意見書

 

 第一稿2000/07/20 追補08/07 
テ−マ 21世紀の倉敷市のまちづくりについて

1.はじめに
倉敷の町の21世紀を構想した場合、倉敷市の歴史的発展過程における社会資源・資産と社会的負債を見据えて、展望を描かざるをえない。
21世紀の倉敷を空想するのでなく科学するためには「温故知新」ぬきにはだれも展望を描けないはずである。
さて、大局的に地政学的に倉敷市をみると、岡山県が県都岡山市に全てを集中しうるなかで、倉敷市は率直にいって岡山市と対等に競争できる社会的歴史的資源資産は、ごく限られたものとなり、地球環境との調和が要求される今後の世界的な歴史的社会発展のなかでは、かつて一時的に倉敷市を浮揚させた水島コンビナ−トは激しい公害被害を発生させたことなど、むしろ負債として、倉敷市を縛り付けることとなり、しかもその倉敷市が3市合併という矛盾を今日に引きずっていることも併せて指摘せざるをえない。
また、逆に3市合併によって倉敷市は分散された田園都市としての様相ももちうるわけで、自然環境豊かな市民生活の田園都市づくり構想のモチ−フを充実させてゆくことができたならば、倉敷市を新しく生まれ変わらせることも可能と考えられる。
従って、倉敷市民は、これまでの負債の精算を一刻も早くすすめつつ、自然環境・地球環境と調和した市民生活の質を向上させ、倉敷市の文化を高めるとともに、世界に情報発信して、そこに倉敷市の存在価値が評価されるようにまちづくりをすすめるべきと考えます。

2.キ−ワ−ドから考えるまちづくり
環境・情報・文化・福祉
世界的にも、開発優先富国強兵型の国造りは歴史的過去のものとなり、自然環境と調和した人間生活が豊かになるような国造りへと歴史が発展しています。
水島コンビナ−トは、高度経済成長政策の時代はもてはやされましたが、今日では「水島コンビナ−トのあるまち倉敷」ではキャッチフレ−ズにならないどころか、環境破壊のイメ−ジでの評価が主となってしまうことは、だれもが認めるところです。
「地球環境にやさしい」「自然環境を守って」「自然環境の復元」「地球温暖化防止・二酸化炭素ガスの削減」「環境汚染やゴミをなくす」「公害被害者の完全救済と公害の撲滅」など、全世界的な地球市民の運動のキ−ワ−ドが鮮明となっています。
この視点でみるならば、日本の産業界でも資源浪費・地球環境汚染型の産業の将来性がうすれ、高度な科学技術集約型の高付加価値産業がますます注目されつつあります。
水島コンビナ−トは、しばらくは生き延びるでしょうが、かつての様な国民的期待をつくりあげて発展することは2度とないばかりか、遠くない将来に縮小されざるをえないと思います。
膨大な量の二酸化炭素ガスの排出は、地球温暖化防止のために、世界から規制と削減が求められるところとなり、ますますその方向は強まりつつあります。
市民生活からみたら異常ともいえるエネルギ−や諸々の原料資源の集中集積したコンビナ−トがあることで、安全性が保障されない市民生活とならざるをえず、市の発展にとってもマイナスとなりつつあります。
水島コンビナ−トのIT産業化は、産業界自身がそれをすすめざるをえないところとなっています。
従って、IT化などの産業構造の転換はじめ、資源浪費型設備の削減、二酸化炭素排出量規制、緊急にも公害防止協定どおり20%の緑化、空き地の緑化をすすめつつ、工場跡地や埋め立て地などは再度藻場にもどし豊かな瀬戸内海となるように、これまでの公害発生の反省にたって水島コンビナ−ト政策を実施する時代となったのではないでしょうか。
「自然環境豊かな快適な田園都市」というキ−ワ−ドで倉敷市を考えた場合、桃やブドウなど果物がたわわにみのる倉敷市・様々な野菜がとれ稲穂が黄金に光る田園の倉敷市・花々が公園や庭先や川辺に咲き乱れる倉敷市・全家庭に都市下水が完備し、工場排水も全て工場の処理施設や公共処理がおこなわれ、小川には清流がながれ、小魚が泳ぎ、ホタルが舞い、こどもたちが遊び泳ぐ田園都市・瀬戸内沿岸やコンビナ−ト部での藻場の復活や海砂採取の規制で瀬戸内海の漁業の復興・・・というようなイメ−ジがどんどんふくらみます。(そうした都市を「庭園都市」と位置づける意見もあります。)
清流の流れる小川にするためにも、衛生的な町とするためにも、快適なまちづくりには全家庭への都市下水の整備は絶対必要ですし、地元の中小企業や雇用対策にもたいへん有効です。
また、小川が清流であることは農業にとってもたいへん有効です。
倉敷・水島・児島・玉島のまちなみが分散した倉敷市であるからこそ、緑あふれる倉敷市をのまちをつくれます。
分散の利便性を高めるために、そして地球環境のためには公共交通手段としての臨海鉄道の位置づけが決定的に重要です。
玉島や児島まで結合し、JR在来線へも乗り入れ、環状線とすることをすすめるべきです。
もはや、自動車優先の町づくりは時代遅れです。
水島の様に、自動車が走っていないのに幅広い道路が町中を縦横に貫いていると、逆にスピ−ドの出しすぎなどで住民生活の安全が犠牲となってしまっています。
水島では、道路の車線減少をおこないそれによってできた空き地の公園化や花壇化など、環境緑化とあわせてすすめるべきです。
あわせて、利便性をたかめるためには、情報都市化も必要です。
行政情報の公開はじめ、市民生活に活用できる様々な情報を豊かに共有できるようにしてゆくことは、文化の育成や行政の透明性を高めて信頼性をたかめることや、分散田園都市での効率化にもたいへん有効です。
当面インタ−ネット利用環境の通信資源(各家庭を結ぶ通信回線)の質の高度化にとりくむならば、産業のIT化にとっても有効と考えられます。
情報化についての社会教育も積極的に推進し、市立図書館でも、本の充実とあわせてデジタルコンテンツの充実をすすめる、あるいは美術館や博物館・ライフパ−クでも同様にデジタルコンテンツ化をすすめる必要があります。(ただしプライバシ−の保護と通信の秘密は厳密に守られねばなりませんが。)
フリ−マ−ケットが各地でおこなわれにぎわっていますが、デジタルモ−ルと結合して発展するならば、新しいかたちの個人商店の再生や誕生へとつながると考えています。
行政でも効率的かつ冷静正確な判断対応ができるE−mailによる市民対応をおこなうべきです。
情報化と文化は密接に結びついて発展します。
価値ある文化はそれが情報となり、新たな文化を結びつたり誕生させたりして、豊かな人間社会をつくる力があります。
例えば、大原美術館は、東京の国立美術館と双璧をなす日本の貴重な美術館です。
「倉敷といえば大原美術館のあるまち」とイメ−ジが国民の中に広まっています。
芸術文化はそれが優れていればいるほど様々な社会的吸引力を発揮し、新たな創造へのエネルギ−をうみます。
しかし、チボリランドは芸術文化ではなく、まがいものの商業そのものなので、新たな創造へのエネルギ−とならずに、その結果あきられてだんだんすたれることは法則的です。
それよりも、倉敷の歴史や産業に依拠した、市民自らが伝え守り生み出してきた文化こそが決定的に重要です。
それはどこにもないオリジナルな内容を含んだ生活文化だからです。
また、いきさつに問題があったわけですが、音大や芸科大も市内にあります。
この若者の文化エネルギ−を市民文化として大切に育て活用することで、倉敷の文化の質と量に新たな発展があると思います。
祭りや神楽・踊り・琴・バンド・オ−ケストラ・絵画・・・様々な文芸が豊かに自由に発展できる気風と機会を提供できるまちづくり、それが新たな魅力をまちに誕生させ情報を豊かにし暮らしを楽しませます。
市外からの導入鑑賞も否定しませんが、市民が育ち育て自分たちが誇りとする文化がなによりも大切です。
 「水島コンビナ−ト優先」の政策がかつておこなわれ、その政策に批判的な意見は「嫁の来てがなくなる」「地価が下がる」「にせ患者」などと圧力をうけ排除された歴史があります。
そのなかで地域の自由な雰囲気とコミニティ−が崩壊させられ、結果としてコンビナ−ト企業でさえも「水島砂漠のため優秀な若い人材が定着しない」と言わざるを得ない文化の不毛地帯をつくってしまいました。
 こうした教訓からも行政が一方的に価値観をおしつけたり、限られた一部へのみの優遇となるような政策をおこなうと、他方には自分たちの文化が評価されないあるいは否定されたとうけとめられることとなり、それが結果的には文化破壊政策となることを肝に銘じて対処すべきです。
文化には自由の培地が必要です。
学校教育での制服の強制や統制のみの校則の強制・日の丸君が代の強制など、こども時代から自由に考える資質を失わせる教育は改めるべきです。
学校からの道理のない強制がこどもどうしの強制となり、切れたり不登校となったりしています。
こどもの「私の人権と自由を」という叫びを教育行政は気づくべきです。
コンクリ−トの底冷えの冬の教室でスト−ブがたけない、カンカン照りの校舎にエアコンがない、こんな学校での勉強で、こどもたちは大人社会から大切にはぐくまれているとは感じられないでしょう。
教育の視点も文化の視点も、本当に育てる・自由に育つようにするという視点での政策が必要です。
 福祉について・・・後日追補

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