交差点番外編 或る夜の出来事。





 これは、彼が彼女になって三日目の夜の話。あまりの情けなさゆえ、目撃者すら沈黙したとある出来事。

 ……ふと、目が覚めた。
 まだ世界は夜の帳が覆っているようだ。窓から差し込む外の光のお陰で、かろうじてぼんやりと部屋の様子が透かし見える。
「……ぅ?」
 眠気は去らず。今だ脳裏には紗が掛かっている。思考はこのまま再び眠りの園への帰還を欲しているようだが、肉体が感じている違和感が、それを許してくれそうも無い。
 こんな深夜に目が覚めるなんて久々だ。寝る前に遠坂に相伴してほんの少しアルコールを摂取したのが悪かったのか。何処かはっきりと覚醒しない思考でそんなことを考えながら、俺はとりあえず立ち上がって部屋を出た。
「ん、むぅ〜」
 呟き未満、吐息以上の唸りを上げながら、俺はぺたぺたと真っ暗の廊下を歩く。人の気配は全く無く。俺はただ一人邸内を往く。こんな時間だし当然だ。遠坂もセイバーも、とっくの昔に自室に戻ったのだろう。
 ふらふらと、
 ゆらゆらと、
 何処か重心が安定しないまま歩みを進めて行く。ほんの少しのお酒だったけど、今だ酔いが巡っているよう。
「ん〜ぁ……、眠……」
 小さく欠伸を一つ、ぽりぽりと腕を掻きながら、俺は勝手知ったる我が家の廊下を電気も付けずに進んでいく。
 かちゃり、と目的地の扉を開き、そして閉める。そこで電気を付け忘れたことに気がつくが、幸いなことに、暗がりを歩いてきたことと、窓から射す月明かりのお陰で或る程度の夜目も利く。
「んむ〜、ま……良いか」
 どうせすぐ済む用事だ。俺は寝巻き代わりの短パンとパンツを下にずらし、いわゆる一つのナニを掴み出して眼前にある夜目にも白く輝く陶器製の楕円空間に向けて、体内からの老廃物である液体を迸らせようと……あれ?
 掴み出そうとした手は宙を切ったまま変な形で停止したまま。
 そのことについての疑問が解消される前に下半身に走る放出感と開放感。しゃーーっ、という水音とともに、宙に止まった手に浴びせ掛けられる生暖かい液体。
「へ? へ!」
 手に当たって飛び散った水滴が腿に、短パン、そしてパンツに、脹脛に、足の甲にと跳ねて掛かる。
「と、止め、止ま、て、と、止めれない! な、なん、で? え、えぇ?」
 一瞬で俺の意識は覚醒した。ただし絶賛空回り中。とりあえず止まらない液体を何とかしようと陶器製の標的へと目標を変更するために、もう一歩踏み出そうとして…………俺はずり下げていたパンツに足を引っ掛けてしまった。ぱしゃぱしゃという水音とひざ下に感じる生暖かい感触と床に広がる世界地図。そして全身に感じる気だるい脱力感。
 何というか。
 俺はバランスを崩して跪いた姿勢のまま呆然としてしまった。貧血にも似た、目の前が真っ暗になる感覚は、自己嫌悪に違いない。
 幾程放心していたのかは俺にも良く分からない。あまりの情けなさに庭に穴を掘って埋まりたいくらいだが、とりあえず後始末が先だろう。もはや思考すら放棄して、まずは俺は濡れた後程よく冷えて気持ち悪いパンツを短パンを脱いで、それで床を拭き始めた。さらに横に掛けてあったタオルも犠牲にして始末を進めていく。
「うう、遠坂とか起きて無くてよかった……誰も見ていなくてほんと良かった……」
 そう、幸い目撃者は居ない。とっとと証拠を隠滅してこの事も記憶から抹消して、そして布団へと戻るのだ。そうすれば明日の朝には夢の中の出来事になる筈だ。ああ、ようやく思い出したよ、俺、今女の子なんだったよ、無いんだよ、立って出来ないんだよ、座らなきゃいけないんだよ……。
視界が滲んだのはきっと眠気のせいだ。気がつかないうちに欠伸をしていたに違いない。決して涙目になんかなってない。
「後はバケツと雑巾……いや、先に洗濯機にこれを放り込んで……いやいや、待て待て。まずはパンツだろ。とりあえず風呂場で下半身洗ってからだな……って、この格好で廊下を歩くのか、俺! と、とはいってももう一回これを履くのは……なぁ……」
水気を吸って重くなった布切れを手に、履いてない状態のまま、俺は考え込んだ。タオルを巻くか、しかしこれはしどしどに水分を吸ったパンツと短パンを包みたい。さすがに廊下に水気を滴らせていった場合、証拠の隠滅が厳しくなる。
「……だ、大丈夫さ。遠坂もセイバーも離れに寝てるし、母屋の方には……来ない、さ」
 俺は覚悟を決めた。
 とりあえず丸めた布達で前を隠しながら、俺はそっとトイレの扉を開けた。真っ暗な廊下に人の気配は欠片も無い。
 右見て左見てもう一回右見て。
「……よし」
 抜き足差し足忍び足。アサシン並みの気配遮断能力をもって廊下を進む俺。履いてないけど気にしたら負けだ。まずは部屋まで行って換えのパンツを……。
「ちょっと、志保。あんた何こんな夜遅くに何を……」
 運命はとても意地が悪い。背後から掛けられた声に、俺は猫背にしていた背筋を伸ばしてしまう。は、ははは、き、気のせいですよね、後ろから遠坂の声が聞こえたなんて、しかも俺の姿を見て途中で言葉を失ってしまうなんて。……泣きそうだ。
「……と、とおさか、さ、ん?」
 恐る恐る振り向いた俺の視界に、空のグラスと空き瓶を手に能面のように無表情な悪魔の姿が。あー、洗い物を台所に持って行く途中なのか、夜も遅いから足音立てずに動いてたんだなとかちょっとだけ現実逃避して考えてみた。お互い見つめあう数瞬。
「……ブ」
 グラスを持った手で口を押さえ、そのまま何事も無かったかのように遠坂は俺を無視して歩き出した。つか今噴出したよな、おまえ!
 呆然とする俺を尻目にそのまま廊下を曲がる。すたすたという足音が止まり、がちゃりと扉を開けてからばたん、と閉める音。そして再び歩き出す足音。……トイレの中確認されたし!
 気がついたら、しばし燃え尽きていた俺の元に、台所に行っていたであろう遠坂が戻ってきていた。その手には何故かバケツと雑巾が。呆としていた俺の足元にそれらを置くと、
「どうもアルコール入ってるせいか変な夢を見るかも知れないわね、今夜。例えば衛宮さんがトイレで粗相をするような」
 どこか猫を思わせる笑みでそんなことを仰いました。
「ぐ、む」
「……ま、その情けない姿を見たら笑う気も起きないわ。乙女の情けよ、さっさと片しなさい」
 そしてやや頬を染めて早口に、
「ま、まあ、何となくそうなった理由も想像つくし」
 そのまま、遠坂は俺の後ろを通り過ぎて離れの方へと歩き出した。
「遠坂……」
 俺はその背に声を掛ける。
「おやすみ、遠坂」
 それに対し振り向かずにひらひらと手を振って、
「ええ、おやすみ、志保。さっさと寝なさい」
そしてそのまま廊下を進んで、遠坂は俺の視界から消えてしまった。
「……さて、それじゃ片付けますか」
 とりあえず明日の朝は洋食にしよう。とびっきりの紅茶をお供に。そして俺は情けない格好を何とかするために動き出した。




・チラシの裏
 元々は2008 12/18 のブログに投下したもの。シモな下品ネタ。こんな事を書くからエロい人扱いされたのだろうか。だが後悔はしていない。


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