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夢見たものは ひとつの倖せ
願ったものは ひとつの、愛―――― 春の陽射しが緩やかに差す昼下がりだった。柔らかく微温い空気にまどろむのを堪えながら、生徒達は午後の授業を受けている時間である。しかしそんな中、銀と緑の縞のネクタイを締めた一人の少女が、本来この時間に生徒が居る筈のない広い回廊を、足早に、地下室へと向かって歩いていた。それは授業に出る為ではない。受けなければならない授業を、適当な理由をつけて欠席した上で少女はそこに居た。教師に見つかれば確実に減点対象となる行為だった。 静まり返った回廊は、巨大な石の空洞。人が歩けば、靴音は否が応でも響き渡る。けれど少女はそれをさして気に留めるでもなく、目的の方向へとひたすら進んで行った。 突き当たって、角を曲がろうとしたその時、少女の行く手を黒い影が阻んだ。 「何処へ行く?」 背の高い、その黒ずくめの教師は、低い声を響かせて少女を威圧的に見下ろした。 「―――ミス・……この先の教室で今は授業を行なっていない。何の用がある?」 教師は、眉間に皺を寄せ、訝し気に、そして咎めるように訊いた。ミス・と呼ばれた少女は、そんな教師の様子に怯む様子も悪びれる様子も無く、云った。 「スネイプ先生に、用があります。」 「それは、授業を放棄してまで、ここに来る程の急用だと?」 「いいえ」 少し微笑んで、さらりとそう云い放った少女に、スネイプが何か云い返そうとした瞬間、少女はくるりと踵を返し、スネイプに背を向けると、一目散に走り出した。スネイプは一瞬、呆気にとられたが、兎に角この自らの監督する寮の生徒の暴挙を止めて然るべき処置を行わなければならぬと、少女の後を追った。 少女は、背後から聞こえる怒鳴り声を無視しながら、しかし時折振り返っては、スネイプが杖を振り上げた瞬間に物陰に隠れたり曲り角を曲がったりして、呪文を唱える隙を与えなかった。 すばしっこく逃げ回る少女にスネイプは苛つきを覚えながらも、放っておく訳にはいかない。何故このような状況に在るのか把握できないまま、舌打ちをして後を追い続けた。 そうして――――ようやく少女が立ち止まった場所は、既に校舎の外だった。 「……どういうつもりか知らぬが、このような真似をして、」 「減点、して下さい。」 怒りを露にして詰め寄るスネイプをじっと見つめて、は当然のように云った。 「50点でも、100点でも、減点して下さい。」 相変わらず全く悪びれる風のないの発言に、スネイプは眉を顰めた。勿論、とんでもない減点対象となる行為なのだから、云われるまでもなく減点しなくてはならないのだが、自らそのような行為をとり「減点してくれ」というその意図や目的を計りかね、込み上げていた怒りを鎮めて、スネイプは云った。 「ミス・、君は普段、大変優秀な生徒であるし、できれば我輩は君から減点したくはない。 ―――何故、このような行動をとるのか、我輩に理解できるように話せば、」 「減点して下さい、と云ってるんです。授業に出なかった事と、……それと、スネイプ先生の時間を、この授業の間、私が貰うという事に対して。」 スネイプの言葉を遮って、が云った。ますます訳の判らない事を云うに、スネイプの一時鎮まっていた怒りと苛立ちが再び沸き上がる。 「我輩を馬鹿にしているのか?!」 「……先生、上、見て下さい。」 怒鳴り声を上げて詰め寄るスネイプの問いには答えず、は頭上を見上げる。反射的に、スネイプも視線だけ一瞬上を見る。――――と、そこにあったのは、 「………」 「綺麗でしょう。此れを、スネイプ先生と見たかったんです。」 そこには、今まさに満開の、美事な桜の群生―――。 「先生、気付いていらっしゃらないんだろうな、と思って。……勿体無いじゃないですか。」 そう云ってにっこりと微笑むを、スネイプは、咄嗟に返す言葉が見つからず、只、無言で見つめていた。 ―――が、数秒の膠着状態の後、どうにか状況を理解し、今度は眉間の皺を深めて腹立たし気に大きな溜め息を吐いた。 「下らぬな。申し出通り、50点減点する。」 いまいまし気にそう云ってスネイプは踵を返し、立ち去ろうとした。 「スネイプ先生!好きです!……先生の事、すごく、好きなんです!」 突然、背後から投げ掛けられた言葉に、スネイプの足が止まった。ゆっくりと振り向くと、それまでとは一変して、泣き出しそうな表情でこちらを見つめる少女の姿。 「スネイプ先生は、愛している女の人は、居ますか…?!」 急に、強い風が吹いた。夥しい花びらが嵐を起こした。けれど、二人の間は、時間が止まったまま――― 舞い踊る桜色の風の向こうにお互いを見る。 やがて、風は止んだ。舞っていた花びらは音も無く地面に降り、絨毯となる。十メートル程の距離を隔てて二人は黙ったまま、睨み合う。 お互い、微動だにせぬまま、どれくらいの時間が経っただろうか。スネイプが、小さな溜め息とともに、沈黙を破った。 「……愛していた、女なら、居る。」 此の上なく、馬鹿馬鹿しいと思った。子ども相手に、何を口走っているのか、と。けれど何故か、言葉は口を突いて出る。まるで、桜色の嵐に惑わされたかのように。 「……死なれてから、愛していたと、気付いた。」 静かに、云った。 スネイプのその言葉に、永遠のようにも感じられる、一瞬の沈黙があった。そして、の瞳から、大粒の涙が、次々と零れた。スネイプは只、黙ってそれを見ていた。 泣くだろうと、思ってわざと云った。次第に声を上げて泣き出す少女を、表情一つ変えずに、近付く事もせず、見つめていた。その少女の姿が、何故か、自分の姿に見えた瞬間、悟った。 誰かに、代わりに泣いて欲しかったのだ。 再び、風が吹いた。舞い上がる花びらと、舞い落ちる花びら。春の、嵐。 スネイプは、静かに目を伏せ、自嘲気味に微笑した。 夢見たものは ひとつの愛 願ったものは ひとつの、倖せ―――― (2006.4.26)
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