それは、ある春の夕暮れ時。 ルシウスは、足早に雑踏の中を通り抜けてゆく。 本人に自覚はないのかもしれないが、目的地を目指す彼の足取りは、明らかに、先を急ぐ者のそれだった。 歩みを進める度、彼の豪奢なローブが風に靡く。 そしてその豊かな銀の髪は、夕日を受けて、何とも形容し難い美しい色に輝いた。 彼は家路を急いでいるのか。 否。その目指す先にあるものは―――そこに、居る者は、ルシウスが愛し、何よりも大切に想う者。 ルシウスはこれまで、何一つ不自由のない、望むものは全て手に入れる事のできる世界で、生きて来た。 それが原因なのか、彼は自分を取り囲む物や人に対し、ことさら淡白な感情しか持ち合わせて来なかった。 けれど、ある時、そんな彼の感情を覆す、一人の人間が現れた。 ルシウスは、彼女をただただ、いとおしいと思った。 彼の人生で初めて、心を傾けて、慈しむ相手に巡り合ったのだ。 そして彼女もまた、ルシウスを心から慕っていた。 ほんの小さな出会いだったけれど、二人にとっては、確かに、それは奇跡と呼べるものだった。 しかし、その奇跡が起こるのは、少し遅かった。 ルシウスは既に妻帯者となり、10歳を越える子も設けていた。 彼女は、愛人、という立場に立たざるを得なくなった。 罪悪を犯してまでも、二人一緒に居たかった。 居なければ、いけなかった。 街の中で、ひときわ高くそびえ立ち、その存在感を示す、純白の建物があった。 夕日を浴びてオレンジに染まるそのビルディングの最上階の、ある一つの部屋の窓辺に、一人の少女が立って居た。 年齢は、17、8ほどだろうか。整った面立ちで、やや愁いを帯びた表情が、その美しさを強調させている。 名は、と言った。 彼女は今、恋人からあてがわれたスイートルームで、その来るのを待っているところだった。 好きになってはいけないと、何度も自分に言い聞かせたのに、次第に惹かれてゆく心を制御することは叶わず、 気が付けば、大きな罪を犯していた。 けれどもう、引き返すことはできなかった。 自ら、彼の手を離し、彼の前から去ることは、にはできなかった。 罪悪感より何より、その人を想う気持ちが彼女の心を埋めつくしていた。 「……ルシウス」 は、愛しい人の名を口にした。 ただそれだけで、涙が零れそうになる。 こんなに愛していなければ、失くしてしまっても、すぐ忘れられる程度の想いだったなら…… その方が、ずっとずっと楽だったのに。 それなのに、どうして、私は―――― 「、」 突然、背後から強く抱き締められて、耳許で、名前を呼ばれた。 それは紛れもなく、待ちわびていた、その人の声。 甘く低く、身体じゅうに響く。 がこの世で一番好きな、愛しい、愛しい、ルシウスの声。 「……待ったか?」 「ううん……平気。」 「逢いたかった。」 「……私も。」 ルシウスの甘い薫りに包まれて、は目眩を起こしそうになる。 後ろから回された彼の腕を抱くと、ルシウスはの体を自分の方へ向き直らせ、身を屈めて口付けを交わした。 会えなかった時間を取り戻そうとするかのような、深く、長いキス。 その瞬間、罪悪感など意識の彼方へ葬り去られる。 けれど決して、この時間が永遠に手に入ることなど、有り得ない。 切なさと、悲しさと、愛しさの入り交じった、キスだった。 「……」 「何?」 「お前は、今の関係に、満足しているか?」 不意に、唇を離すと、ルシウスが訊いた。 いきなりそんなことを訊かれ、は一瞬、その問いの意味を理解できなかった。 そしてルシウスが何を言っているのかに思い至ると、今度は、何と答えていいのか困惑せざるを得なかった。 「……どうして、急に……そんなこと訊くの?」 「………」 「……?」 は不安そうな瞳でルシウスの顔を見上げた。 何故、彼は突然そんなことを言い出すのか。 は黙ってルシウスを見つめたまま、彼の口から紡がれる次の言葉を待った。 その言葉が、もし、彼女の最も恐れる、彼女を闇の底へと引きずり下ろす、「別れ」の二文字だったとしたら…… の胸を不安と、痛みがよぎった。 しかし、幸いと言うべきか、次にルシウスが口にした言葉は、彼女の案ずるようなものではなかった。 「……私は、不安で仕様がない。」 「……不安?」 「……いつか、いつかお前が、私の元を離れてしまう日が来るのかと思うと……不安を、感じぬ時はない。」 何と言う、我儘であろう。 自分でも、気持ちをコントロールできないほど、この親娘ほども年の離れたを、愛してしまった。 自分は既に家庭を持っていながら、が他の男を想うなど、到底許す事は出来ない。 離したくない、どこにも行かせたくない、私だけの、ものに―――― ルシウスの蒼い瞳には、痛々しいほどの哀しさが湛えられていた。 は、先ほどよりもさらに深い痛みを、胸に感じた。 出来ることなら、今がずっと続いて欲しい。私だって、どこにも行きたくない。 けれど、それは、どんなに望んでも、願っても、もう、叶わぬ想い。 いつになるかは分からないけれど、それでも必ず訪れる、終わりの時。 愛しく想えば想うほど、その痛みはついて回る。 それは決して、消えることは、ない。 は、黙って、ルシウスを、強く、強く抱き締めた。 ルシウスも、それ以上何も言わず、の髪を、いとおしげに、優しく撫でた。 息が止まるくらい、哀しくて、切なくて、幸せな時―――― 窓から見える空には、いつの間にか、月が架かっていた。 (2004.4.20)
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