こんなに台湾の方々が親日的とは知らなかった
日本帝国主義時代の台湾植民地統治が、朝鮮や満州統治とはなにか質的な違いがあるのだろうか
はじめに
APNEC6(第6回アジア太平洋地域国際環境会議)は2002年11月1日〜4日の日程で台湾南端の高雄市で中山大学が事務局となって開催された。
私は、全国公害患者の会連合会が企画した「台湾環境調査とAPNEC6参加」の9名の団員の一人として参加しました。
前回のインド・ア−グラでの会議(このときは私的に参加)でも感じましたが、アジア・太平洋地域の環境問題では、日本の役割が特別に大きなことを今回も感じました。
基調報告はじめ、会議運営の重要な部分を日本の学者が担当していましたし、それはなによりも日本が高度経済成長による公害問題先進国であったこと、そこから世界の人々にとって有用な多くの教訓を産みだし得たことによるものだと思いました。
特に公害被害者が、金銭によるごまかしのつぐないではなく、公害根絶と被害者の完全救済を掲げて運動し、それと医師や科学者・学者・弁護士がいっしょになってたたかい、地域環境から地球環境までも守る一貫した運動で、例えば「公害健康被害補償法による救済制度」などの特徴的かつ先進的な公害被害者救済制度を実現させてきたこと、さらには公害問題で破壊された地域の生活環境を再生する取り組みも、裁判の解決金を拠出して財団をつくって組織的継続的に行いつつあることなどです。
またそうした日本の運動は、自然科学・社会科学・市民運動で環境問題での先進的研究や組織的教訓を蓄積してきたわけです。
今、労働力の安いアジア各国へ欧米大企業や日本企業が津波のような進出し、しかし公害防止対策はなおざりにされ、地域共同社会が分断され人権が踏みにじられ、かつて日本が経験した公害問題と同様な植民地型開発とでもよぶべき公害問題が多発しています。
象徴的な例として台湾へ進出したアメリカコンピュ−タ−企業(今はこの会社はアメリカにもない)の工場廃液垂れ流しによるものと思われる従業員の癌多発問題を、地元のテレビ局が約1時間のドキュメンタリ−にして、会場で発表した。(これに関しては、道端医師がたぶん書かれると思います。)
台湾は近年アメリカのIT産業の工場(もちろん日本も含まれます)として経済繁栄をしてきたわけで、地域の乱開発や産業廃棄物問題などあらゆる環境公害問題が表面化しつつあるようです。
突然与えられたAPNEC6での私の任務
さて、会議では全国公害患者の会連合会の太田幹事長が、日本の公害問題の歴史と公害健康被害補償法について発表をしました。
それにつづいて私は、水島財団がつくったビデオ「MIZUSIMA」の紹介と宣伝の発言をしました。
「私は、日本のみずしま財団から来ました。ここにVHSの英語版のビデオを持ってきました。このビデオは水島の公害問題の記録です。水島は日本で一番大きくて有名なコンビナ−ト地帯で、深刻な大気汚染問題が30年前から発生しています。私たちは公害問題や、地域環境の再生に取り組んでいます。このビデオにそれが映っています。希望する方にはプレゼントしますので手を挙げてください。」と発言を英語でおこないました。
−−−−と書けばかっこいいのですが、実は発言の途中から頭の中は真っ白、なんとか単語をそれらしくつなげられたかどうか・・・というしどろもどろのありさま、それでも最後まで言わねばとの一念で続けました。
今回、このビデオ10本と水島財団紹介の英語版のパンフレット500枚程度を台湾に持っていったのですが、調査訪問先にお礼として手渡した他は、APNEC6の会場で宣伝して配布完了することが、私の具体的任務となり、当日会場で同行した白神さんから突然ありがたく命令を頂戴いたしました。
ですから、この発言は絶対におこなわねばならなかったのです。・・・・・でも、日頃、英語のスピ−チなどしていませんしもちろん発言準備などしている時間もありませんでしたのでぶっつけ本番、初めはなんとなく頭の中で英語の文章がでてきたのですが、途中でオ−バ−フロ−してしまいました。
それでも、数名の方が手を挙げてくれましたので「お、なんとか通じたのか」と、ひと安心、最低限の任務は果たせました。
教訓・国際会議に参加しようと思うならば日頃から英会話の勉強を怠るべからず。
さて、今回の会議で少しさみしかったのは、インドではできたのに台湾の被害者団体や運動団体との交流が国際会議の中ではできなかったことです。
学者や研究者それと学生が主な参加者で、運動団体が登場しないというところに台湾の環境問題が、学者や研究者と運動団体の連帯面で弱点があると思いました。
高雄市で教師や弁護士と交流
10月31日に高雄市教師会生体教育中心(中心とはセンタ−のこと?)で8名の教師と緑協会副理事長の弁護士も加わって、我々との交流が2時間ほどおこなわれました。
緑協会は1998年に小中幼稚園の先生を中心に結成され、主に自然学習運動を柱として身の回りの環境に目を向けさせる教育運動をしているとのことでした。
それでも、高雄市内の公害問題として、土地の不法占拠や使用、焼却灰の大量投棄や島への不法投棄、海の汚染や不法投棄などの問題があることを話してくれました。
印象的だったことの一つは、弁護士の方が「被害者を助ける弁護士や法律家がほとんどいない、初めは数人集めてもお金にならないから去ってしまう、最後はいつも自分一人だけれども自分は絶対に引かない」と決意を語られていたことです。
そして、未だに公害問題が発生しても、その原因を取り除くのではなくてお金で解決することが大半であると言われていました。
多くの場合は、被害実体が公表されず、研究者も政府からお金もらって研究しても、住民への改善方針は提供されないし、弁護士の組織もなく専門家と住民との結びつきができていないとのことです。
学校の先生方が話していたことのなかで印象に残っているのは、台湾檜の話です。
檜は北米と日本と台湾に生えており、台湾の1800m以上の山は檜が豊かであったとのこと。
ところが植民地時代より日本人が切り始め、現在2ケ所の地域にしか原生林がなくなってしまった。
1998年より原住民と一緒に檜を守る運動をおこなって伐採禁止とすることができた、とのことです。
そういえば日本のある宮大工の方が「日本の神社の用材には、木曽や紀州の檜が昔は使われたが、なくなってしまったので最近まで台湾の檜がよく使われた」と話していたのを思い出して台湾の檜の良木が日本の神社に使われていたのかと、何か納得がいくとともに、植民地の良いものは金と権力でもぎとられるのだなとも思ったりしました。
美濃の環境文化教育運動との交流
ここでは、ダム建設反対同盟の方々との交流を中心に、産業廃棄物焼却場反対運動やダム反対の全国交流集会なども経験しました。
高雄市から高速道路を約1時間北東に走り、北と東に300m程度の山々がつらなる美濃地区には、美濃愛郷協進會に地域住民が結集してダム反対運動が10年以上にわたって続けられており、それが地域の環境や文化・教育もはぐくみ、青年に誇りと希望を与える運動となっており、感動しました。
そもそもダムは、地域のシンボルである月光山(650m)の麓を流れる黄蝶翠谷に重化学工業化のために必要な水を供給する目的で造られる計画でした。
住民は、その予定地に活断層がありダムが崩壊すると美濃一帯が壊滅的被害を受けることとなるので危険であること、台湾にただ一カ所の熱帯森林があること(植民地時代に日本が熱帯樹木の林業試験場としていた)、その森林にのみ育つ貴重種である黄蝶が生育できる場所であることを明らかにして、そしてその谷にすんでいる少数民族の家も水没する、さらにコストがかかりすぎる、としてダム建設反対運動をおこしました。
會事務所の壁には、約60組の訪問隊をつくって此の地域の1万戸の家々を3ケ月かけて訪問し、必ず印を押してもらって8割の反対署名を集めた活動家の名前が組分けして張り出してありました。
最初は立法院での抗議行動に取り組み、会わせて地域では水資源の教育運動をおこない、黄蝶祭りをおこなって地域の環境生態系の大切さを訴え(この祭りは今では台湾コミニティ−運動の模範と言われているとのこと)、音楽活動もおこない、国際的な情報収集もおこない(なんと長野県の田中知事の脱ダム宣言を知っていました)、学校やメディアでのフォ−ラム活動、それに出版活動と・・・その幅広い活動にただただ感動しました。
これは地域での文化教育なんだと、そして台湾のダム政策に変化与えている、また若者に地域への誇りを呼び覚まし都会へでていた若者の帰郷をももたらしたのだと、運動の中心を担ってきた80歳くらいのかくしゃくとした古老が述べられました。
この地域は、古くに広東や福建から台湾へ渡来した客家とよばれる一族の末裔が住んでおられるようで、水利も整備され農業を中心とする生活基盤も良いようで大きな家ばかりでした。
さらに、古来から学問文化に熱心で、この地域出身の博士が500名もいるとその古老が述べられましたが、500名はともかくとしても地域の文化水準をうかがわせるダム反対運動だとつくづく思いました。
日本人はりっぱだった
さて、台湾を訪問して認識を新たにしたことは、台湾の古老の皆さんが日本人への高い評価をされていたのみならず、尊敬の念さえ持たれていたことでした。
さきの美濃の古老は「私が今日あるのは、小学校の日本人の先生のおかげだ、先生が自分の給料を割いて、お前は勉強ができるからこのお金で上の学校へ行けと進学させてくれた、おかげで日本の大学まで卒業できた、立派な先生だったと今も感謝している」と述べられ思わずジンとしてしまいました。
「美濃が豊かな地域になったのには、日本人の技術者がこの地の竹子門に発電所をつくって、それから灌漑用水をひいてくれたためだ」とその発電所と用水にも案内してくれました。
台湾の70歳以上の方はみな流暢な日本語を話されました。
日本国外にいるのに、漢字は中国大陸の略字とちがって今の日本の漢字とほとんど同じですし、話してみると日本人のお年寄りと話をしているような、そしてその方々がみなやさしくて心が安まるのです。
朝6時前に一人で散歩していて、沖縄と同じ胎内墓をみつけて、台湾の墓と沖縄は同じなのだと感心して田の端で見ていたときも、老農夫が草取りにきて私に「なにをしているのかね」と話しかけ「お墓をみています、日本語が上手ですね」というと「教育うけたから日本語わかるよ、北海道や東京も観光でいった、でも昔の日本人は良かったが今の日本人は乱れているね」と言われてしまいました。
台北市内のある病院(600床くらいのりっぱな病院なので見学してみた)でもシャンとしたボランティアの70歳くらいの女性に話しかけてみましたら、流暢な日本語で返事がかえってきました。
「日本の倉敷から?、李登輝さんのいった病院のところですか」と倉敷を知っておられました。
そして環境問題の国際会議と勉強のために台湾に来たことを話したりしたのですが、そのなかで「日本人はりっぱでしたよ、それに比べ蒋介石の連中は泥棒集団だからね」という話もでたのでした。
そのほかにも、台湾は道教が盛んなことを初めて知った(豪華絢爛のごてごての教会があちこちにありました)ので早朝に何カ所かのりっぱな教会を訪ねてみましたが、そこの教会の管理人もたいていは老人で、みな親切に上手な日本語で教会の謂われを話して中を案内してくれて「日本人学校で勉強した」と誇らしそうに話してくれました。
韓国に旅行したときも日本語のわかる方と何人か会いましたが、例外的に「日本人の考古学者が韓国の歴史的遺産を大切にすること教えてくれました」と好意的に言われた以外そんな言葉は全くきかれませんでしたから、台湾の普通の人々にそんなに好印象を残した植民地時代の日本人はどんな人々だったのだろうか、どんな植民地政策であったのかと疑問さえ湧きました。
でも古の日本人の台湾での交流や行いが、こんな形で今に現れるのだなと思うと「なさけは人のためならず」という言葉の意味がよく分かります。
日本に帰ってから、何冊か台湾関係の本を読んでみたのですが、日清戦争後の台湾割譲による台湾占領は艦砲射撃のもとで日本軍が上陸戦を戦い、住民の抵抗のために当時の陸軍の三分の一以上が動員されており、最初は力の弾圧で領土としています。
抵抗勢力を武力で徹底鎮圧をおこなったりしていますが、台湾の植民地政策では@日本国籍や日本名を武力強制してはいないA土地などはキチンと所有関係も調査して、強制収容はしていないB初級の地域の学校しかなかった台湾で、大学までの教育体勢を整備し、希望者には日本式の学校へ入学させているC台湾に共通言語がなかったこともあり、日本語がデフェクトスタンダ−ドとなった結果で、日本語を強制されたとは感じられていないD台湾では反抗部族制圧の戦闘はあっても、奪い尽くし・殺し尽くし・焼き尽くすというような残虐なことは部分的であったE従軍慰安婦問題に象徴されるような性的征服はなかったのか表面化していないようですし、法整備や市民社会の整備が積極的にすすめられたF積極的な産業育成策がとられ、そこでは奴隷労働というような実態はなかったようだ、というようなことが上げられるようです。
むしろ、日本帝国主義がおこなった台湾の植民地政策でありながら「武士の誇りを持った」日本人が、教育や産業振興や治安や医療や様々の住民と接するところで模範を示して献身的開明的な育成活動をしているといえるような事例がいっぱいあるようなのです。
ですから朝鮮半島や満州での日本の植民地政策と台湾での政策になぜか差があるようにも思えてなりません。
おわりに・その他の雑記
高雄市では、排気ガス対策と大気汚染対策のためでしょうか、バイクの人は全員マスクをしたりタオルを口の周りにまいていました。
高雄港も2時間ちかいクル−ジンクでほぼ全体を見学しましたが、港湾の自然な規模としての広大さにびっくり、これだけの港があれば重厚長大時代は終わったにしても、ハブ港として台湾南部地域の産業の発展をいくらでも今後も支えることができるだろうと、ただただ感嘆しました。
また、台湾南部の三地門の近くでは、河川付近の縁の農地が砂利採集で深さ15m長さ100m奥行き40m程度に何カ所もえぐられて巨大な窪地になっている現場、
そこに産業廃棄物がうめられて劇毒物が検出された現場、産業廃棄物の上が再度農地になってパパイヤなどの農場になっている現場などもみました。
また、高雄市の周囲を地図でみると、広大なラグ−ンが広がっていますが、そこでエヒや魚の養殖漁業がおこなわれ、消毒薬が大量に使われたり、養殖ができなくなると産業廃棄物が大量に捨てられたりする話もききました。(輸入食品はあぶないな−)
私は、そこで採れた魚やエビの料理を最初はおいし−な−と食べましたが、パ−ティ−で3回も食べると、甘い系統ばかりの味付の台湾料理のオンパレ−ド、飲み物のお茶まで甘い!、間食のデザ−トも甘い!、に、うんざりしましたがぜいたくすぎるでしょうか。
また、高雄市郊外の幹線道沿いのあちこちに、けばけばしい照明の全面ガラスのショ−ウインドウがいっぱいあって、ビキニの美人の女の子が、噛みタバコを売っているのも見ました。
また台湾の地名は植民地統治の結果として日本名だらけであり、高雄のホテルでテレビをみていたら「岡山市**の***番地○○さんです。美肌化粧品****で私は美しい白い肌になりました」などと日本語でコマ−シャルが次々と流され、「なに、岡山にはそんな地名と番地はないぞ、詐欺の宣伝だ」と思ったのですが、台湾南部の地図をみたら高雄市の近くに岡山市があったのでした。
日本のテレビに欧米人の横文字コマ−シャルがあふれているのと同様に、台湾のテレビには日本語のコマ−シャルがあふれていました。
他には、台湾航空のフライトアテンダントが日本人・台湾人・それ以外の外国人を顔を見ただけで見分けて「ありがとう」「シンシヤマ−」「サンキユ−」と言葉をかえていることに、達人やな−!と感心もしました。
なによりも、今回の台湾訪問で私にとって一番の収穫は環境問題のみならず、日本のアジアの植民地政策にまで問題意識を広げることのできたことでした。
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