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One Love
魔法学校の地下室、魔法薬学研究室。地上からの光を取り込む窓は天井近くに一つだけ。それでもあまり陽の光は差し込まず、昼間でも常に薄暗いため、幾つかのランプで明かりをとっている。折しも今は夜とあって、部屋はなお一層暗く、オレンジ色のランプの灯が仄暗く辺りを照らしていた。 地下室ということも手伝って、空気はひんやりとして、そして少し湿っている。薄暗くて薬品の臭いがそこはかとなく立ち篭め、部屋の四方を囲む大きな棚を見回せば様々な薬瓶や、グロテスクなホルマリン漬けの瓶が並ぶ。あまり、気味の良い部屋ではない。しかしそれは、この部屋の主の好みらしかった。 しかしその主は、ここ数日、不在である。いつも彼が使用する大きな仕事机はその数日間、その役目を果たす事なく、ただひっそりと重々しく、部屋の奥に鎮座していた。 ただ、主不在のこの陰気な地下室に、その留守を守るように、足繁く通ってくる人間が、一人居た。一日の大半は、この部屋で過ごす。机の上に溜まってゆく大量の羊皮紙を、片付ける。生徒が持ち込んでくる課題を、採点する。それだけでも、気付けば一日が終わっている。この部屋の主が普段、どれだけの量の仕事をこなしているのか、知っているつもりではいたが、改めて、実感する。 彼女───は、この部屋の主、魔法薬学教授セブルス・スネイプの助手である。スネイプより齢は10ほど若いが、無駄口を叩かず、与えられた仕事を淡々とこなし、その能率も良いため、有能な助手として、珍しくスネイプは彼女を側に置いて重用している。今回のように、留守を彼女に預けてどこかへ出張するということも時折あった。本来、仕事を他人に任せるということはあまり好まないスネイプであるが、それだけを信頼しているということが窺い知れた。 しかし、この度は、どうもいつもとは様子が違っていた。スネイプは、行き先も、何時戻る、という予定も何もに知らせず、「数日、留守にするので、よろしく頼む」と簡単な書き置きを残して何処かへ出掛けてしまった。こんなことは初めてだった。几帳面なスネイプは、留守にする時は、その用件と行き先、期間、そしてその間やっておいて欲しい事柄を事細かにに説明するのが常であった。前例のない事態に、は困惑していた。しかも、スネイプが研究室を空けて既に5日が経とうとしていた。 は、当然、心穏やかで居られようはずがない。もちろん、表面上は何でもない風を装って仕事をこなし、魔法薬学の授業もいくつか代行している。けれど、心中ではやはり、スネイプのことが気になっていた。ダンブルドア校長に訊ねれば、スネイプが今どこで何をしているか当然知っているとは思うが、そのようなことも告げてもらえない使えない助手であるなどと思われるのも何となく嫌で、校長に訊くこともできずにいた。 が平常心でいられない理由は、また別の所にもあった。───墓参りの一件である。 スネイプは、の誕生日を、憶えてくれていた。そして、触れるか触れないかではあったが、確かに、の唇に、スネイプはそっと口づけた。 スネイプのその行動を、は計りかねていた。あの場では、泣いていて、気持ちも高ぶっていて、何が起こったのか今一つ理解できずに、そのまま黙って帰ってきた。部屋に戻って、起こった事を冷静に振り返ってみて、初めて、心臓が、大きく跳ねた。 あれは、何だったのか。どういう意図で、スネイプはあんなことをしたのだろうか。 同情?愛情?それとも? しかしその口付けはあまりに優しくて、思い返す度にの胸を締め付けた。 そんなことをされたら、外れてしまう。心の“たが”が。ずっと、必死で押し殺してきた、スネイプへの思慕の情が、止まらなくなってしまう。あの人はそれを、知っているのだろうか? 翌日、どのような顔でスネイプに会えばよいのか、答えの出ないまま、研究室の重い扉を開けた。すると、もうそこにスネイプの姿はなく、短いメモが残されていた。 肩透かしを食らったとはこういうことなのだろう。は全身の力が抜けて、ソファにへたり込んだ。 あれから、5日、である。スネイプはまだ帰らない。ふくろう便のひとつも飛んでこない。あれこれと、考えても仕様のない事を、考えて考えて、の心はもうくたくただった。 ふと、地下室の廊下をこの部屋へ向かって歩いてくる足音が聞こえた。書類の山に埋もれてテーブルに突っ伏していたははっと顔を上げた。 (もしかして、先生が帰って来られた───?) 足音は、部屋の前で止まる。は思わず呼吸をするのも忘れるくらい、緊張しながら、立ち上がってドアに近付いた。「コン、コン」と、ドアをノックする音が響いた。もしスネイプが戻ってきたのなら、自分の研究室に入るのにいちいちノックなどしないはずだが、その時のにはそのような事を判断する冷静さは残っていなかった。知らず知らず、力の籠る手で、把手を握り、ドアを開いた。 しかし、そこに立っていたのは、あまりにもの期待していた人物とは程遠く、赤と黄色の縞のネクタイを締めた、一人の男子生徒だった。顔は見覚えがあるが、名前は咄嗟に出てこない。 は軽く溜め息を吐き、期待してしまった己に呆れた。 「……こんな時間に、何の用かしら?もうすぐ消灯時間じゃないの?」 は、表情を動かさず、やや冷たい声で、目の前の、自分よりまだ少し背の低い少年を見下ろした。 「あの、これ……課題、遅れてしまったんですけど……あの…」 おずおずと少年が差し出したのはくたびれた羊皮紙の束。どうやら提出期限の過ぎた課題であるらしい。 「それをこんな時間に提出しに?」 「はい、あの、どうしても、難しくて、できなくて、今までかかってしまって…ごめんなさい」 本当に今までこの課題に悪戦苦闘していたのであろう。小さく震えながらそれを差し出すその生徒の指は、インクで真っ黒に汚れていた。 はまた、溜め息を吐いた。 「提出期限を守るなんていう最低限のことは、入学した時に習わなかったかしら?」 「はい…あの…本当に、ごめんなさい。次からは、きちんと提出します……だから……」 少年は泣き出しそうな顔で、語尾はもう消えかかっていた。おそらく、真面目な生徒なのだろう。スネイプの与える課題はいつも難易度が高く、真面目な生徒でもかなり時間がかかってしまうことはもよく知っていた。 スネイプなら、ここで有無を言わさず突き返す所だが…… 「…分かりました。一応、受け取りましょう。だけど提出したことになるかどうかは、スネイプ教授がお帰りになってから相談します。いいですね?」 やや冷たい語調で言いながら、は生徒から羊皮紙の束を受け取った。こんな時間にこの地下室まで来るのもためらわれたであろう、気弱そうなグリフィンドールの男子生徒は、「ありがとうございました!」と礼を言うと、小走りに、暗い廊下を駆けて行った。 ドアを閉めて、受け取ったレポートをぱらぱらと捲りながら、は途方に暮れるような心持ちになった。今夜も、もう帰ってこないのだろうか。こんなタイミングで、どうしたらいいか分からないまま放置されるのは、もうそろそろ限界だ、と、視界がぼんやり滲んだ。 その時だった。 「それは、いつのレポートだ?とうに期限が過ぎた物に見えるが、」 背後から、聞き慣れた、深く響く声。が反射的に振り返ると、そこには、誰よりも待ちわびていた、その人が立っていた。 「ふん…グリフィンドールの生徒か。期限を過ぎた上に、我輩の居らぬ間に助手に渡して逃げるなどと……相応の罰則を覚悟しておくがいい」 立ち尽くして、何も言えずにいるの手から羊皮紙をさっと取り上げると、スネイプはその内容に目を通しながら、独り言なのか、に向かって言っているのか分からないようなことをぶつぶつ呟いた。 その仕草も口調も、何ら普段と変わらない。いつも通りのスネイプが、そこに居た。 「───スネイプ先生っっ!!!」 何事もなかったかのようにふるまうスネイプに、は自分でも驚くくらい、声を荒げた。いつにない様子のに、スネイプは、少し驚いたように、彼女を見つめた。 「先生っ、今まで、一体どこにいらっしゃったんですか?どうして、何の連絡も下さらなかったんですか?…どうして……っ」 勢いに任せてそこまで言って、言葉にならなくなった。必死に堪えようとしたが、涙は勝手に溢れてきた。 「……何故、そのように、泣く?」 スネイプは、溜め息を一つ吐き、落ち着いた声で訊ねた。 「………」 「……、」 名前を呼んで、スネイプはしばし、続きを躊躇うように呼吸を置いた。 しかし数秒の逡巡の後、何か決心したように、再び口を開いた。 「……我輩の事が、好きか?」 「………っ!」 予想だにしていなかったスネイプの言葉に、は激しく動揺した。 やはり、気付かれていた?「好きだ」と答えたなら、スネイプは何と答えるのだろうか?突き放されて、しまうだろうか?───様々な思いが一瞬のうちに頭を駆け巡る。 「……わたしは……っ」 「我輩は、お前が、愛しい。誰よりも……愛しく、思う」 の言葉を遮って、少し辛そうな表情でスネイプは告げ、泣いている彼女の頬を、そっと指で拭った。は、あまりに突然のその言葉に、目を見開いて、スネイプを見上げた。何も、言葉を発する事ができなかった。スネイプはそんなを見て、苦笑いを一つ落とした。 「このように、泣かれるとは、思っていなかった。……すまない」 「……なにが…「すまない」なんですか…?」 依然、涙を零しながら、やっとのことで、はスネイプを見上げて、訊き返した。スネイプは苦笑を浮かべたまま、答える。 「お前の、母親の墓前で、不謹慎な真似をした。まず、そのことと、それから───我輩は、逃げた。そのことだ」 「……逃げた…?」 「わざわざ用事を作って出掛けた。行かなければ行かないでもいいような仕事だった。……そのまま、数日おいて、帰った時、お前がどのような顔で我輩を迎えるのか───もし、何事もなかったように迎えられれば、我輩は、この気持ちを、忘れようと思った」 「…そんな…っ」 「、我輩はそういう、狡く、矮小な人間だ。すぐにお前の顔を見るのが恐かった。そういう、臆病な人間なのだよ」 スネイプが自嘲するように言うのを聞きながら、は、再び溢れる涙を抑えられなかった。 怒るべきなのかもしれない。そんな、試すような真似をして、人を何だと思っているのか、と。けれど、苦しそうなスネイプの瞳を見ると、とてもそんな気にはなれなかった。 は、思い出していた。あの、悲しい程に優しい、優しい口付けを。 「先生……さっきの、質問に、答えていいですか…?」 「………」 スネイプは表情を変えないまま、少し、目を細めた。深い黒の瞳が、微かに揺れた。 「私は…、スネイプ先生が、とても、好きです。……こうして、側に居られることが、本当に、幸せです」 泣きながら、途切れ途切れに、は思いを伝える。 「狡くたって、構いません。先生が、どんな人でも、私は、先生が、好きです。……でも、先生は、矮小な人なんかじゃ、ないです。…優しいです……先生は、優しいです」 やっとそう言って、は笑った。その目は涙で濡れていたけれど、スネイプを見上げて、とても嬉しそうに、微笑った。 スネイプは、黙ったまま、ゆっくりと、を抱き締めた。そうして愛おしげに、壊れ物でも扱うかのようにそっと、優しくその背を撫でた。 「すまない…」 を抱いたままスネイプはまたぽつりと呟いた。それが何の謝罪なのか分からず、スネイプの腕の中では小さく首を横に振った。何故だかとても、胸の擦り切れるような痛みを感じた。 息の止まるような幸せと、同時に込み上げるこの悲しさは何なのだろうか。愛しい人の腕の温もりを感じながら、その答えは、いつまでも出ないままだった。 (2007.7.3)
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