|
クローバー
よく晴れた日曜日の午後。ハーマイオニーは分厚い本を一冊、大事そうに抱えて、校庭の隅っこを一人で歩いていた。涼しい風が、そよそよと頬を撫で、長いウェーブの髪がふわり、ふわりと揺れる。 二日前に試験が終わり、開放感に満ちあふれた生徒達の多くは、校外へと羽を伸ばしに出掛けており、魔法学校には、とても静かでゆるやかな時間が流れていた。 (今日は行かなくて正解だったわ) ハーマイオニーは心の中で呟いた。 友人達から一緒にホグズミードへ行こうと誘われたのを、今日は断ったのだ。彼女の返事を聞いたときの、二人の友人達のがっかりした顔を思い返す。 せっかく誘ってくれたのに、少し悪かったかな、とも思うけれど、でも、今日は何となく、一人になりたかったのだ。やっと試験が終わって少し気分が晴れやかになって、天気がよくて、風が気持ちよくて、そんな日曜日だから、久しぶりに、一人でゆっくり、学校の授業とは関係のない好きな本を読んで過ごしたいという気分にさせられた。 「こんな日にまで勉強するなんて信じられないよ!」 目を丸くして叫ぶロンに、ハーマイオニーは「勉強じゃなくて、趣味の本を読んで休日を満喫するのよ」と説明したが、彼にはその感覚がまったく理解できないらしかった。「ありえない!」を連発しながらなおもホグズミード行きに誘おうとするロンをハリーがなだめてくれたので助かった。 (やっぱり、ハリーの方がだいぶ大人なのよね…) 少し残念そうな表情で「それじゃあハーマイオニー、良い休日を」と微笑んだハリーの顔と、いつまでも腑に落ちない顔をしてぶつぶつ言っているロンの顔を思い出してハーマイオニーは苦笑した。 こんなに天気が良くて、静かで、気持ちの良い風が吹き抜ける休日なんてとても貴重だ。ハーマイオニーはすぅ、と空気を吸い込んで、嬉しそうに微笑んだ。 学校の敷地内を少し歩くと、小高く丘のようになっている場所がいくつかある。屋外で、誰にも邪魔されずに一人のんびり本を読める場所。それを、ハーマイオニーは入学早々に見つけ出し、以来、誰にも教えない私のお気に入りの場所、と決めていた。 目に鮮やかな緑の芝生が広がる丘の上。背の高い木がまばらに生えているうちの一本、その木陰が何となく居心地がよくて、彼女はここに来るといつもその木の下で本を読む事にしている。今はちょうど木々の葉が青々と繁って、木漏れ日とともに野鳥の囀りや羽ばたく音が聴こえる。ゆったりとした時間が、そこには流れていた。 そして今日も、いつものように、指定席へ到着し、木の根元に腰を下ろした。 (やっぱり、落ち着くわ) 心の中で再確認しながら、ハーマイオニーは満足気に、持ってきた本を開いた。「授業には関係ない趣味の本」とロンに言ったその分厚い書物は、授業では取り扱わないものの非常に難解な学術書であった。勤勉で優秀なハーマイオニーは、教科書レベルの本では難なく読めてしまう。そうではなく、難しくて、1ページ読み進むのにかなり時間のかかるような高度な書物、そういうものを読むことを彼女は好んだ。読了することができれば多くの新たな知識を吸収できるし、何より、難解な本を読み終えた時の達成感は何物にも代え難い。 (えーと、どこまで読んだんだったかしら…………あら?) ページを捲りながら、ふと、視界の端に異質なものを見た。 (黒い……) 芝生と草の緑しかないはずの場所に、黒いものが見える。誰かがゴミを棄てていったのだろうか?まさかそんなことがあるはずはない。首を動かしてその物体を見ると、どうやらそれは布のようで、ハーマイオニーが凭れている木の後ろ側へと繋がっているようだった。 それが何か判らないのだから、当然、何なのか確かめようとして、何のためらいもなく、木の後ろ側を覗いた。立ち上がるまでもなく、四つん這いの状態で。すると、そこには、余りにも予想外の結果があった。 「───キャーー?!!」 思わず悲鳴を上げてしまってから慌てて口を塞いだが、時すでに遅し。ハーマイオニーの目の前にある……いや、「居る」、黒い「人物」が、目を見開いて彼女を睨みつけていた。 (これは…なんていうか………ものすごく、) 「……どういうつもりかね?ミス、」 (ものすごく、ものすごーーく、) 「グレンジャー!」 (ついてないわ!!!) そう、そこに腰を下ろして居たのは、予想だにしない人物。ホグワーツでも最も黒服の(黒という色そのものが)似合う人物。ホグワーツで最も陰険な教師と誰もが認める人物。ホグワーツで最も(特定の寮を除く)生徒達から恐れられている人物。魔法薬学教授、セブルス・スネイプその人だったのだ。 「教師に向かっていきなり悲鳴を上げるとはどういうつもりだ。我輩は化け物かね?ミス・グレンジャー」 「いっ、いえ!あ、あの、申し訳ありませんでした!…あの、でも、違うんです!ええと、私、ここで本を読もうとして、座ったら、黒いものが見えて、あの、先生のお洋服だって、気付かなくて、何だろうって思って、その、まさか、スネイプ先生が…あの、人が、いる…いらっしゃるだなんて、思ってなくて、びっくりしたというか…その、決して、スネイプ先生に対して悲鳴をあげたわけでは、なくて、あの、ただ、びっくりして……」 スネイプに睨まれて青ざめたかと思うと今度は真っ赤になって必死で弁解するハーマイオニーの姿を、スネイプは黙って表情一つ変えずに見ていた。そんなスネイプの態度に、ハーマイオニーはますます慌ててしどろもどろになった。 「ほ、ほんとうに、ご、ごめんなさい!わっ、悪気は全然、なかったんです…!」 (ああ!だめ、先生怒ってるわ。日曜なのに減点されてしまう…みんな、ごめんなさい!) 絶望的な表情で項垂れるハーマイオニーをしばし黙って見下ろしてから、スネイプは溜め息を一つ吐いた。 「……わかった。もういいから、顔を上げなさい。」 「…えっ?!」 スネイプの言葉に、ハーマイオニーは驚いて顔を上げた。 「悪気がなかったというのはよく分かったから、減点はしないでおいてやる。だが、以後、人に向かってむやみに悲鳴を上げないことだ。」 間違いなく減点されると思っていたのに、思いがけない無罪判決を言い渡され、ハーマイオニーは一生懸命コクコクと何度も頷いた。 しかし、次の瞬間、 「───あーーーっっ!!!」 ハーマイオニーは、あるものを見つけて、思わず声を上げた。 「言ったそばから何のつもりだ!君はそんなに減点されたいのかね?!」 スネイプの怒りはもっともであるが、今度はそんなことは意に介さず、興奮気味にハーマイオニーは言った。 「四つ葉のクローバー!先生の、足の下に!四つ葉のクローバーが!!」 腰を下ろしたままの状態で喋っていたスネイプの足の下から、小さなクローバーが顔をのぞかせていた。スネイプは一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかったが、指差された自分の足の下にそれを認めて不審げにハーマイオニーを見返した。 「確かにクローバーだが、それがどうかしたのかね?大声を上げる必要はないだろう」 「先生、ご存知ないんですか?四つ葉のクローバーは幸せを呼んでくれるんですよ!珍しいんです!」 「……何だそれは?聞いた事がない。────マグルの風習か?」 「えっ、そうなんでしょうか…こちらでは珍しくないんですか?」 「さあ、少なくとも我輩はそういった事には興味がないのでね」 「そうですか…」 そう言いながらも依然、クローバーに視線を注いでいるハーマイオニーを見て、スネイプは、また溜め息を一つ吐き、おもむろに足を退けると、そこに生えていた小さなクローバーを摘み取った。そうして数秒、不機嫌そうな顔でそのクローバーを眺めてから、黙って、それをハーマイオニーに差し出した。 「………えっ?」 事態が飲み込めず、ハーマイオニーは思わず素っ頓狂な声を上げた。 「……なんだ、要るんじゃないのか」 声も顔も表情を変えず、そっけなくスネイプが言う。ハーマイオニーはなおもきょとんとしてそんなスネイプを見つめた。 「………要らないのか?なら捨て───」 「あっ!待って!いります!捨てないで!」 はっと我に返ってハーマイオニーは慌てて手を出し、スネイプからクローバーを受け取った。 その時、スネイプの手とハーマイオニーの手が、軽く触れた。なぜかその瞬間、ハーマイオニーは、どうしたわけか、心臓がひとつ高く跳ねるのを感じた。 「……えっと、…あ、ありがとう、ございます」 何が何やら分からず、混乱する頭で、なんとか礼の言葉を述べる。 「別に、礼を言われるほどのことではない」 相変わらずそっけなくそう言うと、スネイプはすっと立ち上がった。 「読書の邪魔をしたようで、済まなかったな。」 「……え?……あっ!そんな、先生の方が先にいらっしゃったんですから、邪魔をしたのは私のほうで、あの、本当に、すみませんでした!!」 ハーマイオニーも慌てて立ち上がり、再び先程の出来事を思い出して慌てて謝った。 「あの…っ、私、他の場所でも本は読めますから、先生、どうぞ気になさらないで、ここで……」 「いや、もういい。…少し休んでいたのだが、誰かのおかげですっかり目が覚めたのでね」 「……!!す、すみませ…!」 「それより───」 スネイプは視線をハーマイオニーの足下に置かれている本に移した。 「その本は、我輩も君くらいの歳の頃に読んだ。なかなか、ためになる本だ。…しっかり、勉強しなさい」 「……あ…はい!…えっと、」 ハーマイオニーは何か言わなければと思ったが、スネイプはもうすでに木陰を後にして校舎へ向かって丘を下り始めていた。 「あっ、あの!スネイプ先生!……ありがとうございましたっっ!!」 最後にもう一度、スネイプの背中に向かって礼を言ったが、もうスネイプは振り返ることなく、見る間にその後ろ姿は、遠ざかって行った。 ハーマイオニーは、今起こった一連の出来事を反芻しながら呆然とした表情で、本を読むことも忘れてしばらく立ち尽くして居た。 (スネイプ先生って…普通に喋る人なのね…というか、何だか、) 普段、スネイプといえば特にハーマイオニーらグリフィンドール寮の生徒達には厳しく、嫌味と説教しか聞いた事がないような気がする。しかも、魔法薬学の授業では、ハーマイオニーが何度挙手をしても常に無視されて、当ててもらえた試しがない。そういうわけで、スネイプに対してはやはり他の生徒同様、ハーマイオニーもどこか苦手意識を持っていた。の、だが。 (何だか、思ってたよりずっと……親切…?) ハーマイオニーはその手にしっかりと握っていたクローバーを見つめた。 すると、スネイプにそれを手渡された瞬間が突如頭をよぎり、なぜか頬が熱くなった。 (ちょっと、なんで照れてるのよ私!) 得体の知れない気持ちを振り切るようにハーマイオニーはブンブン首を横に振った。───と、今度はふと、スネイプの何気ない言葉を、思い出した。 (……………そいうえば、スネイプ先生……お昼寝してたの?) 「お昼寝」という、およそあの教師には似つかわしくない単語が不意に浮かび、ハーマイオニーは思わず吹き出した。 風が撫でていくその頬は、やはり、かすかに桃色に染まったままだった。 (2007.6.13)
|