■ ノクターン ■


----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

それは、ある春の夕暮れ時。
ルシウスは、足早に雑踏の中を通り抜けてゆく。
本人に自覚はないのかもしれないが、目的地を目指す彼の足取りは、明らかに、先を急ぐ者のそれだった。
歩みを進める度、彼の豪奢なローブが風に靡く。
そしてその豊かな銀の髪は、夕日を受けて、何とも形容し難い美しい色に輝いた。





彼は家路を急いでいるのか。
否。その目指す先にあるものは―――そこに、居る者は、ルシウスが愛し、何よりも大切に想う者。
ルシウスはこれまで、何一つ不自由のない、望むものは全て手に入れる事のできる世界で、生きて来た。
それが原因なのか、彼は自分を取り囲む物や人に対し、ことさら淡白な感情しか持ち合わせて来なかった。





けれど、ある時、そんな彼の感情を覆す、一人の人間が現れた。
ルシウスは、彼女をただただ、いとおしいと思った。
彼の人生で初めて、心を傾けて、慈しむ相手に巡り合ったのだ。
そして彼女もまた、ルシウスを心から慕っていた。
ほんの小さな出会いだったけれど、二人にとっては、確かに、それは奇跡と呼べるものだった。





しかし、その奇跡が起こるのは、少し遅かった。
ルシウスは既に妻帯者となり、10歳を越える子も設けていた。
彼女は、愛人、という立場に立たざるを得なくなった。
罪悪を犯してまでも、二人一緒に居たかった。
居なければ、いけなかった。





街の中で、ひときわ高くそびえ立ち、その存在感を示す、純白の建物があった。
夕日を浴びてオレンジに染まるそのビルディングの最上階の、ある一つの部屋の窓辺に、一人の少女が立って居た。
年齢は、17、8ほどだろうか。整った面立ちで、やや愁いを帯びた表情が、その美しさを強調させている。
名は、と言った。





彼女は今、恋人からあてがわれたスイートルームで、その来るのを待っているところだった。
好きになってはいけないと、何度も自分に言い聞かせたのに、次第に惹かれてゆく心を制御することは叶わず、
気が付けば、大きな罪を犯していた。
けれどもう、引き返すことはできなかった。
自ら、彼の手を離し、彼の前から去ることは、にはできなかった。
罪悪感より何より、その人を想う気持ちが彼女の心を埋めつくしていた。





「……ルシウス」





は、愛しい人の名を口にした。
ただそれだけで、涙が零れそうになる。
こんなに愛していなければ、失くしてしまっても、すぐ忘れられる程度の想いだったなら……
その方が、ずっとずっと楽だったのに。
それなのに、どうして、私は――――





「、」





突然、背後から強く抱き締められて、耳許で、名前を呼ばれた。
それは紛れもなく、待ちわびていた、その人の声。
甘く低く、身体じゅうに響く。
がこの世で一番好きな、愛しい、愛しい、ルシウスの声。





「……待ったか?」
「ううん……平気。」
「逢いたかった。」
「……私も。」





ルシウスの甘い薫りに包まれて、は目眩を起こしそうになる。
後ろから回された彼の腕を抱くと、ルシウスはの体を自分の方へ向き直らせ、身を屈めて口付けを交わした。
会えなかった時間を取り戻そうとするかのような、深く、長いキス。
その瞬間、罪悪感など意識の彼方へ葬り去られる。
けれど決して、この時間が永遠に手に入ることなど、有り得ない。
切なさと、悲しさと、愛しさの入り交じった、キスだった。





「……」
「何?」
「お前は、今の関係に、満足しているか?」





不意に、唇を離すと、ルシウスが訊いた。
いきなりそんなことを訊かれ、は一瞬、その問いの意味を理解できなかった。
そしてルシウスが何を言っているのかに思い至ると、今度は、何と答えていいのか困惑せざるを得なかった。





「……どうして、急に……そんなこと訊くの?」
「………」
「……?」





は不安そうな瞳でルシウスの顔を見上げた。
何故、彼は突然そんなことを言い出すのか。

は黙ってルシウスを見つめたまま、彼の口から紡がれる次の言葉を待った。
その言葉が、もし、彼女の最も恐れる、彼女を闇の底へと引きずり下ろす、「別れ」の二文字だったとしたら……
の胸を不安と、痛みがよぎった。
しかし、幸いと言うべきか、次にルシウスが口にした言葉は、彼女の案ずるようなものではなかった。





「……私は、不安で仕様がない。」
「……不安?」
「……いつか、いつかお前が、私の元を離れてしまう日が来るのかと思うと……不安を、感じぬ時はない。」





何と言う、我儘であろう。
自分でも、気持ちをコントロールできないほど、この親娘ほども年の離れたを、愛してしまった。
自分は既に家庭を持っていながら、が他の男を想うなど、到底許す事は出来ない。
離したくない、どこにも行かせたくない、私だけの、ものに――――





ルシウスの蒼い瞳には、痛々しいほどの哀しさが湛えられていた。
は、先ほどよりもさらに深い痛みを、胸に感じた。
出来ることなら、今がずっと続いて欲しい。私だって、どこにも行きたくない。
けれど、それは、どんなに望んでも、願っても、もう、叶わぬ想い。
いつになるかは分からないけれど、それでも必ず訪れる、終わりの時。
愛しく想えば想うほど、その痛みはついて回る。
それは決して、消えることは、ない。





は、黙って、ルシウスを、強く、強く抱き締めた。
ルシウスも、それ以上何も言わず、の髪を、いとおしげに、優しく撫でた。
息が止まるくらい、哀しくて、切なくて、幸せな時――――





窓から見える空には、いつの間にか、月が架かっていた。


(2004.4.20)






【back】