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夏も終わりに近付き、ひんやりとした夜風が肌を撫でて行く、ある、雨上がりの晩のことで
あった。 もう夜の闇もだいぶ深くなり、どこからともなく梟の鳴き声が繁く耳に響いていた。 その路地は、細く入り組んでおり、歩き慣れていない者は、その複雑な地理に加え、狭い路地にひしめき合う人の群れに流され、道に迷わず目的地に辿り着くこ とのできる確率はきわめて低い。薄暗い路地を、道端に並ぶ様々な店の灯すランプの、様々な色彩が照らし 出す。そこを歩く者たちは、皆黒装束に身を包み、中 には仮面を着けて顔を隠す者も少なくない。それは、異様とも言える、この界隈 独特の雰囲気だった。 その路地の奥に、無意識に歩いていれば見落としてしまうような、小さな、古びた看板を出す"Cafe Bar"があった。 その店の入り口は、地下に続く暗い階段を降りて行く形になっており、初めて訪れる者は、少し入るのを躊躇うような、この怪しげな 袋小路のなか で、更に陰気な空気を醸していた。しかし、その暗くて長い階段を下って行くと、店の中は存外に落ち着いたごく普通の バーであった。入り口の陰気さは、この店が随分昔にできて以来、全く手を加えられる事なく現在に至っているこの店の古い歴史を 物語っているのだった。店内は、広いとまではいかないが、あの狭い袋小路の地下にしては、それなりの面積があり、客も途切れる ことなく、落ち着いた賑わいを呈していた。何人かの仲間と酒を飲みながら語っている者、何か難しい顔をして一人で考え込んでいる 者、店主と他愛のない世間話に興じている者など、様々であった。 その店の一角、年季を感じさせる、古めかしい丸木柱の陰に隠れた小さな席に、セブルス・スネイプは座っていた。 スネイプは、古くから、この店の馴染みであった。馴染み・・・と言っても、孤独を好むこの男のことなので、取り立てて店主や他の 常連客と親しくするわけではなかったが、夏季休暇などで仕事が休みの折、自分の空間を他人に侵されることなく酒を飲める数少ない場所が、この店だったのである。 しかし、この日は、珍しく、スネイプと向かい合って座る者が居た。しかもそれは、どう見てもまだ16、7の少女である。顔立ちや 仕草にまだ多分に幼さの残る、およそ、このような真夜中の路地裏の酒場には相応しくないその少女、そしてそれに向かい合っている、 陰気で不機嫌そうな黒ずくめの男に、周囲の視線は遠巻きに、しかし途切れる事なく、注がれた。このような状況を、スネイプが快く 思うはずはなく、時折、視線の方向へギロリと鋭い睨みをくれてやるが、それもほとんど効果を為さないほど、この二人に、周囲の客 たちの関心や好奇心が、静かに寄せられていた。 「・・・・・目立っているな」 小さく溜め息を吐いて、スネイプが呟いた。 半ばうんざりしたようなその視線は、小さなテーブルを挟んで座り、じっとこちらを見つめている少女に注がれる。 「そうなんですか?」 少女は、周囲の視線に全く気付いていないかのような、きょとんとした表情でスネイプに訊き返した。そのぱっちりと見開かれた瞳は、 周囲の空気を鬱陶しいものとしか感じていないスネイプとは対象的に、むしろ好奇心と楽しさが入り交じった輝きを持っていた。このような、酒を出す店――しかも、明らかにアンダーグラウンドな空気に包まれている、真夜中の怪し気な路地の――などにはもちろん 足を踏み入れた事などないであろうこの少女には、その好奇心を駆り立てられるに十分な状況に置かれていたのである。 その上、一緒に居るのは、セブルス・スネイプなのだ。学校では、厳しくて陰険で融通の効かない【最も恐ろしい教師】で通っている スネイプの、このような学校外でのプライベートな行動に、それも“酒場”という、学校とはかけ離れた場所で、自分が同行していると いうことは、大いに愉しむべき一大事なのである。 少なくとも、このスネイプに一通りならぬ想いを抱いている、にとっては――。 「・・・・・・・鈍感とは、幸せなものだ。」 スネイプは再び溜め息を吐き、諦めにも似た表情で、呆れたようにそう言うと、テーブルの傍を通りかかった給仕の女を呼び止めた。 40代半ばほどの、気の良さそうなその女性店員は、呼び止められて立ち止まると、やはり一瞬、の方へ視線を向けた。しかし、 この店でもう何年も働いている彼女は、スネイプがそのような事を詮索されるのを殊更に嫌う、ということもよく心得ているのであろう、 特に何も尋ねることなく、「なんでしょう、」と、スネイプの方へ向き直った。 しかし、スネイプは彼女のその心情を読み取ったかのように、口許に微笑を刷いて言った。 「何だ、妙な気を回さなくとも良い。我輩が女連れで来たのが、余程珍しいと見える。」 「いえ、そんな――」 「先程から、厭という程、鬱陶しい視線を浴びている。・・・奴等にも、そのような遠慮というものを少し分けてやりたい。」 「・・・敵いませんねえ、先生には・・・」 「――ウォッカを一つと・・・これにも何か持って来てやってくれ。まあ、見ての通り、酒が飲める齢ではないがな。」 「はい、かしこまりました」 かなり気心の知れていることが窺えるやりとりの後、店員の女はカウンターの奥へ戻り、店主に二言三言告げ、笑い合っていた。 その様子を黙ってじっと見ていたは、改めて、自分の知らないスネイプを見た気がして、嬉しいような、どことなく複雑な気分に させられた。学校で見るスネイプと言えば、常に眉間に皺を寄せ、自寮以外の寮からは、隙あらば減点してやろうと目を光らせ、陰気 な地下牢教室で、難解な魔法薬学の授業を淡々と行う近寄り難い教師――という姿だけである。このような、飲み屋の女店員と気安く 談笑する姿など、誰が想像できるだろうか。 「――さて、ここまでついて来たのだから、それなりに相手をしてもらわねば、来た甲斐がないというものだが・・・・」 「えっ・・・・・相手?」 何やら考え込んでいる様子のに、スネイプは不意に、これまでのうんざりした表情から一変して、どこか愉しそうな微笑を浮かべて 言った。突然「相手」と言われても、そういえば、何を話せば良いのだろう・・・と、今更ながらは気付いた。スネイプとは、日頃、 とりわけ親しくしているという訳でもなく、一寮生と寮監である。がスネイプへ寄せる想いは、彼女の胸の中だけに秘めたものであり、それを伝えたことなど一度もなかった。このように二人きりで、至近距離で向かい合って話をすることは、実は初めてであった。 そもそも、事の始まりは、1時間程前、ダイアゴン横町で起きた偶然だった。その日たまたま、友人と遊んでいて帰りが遅くなった が、夜更け近くのダイアゴン横町を、家へと急いでいた時だった。通りの向こうに、見覚えのある黒いローブが翻るのを、は確かに 見た。いつも目で追っているローブである。見間違えるはずはない。帰り道とは逆の方向であることなど忘れて、は、反射的に その背中を追った。足の速いスネイプを見失わないように、けれど見つからないように、必死で後を追った。後を尾けてどうするのか、 など、その時に考える余裕はなかった。ただひたすら、大好きな人の姿を追っていた。――そして、気が付いた時には、思わず ぞっとするような、そこがどこかもには分からないような、怪しげな路地に辿り着いたのだ。けれど、ここで引き返すわけにはいか ない。更にスネイプの向かう方へついて歩いたところ、最終的に到着したのが、この酒場だった。 全く足を踏み入れた事のない空間に、流石にうろたえたは、一瞬の隙に、スネイプの姿を見失ってしまった。いよいよどうしようも なくなり、心細げにしているを、今度は逆にスネイプが見つけて、とりあえず一緒の席に座らせたのだった。 「我輩の後を尾けて来たからには・・・何か目的があったのであろう?」 「――気付いてたんですか?!」 「当たり前だ。・・・撒こうとしたが、あんまりしつこいので、途中から放っておくことにした。」 「・・・すみません。」 「ここまで来ておいて今更だな。――それで、何故、我輩の後を追った?」 いきなり核心を突かれては言葉に窮した。雑踏の中にスネイプの背中を見つけて、思わず駆け出したはいいが、こうして面と向かっ て「先生の事がずっと好きだったんです」などと言える勇気があるはずもなく、この場をどう切り抜けたら良いものか、は必死に頭を巡らせた。しかし一向に名案など浮かばず、加えて、薄暗いオレンジ色の店内、客たちの静かなざわめき――初めて触れる夜の空間に、は何か目眩のような、くらくらする感覚を覚えた。 そして、やっと、が何か言おうと口を開きかけるのと同時に、先程の女店員が飲み物を運んで来た。 「お待ちどうさま。ほんの少ーし、アルコールが入ってるけど、大丈夫かしら?」 店員は、の目の前にグラスを置き、にっこりと笑って言った。は酒を飲んだことは一度もなかったが、とりあえずコクコクと頷い た。グラスに注がれた飲み物は、薄いピンク色で、キラキラと輝いていた。幻想的で、けれど可愛らしい、初めて見るその飲み物に、 は小さく感嘆の溜め息を漏らした。 何か言葉を交わしているスネイプと女店員を上目遣いに見ながら、はそっと、グラスを口に運んだ。ゆっくりと口の中に流れ込んで きたその液体は、甘く、けれどすっきりしていて、予想以上にの口に合っていた。そして白桃の良い香りに混ざって、どこか、フワ フワするような、心地良さを感じた。は、何だか嬉しくなって、もう一口、もう一口、と、立て続けにカクテルを口へ運んだ。 店員が立ち去って、ふと、の方へ視線を戻したスネイプは、既に半分減っている彼女のグラスを見て、一瞬目を見開いたが、すぐに 愉しそうな表情に変わり、その口許にはまた、微笑が刷かれた。先程と比べて明らかに表情が和らぎ、瞳をやや潤ませている を、真っ直ぐ見つめると、スネイプは再び、同じ質問を繰り返した。 「――、何故、我輩の後を追った?」 「・・・私は・・・・先生の事が、ずっと好きで――――あれ・・・?」 あれほど自分の胸の裡だけに秘めていた想いを、いともあっさりと口にしてしまったことに、言った後では自分で疑問を感じた。 けれど何故か、「まあ、いっか」という思いがその疑問を消し去った。は不思議だった。自分の言葉なのに、自分ではないような、 まるで自分が二人居るような――。“酒に酔う”という感覚を知らないは、その普段感じるものとは何かが違う楽しさに、首を傾げ つつも満足そうであった。 「よし、いいだろう。」 「え?」 「――出るぞ。」 スネイプは、にやりと笑うと、おもむろに席を立った。 「先生、まだお酒残ってますよ・・・・?」 「構わん。此処よりもっと、愉しい所へ、連れて行ってやる。」 「?」 スネイプは、不思議そうな顔で自分を見上げるの腕を引っぱり上げるようにして、立たせると、そのまま手を引いて店の出口へと 歩いて行った。は、事態は良く呑み込めないものの、なぜか今、スネイプと手を繋いでいるということへの嬉しさで、これから自 分はどこへ連れて行かれ、どのような出来事が待ち受けているのかなど、考える隙など全くなかった。 ――相手の考えていることを、こともなげに読み取り、尾行されても即座に察知するスネイプが、普段からの気持ちに気付いて いない筈がない。その上で、のついてくるに任せ、その理由を彼女の口から言わせようとした・・・。その事が、何を意味するの か、が理解するのは、それから数時間後のこと。 (2004.9.24)
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