不思議の国のアリスのようだ――それが、我輩の、彼女に対する印象だった。 『不思議の国のアリス』の話をまともに読んだことはなかったし、絵を見たこともなかった。 けれど、彼女には「アリス」という呼び名がぴったりだと、思った。 腰に届きそうな、長い黒髪。抜けるような、白い肌。 睫毛の長い、大きな瞳と、薄い、花弁のような唇で、愉しそうに微笑う。 私立の学校のものであろうか、可愛らしい制服に身を包んだその姿は、 何処か違う世界からひょっこり現われたような、そんな印象を我輩に与えた。 その日、午后になって、彼女は我輩の処へやって来た。 「先生、こんにちは。」 「ああ、調子はどうだ、何か、変わったことは、」 「ありません。最近ずっと、気分が良いんです。」 彼女は、にこにこしながらそう云った。 「そうか、それは良かった。」 そう云いながら、我輩はカルテにペンを走らせる。 此処は、大病院の一角で、我輩は精神科の医師で、彼女 ―― は、患者だった。 半年前、蒼白な貌で、この診察室にやって来た時と比べると、今は随分、恢復したように見える。 何より、よく微笑う様になった。 最初の頃は、話しかけても、唯、頷くだけで、その瞳は何処を見ているのか、常に虚ろだった。 それが、少しずつ、少しずつ、我輩の顔を見るようになって、口を利く様になって、 今では、病院に通う必要などないのではないかと思わせる程、明るくなった。 我輩はとても、嬉しかった。 「学校へ、ちゃんと行って居るのだな。」 彼女の学校の夏の制服は、白い半袖のシャツに紺を基調としたチェック模様の襟、 胸元には大き目の紺のリボン、そして襟と同じチェック模様のスカート・・・ 全体的に基調となる紺色が、とても涼しげに見せていた。 「・・・どうして、判るんですか、」 「何、」 「私が、ちゃんと学校へ行って居るって、どうして判るんですか、」 の顔から笑みが消えて、大きな黒い瞳で私の顔を見上げて訊いた。 「・・・制服を着て居るではないか。」 「制服を着て居たって、行ってないかもしれないじゃないですか。」 は時々、こうして問答を吹っかけて来る。 冗談なのか、本気なのか、こちらの予想しない様な問いを投げかけて来るので、少し面食らってしまう。 「・・・どうして、」 「こうやって、先生を騙すため、とか。」 「・・・・行って居ないのか、」 「さあ・・・例えば、の話です。」 ふっ、とは微笑って云った。まるで、悪戯をする子どもの様だ、と思う。 子どもの様に微笑いながら、人を煙に巻こうとするから、少々厄介なのだ。 「そのように、大人をからかうものではない。」 「からかってなんか、」 「では、何だと云うのだ、」 「先生、私のこと心配するでしょう、それが、嬉しいんです。」 今度は、屈託のない笑顔でそんなことを云う。 そんな彼女を仕様のない、と思いながらも、いとおしく思ってしまう自分に気が付き、我輩は苦笑した。 ひととおり診察を終えて、が椅子を立って帰ろうとした時、 我輩は、ふと気に掛かって居たことを訊いた。 「まだ、夢を見るのか、」 彼女は、一瞬ビクっとしたように見えた。 が、すぐに微笑って、静かに答えた。 「・・・はい、見ます・・・回数は、だいぶ減りましたけど。」 「どんな・・・前と同じ夢を、」 「そう・・・黒い、何か恐ろしいものが追いかけてきて、逃げるんだけど、どんどん迫って来て、」 「・・・飲み込まれる、」 「はい。」 これも、の症状のひとつだった。 悪夢に魘されては、叫び声で目を覚ます。 初めて此処へ来た頃は、それが毎晩だったという。 最近は夢のことを口にしなくなって居たので、治まったのだと思って居たが、 まだ、見ると聞いて、我輩は眉宇を顰めた。 「何故、云わない、」 「・・・だって、減ったから。」 「でも、見るのであろう、厭な夢を。」 「でも、どんな時に見なくなるか、判ったんです。」 「本当か、」 「はい。」 これは、大きな進歩だった。 意外なその返事に、我輩は、幾分驚きながら訊き返した。 「どうしたら、見なくなる、」 「・・・・・云っても、良いんですか、」 「当り前だろう、」 「・・・先生、困ると思いますよ。」 「そんなことはない。云ってくれた方が、余程助かる。」 また、問答を始める積りだろうか、と少し不安になったが、 は、少し首を傾げて考えるようなそぶりを見せてから、ゆっくりと口を開いた。 「・・・先生に、逢えた日は、夢を見ないんです。」 「――何、」 「きっと私、先生のこと、大好きなんですよ。」 何でもないことのようにそう云って、はまた愉しそうに微笑った。 またしても予想外の答えに、我輩は咄嗟に言葉が出て来なかった。 「ほら、やっぱり、先生困ったでしょう、」 「いや――、そんなことはないが、」 「じゃあ、私、帰りますね。」 「っ、待ちなさい、まだ――、」 「また来週、来ます。有難うございました。」 そう云って、引き止める間もなく、彼女は診察室を出て行った。 残された我輩は、暫く呆然としていたが、ふと、我に返り、 ああ、また彼女に翻弄されてしまったのだ、と気付いて、苦笑した。 窓から入って来る初夏の風が、心地良く、頬を撫でて行った。 【back】 |