春の終わり 煙る雨 ふりほどいた、手 痛みは、今もなお、胸に残る 嫌な天気だった。 朝から空はどんよりと灰色に曇っていて、落ちて来る最初の雫に気付いたその次の瞬間には、 もうザアザアと音を立てて、雨は降り注いでいた。 生温い空気のなか、水は意外に冷たくて、心地いいような、泣きたいような、 不思議な気持ちになった。 淡々と降り続ける雨は少しずつ勢いを増す。 それを受け止めるように、私は、手の平と顔を空に向けた。閉じた瞼や、頬を打つ雨は、 まるで私めがけて落ちて来ている様に思えた。 ふっ、と、突然、雨が止んで、暖かい空気を感じた。 けれど、まだ雨の音は止まない。 奇妙に思って目を開けると、私は傘のなかに居た。 「お前の家では、雨が降ったときに傘をさす習慣がないのか?」 傘を持って、真後ろに立って居たのは、先生だった。 聞き慣れた、表情のないその声を聞いて振り向くと、先生は不機嫌そうな顔で私を見下ろす。 こんな、校庭の隅まで歩いてきたせいで、先生の長いローブの裾は随分濡れていた。 「先生、ローブ……」 足下に目をやり、そう呟くと、「人のローブの心配より自分の姿を見てみろ」と言われた。 「…戻るぞ。」 先生が、短くそう言って校舎の方へと促した。先生の喋り方は、有無を言わせない。 私は黙って歩き始めた。 もう、制服もすっかり水を吸ってびしょ濡れの状態なのだから、今さら傘をさしても意味がない ような気がしたけれど、先生がせっかくさしてくれた傘から出ないように、そして先生の体に 触れて先生を濡らしてしまわないように気をつけながら、歩いた。 「何故、あのような所に突っ立っていた。」 雨の音に混じって、先生の声が降って来る。 「この雨のなか、どこの馬鹿かと思えば……」 「急に降ってきたから、傘持ってなかったんです。」 「ならば走って戻るだろう、普通は。」 先生は、この雨と同じように、淡々と喋った。苛立ちを含んだ、低い声で、前を向いたまま。 そして私も前を向いて、黙って歩き続けた。先生も、それ以上何も言わなかった。 聞こえて来るのは、雨の音だけ。ザアザアという音に包まれて、一つの傘の下、無言で歩く二人は、 傍から見たらさぞ奇妙なことだろう。 「……思い出してたんです。」 「……何を。」 さっきの問いの返事だと、先生は一瞬分からなかったようで、少し間を開けて、聞き返した。 「昔のこと。」 「………」 「ちょうど、季節は今頃で、こんな雨の日に、出かけたんです。父と。」 幼い頃の記憶は、ほとんど、ない。単に記憶力が悪いのか、それとも、思い出したくなくて、 無理矢理しまい込んだのか……。 父とは、あまり親しくなかった。普段から、あまり家に居ることの多くない人だった。 たまに居ても、話をしたりだとか、遊んでもらったりだとか、そういう親子らしいことを した覚えが全くなかった。嫌っていたわけではなかったが、好きでもなかった。 つまり、お互いに、関心がほとんどない……という状態だった。 私が何歳の時だったか忘れたが、ある日、なぜか父と二人で外出した。雨のなか、父のさした 傘の下に私も入って。並んだまま、二人とも何も喋らず、ただただ歩いていた。 と、不意に、父が、傘を持っていない方の手で、私の手を握った。私は驚いて、父の顔を見上げた。 父は何も言わず、表情も変えず、歩き続けていた。 私は、その状況に動揺した。父親と手を繋いで歩く―――幼い子どもにしてみれば、至極普通の、 何ら不自然はない無い日常だっただろう。けれど、私と父は違った。 始めて触れた父の掌は、大きくて、温かくて、私の全く知らないものだった。 私は、どうしたらいいのか分からなかった。胸の方に何かが込み上げてきて、涙が出そうになった。 それがどうしてなのか、幼い私には分かる筈もなく。 私は、父のその手を、振りほどいた。 私は、心臓がドキドキしていた。父の顔を見上げることが、できなかった。 そのまま、私も、父も、目を合わせることもなく、声を発することもなく、雨のなかを家路についた。 ほどかれた手は、二度と再び繋がれることはなかった。 それから数カ月後、父は、死んだ。 病気だった。もうずっと前から、助からないと分かっていたのだと、何年か後に聞かされた。 今でも、雨が降る度、その日のことを思い出す。 あの時、私が手を振りほどいた、あの時、父は何を思っただろう。幼い娘の残酷な仕打ちを、 どんな気持ちで受け止めたのだろう――― 「………」 私がそこまで話したとき、先生は足を止めた。 そのまま、黙っているので、私は振り向いて先生の顔を見た。 「……どうしたんですか?」 先生は黙って私を見下ろしていたが、次の瞬間、私の体を抱き締めた。 「先生…!服、濡れちゃいます…っ」 私の言葉を無視して、先生は、抱き締める腕に力を込めた。 「……先生」 「………」 先生は、何も言わなかった。黙って、私を抱き締めていた。視界の端で、傘が、地面に落ちた。 「………」 先生が小さく、私の名前を呼んだ。その声が、胸に響いた。 どこか温かくて、冷えた体が、ふわりと溶けるような錯覚を覚えた。 そして何故か、無性に悲しくなって、気がつくと、私は泣いていた。 まだ雨の降る校庭で、先生の腕の中、雨と涙で頬を濡らして、私は泣いていた。 (2004.4)
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