本論文は、かつて倉敷医療生活協同組合の機関誌に投稿したものですが、今日でもその主張するところの正しさがいっそう社会的に明らかになっていると私は思いますので、以下に採録して皆様にご検討をいただきたいと考えます。

医学・医療の歴史的発展方向にそって「患者の権利」を保障擁護する医療のあり方についての試論

はじめに


 私は、先の博慟40号で「倉敷医療生協の情報処理システム化基盤整備についての概論」を書かせていただきました。
そのなかで 2.病院活動と情報として『病院はサ−ビス産業に分類されますが、医療サ−ビス商品の「使用価値」をベ−スとしながらも、生命体の健康に関わる(生命体の存続発達にかかわりひいては社会組織の存続発展に係わる)特別なサ−ビス産業であり、そこには、「信頼」という「使用価値を止揚」した、人と人との(人と人的組織である病院との)新しい関係が生まれ、その関係が発展するなかで、お互いがさらに発展するという運動形態が現れます。(逆に作用すると、医療過誤事件などのように、その瞬間に敵対的矛盾となります。)
 従って、一般的にも病院組織が発達するためには、医療をめぐる情勢や医学医療の歴史的発展方向(当然、医療技術的側面も含む)の正確な認識と、医療従事者と患者という人的関係についての「情報」を集中し・整理し・正しく評価するという高度な情報処理と、それによる方針実践が求められます。』と書きました。
 そしてそう書くなかで、医療における「信頼」が今日大きく揺らぎ、危うくなっているという問題意識がなおのこと強くなりました。
 なぜかと言いますと、日本共産党以外の全ての政党が対米従属の自民党政治の枠にとりこまれ、貧困反動な医療政策で国民医療破壊の攻撃をおこなっていることについて我々はよく分析しますが、しかしその攻撃のなかで国民が医療機関に対してどんな不満や要求をもっているのかということについての我々のアンテナはあまり高くないのではないかと思っているからです。
 ややもすると、国民と我々は自民党政治の被害者という階級意識だけでしか見れず、国民のなかにある医療不信や不満・医療要求に全面的に応えて行くことの大切さが評価しにくくなっているのではないでしょうか。
 国民が医療界医学界の封建性や閉鎖性のために、自分の生命や人権が侵害されていると強い疑問や不信を医療機関に持っている今日「我々は医療生協だから、信頼されている」と単純に考えているとしたらあまりにもおそまつであり、「民医連医療生協は、そうした封建性や閉鎖性を打ち破るために運動しており、我々も患者の権利章典の学習もしているから、我々は信頼されている」と思っているとしても、患者要求にこたえる具体的実践がともなわねば観念論にすぎません。
 たとえば「病状について患者本人に正確に説明するべきか、すべきでないか」を医療従事者が論議するなどというのは患者の基本的人権の抑圧冒涜以外のなにものでもないと思いますが、しかし未だに「癌も含め病状については患者本人に正確に説明する」ということにはなっていません。
 これは患者の権利章典の基本的人権の思想と全く反することと思います。
患者の医療情報公開の要求に応える準備も全く検討されていません。
 こうした問題意識を持っていたところ、民医連医療誌1994年8月号と95年1月号に「インフォームド・コンセント」をめぐっていくつかの論文が掲載されました。
 そこではかなりの部分が論じられ私の考えていた以上に整理され論理展開されていますが、(一部ですが時代錯誤的混迷の自己弁護論ともいえるような弁明の随筆もありましたが)、なお不足していると思われる点があります。
 特に、医療生協の「患者の権利章典」と患者の権利法をつくる会の「患者の諸権利を定める法律要綱案・1993年11月1日一部改定」(以下「患者の権利法案」と略す)との間には運動論との係わりで現状認識記述に大きなへただたりがあり、つくる会の「患者の権利法案」には「・・・・国民の医療に対する不信感は根強いものがある」との指摘がされています。
 この指摘は医療生協ではすでに克服された問題であると簡単に片づけることはできないと思います。
 特に、従来は「準委任」とされていた医療機関(医師)と患者の関係でなりたってきた医療が、患者の自律(主権の確立)による協力・共同の関係ですすめられる医療に急激に変化していっていることについての時代認識をもち医学・医療の民主化運動の先進となって「風とおしのよい医療システム」を構築してこそ、住民の「医療に対する不信感」を払拭でき、倉敷医療生協が住民にとって「輝ける星」としての医療活動での倫理的権威となり得ると考え、一部先達の論文も紹介しながら、以下に私の問題意識を述べ、皆さんの検討をお願いします。

1.国民に不信を生み出す医学界の土壌について

 えぐりとられていない戦争犯罪への協力加担とその体質

 日本の医学者もかつて、日本帝国主義の人民支配と侵略戦争のために奉仕させらたことを忘れることはできません。
「生めよ増やせよ」のかけ声で推進された厚生行政と医学は、天皇の軍隊に優秀な兵士を供給するための、また医学による軍事技術を開発するための任務をになってきました。
 特に、関東軍のもとで中国人などの捕虜を「丸太」と呼んで生体実験で大量に虐殺した731防疫給水部隊はじめ東南アジア各占領地での防疫給水部隊の暗躍や帝国大学医学部でのおぞましい生体解剖など、狂気のさたが医学者によって平然と執行されました。
 侵略戦争敗戦後、日本を占領したアメリカは、こうした事実を掌握しながらも、そのおぞましい医学技術をアメリカ軍の世界戦略に組み込むために、関係者を温存し膨大な研究成果を根こそぎアメリカに持ち帰り、事実は闇に閉ざされました。
 遺憾ながらこうした日本医学の歴史の恥部が、医学者自らによって告発され研明浄化された事例をわたしは知りません。
 また、岡大医学生からは学園祭で731部隊問題の展示を行ったことに対して、大学の助教授から「大学の中に(退官した人も含めて)731部隊の関係者がいるので、学内ではそのことはタブー視されていた・・・・」という話しも伝わってくるところをみると、岡大医学部も残虐な侵略戦争に医学を奉仕させた自らのいまわしい過去についてほうかむりしているのでしょうか。
 こうした暗黒の過去をひきずっている医学界で起きたいくつかの事件、例えば和田心臓移植手術事件ではその医療の正当性(殺人行為ではないのか)が疑われ、富士見産婦人科事件では患者が自己を防衛できないことへのやりばのない怒りが噴き出すなど、医学界の数々の不祥事や、あまたの医療過誤訴訟事件、身の回りにある表沙汰になっていない数々の医療過誤の例、あるいは誤解であっても「あの時ちゃんとしてくれなかった」などなどの事例から、国民は「自浄作用のない医学・医療の世界」が同族的・閉鎖的・封建的・非民主的であることに気づき、深い疑惑と不信感をもちはじめています。
さらに、臓器移植などでの「脳死」問題での人権問題も、移植手術をおこないたい側(医学・医療側)からの技術論的条件による要求をベースとして自分達国民を脇においたままで、専門家のみで自分の命の問題が論議されているのではないかとの危惧も生まれています。
 患者の立場にたった親切でよい民主的な医療を実践しようと努力している民医連や、患者自らが組合員となって医療生協をつくっていることを知っている国民は少数にすぎないために、週刊誌などのマスコミのセンセーショナルな宣伝のもとで医学・医療への不信があおられやすくなっています。
 なお、医療機関から患者への病気の治療や検査や薬などについての説明が不足し、不満をうみだしていることは「家庭医学書とか育児(医学)書」「病院の検査について解説した本」や「市販薬や病院で処方される薬についての解説書」あるいは「癌治療に使われる薬の本(抗癌剤の作用や副作用・商品名・包装の記号や番号まですべて書いてあります)」とか、薬の包装の記号や番号を入力すると詳しい解説が表示されるパーソナル・コンピューター用ソフトなどまでもが販売されている現実から明かです。

2.医療従事者の常識=世間(社会)の非常識

銀行の話

 あなたはたいへんに評判の良い銀行があるというので、貯金をしようとその銀行へでかけました。
 たしかに応対は良いしなにかと親切で、貯金契約の内容も詳しく話してくれました。
 そこで、手持ちのなにがしかを貯金しましたが、ところが通帳をくれませんし契約書もくれません。
 銀行からは「あなたの権利は守りますから銀行に任せて下さい、それが銀行の方針です。
一切の入出金や利息の記帳も銀行が管理していますのであなたは見なくても心配ありません。
 銀行があなたにご相談したいときには、それに関係した部分はお見せします。」と言われました。
さて、あなたはこの銀行を信用して通帳や契約書なしでも貯金をしますか。
 では「銀行の話」の文章の言葉を次のとおり置き換えてみて下さい。
「銀行」を「協同病院」に、「貯金」を「病気の治療と健康管理」に、「通帳」を「検査結果」に、「契約書」を「治療計画書」に、「入出金や利息」を「検査データー」に、「記帳」を「カルテ」に。
 こうした「契約書」問題は、「単に約束の文書だ」ということとは本質的に異なる、医療機関と患者の身分(権利)関係にかかわる問題と考えられませんでしょうか。
 私達医療機関に働く者は、あたりまえのように疑問ももたずにいた常識も、そしてまたこれまでは、世間の人も「そんなものだ」と思ってきたとしても、今やその常識は、非常識となりつつあるのではないでしょうか。

 今日の社会は、市民革命により構築されたブルジョア民主主義社会でありその構成員は社会的契約(社会的合意とその形成を合理的に実現するとされる諸政治制度や法律など)あるいは各個人間での契約によって権利義務を明確にしています。
 封建時代の支配者(封建支配層)と被支配者の間では、身分制度で差別がおこなわれ社会的契約は成り立たず、日本では絶対主義天皇制の支配イデオロギーで、武力支配することが正当とされ、特に女性は参政権がなかったことにみられるとおり、今から50年前までは社会的には人格としての存在を否定されてきました。
 ヨーロッパなどでは、王権神授説が支配イデオロギーでした。
 従って、ブルジョア民主主義は、支配されないこと(自由)と、契約が成立すること(平等関係)を社会的正義とするイデオロギ−によって王権神授説を腐朽させ、革命によってブルジョア民主主義社会をうちたてました。
 日本においてはブルジョア民主主義革命が完遂されなかったとはいえ、今日の社会はまさに「契約」によって関係づけられる社会となっています。
 例えばあなたが車を買うとします。
 販売会社からは、販売員が詳しいパンフレットと契約書を持って現われます。
 あなたの希望をきいて、価格や支払方法はじめ車の色・エンジンのパワ−やミッション、愛車セットやカ−ステレオさらにナビゲ−ションシステム等々微に入り細にいった説明で契約書がつくられ相互に契約確認がされます。
 従って、色ひとつでも契約書と違った車が納車されようとしたならば、契約違反として納車を拒絶できます。
 「あなたとのお付き合いは深いから、契約書は不要です。一番あなたに良い車を選んで私が届けますから、任せて下さい」という業者をあなたは信用して車を購入しますか。
こういったことをはじめとして、あらゆる利害関係や権利義務関係の相互確認に契約書が当事者間で交わされます。
 つまり契約書が相互の「信頼関係」の前提となっているのが今日の社会です。
ところが、こと命にかかわる「医療」の世界では「診療契約書」などという類のものはとんとお目にかかったことが有りません。
 契約書が前提の社会で、医療の世界には契約書がない?!、不思議なことではないでしょうか。
 それに対して「不思議ではない。商店やスーパマーケットで商品を買うのに契約書などいらないではないか。
 医学医療は、高度に専門的な学問技術が要求され、その学問と技術をどのように活用するかは高度な学問技術を有する者の裁量にまかさざるをえないことであるから、医療関係法規や療養担当規則などを社会的な一般契約として、それを前提として患者は医療機関(医師)に診療を『準委任』するのだから、契約書はないのがあたりまえ」とする見解が出されるとは思います。
 人間の生命に係わる問題をスーパーでの商品購入と同一なのだと言い切るならば、なにをかいわんやですが、私はそのように考える医療人や医療機関に自己の生命や健康への係わりをもとうとは思いません。
 さてそうでないとしたらこの見解は、一面は正しい側面もあるけれども一面には根本的な反動的な誤りを含んでおり、現代の「王権神授説」そのものであると考えます。
 ご承知の様に「王権神授説」は封建領主の支配を正当化するために「神」という絶対者を登場させました。
 先の見解で「高度に専門的な学問技術」を「神」に置き換えれば、契約書のいらない封建時代の様な関係の世界が出現するのではないでしょうか。
 医療関係の法律で患者の権利は守られると強弁してもそれは全くの一般論であり、現に民法や商法があってのうえで、個別には契約書が結ばれています。
 はじめにでも書きましたが、従来は「準委任」とされていた医療機関(医師)と患者の関係が、患者の自律(主権の確立)による協力・共同の医療に急激に変化していっている時代認識をもつならば、この不思議問題は医学医療にかかわっている側・これまで契約書がないのが常識であった側(例外的少数世界)から見て考えるべきなのか、契約書があたりまえの側(圧倒的多数世界)にたって論理を考え実践すべきなのかという「立場の選択」を迫る問題でもあります。
「診療契約書」などとというものは時間的にも経済的にも作成する条件がないのにできるものか、空想論だ!と極論するのではなく、本質的に必要な患者の要求にこたえるべき「権利にかかわる」ものと考えるならば、現在でも可能な内容の「診療契約書」はどんなものかと検討し少しでも早く実践することこそが重要と思われますがいかがでしょうか。
 なお、この契約概念を逆手にとって、一部の健康保険組合などか組合員の受診できる医療機関の指定(指定以外の医療機関には診療報酬の保険分を支払わない)という事実上の専制支配をどうにかして導入しようと策動していますが、基本的人権を保証する医療という思想とは全く逆行する、医療費支払いという手段をつかって患者や医療機関を支配しようとする時代錯誤のファッショ思想であることを指摘し警告しておかざるをえません。
 

3.健康な人には検査データーを積極的に提供開示するけれども、重病の患者ほど提供開示がはばかられる!?


 本来は健康な人が対象とされている人間ドックや健診では、その検査データーや診察の結果は本人に詳しく説明され、記録が「人間ドック成績報告書」などとして積極的に開示提供されています。
 ところが、健康でない人(病人)の診療では、たとえ病状説明で検査結果の一部が開示されても、積極的に提供されていません。(最も、慢性疾患の場合は、一部のデーターを積極的に開示提供する場合もありますが。)
病人こそ自分の病状についての詳しい情報を求めているのではないでしょうか。
 それどころか病状によっては「告知」するのは良くないなどとして、ウソ偽りを告げたり、何もデーターを見せなかったりして、それを医療機関(医者)の裁量権とする場合さえもあります。
 「言っても解らないだろうから、言わない。」とか「言ったら混乱するだけだから」とかの理由をつけて、ややもすれば無知な相手に、子をさとすように接し、そうすれば苦しみをやわらげてあげられると「善意(の押し付け)」でおこなったりしています。
 こうしたパタ−ナリズム(父権主義)は専門家と素人との関係で、現象形態としてしばしば現われますが、本質は支配と被支配・権威への盲目的従属の要求、差別思想にすぎません。
「告知」という言い方がそれをよく表わしています。
 解らないだろうと決めつける根拠はいったいどこにあるのでしょうか。
 なるほど、素人にはたしかに解らないかもしれませんが、しかしたとえ少しでも解ろうとしていることに対しての侮蔑と傲慢でしかないと思います。
 解るように言うことこそ真の専門家のとるべき態度であり、そうした努力を重ねても、混乱したり絶望したりする患者がいたならば、励まし病気との闘いにともに立ち向かう力を患者に生み出させるように努力するのが、今日求められる医療従事者であると思います。
 医療機関側は「共同の医療」として疾病との闘いで患者との「統一戦線」を組む立場にたつことが必要であり、そうした関係をつくらずには病気と闘えないのが現実だと私は考えています。
 そもそも、患者が医療機関に「診療や検査などを依頼」することは、「患者自身の属性(プライバシー)の一側面からの評価と方針の提示」を医療機関に依頼することであり、その結果情報については患者自身に正確に伝えられることが前提として「依頼」が成立するものです。(従ってカルテ開示の要求があったならば、当然患者本人にはカルテを見せコピーも当然ということになります。)
医療機関側が「告知」すべきか、すべきでないかなどと論議し、「善意の押し付け」をするならばそれは許されない背信行為であり、医療機関の裁量権の範疇に属さないことではないでしょうか。
 たとえ本人が「すべておまかせします」とした場合でも、「あらかじめ」本人の認めた代理人にきちんと説明すべきことであると思います。
 「告知」が死言になったとき、この問題は乗り越えられているでしょう。
 こうした問題について民医連医療1995年1月号に「インフォームド・コンセント 実り多い論議と実践のために」と坂総合病院電算管理室室長檀原渉氏が宮城での実践から明快に論じています。
 氏は「インフォームド・コンセント」の正確な理解の必要性について述べ、その困難性を宮城での豊富な実践から以下の様に展開しています。
 『・・患者の遠慮を作り出している今の医療制度そのものが抱える矛盾をともに考え、解決の道を探ることである。そして、それがすぐに解決できる課題ではない以上、次に求められるのは、患者が自己の病態を知り確信をもって疾病とたたかうことを・・医師以外のスタッフも含めてサポートするための努力と工夫であろう。
・・慢性疾患医療のシステムは、患者に自己決定をより豊かに実現してもらうための前提をなすものであり、インフォームド・コンセントの重要な中身を構成する学習権の保障を日常的に追求してきたわれわれの誇るべき歩みだと考える。』
 『「告知」について(好ましい表現と思わないのでカッコつきで表現する)・・経験からの帰納的方法での結論である「ケース・バイ・ケース」論は原則的立場を出すことを実質的に放棄している。
われわれにとっていま必要なのは、演繹的方法に則った、つまり理念に基づいた、普遍的・原則的な立場を明確にすることである。
・・・・患者本人に対する「告知」をすすめる方向にあることを共通の出発点にして、「告知」を拒否する家族への「説得」(より細かく言えば単に医学領域にとどまらない、患者自身の人格権に関しての理解を得るための家族への教育も含めた努力の総体)環境条件や技術の問題も含めた「告知」の方法論、スタッフや家族による「告知」後のフォローとその経験の蓄積と交流、さらに今述べたようなことをトータルに可能とするような社会的条件整備を求めるたたかいにまで結びつけていかなければならない。』としています。
 そのほかにも、学ぶべきは、民医連医療1994年1月号特集での「患者の権利保障とカルテの共有」と題する埼玉協同病院医師高石光雄氏や「患者と情報を共有するシステムは」と題する高知生協病院医師吉松高志氏の報告、医療生協運動1994年2月号での「癌告知2ケ月の経験」みなと協立病院医師原晴久氏の報告など我々が教訓とすべき先達の報告があります。

4.カルテは医療機関のもの?


 現在、各医療機関は患者ごとの診療録(カルテ)を持っています。
1人の患者の診療関係の情報が、様々な医療機関に分散された状態で存在し、統合されての活用などほとんどみられません。
 このため、患者は診療を受ける医療機関ごとに同じ様な検査をくりかえしさせられ、同じ様な治療がおこなわれれ、患者は苦痛と経済負担を重ねさせられます。
 それでも治療効果が上がって元気になったならば、最後にかかった医療機関には「見立てが良かったから」と納得する場合が多いでしょう。
 しかし、繰り返し与えられた苦痛と経済的負担については、不満が蓄積されます。
 治らなかったならば、医療不信がうまれます。
 病気が治らないためにいくつもの医療機関をはしごして受診し、処方された薬を服薬したならば「事故」がおきてもあたりまえのこととなります。
 さらに、現在のカルテ分散管理システムでは本人のプライバシ−に係わる記録でありながらも本人が一切管理できないしくみとなっています。
 このように現行のカルテ管理を含む医療制度は人権侵害を生じやすいシステム・社会的経済からも不経済なシステム・科学的側面からみても不合理かつ危険防止のできにくいシステムではないでしょうか。
 学校教育で使われる内申書に対して「公開しないのはプライバシーの侵害」「学校関係者だけでこそこそ隠して」となんとなくいやな不信の思いの皆さんもおられることと思います。
 患者に開示されていない医療機関のカルテも、患者さんからは同じ様な思いでみられていることもあるのです。
 私は、患者自身の成長と健康と闘病の記録は患者自身が自己で保有管理すべきものであり、医療機関毎にカルテがあるのが不自然なのだと考えています。
 母子手帳の例のように、カルテを本人が生涯に1冊自己の健康記録として常備し、診察を受ける医療機関にその時だけ託し(契約行為となるように託し方の方法も整備し)、診療の内容やDATAを記帳後(もちろん医療機関は自己のおこなった医療行為についての記録の写しを保管し)、患者本人に返却するシステムにすることで、最も民主的かつ合理的なシステムとなりますし、実践的に医学医療を進歩向上させるとともに、本人の疾病との闘いを援助し、健康への自覚を高めるカルテシステムとなると思います。
 しかし、そうした制度にするためには、日本の医療制度を根底からつくりかえ、徹底した民主化なしには実現できない課題と思わざるをえません。
 残念ながらただ今の現実的課題ではありません。
 とはいえ、この思想は本質的な問題であるからこそ、そうした視点でカルテの活用制度を倉敷医療生協内部だけであるにせよ検討してゆくことが大切かと思います。
 当面、医療生協内だけでも、カルテを患者さんにも所持してもらい、病院・診療所を受診するときは、提示してもらうというようにしてゆけないだろうか、と漠然と考えたりしています。
 この問題では、これ以上の検討は空想論となると思いますので中止します。

5.患者の権利章典について

 患者の権利論については、ヨーロッパで歴史的背景をもって確立の運動が進められたとのことです。 
 日本の医学界のありかたとは対象的にヨ−ロッパにおいて、ナチスドイツのユダヤ人種撲滅政策に医学が奉仕させられ大量虐殺の手段に使われた反省から、1964年の世界医師会総会で「人を対象とする実験的医療や臨床試験は十分な情報を伝えた上での自由意思にもとづく同意と選択、すなわちインフォ−ムド・コンセントなしにはおこなえない」とする「ヘルシンキ宣言」を採択し、インフォ−ムド・コンセントを医学の名のもとに重大な人権侵害をもたらさないための倫理原則として確認しました。
 その後この思想は国際的な消費者運動とともに発展前進し「患者は十分な説明を受けたあとに治療を受け入れるか、または拒否する権利を有する」(1981年リスボン宣言)となり、医療行為の内容は患者自らの自己決定にもとづき選択されるべきであるとする思想となりました。
 消費者運動をつうじて、日本にも「よい医療を求める」医療生協の運動のなかにその思想がもたらされ、医療における公開と参加、患者の権利確立の課題にこたえて「組合員自身のいのちをはぐくみ、いとおしみ、そのために自らを律し」「組合員・地域住民すべてのいのちを、みんなで大切にし、支え合う、医療における民主主義と住民参加を保障する」患者の権利章典として結実・発表された経緯となっています。
 また、医療過誤訴訟にたずさわってきた弁護士など法律家や社会運動家からは「患者の権利法」制定の運動が急速に強められています。
 こうした「患者の基本的人権」を確立しようとする運動に対して、医師の一部ではあるが「患者の反乱」としか受け止められず、患者のために医師が奉仕させられる(価値観が逆転する)”革命”とさえ思い込み、恐れおののいている者もいるようです。
 たしかに「封建領主の様に支配者として患者を盲従隷属させてきた医師」にとってはそうかもしれません。
 しかし「患者の権利章典」や「患者の権利法案」は、日本の医療体制に対する人権宣言であり、本質的には医師はじめ医療技術者と患者が対等平等自主自由な協力共同の関係であることを宣言したものであって、宣言のどこにも医師はじめ医療技術者を打倒すべき圧政支配者とは表明していません。
 すでにヨ−ロッパなどにおいてブルジョア民主主義革命の時代に確立した基本的人権の思想に鑑みて、遅ればせながら日本の医療体制変革のために宣言をおこなった(本質的な立場や権利を明確にした)と理解すべきことです。
 さすがに民医連のなかには、反対を叫ぶ者はいないようですが、冷やかに無視をしたり、今より少していねいに説明をすれば良いのだろうと短絡・誤解したり、「現実はそんなわけにいくか」と感情的に反発したりの反応が一部には現われているようです。
 我々も特に注意しなければならないのは、困難な課題や任務で苦闘をつづけている場合、ややもすれば現実との関係でぶつかる現象形態に埋没させられとまどい、本質的価値を見れなくなることです。
 そして困難にたじろぎ、患者を信頼できなくなった医療従事者は、「自分が患者を信頼していない」とは云わずに、「そんなことを言っても患者に理解されない」とか「患者は自律していない」とか、個々の例をとりだしての必死の自己弁護をはじめる場合が多々生まれます。
 現象形態に埋没させられ、本質を見抜けなくなり、日本の医療民主化の歴史の発展法則を見失ったら変革者ではありません。
いま求められていることは、現実をあれこれ言いたて、解釈し、弁明することではなく変革の実践であと思います。
宣言の立場にたって、それを実践するため患者や住民と連帯して組織的に現実の様々な困難と闘うこと、診療現場では、例えばいつも診療していたのに手遅れになってから癌を発見するようなことなどがおきないように、きちんとした診療をおこなうこと、患者要求を正しく受け止めた診療に努めるなど医療内容の点検充実から改めて改善に着手することであると思います。
 本質的には「ひとりひとりの患者が主権者であり、医療従事者は疾病と闘う患者と統一戦線を構築するのだ。
我々が統一戦線の、あるいは病気と闘うチームの一員として患者から連帯を求めて選ばれるように」という立場にたって医療のありかたそのものをも再構築することが求められていることを銘記して日々の実践を積み重ねることが求められていると思います。
 一部でウォ−キングカンファレンスやIC用紙の活用などの、インフォ−ムド・コンセントを意識しての実践が開始されていますが、患者のプライバシー保障も確立させた全体的な組織的方針にまでにはなりきれていないのではないでしょうか。
 残念なことは、様々な意見や思い、認識の違いがあるであろうこうした問題への取り組みのための、医療の倫理・理念も含む「患者の権利章典全面実践」を課題とする医療生協組合員と職員合同の機関が設定されていないことであると私は思っています。

6.患者の権利を保障し要求に応える医療活動について

「医療における民主主義と住民参加を保障」し患者と医療生協(医療機関)が協力して医療活動を発展させるために確定された「患者の権利章典」」の立場にたって、積極的にこれを保障する医療活動の具体的な検討が必要と思います。
 私の係わっている、慢性疾患管理の医療活動は、まさに患者自らが闘病の主体者であり、闘病のエネルギ−をどれだけ医療機関が援助することで高め持続させられるのかが問われ、医学的にも綿密でしかも量としても大きく、個別性・法則性・総合力が求められる医療活動です。
慢性疾患医療の出発点は「病状や予後、治療方法など知りたい、学習したい」「病院(医師)の治療方針には自分の意見をとりいれてほしい」という患者の要求に応えることからはじまると思っています。
今日では様々なマスメディアをつうじて最先端の医療が紹介されたり、あるいは逆に病気の不安と絶望があおりたてられたり、あやしげな(民間)療法が喧伝されたりしています。
患者はしかし、こうしたなかで自己の受診している医療機関に対して正確な情報と最良の治療法を求めています。
医療機関がこうした要求に応えるためには、専門外来や疾病別グル−プ活動で、患者の医療要求はじめ生産点や生活点での要求の汲み上げをおこない全体的な・あるいは個別の管理に反映させる機能、教育学習や組織化などの集団的かつ自律的管理強化の機能などをもつことが決定的に重要です。
 そして患者会活動のなかで、医療の進歩や患者の問題意識に対処し、一貫して教育学習活動(個別・集団)を推進する必要があります。
患者会の組織化はこうした取組では不可欠となっていましたし、現在そうした患者会活動に停滞がみられるならば、問題点を解明し患者会活動を発展させる必要があります。
 なお、楽しくなければ患者会は発展しないという絶対命題も忘れてはなりません。
こうした学習教育活動に参加した患者からは改めて「それでは病院(主治医)は私の疾病に対してどのような治療計画を持っているのか」と個別の治療方針についての説明を求める強い要求がおきてきます。
この要求に応える「個別治療計画書」を患者に提供することは不可能ではありません。
 それは、現在2万名を超える水島協同病院の入通院患者の全員に、各個人別の「診療支援管理表」をパーソナル・コンピューターを活用して作成し、診療に活用できるようにしているからです。
 この「支援管理表」は、該当者の過去1年半の診察や多くの検査実施経過を俯瞰的に明示するとともに、疾病別の管理基準と主治医の判断をもとにした今後1年間の全身管理を含む診療(検査チェック)予定計画を表示する機能を有しています。(診療支援管理表例参照)
 このカ−ド形式の手直しをおこい、疾病や検査内容についての説明と主治医からのコメントを追加し、患者本人とその内容について話し合い、診療への要求を取入れ、医療機関と患者相互が確認した「全身チェック健康カード」とし、患者本人にも渡すならば、患者自身が主体的に医療活動に参加できることを保障するとともに、それはごく初歩的なものでありますが「診療契約書」となりうると考えています。
こうすれば診療への患者の自覚的協力はまちがいなく強まるでしょう。
 こうした点について坂総合病院の彦坂直道医師は「管理基準を作ったら、疾患管理の方針、医療のシステムなどを、患者にも分かるように書いた”治療計画書”のようなものを用意することが必要と思う。これには費用の見積りもほしい。」と民医連医療誌1992年8月号で述べています。
さらに、慢性疾患管理医療での患者手帳への検査結果の積極的記帳の教訓が示しているように、患者に診療情報を積極的に提供することで患者の学習もすすみ自己管理も意欲的になり治療管理効果も高まるなどの例からも、本人への情報提供は積極的におこなわれることが望ましく、患者の権利を保障するためには絶対に必要と思います。
 現行ドック成績書の例もありますが、当面はそれほどに内容形式を大がかりにしないで、患者手帳の検査項目プラスアルアァ程度の情報提供から開始したらよいのではないかと思っています。
 例えば、専門外来受診後に患者が「患者手帳記録機」(銀行のキャッシュコーナーの様な機械)に患者手帳をセットすると、自動的にデ−タ−が印刷されるシステムなどから始めてはどうでしょうか。
 そのほか少しこまかな点ですが、疾患別グループ活動のあり方についても管理基準の確定・評価・修正、これにかかわって疾病別慢性疾患管理活動の評価と方針提起、さらに患者教育(個別教育と集団教育)、患者会活動の支援などを任務とすべきと考えています。
また現在は一部の疾病別グル−プでしかおこなえていない疾病管理基準のグレ−ディング設定はじめ、入院精査管理基準、入院教育基準なども整備が必要と考えられます。
 さらに、直接診療にあたっている患者集団にとどまらずに、該当する疾病の患者集団にどのように慢性疾患管理が実践されたのか、管理基準に照らして医療管理活動評価をおこない、医師団をはじめ診療活動に反映させ慢性疾患管理の医療管理レベルを充実向上させてゆく極めて重大な任務があると考えられます。
 このようにしてはじめて「担当する医師がだれであっても、一定のところまでは当院が有するその分野での最高の医療レベルを確実に保障」できるのではないでしょうか。

7.おわりに


 本文をかきながら、かなり荒削りな、ところによっては随筆の様な文章になったと思っています。
 私自身の力不足で論究できなかったこと、もう少し細かな点まで考えていることなどについて機会があったらまた書いてみたいと思っています。
 こうした「権利宣言」問題は、例えば原子力開発では、「自主・民主・公開」という、アメリカ帝国主義の核兵器による世界支配に協力加担しないための3原則をめぐって常に鋭い対決がくりかえされているように、支配被支配の関係を打ち破り民主主義を確立しようとするなかで、歴史の正面に登場する問題です。
 原子力に係わる研究や学問・技術は、(医学と同じ様に・それ以上に)その専門性からもまたその原子力エネルギ−の危険性からしても、それに従事している科学者以外には正確な理解はしがたいものと思われます。
 しかし、原子力関係の学問・技術を一部の特権支配階級の占有物にしないためのこの原則を擁護し発展させることなしには、我々に平和が保障されない内容となっています。
 科学技術(医学も当然含まれます)はすべて一部独占的支配階級のものであってはならないし、民主化のたたかい抜きには正しい発展は保障されないものだろうと思います。

 以上の本文は、患者の権利を守り、末期医療のみでなく慢性疾患医療も含む全ての医療でインフォ−ムド・コンセントなしでは医療活動が推進できない時代になっていることを全職員の認識にする必要があると考え、十分こなしきれていない点を残したままで書いてみました。
                                                                1995年1月25日

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