いつも、彼はそこに立っている。 後ろで手を組んで、窓の外を眺めている。 いつもそうやって、何を考えているの? 私が部屋に入ると、ゆっくり振り向いて、ほんの少し口許だけで笑って。 「・・・時間通りだな・・・・」 「はい・・・・。よろしくお願いします。」 「・・・始めるか。」 そう言って、大きなピアノの蓋を開ける。 真っ黒な、深い艶のあるスタインウェイのグランドピアノ。 私なんかが弾きこなせる代物じゃないんだけど。 いつもここで、彼と一緒に私を迎えてくれる。 ここでピアノを習うようになって3ヶ月。 以前は両親から教えてもらっていたのだけれど、仕事が忙しくて時間がなくなったという理由で、 父の旧い友人だという、彼、ルシウス・マルフォイ氏に教えてもらうことになった。 といっても、マルフォイ氏は別にピアノの教師をしている訳ではない。 けれど、そこらのピアノ教師より余程腕が立つのだと父から聞かされた。 彼だって決して暇ではなく、仕事であちこち駆け回っているというのに、 昔からの友人の頼みだから、と、引き受けてくれたのだ。 でも父は、人選を間違った。 彼は、綺麗すぎる。 プラチナに輝く長いブロンド、どこか冷ややかな、しかし美しいブルーの瞳。 その容姿と圧倒的な存在感と威圧感。 そして一挙手一投足にわたるまでの、隙のない動き。 譜面をなぞる指、目を伏せる仕草、 全てが綺麗すぎて、心を奪われる。レッスンどころではない。 その緊張は、いつまで経っても、全く消えることはなくて。 「・・・この間渡した曲は、どこまで練習した?」 背後からその低い声が響き、ドキっとする。 「あ・・・えっと・・・・一応、通して弾けるようには、なりました・・・。」 「ふん・・・ではとりあえず、最初から弾いてみろ。」 「はい・・・・。」 マルフォイ氏に、あの瞳に、後ろから見下ろされている状態で弾くなんて。 これでもかというくらい緊張する。 どうか、音を外しませんように・・・・。 そう、心の中で祈りながら、頭の中は真っ白で。 弾けているのかどうか、自分でも分からない。 「・・・もっとdoslceを意識して・・・」 更に声が降ってくる。 そんなこと言われたって・・・と思いつつも、必死で言われた通りに直す。 「・・・・そう・・・もっとだ・・・・そう・・・・・」 静かに、頷く気配を感じて、少し嬉しくなる。 「・・・そこはcantabile・・・・そうだ・・・・もっと歌って・・・・」 彼の声を聞きながら、ただただ夢中で指を動かす。 徐々に、頭が曲に集中してきたのか、初めの緊張は薄れてくる。 そして、彼が手元の譜面に視線を落としながら、時々発するその静かな声は、 次第に心地よく感じられるようになって。 「・・・・初めの辺りは自信なさげだったが、それなりに弾けてはいるようだな・・・。」 私が弾き終わると、彼はそう言って譜面から顔を上げる。 「2ページ目の14小節目・・・graziosoの意味は分かるか?」 「はい・・・・えっと・・・“優美に”・・・?」 「そうだ・・・・ここはそれをもっと表すように・・・」 「っ?!」 突然、彼が私の後ろから腕を回して、手本を弾いて見せる。 耳元で彼の呼吸づかいを感じて、心臓が早鐘のように打ち始める。 折角弾いてくれているのに、全然耳に入らない。 「・・・・分かったか?」 「・・・はい・・・・。」 絶対今、私の顔は真っ赤だ。 「では、弾いてみろ。」 指が震えて思うように弾けない。 「どうした?・・・落ち着いて弾けばいい・・・。」 「はい・・・。」 落ち着こうとしても、指が言うことを聞かない。 何て罪な人だろうと、彼の顔を見上げて思う。 「・・・仕方ない・・・ここは次までの課題だ。練習しておけ。」 小さく溜息をついてそう言われると、情けない気持ちで一杯になる。 どうしてこんな恋をしてしまったんだろう。 こんな、不毛な恋。 叶うはずもないのに、一人で勝手に振り回されて。 ほんの些細なことで、こんなに心を乱されて。 そんな自分が、情けなくて嫌になる。 「・・・・?」 「っ!・・・はい・・・」 突然名前を呼ばれて、思わず間抜けな声で返事をしてしまう。 「上の空だな・・・調子でも悪いのか?」 「や・・・そんなことは・・・ないです・・・すみません・・・・。」 「・・・・・・今日はもう・・・終わりにするか・・・。」 「えっ?!・・・でも・・・まだ・・・・あの、ちゃんと弾きますから・・・・」 怒らせてしまったのだろうか。 折角忙しい中、時間を割いて教えてくれているのに、私が集中しないから・・・ 「・・・いや、今日のレッスンは終わりだ。」 「っ先生、ごめんなさい、わたし・・・・っ」 「。」 「・・・はい・・・?」 「今日は・・・君の誕生日ではないのか?」 「え・・・・あっ!・・・忘れてました・・・え、でも、どうして・・・・」 「君の父君から聞いた。自分は仕事で家に帰れないから、祝ってやってくれ・・・とな。 まったく、つくづく勝手な親だ・・・。」 そう言って、彼は苦笑する。 自分の知らないところでそんな会話が交わされていたなんて、 少し恥ずかしいような、でも、嬉しいような、変な気持ちだ。 「・・・祝えと言われても、昨日聞いたもので、特別なことはできないが・・・ 何か聞きたい曲があれば、弾いてやろう。・・・私のピアノでよければな。」 「・・・・え!・・・い、いいんですかっ?!」 「ああ。大した祝いにもならないが・・・」 「そんな・・・・っ・・・勿体無いくらいです、先生にピアノ弾いてもらえるなんて・・・っ!!」 思わず立ち上がって、あからさまに喜んでしまう。 「・・・そうか・・・では、何がいい?」 そんな私を見て、また苦笑しながら彼が訊く。 「えーと・・・じゃあ・・・・先生の、好きな曲!」 「・・・なんだ、いいのか?それで・・・・。」 「はい!その方が、嬉しいです・・・っ!」 「そうか・・・」 そう言って、椅子に座り、鍵盤にその長く、美しい指を載せる。 彼の表情が一瞬、止まる。 周りの空気が、張り詰める。 そして、次の瞬間。 ピアノが、歌い出す。 そして私は、思い知らされる。 不毛でもいい。この人に恋できるなら。 本気で好きになったのも、彼のピアノを聴いた時。 こんなに心を揺さぶるピアノを、私は他に知らない。 その指先から紡がれる音は、緻密で、だけど情熱的で。 釘付けになる。 その音に、巻き込まれる。 彼の動くのに合わせて、揺れるその長い髪。 涙が出そうになるのを我慢する。 不毛でも、情けなくても、好きにならずにいられない。 いつか、この想い伝えたら、彼を困らせてしまうだろうか。 今はただ、この音に耳を傾ける。 今だけは、私のために、歌い続ける、この音色に ――― 【back】 |