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愚か者の恋
その日、全ての授業が終わり、日も暮れかかった時間、 は一人、地下室にある薬品保管庫に居た。地下であるため、窓はなく、明かりは全く入らない。ランプで明かりをとってはいるものの、全体的に薄暗く湿った部屋で、しかもそこを埋め尽くしているのは膨大な量の魔法薬。それぞれの瓶にしっかりと封印が施されているとはいえ、充満する空気にはたとえようのない薬品臭が漂っていた。折しも今日は雨が降っているせいか、湿気も普段より多いように感じられ、薬品の臭いが体じゅうに纏わりついてくるようだった。 何故 が一人でこのような場所に居るのかといえば、事の発端はその日の早朝に遡る。 偶然、薬草の温室でセブルス・スネイプと顔を合わせ、その流れで は半ば強引にスネイプの部屋へモーニングコーヒーを飲みに押し掛けた。もちろんスネイプが歓迎する筈もないのだが、いつものようにすっかり彼女のペースに巻き込まれたなりになってしまい、仕事の話などをしながら、コーヒーのおかわりまで出してしまった事を、スネイプは“何故いつもこうなるのだ”と、小さく悔やみながら自問自答するのだった。 「───君は、毎日そんなに暇なのかね?」 機嫌よくコーヒーを啜る にスネイプが呆れたように問いかける。 は何かとスネイプの部屋にやってきてはこのようにお茶(酒の場合もあるが)とともに世間話をしたがる。何ゆえに自分がこの若い娘にこうも懐かれるのか、スネイプには理解し難かった。しかし、そんなスネイプの心境などお構い無しに、は好意を露にしながら彼の元へやって来る。どんなに冷たくあしらっても彼女に効き目はなく、「こいつは馬鹿なのか?」等と思いながら、スネイプは既に半ば諦めていた。 「暇ということもないですけど……まぁ、スネイプ教授よりは確実に仕事は少ないですね。」 「……我輩が忙しいと分かっていながら、こうして邪魔しに来るとは、大した心掛けだな。」 「そんなに私、邪魔ですか?」 「邪魔だ。」 「……………」 「………………」 珍しく、少し俯いて黙ってしまったを見て、スネイプはやや動揺した。いつもなら気丈に言い返してくるのに、どうやら予想外に落ち込んだようである。とはいえ、彼女が仕事の差し支えである事は確かであり、それはこれまでも常々咎めてきたことだ。それでもしつこくやって来る彼女の方に非があるのは歴然としており、微かにでも罪悪感を感じてしまう自分をスネイプは苛立たしく思った。───と、俯いていたが急に顔を上げ、言った。 「じゃあ私、教授のお仕事手伝いますよ!何でも言って下さい!」 スネイプは全身の力が抜けるような気がした。何故そっちに思考が飛んでいくのか分からない。そもそも「邪魔をするな」と言っているわけであって、「手伝ってくれ」と言っているわけではない。しかも手伝われるより無駄に押し掛けて来る回数を減らして貰った方が有り難いことは火を見るより明らかである。 「……Ms.、申し出は有り難いが、」 「スネイプ教授は、仕事を一人で背負いすぎなんですよ。誰かに任せればいいようなことも、自分でやらないと気が済まないタイプですよね、教授って。だから余計忙しくなるんですよ。」 確かに、そうであった。完璧主義なスネイプは、他人の仕事が少しでも適当だったり雑だったりすると気に食わない。誰かにやらせて満足のいかない結果になるのなら、少々忙しくなろうとも自分で全て処理する方が自分の思うように段取りも組め、気が楽なのである。典型的な「リーダーに向かない」タイプと言える。 もちろん、スネイプ自身もそれは分かっていたが、に指摘されたことが癪に障ったのか、不機嫌そうな顔でコーヒーを一口啜った。 「……どんな事でも、すると?」 スネイプはしばらく思案するように黙っていたが、目線はに向けぬまま徐に口を開いた。 「はい!もちろんです!」 そう言いつつ、もしも複雑この上ない書類の処理だとか、高等極まる難解な魔法薬の調合だとか、もしくは生きた動物をホルマリン漬けにする作業だとかを言い付けられたら到底無理かもしれない、とは心中で冷や汗をかいたが、こう言ってしまった以上、あとにはひけない。不安を微塵も表情に出さぬ様気を付けながら──もっとも、そういった感情の微細な変化をスネイプが見逃すとも考えにくいが──、気丈に返事をした。 「───いいだろう。では、一つ、頼みたい仕事があるのだが、」 スネイプは心持ち口角を上げ、ニヤリと微笑って言った。 「薬品保管庫に保管されている薬品、また、補充が必要な薬品の正確なリストアップをお願いしたい。」 そのスネイプの言葉には安堵した。多少の手間はかかりそうだが、そういった雑用系の仕事なら、自分にもできる。スネイプの役に立てる貴重な機会だと喜んだ。 「分かりました。お任せ下さい!空き時間に早速始めますね。」 そのの様子に、スネイプはまた口の端だけで微笑した。何故だかその笑みは、どこか不吉なものを思わせた。しかし、そんな事には全く気付かず、は嬉しそうに笑った。 ───そして、現在に至るわけだが、所狭しと並べられた無気味で膨大な薬瓶の壁に挟まれ、はようやく、やすやすと引き受けられるような容易い仕事ではなかったのだと気が付いた。不規則に並べられた──と見えて実は規則性があるのかもしれないが、少なくともにはそれを見い出す事はできない──薬品は、何がどの棚にあるのか分からない。そしてラベルの剥がれているものに関しては、何の薬か判別できないような、教科書にはまず出て来ないようなマイナーなものもある。スネイプならば常識的に判別できるであろうが、魔法薬における知識がごく一般程度のに、目にした事もない薬品の種類など分かる筈がなかった。 このような状況において、これらの薬品の、スネイプに言われた“正確な”リストアップなど、途方も無く不可能な作業に思われた。図書館から、魔法薬に関する何種類もの分厚い書籍を持ち出し、それを片手にどうにかこうにか進めていくものの、全てを終わらせることができるのは一体いつになるのか、考えるだけで目眩がしそうだった。 「うう…スネイプ教授……こうなる事分かってて……」 紺碧の液体が入った瓶を握り締め、は独り、呟いた。薄暗く湿気た倉庫内。しかも膨大な魔法薬。何だか本当に目眩を感じ、気分が悪くなってきた。鼻孔を突く異様な薬品臭に、噎せるように咳き込む。余計な事を言わなければ良かった、と今更ながらに後悔の念を感じるものの、後の祭りである。冷静に考えてみれば、この薬品保管庫という場所自体にはこれまで足を踏み入れた事はなく、ましてこの世におよそ何種類の魔法薬が存在するのかというような知識も持ち合わせていないのである。たかだかリストアップ作業といって侮ったのが間違いだった。いや、そもそも“スネイプの仕事”を手伝えるなどと思ったことが間違いだったのである。 「あーもう…教授の馬鹿ーー!」 半ば癇癪を起こしたように、薬瓶を棚に乱暴に戻し、誰も居ない部屋の中で悪態をつく。───そう、誰も居ない、筈だったのだ。が、 「誰が馬鹿だと?」 狭い倉庫内に無気味に響く、地を這うような、低い声。いつもは多くの生徒が恐れをなすその声を焦がれてやまないのだが、今は、今だけは聞きたくなかった。背後に至近距離で立っていると思われるその声の主は分かり過ぎる程分かっている。けれど、即座に振り向くほどの勇気はさすがには持ち合わせていなかった。 「どれ程進んでいるのかと見に来てみれば……これはこれは、光栄な歓迎のお言葉を頂いたものだ。」 「………………」 鼻で笑いながら、スネイプは容赦なくの元へと歩み寄る。逃げる事も振り向く事もできず、ただ黙っているの肩を強く掴むと、無理矢理に自分の方へ向かせた。そして、未だ余白が半分も埋まっていないリストをの手から引ったくると、興味深げにそれを眺めた。はというと、逆らうことも出来ず、恐ろしくてスネイプを直視することもできず、硬直したまま目を伏せている。 「ふん…費やした時間の割には、随分と進みが遅いようだ……余程丁寧な作業をしていると見える。」 厭味たっぷりにスネイプが言う。初めからこういう結果を期待してたくせに…と、は心の中で反論するが、元を正せば余計な事を言ってスネイプを挑発したのは自分自身なのであって、スネイプを非難できる筋合いはないのである。自分の腑甲斐なさが悔しくて、俯いたまま唇を噛み締めた。 「……申し訳、ありません。」 スネイプの顔を見ないまま、は呟くように言った。 「ほう、君は相手の目も見ず謝罪するのかね?生徒達にもそのような指導を?」 「………っ申し訳ありません!!」 半ば自棄気味に、はスネイプを睨み付けるように見上げた。その様子に、スネイプは片眉を上げて満足そうな笑みを見せた。───が、次の瞬間、何故か、訝し気に眉根を寄せると、の顎を掴んでその顔をまじまじと見つめた。 「な……っ、何ですか……?」 スネイプの突然の奇妙な行動に、は不審そうに睨む。その、スネイプを見上げる瞳は涙で潤んでいて、興奮しているのか、息づかいも、いつもより荒い。 「ふん……」 スネイプは不機嫌そうに、の顎から手を離すと、そのまま彼女の腕を掴んで「来い」とだけ言って無理矢理を倉庫から連れ出した。乱暴に腕を引かれ、わけの分からぬままはスネイプに連行される形になった。もっとも、とて黙ってスネイプのなすがままにさせているわけもないのだが、彼女の抵抗などスネイプには無いも同然のささやかなものであった。 そして、辿り着いた場所は、同じく地下にあるスネイプの自室だった。相変わらず理由も何も告げられずここまで引っ張ってこられたは不服そうにスネイプを睨んでいるが、そんな様子など一切気にかけることなく、スネイプはの腕を離すと無言で椅子に座るよう促し、自分は部屋の奥へと消えてしまった。残されたは、改めて、落胆して溜め息を吐いた。教授は怒っているに違いない。というか、どう見ても怒っている。こんな風に強引に自室へ連れて来られ、これからどんな雷を落とされるのかと、憂鬱な気持ちで机に肘をついた。「余計な事を言わなければよかった…」もう何度目かというくらい、同じ後悔が胸をよぎる。スネイプに怒鳴られたりするのは慣れてはいるが、こう落ち込んでいる時に激しく叱責されれば、いくらでも気が滅入るというものである。暗澹とした気持ちでもう一度大きく溜め息を吐いた。 ───と、そこへスネイプが戻って来た。説教を受けるつもりで項垂れているに、しかしスネイプから発された言葉は、意外なものだった。 「飲め。」 その言葉とともに、机の上にゴブレットが置かれた。中には薄紫色の液体が入っている。まさか、何か呪い系の薬品だろうか?まさか、そんな、生徒に対する罰則のような──いや、生徒に対してでもそんな得体の知れない薬品を飲ませるなどという罰則はないだろう──仕打ちを、仮にも同僚に向けて行うのだろうか?それほどまでに、自分の犯した失敗はスネイプの怒りに火をつけてしまったのだろうか?…等と様々な事が胸中を巡り、目の前に置かれたゴブレットに手を出す事を躊躇しているに、スネイプは呆れたように溜め息を吐いた。 「毒などではない。風邪薬だ。さっさと飲め。」 その言葉を、は一瞬理解できずにきょとんとした顔でスネイプを見上げた。 「───え、風邪薬、ですか?なんで……」 「……自分が風邪を引いていることにも気が付かんのかね?どこまで馬鹿なのか、全く呆れ果てる。」 言われてみれば───確かに、熱っぽいし、頭も痛く、気分も悪い。けれどそれは、あの薄暗くて湿った、薬品保管庫に長時間籠っていた所為だとばかり思っていた。あまりの予想外な展開のためか、熱のためか、思考が上手く機能せず、返す言葉が思い浮かばぬまま、戸惑いながらもはゴブレットを手に取り、顔をしかめながら苦い薬を喉へ流し込んだ。 「……飲んだか。では今日はもう早々に部屋に戻って寝るんだな。」 「え……っ、でも、まだ薬品リストが……」 「続きは明日にでもやれば良い。元より一日で終わるなどとは思っておらん。」 「………はい…じゃあ、明日までに頑張って治します……」 「馬鹿者!誰が薬を調合したと思っているのだ。我輩の作った薬なら風邪ごとき頑張らずとも一晩で十分だ。」 「……すみません」 「ふん……ああ、それと、」 眉間に皺を寄せたまま、スネイプが思い出したように言った。 「薬品保管庫で分からない事があれば我輩に訊け。図書室の本など何の役にも立たん。」 思わぬ言葉に、はまたもはっとしてスネイプを見つめた。もう、この人にはどう足掻いても一生敵わないのだろうな、と思う。そしてやっぱり、この、どこまでも優秀だがその分、厳しくて厭味ったらしくて陰険で、なのにどこか優しい、そんな不可解な教授のことが、好きで堪らない。 涙ぐみそうになったのを気付かれないように、は礼を言って足早にスネイプの部屋を後にした。その姿を見送ったスネイプは、「却って手間のかかる…」と、眉間に皺を寄せて溜め息混じりに心の中で呟いた。 その口許に、これまで誰も見た事のないような、この男のものとは思えぬような優しい微笑が刷かれていたという事には、本人すらも気が付いていなかったが─── (2006.6.3)
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