのように世外のことにうつつを抜かしているうちには、主立った家臣たちは真ふたつに割れて、険悪な水面下の抗争が自由にやれた。このところ都にあった阿波細川家の家宰三好之長とその引き連れた軍団を背景にして澄元派の威勢が日増しに盛んになって来ていた。三好之長の下には国元から続々と侍が送り込まれて来たからだ。阿波の細川成之の目論見通りに事が運んでいると云ってもよかった。
 澄之派の首魁、香西元長や、兄を敗死させてその跡目をそっくりそのまま受領した薬師寺長忠などは内心穏やかではなかった。このまま手を拱いていては、必ず阿波家が細川宗家を乗っ取ってしまう。その時には自分たちの命運の尽きる時、追放されて野垂れ死より他はない。彼らは丹後の陣を抜けて嵯峨まで戻って、そこで数日前から密談に耽っていた。追い詰められた者、もしくはそう信じた者は自分でも思いもかけぬ勇気を発揮するものだ。
 六月二十三日の前日には、福井四郎と竹田孫七は香西元長の私邸に呼ばれて歓待を受けた。香西は細川家重代の重臣であり、中間侍から抜擢された福井たちとは、もとより身分には雲泥の差がある。香西元長は、常日頃から目を掛けている若い者たちに別け隔てのない調子で接した。明るい寛容な態度を見せながら、おだてるような素振り。一方では最近の細川家の情勢を憂える悲憤慷慨もして見せる。
「魔法をかけられたのじゃ。先日、殿が若狭まで旅をなされた道すがら、その方らが殿の人影に奇妙な鳥類の形を見たのは、あれは殿一流の魔法であったに相違いない。その魔法を以て近国隣国を動かすなどと世間では言うが、ことほど左様に殿の御行状は常軌を逸しておられる。そもそも足利幕府管領たる身分の人間が修験妖術に凝るなど、あって好いことであろうか。殿がこのように物狂おしい御行状の上、家政をいっさい蔑ろにされるゆえ、阿波の三好之長なぞが傍若無人の、目に余る振る舞いをいたすのじゃ」
 三好之長とその家来たちの増長は、福井たち生え抜きの侍たちにはたしかに腹に据えかねることであった。三好の家来と、細川家の家来との間ではつまらぬ喧嘩沙汰も頻発していた。薬師寺長忠も横から口を入れる。
「これ以上、余所者の澄元の一派に好き放題にさせておいてよいものか。儂の兄者は先年畏れ多いことを仕出かしたが、それもこれもすべて御家安泰を思えばこそであった。もしこのまま澄元殿が跡目を継がれれば、三好之長は益々権を取るであろう。この際、澄之殿を擁立して、細川宗家を旧に復することが必要ではないのか。しかし阿波の澄元一派と真っ向から立ち向かったのでは勝ち目はないし、事は一気呵成に仕遂げねばならぬ」
 そこで長忠は口籠もった。いかにも大人らしい、思わせぶりな遠回しの言い方であったが、若侍たちも馬鹿ではない。十分裏の意味は納得している様子であった。
「いかがすれば、よろしかろう」
 福井が上座をきっとにらみながら問うた。こう問い返された香西は、直情径行の青年将校を焚き付ける権力者と云うものの、時代を超越した狷介な性格をひた隠して、豪快に哄笑して見せた。そしていかにも頼もしげな目の色を浮かべて、改めてふたりを交互に見渡した。
「もはや常軌を逸して、廃人に等しい主君をこれ以上担ぐことは出来まい。我らの軍勢は丹波丹後に張り付けになっておって今は動かせぬ。京の都にある我らのわずかの手兵だけで勝負をかけよう。そのためにはまず殿を真っ先に亡きものとする必要がある。殿はどこにどんな網を張っておるかわからんでな。その後一気に澄元の屋敷を襲い、阿波の連中を殲滅するのじゃ。そこで頼みの筋じゃが 」

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 前日、つまり六月二十二日は政元は一日舟遊びに興じた。最近彼はのめり込むような勢いで、そうした他愛もない遊興にうつつを抜かすようになっていた。公家や取り巻き連中を引き連れて、伏見辺りで屋形舟に乗り込み、朝っぱらから酒宴を催し、気のおもむくままに河を上り下りする。まるで目の前の不幸事から感覚を反らせて、陶然たる果ない夢に酔い痴れようとする者のように。
 ただし乱世の時代である。あるいは彼らしい策略として、都がいざと云う時に(たとえば近隣の大名に急襲された場合)、その舟で落ち延びるための手順を訓練していたと考えられなくもない。
 二十三日に都に戻ると、彼は今度はいきなり趣向を変えて、精進潔斎を行なうと宣言した。明日が愛宕山の縁日に当たるので、行水で身を清める「必要」があると云う。下司に湯の容易をさせた。
 政元は、身の廻りの世話をする小姓に湯道具を持たせて、白衣になって湯殿に入った。夜に入っても、真夏の暑気は邸内から容易に去らない。この日も一日、うんざりするほど暑い日であった。この時代の上流階級の入浴は蒸気浴が一般であったが、この宵に政元が修験道の作法に従ってやろうとしていたのは水浴、まさに「行水」であった。湯殿には湯と冷水を蓄めた大桶が並べてある。
 政元は準備が整うまで、部屋の上がり框に腰を下ろして小姓の動きを物憂そうに目で追っている。言い知れず疲れきった心を映す濁った目で、小姓の動きを見守っている政元。小姓はいつでも生き生きと動き廻る、快活な若者であるが、政元にはその元気の好い忠勤ぶりを、今宵改めて見直す気持ちになった。明るくて、絶えず笑みを浮かべているような表情、労力を厭わずに主人の意に添って動く、その手足の敏活さ。不思議な生物を見るような思いだった。
 明応二年、彼がまだ二十八歳の時に彼の屋敷の門前に現われたと云う、蛇尾、馬頭、牛蹄の怪獣をふたたび目にするような気分であった。もちろんその小姓、名を波々伯部源次郎なる若者は怪獣でも変人でもなく、性格が率直で、よく働くと云う極普通の少年である。もっともあの怪物にしても誰かが何かの目的で「演出」したものだったとすれば、不思議でもなんでもないのだが。
「源次郎、その方はそんなに働くのが楽しいか。どうせ儂が死ねばその方の神妙な忠義もすべて水泡に帰そうに」
 政元はつい嫌味な言い方をする。そうした言い方で人の不快を誘うのが、一種の習い性になっているのだ。それに対して源次郎は屈託のない微笑を浮かべて応えた。
「お殿様が亡くなられるなどとは滅相もないことでござりまする。お殿様にはまだまだ御活躍なさいませんと。拙者はお殿様の御活躍のお手伝いを少しでも出来ればと念じて奉公いたしておりまする」などと健気なことを言う。その言い様もまんざら巧言令色ばかりとも見えない。
「ふん、御活躍なあ。儂がやってきたことは、破壊し、焼き尽くし、殺すこと、そんなことばかりやったがな。しかも儂自身はいっさい手を染めず、人や集団を焚き付けては、そんな争乱をいろんなところで起こして来た。天狗とはそもそもそういうものなのや」
 そう言いながらも政元には珍しく、深い反省の気持ちを抱いていた。若い者をこのようにからかうものではない。若い者などに自分の暗く鬱積した気持ちなど理解してもらえるはずはなく、いやそもそもこの世の誰に他人の暗黒の思想を理解しようなどと云う粋狂があろうか。乱世を乱世として開き直って生きて来たことには、それなりの思いがあったなどと主張して、それで誰が興味を持ってくれよう。
 所詮は変人狂人の戯言としか考えない。世間とはそんな単純なものではないか。理解できないものは拒絶する。そして自分はもう若くはない。天狗にもなれない。四十二歳ではないか。山城、大和、摂津、和泉、河内、丹波、丹後、若狭までは俺が仕置きをしてやった。しかしその先の五十州を従わせるためには、もう時間が足りぬ。
 それにしても応仁の大乱で瓦解し尽くすと思われた足利幕府を支えて、よくもここまで持ち堪えさせたものだ。自分で言うのも何だが、それは偏に俺の力だった。一揆を利用し、その一揆を弾圧し、また別の一揆を画策して、この世の動乱に弾みをつけながら、結局幕府を保ってきたのだ。しかもあのアホな将軍たちのためではない。すべては細川家のためだった。
 しかし何も変わってはおらぬ。俺がただ年を取ったと云うだけのこと。細川家は幕府を牛耳ったが、その幕府は衰退する一方だ。呪術にしろ、策略にしろ、世の中を乱しても何も変わりはせぬではないか。だが俺の仕事は今後もそれだけだ。この世を掻き乱し、人々の常の考えを根底からひっくり返す。もうそんなことが面白いと云うわけではないが、それが俺の「仕事」だ。
 呪われた仕事よ。後世、いつの時代かそんな呪われた仕事を受け継いで真に活躍する男が出れば、そいつがきっと日の本の六十余州を統一して、戦乱の時代を終わらせることだろう。その先に何があるかはわからぬが、そいつもまた出口のない孤独を掴むことだけは間違いない。その未知の男のための、俺は捨て石のようなものか。
 政元は框に腰を下ろし、両膝の間に頭を垂れて深く考え込んでいた。無力に絶望しきった者の姿である。一方、小姓は忙しく桶を運びながら、主君の方を怯えたように見つめる。誰に対しても陰日向なく陽気に振る舞う少年だが、本当のところ主人の政元だけは恐ろしかった。何を考えているのかさっぱりわからなかったから、常にその主君の顔色を伺う癖が源次郎にもあった。そしてこの少年も時おりは思う、世間の人々が政元のことを「怪物」などと称しているのはやはり本当なのではあるまいかと。
 この時同じように、政元の息遺いをじっと物陰からうかがっている者がいた。彼の心臓は緊張と高揚で喉元まで飛び出しかかっていた。その少し前に小太刀を抜き払った竹田孫七は廊下を摺り足で探りながら、浴場の入り口ににじり寄って行った。宵闇の底で、目の前は暗い。壁にすがりながらの慎重な移動であった。
 孫七は迅速に思考した。入浴部屋の中では一つ二つの油燈が点いているはずである。その微かな明かりだけで、はたして目指す相手を攻撃できるか。ましてや政元は人智を越えた、得体の知れない能力を帯びた人間である。いや、あるいは政元自身の日頃の口癖のように、彼はすでに「天狗」に成っているのかもしれない。戦場で足軽を斬るのとはわけが違う。若い孫七の肉体的な勇気が揺らぐ。
 何やら中で人の話し声がする。殿居の侍がいるのか。それなら面倒なことになる。いや、あの丸味を帯びた高い声は小姓の源次郎だ。あの者だけなら、さほど難儀はすまい。政元はまだ湯を使っていない。框の上にしゃがんで待っているのか。それなら白衣を着けたままだ。それは夜目にも鮮やかに浮かび上がるだろう。それを目当てに斬り込もう。
 政元は、用意の整った湯殿へ入った。口の中に真言呪法を称えながら、白衣の帯を解き始めた。「オンアビラウンケンソワカ、オンアビラウンケンソワカ」。生涯一度も女人に接することもなく、自らの肉体を自らの精神に従属させようと鍛練して来たその身体は、肉が硬くついて、鋼のように引き絞られていた。
 政元が帯を解き終わったその時、入り戸を蹴破って狼藉者が刃を構えて飛び込んで来た。
「何者だ」
 闖入者は覆面をして、肩には襷を掛けていた。小太刀を正眼の型に構えて迫るが、政元は臆する気配もなく、激しい視線で相手をにらみつけた。すべては薄闇の中のとっさの事変であり、ましてや政元は寸鉄も帯びていない。しかし政元はただの武士ではない。政元の気迫が、武器を持った襲撃者を圧倒しかけていた。薄暗がりの中でその輪郭しか判別出来ない暗い相手から、孫七は妖気にも似た圧迫を受ている感じになって、一歩も踏み出せない。太刀も動かない。
「怪物め。世のため、細川家のために死ね」
 苦しまぎれに孫七の放った科白である。あまり威力のないその言葉が終わらぬ内に、背後から手槍が政元の背を突き刺した。福井四郎がいつの間にか裏木戸から入って背後に回り込んでいたのだ。孫七にはただ政元がいきなりよろめいて、前方にのめったのだけがわかった。とっさに小太刀を振り下ろした。身を翻して壁にもたれかかった政元は、素手でそれを受けた。続けて二太刀、孫七は放った。右腕が切断されて、皮だけを残して垂れ下る。壁に沿って政元は倒れた。その首を正面の賊の小太刀がふたたび襲った。首が掻かれた。鮮血が肩にかけたままの白衣に墨のように広がった。
 賊のふたりは、血溜りを前にしてぜいぜいと肩で息をしていた。やがて落ち着くと、小姓源次郎の存在に気づいて振り返った。孫七が気合いをかけて斬りつけた。幼い源次郎はあまりに凄惨な事態に驚愕して呆然自失していたが、刀が向かって来ると叫び声を上げて遁走した。ふたりは追わなかった。
 打ち落とされた政元の首を掴んで、福井四郎が最初に言った言葉は、叫びとも泣き声ともつかぬ上擦った声であった。
「化物かと思ったのに、落ちればただの首よ。のう、孫七。このような大将首を三つも獲れば、俺たちも城持ちの侍になれるであろうな」


                         了