交差点から空を見よう   幕間 彼女が見た風景 3





 昼休みの屋上、フェンスに背を預けて徹夜明けの目を細めながら、私は青い空に浮かぶ流れる雲を仰ぎ見ていた。
 初夏の空を渡る風が、私の頬を触れていく。
 昔の私よりさらに短く刈り込まれた髪のせいで、頭皮に感じる空気の感触がくすぐったい。向こうでは髪を伸ばしだしていただけになおさらに。この開放感と爽快感は癖になりそうだけれど、もし戻ったときに、鬱陶しいから髪を切る、とか言ったら、凛とか桜とか藤ねえが怒りだしそうだ。どうも彼女達は最近、私を着せ替え人形か何かにしたがっている様な気がして仕方がない。とにかく私を飾らせたがるのは困ったものだ。髪にしたところで、切り札としての魔力の貯蔵用に伸ばすことにしただけだというのに。
 ……む、拙いな。
 ここで私は気が付いてしまった。今、本来の私の体の中には……多分"衛宮士郎"が居る筈だ。昨夜一晩中凛から徒然と聞いた限りでは、“士郎”という存在は、その、なんだ。単純というか、ずいぶんと人が良さそうだ。何らかの理由で彼女達に言いくるめられてしまいかねない。まあ、事情を理解している凛がストッパーに……ならないだろうな、凛だし。むしろ率先して士郎を弄りそうだ。というかむしろ弄るだろうな、間違いなく。常日頃、私に色々と遊ばれている意趣返しを、凛なら間違いなくヤる。ついでにその様子をきっちりと写真に残して、後日私に見せびらかすくらいはするだろう。さすがの遠坂凛でも、使い捨てカメラは使えるだろうし。とりあえず、バイトで着たメイド服くらいならまだしも、ゴシックなドレスとか着せられて完璧に化粧された自分の姿なんかはさすがにちょっと見たくはない、な。
 うーん、元に戻るの止めようかな。
 まあ、もしそんな物とかを見せられたならその時はその時だ。私の手持ちの凛の秘蔵ネガの一部とトレードするしかあるまい。
 うん、色々と考えても仕方が無い。とりあえず今は、衛宮士郎の男のプライドとかそのあたりに期待するとしようか。恥ずかしい女装は断固として阻止、くらいの気構えは見せてほしいものだ。



 睡眠欲の命じるままに大欠伸した私は、胡乱な思考が迷走するままに、昨夜の凛との会話を思い出していた。私が知りたいと思っていた、あの“彼”の話を。

「やっぱり、貴女も"正義の味方"志望なのかしら……衛宮……志保?」
 逡巡を見せながらも、それでも真剣な眼で問うた言葉。これが凛の最初の台詞だった。憐憫とも怒りとも諦念ともつかない、複雑な色を浮かべたその瞳。私が見たことも無い表情。そんな表情は、凛には似合わない。うん、衛宮志保は遠坂凛にそんな表情をさせたくない。だから私は、真剣な顔で彼女に答えを返した。
「……凛。君、疲れてるんだね」
 しみじみとした私の声に凛は怪訝な顔をし、数瞬の思考の後、みるみるその頬が怒気に染まっていく。
「…………ちょっとアンタ。何、人を可哀想なモノを見る眼で見てるのよ」
「うん、分かってる、分かってるから。無理はしなくても良いよ。もう寝たほうが良い。睡眠不足は美容にも悪いよ? ……譫妄状態とは性質の悪い……」
「な、何を……クッ、人を哀れみの眼で見るなぁ、士郎の癖にっ!」
「いやだって中身は違うし」
「〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 拳を握り締めて震える凛に、私は意識して優しく笑いかけた。向こうの凛が一番嫌いな、不自然なまでに自然な笑顔で。
「うん、せめて怒っている方が良いね、君は。……君にあんな顔をして欲しく無かった、これは私の我侭。でも、怒らせてごめん」
 軽く頭を下げた私の表情に毒気を抜かれたようにきょとん、とする凛。ついで頬を軽く朱に染め、さらにぶんぶんと頭を振って額に手をやり、溜息一つで気分を切り替えたようだ。
「まったく。……本当に貴女、士郎の可能性の一つなのかしらね。どちらかと言うと、アー……」
 呆れた様に投げ遣りな凛の呟きが、途中で途切れる。まるで、その先を口に出したくないかのようなその続きを、私は引き継いで口に出した。
「どちらかと言うと、アーチャーみたい……かな?」
「……ええ」
 何かを探るように、何も見逃さないように。そんな凛の視線が私の視線と交錯する。
 さて、とりあえず、ふざけた茶々を入れては見たけれど。私は凛の最初の言葉を思い返していた。"正義の味方"。そんな不確かなモノを、羞恥も臆面も無く、大真面目に口にした凛。余人はともかく、遠坂凛が意味も無くそんな御伽噺の登場人物を語る筈も無い。

『……或る馬鹿の話をしてやろう……』

 月光の下、穏やかに口を開いた彼の語った物語を私は思い出していた。それは或る男の物語だった。己の理想に生き、理想に殉じ、そして死した後その理想に裏切られ、擦り切れてしまった男の話。淡々と、何の感情も篭らない声で語られた一人の愚者の行く末。一体彼は、どのような想いでその愚者の生き様を吐き出していたのだろうか。

 ――故に、その生涯に意味は無く――、か。

 その物語の主人公が、どんな理想を抱いてその一生を駆け抜けたのか、結局彼は語らなかった。自分が何を理想に抱いていたのか、最後まで彼は私に残していかなかった。

 そして今、凛の口にした存在が、ずっと私が疑問に思っていた処にすとん、と嵌ってしまった。"正義の味方"。つまりはそういうことなんだろう。そうなろうと走り抜けた衛宮士郎という存在の果て。赤い外套を翻し、私達とあの戦争を戦い抜いた弓の騎士。その胸に抱いていたかつての自身のカタチ。
「……そっか。"正義の味方"、ね。ああ、そんなものを目指して突っ走るとああなるのかな、私も」
 皮肉な笑みを浮かべる彼の姿を思い出して、私はくすくすと笑ってしまった。蔑みも憐憫も彼は望まないだろう。特に私からは。だから笑うことにした。それだけの話だ。
「笑い事じゃないわよ……」
 私の含み笑いに憮然とした表情を見せる凛に、私は軽く肩をすくめて見せる。
「……私はね、絶対に士郎をアーチャーになんかしないわ。絶対に、世界と契約なんかさせないの……。だって、その先は……」
 きゅっと唇を噛む凛。どこか危うく、思いつめた瞳に、その意味を思い当たった私はそっと笑いかけた。
「そっか。君、夢で見たんだね。彼のたどり着いた果てを」
 私の言葉に、凛ははっと顔を上げる。マスターとサーヴァントは繋がっている。故に睡眠中などにサーヴァントからの情報がマスターに流れ込んでくることもある。つまり、アーチャーと契約していた凛は見たのだろう。守護者としての、アーチャーの記憶を。……おそらくは私が見たモノのと同様のモノを。
「どうして……あんたが、そんなことを……」
 呆然と呟く凛に、私は微笑を崩さずに答えを返した。
「私も見たからだよ、凛。彼の記憶の一部をね。うん、こっちでも色々あったみたいだけど、あっちでも色々あったんだよ。……本当に色々、ね」

『……この馬鹿が……』

 深い諦念と苦い笑みに彩られた彼の表情が今も記憶に残っている。
 それでも私は、あの時言った私の言葉を違えるつもりは無かった。たとえその果てに在るものを知った今でも。その結果を見た今でも。何時の日かこの髪が色を失い、この肌が錆びゆくように染まる日が来ても。
『後悔してない。私は後悔しない。私は決して後悔なんてしてなんかいないよ、アーチャー』
 廃棄場じみた赤い荒野の中央に、孤高の王のように君臨する赤い騎士の逞しい背中を、今も私は追いかけている。道は違え、同じものにはなり得ないけれど。それでも私は、あの赤い荒野を目指して駆けていく。
 きっと。
 きっと、追い着く。追い着いて、みせる。

「さて、凛。どうやらお互いにまず話すべきはあの日々のようだね。私と君との間に友誼が結ばれたあの戦いの記憶を……話し合おうか?」
「……そうね。どうもずいぶんとずれているみたいだし……」
 私の言葉に、調子を取り戻した凛が、魔術師としての顔を取り戻した。……うーん、それはそれで面白くないな。真面目な凛を見るとこう……、ね。ということで、ちょっと半畳入れてみることに。
「……ま、こっちは友誼じゃなく恋愛感情で、感情だけじゃなく肉体まで結んじゃったみたいだけど」
「そ、それは関係ないでしょうっ!」
 顔を真紅に染めて照れ怒る凛、向こうじゃなかなか見られないレアな表情だ。うん、やはりこうでなくては。





 そこから始まった長い話の結果が、現時点の徹夜明けに繋がっている訳だったりする。
 とりあえず一晩かけて、こちらでの聖杯戦争の大筋を掴ませてもらった。合いの手とか半畳とか入れたり、私が疑問に思ったり興味を感じたところを根掘り葉掘り聞いたりしたせいで、こっち側の話だけで終わってしまったのは、まあ、仕方が無いと思う。深夜、衛宮邸から響いた奇声とか絶叫に関しては考えまい。凛、変な声出しすぎ。そのせいでか、朝方の凛は疲弊し、憔悴しきっていた。しかし、そっか。2月14日だったのか。『ヴァレンタインにわたしをあ・げ・る』だったとは……。凛、なかなかにヲトメだな。
 寝不足の思考が、いい感じに暴走している。我ながらお子様だとは思うが、まあ、仕方が無い。こんな日常を回しながら、私は私の疵を癒していくんだろう。

 衛宮士郎が抱えた疵とは違った形で。
 衛宮志保も歪なまでの疵を抱えている。

 どちらの疵も遠坂凛の手により切開されてしまった辺りに、ずいぶんと皮肉めいたものを感じてしまう。思わず私は、自身の無様さに苦笑いしてしまった。
 何時か、こっちの凛にも話してみよう。私の持つ歪みを。私の抱く疵を。彼女は、どんな感想を持つのだろうか。そして、向こうの凛は、"衛宮士郎"にどんな感想を抱いたのだろうか。
 呆としたまま追憶に沈んでしまったせいか、だから私は、真横にすとん、と座られるまで、その気配に気が付けなかった。

「まったく、探したわよ、士郎。状況が状況なんだからあんまりうろちょろしない」
 早口の囁きは辛うじて聞き取れる程度。でも、私がこの声を間違う筈も無い。今、一番聞きたかった声。今、一番会いたいと思った人が隣に居る。
「……ああ、遠坂か。ごめん、ちょっと呆としたかったものだから」
「……む、何で姓の方で呼ぶのかしら、衛宮君?」
 睡眠不足でやや赤い眼をしながらも、それでも優等生を擬態する猫っかぶり。筋金入りだなぁ。
「いや、でも衛宮士郎は君の事を姓で呼ぶんじゃないのかい? 校内ではそれに倣った方が良いかと思ったんだけど?」
「むー、それはそうなんだけど……」
 何処か不満げに、釈然としない表情の凛。いや、どうしろって言うんだろう?
「何なら名前で呼んでキスでもしようか?」
「いえ結構。姓で良いわ」
「それは残念」
「アンタ、百合の人なのかしら?」
「安心してくれて良いよ、そっちの趣味は無いから。遠坂をからかってるだけ。ついでに言うと、私、今はオトコノコだし」
「……アンタねぇ」
 引きつりながらも優等生然とした顔を崩さない凛の横顔を、私は微笑んで見つめた。
「ああ、やはり凛だな、君も」
「当然。私じゃない私なんて、私じゃないわ」
 にっこりと自身たっぷりに笑う遠坂凛に、私は思わず苦笑してしまった。確かに、こんな遠坂凛じゃない凛なんか、私には想像出来ない。
「うん、確かに。たとえオトコノコの遠坂凛だって、きっとそんな性格なんだろうね」
「う……それはちょっと嫌ね」
 二人して戯れ言を呟き、笑いあう。そんな穏やかで小さな時間。違う世界でも、違う自分でも、変わらない日常が此処にある。そんなことが単純に嬉しかった。

「まあ、此処は私以外変化のない場所みたいだし、半年前までの遠坂凛の歴史は、私の居たところと変わらないんだろうけど、ね」
 遠坂凛を形作る歴史に、私や士郎がが関わってくるのは半年前からだろうし。ならばそこまでの遠坂凛には違いは無い、と思う。そう思ったんだけど。
「あら、わたしは衛宮くんのこと、知ってたわよ。名前までは知らなかったけれど、中学時代から」
 そんな私の推測を、覆そうかと実に興味深いことを口走ってくれる遠坂“うっかり”凛。
「…………凛、君、今墓穴を掘ったね? ささ、そこのところをもうちょっと詳しく……」
「え、あ、あれ?」
 自分の言ったことに狼狽える凛を、私はにまにまと観察した。
 さて、昼休みはまだ十分時間を残している。凛の口から新事実をじっくりたっぷりと話して貰うとしましょうか。





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