鬼ノ城の地勢と歴史の概要


 鬼ノ城は、標高400mの吉備高原の南縁に築かれている古代朝鮮式山城である。
 城内面積29万Kuの広大な面積を占め、眼下には古代吉備の中枢地域であった総社平野や足守川中流域の平野部を望み、吉備の津も指呼の間にある。
 今日では吉備路と呼ばれるこの平野部には、5世紀前半に築かれた造山古墳(全長約360m・全国第4位)や、5世紀中期の作山古墳(全長約286m・全国第9位)はじめ、多くの古墳が築かれている。
 快晴日には、児島半島から遠く四国の山並みも望見される眺望絶景の地に立地している。
 古代吉備の聖地であった吉備の中山から、児島半島の間が、弥生時代も海であり、吉備の穴海と呼ばれた。
 この穴海から吉備の中心部への航路が鬼の城の南東面のま正面となり、ここに登ってみると城の戦略的重要性が認識できます。
 城の南東面の足下一帯が、阿曽地区(温羅の妻、阿曽姫の出身地)である。
 
              
              城塞より東南東方面(足守〜阿曽地区)を展望

 城はおよそ1300年ほど前に築かれたとこれまでは考えられていた。
当時朝鮮半島に出兵していた日本は、663年の白村江の海戦で唐と新羅の連合軍に大敗北をきたした。
 唐の日本侵攻をおそれる大和朝廷は、北九州から瀬戸内さらに生駒山に至る西日本各地に、いわゆる朝鮮式山城の構築をおこなうなど、防衛体制強化をはかった、とされています。
神龍石式山城も含めると20ケ所以上の城跡が残されている。
こうした防衛のための山城については「日本書紀」などに記録が記載されている。
 ところが、鬼ノ城についてはこうした記録が発見されておらず、いつ頃から・だれが・どの様に・何のために築城したのか、ロマンと謎を秘めている。
 ひょっとすると3世紀中ころに「温羅」によって築城が開始されたのかもしれない・・・・。


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