第一話:嵐の夜の邂逅


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風雨が激しく吹き荒れる夜だった。空には月もなく、ただひたすら、底知れぬ暗闇に覆われている。雨はとめどなく降り、風は容赦なく吹きつける。まるで猛り狂う魔物の饗宴がそこに行われているかのような、そんな夜だった。
まだ夜中と言うには早い時間だったが、路地に人の姿は全く見えない。家々の窓は厚いカーテンで閉ざされ、その隙間から灯りが細く漏れているのが見える。皆、息をひそめて魔物が通り過ぎるのを待っているかのようである。
その夜の嵐は、何処か不吉な予感をもたらした。

一人の男が、薄暗い路地を歩いていた。傘はささず、そのかわり外套をきつく体に巻き付け、下を向き、吹き荒ぶ風雨に抗いながら歩みを進める。その顔は、異様なほど青白く、漆黒の瞳は底なしの闇のようであり、伸ばされた黒髪が顔の大部分を隠している。そして全体に、この上なく陰惨な影を落としていた。それは決して嵐のせいではなく、この男の生きてきた人生における「業」のようなものが、深く刻まれたことによってできた影だった。そしてそのような容貌に加え、上下黒の衣装に、黒の外套。それはまるでこの嵐の夜に遣わされた死神のようにも見えた。
セブルス・スネイプ───それが、この男の名である。

スネイプは、正面から吹きつけてくる風雨に、陰鬱な顔を更に歪めながら、淡々と歩き続けた。目的地はそう遠くはない。この暗い路地の奥にある一軒の酒場である。嵐の夜に、この死神のような黒ずくめの男が足を踏み入れるに相応しい、その酒場は闇に紛れるようにひっそりと佇んでいた。

古びた重い木製の扉を押し、店の中へと入ると、流石にこの嵐とあって、狭い店の中に客はまばらだ。一番奥のテーブルに壁を背にして一人で座っている、ぼろ布のような衣服を纏った男は、綻びたつばの広い帽子を目深に被り、酒のグラスを片手に、どこか一点を見つめたまま何か口の中でぼそぼそと呟いている。二つ隣のテーブルには、老人が二人向かい合って座り、暗い表情で何か話し合っている。時折、一人の老人が大袈裟な身振りでしわがれた声を張り上げる。何かに憤っているのだろうか、目も鼻も口も深い皺の中に埋まってしまったその顔で、必死に目玉を向いて喉の奥深くから絞り出すように怒鳴る様はどこか狂気じみたものを感じさせた。そして入り口近くの席には、大振りな羽飾りと豪奢な石のあつらえられた黒い帽子を被った紳士が一人、テキーラのロックが入ったグラスを弄りながら分厚い本に目を落としている。 その他に、客は居なかった。

スネイプはなるべくどの客からも離れた──といっても狭い店内であるため、テーブル一つ程度隔てたところで大した距離ではないのだが──小さなテーブルを選び、濡れた服に構うこともなく椅子に腰を下ろした。
古びたランプがいくつか無造作にぶら下がっているだけの店内は薄暗い。店も、客も、そしてこの夜は天候も手伝って、言い様のない不気味さと陰鬱な空気が店全体に広がっていた。そして、この空間に全く溶け込んで存在感すらも消えそうな、青白い顔の痩せこけたこの店の店主が、重々しい足取りでスネイプの席へ近付いて来た。スネイプは店主に視線を向ける事も表情を変える事もせず、ただ「酒」とだけ吐いて捨てるように言うと、それきり押し黙り、眉間の皺を深くして何か考え込むように腕組みをしたなり、動かなかった。

激しい雷雨の音を遠くのもののように聞きながら、店内は、まるで時間が止まっているかのようだった。幾人かの客の話し声さえも、この、外界と切り離された薄暗い店の空気に溶けていった。誰一人、席を立つことはおろか動こうともしない。そのまま、何時間とも思える時間が、緩やかに、過ぎていった。

にわかに、店の扉が開いた。店内に居たもの達はちらりと扉の方へ目を向けた。その視線は、すぐに逸らされる筈だった。しかし、それまで周囲のことなど全く興味のない様子だった彼らが、今、扉を開け、入って来た一人の客の姿から、視線を逸らす事が出来なかった。吹き溜まりに突如どこからともなく風が吹いてきたかのように、それまでの停滞した空間が、新たに現れたこの一人の者によって均衡を崩されたのである。それ程、その客は、この店に不似合いな客だった。

その客──女──は、黒いビロードの外套に身を包んでいた。女が、一人で、こんな場所へ、しかもこの嵐の夜に、それだけで好奇の視線を一身に受けるには十分すぎる条件が揃っていた。更にその容貌はというと、華奢な身体つきで、抜けるほど白い肌に、形の良い紅い唇。そしてフードの脇から細く垂れているプラチナブロンドの髪……目はフードの陰になっていたが、覗いているる部分だけでも、彼女がかなり整った容姿であることは窺い知れた。

纏わリ付く視線をさして気に止める風でもなく、女は空いている席に座った。注文を取りに来た陰気な店主と二、三言交わし、店主が奥へ引っ込むと、ほっとしたような溜め息を一つ吐いた。何故かフードを脱がないままだったので、誰も彼女の顔を見ることはできず、他の客達はやや白けたような表情で、けれど深追いしようとする事もなく、再び各々の世界へと戻っていった。
スネイプはというと、女が店に入って来た時、ちらりと一瞥をくれただけで、特に彼女に対して関心は持たなかった。けれど、やはりこのような場所にこの嵐の中、一人でやって来るとは、妙な女だ、と微かな違和感が胸に残っていた。

そして、店内にまた元の静寂が戻るかに思われた。しかし、店の奥に陣取っていた、ぼろを纏った男が徐に立ち上がった。そして店主の居るカウンターに乱暴に金貨を何枚か放ると、つばの広い帽子を更に深く被り直し、まだ一向に風雨が止む気配のない外の路地へと、重い扉を開け、足早に去って行った。

男が店を出てから数分も立たぬうちに、立ち上がったのはスネイプだった。まだ半分ほど中身の残ったグラスをそのままに、テーブルに金貨を置くと、一言も発せず表情も変えぬまま、しかし先程の男と同じように、急ぎ足で店を後にした。
入り口近くの席に座る紳士は、黒い羽飾りの付いた大きな帽子のつばの下から、その様子を黙って覗いていた。その、品の良い銀色の髭がたくわえられた口許に、微かな笑みが浮かんだ事には、誰一人気付く者は居なかった。

雨も風もだんだんと強くなり、雷鳴も轟き始め、付近の建物から漏れる明りもなくなった細い路地を、衣服とも言えないようなくたびれたぼろ布を纏い、その布と同じく穴だらけで綻びだらけの帽子を被った男は、何かに追われる者のように、必死で走っていた。時折後ろを振り返りながら、何処を目指しているというのでもなく、兎に角追って来る者から逃げる事のみに集中して、嵐の中を疾走していた。
けれど───とある曲り角を曲がった瞬間、目の前に何者かが立ちはだかった。男は行く手を阻んだ者の顔を見るなり、恐怖に顔を歪め、叫び声を上げながら元来た道へ引き返そうとした。しかし、焦って振り返った為、ぬかるんだ路面に足をとられ、その場に倒れた。頭の先から足の先まで黒ずくめの男は、冷酷な表情でその男の不様な姿を見下ろした。

「た、頼む、殺さないでくれ……!!」

尻もちをついたまま後ずさりしながら、男は恐怖に震える声を必死に絞り出して懇願した。抵抗しようなどという気は皆無のようだ。そんな男を無表情で見下ろし、その必死の訴えに耳を貸す気配も見せず、死神のようなその黒い男は懐から杖を取り出し、相手に向かって構えた。

「み、見逃してくれ!スネイプ!!俺を殺したって、何の意味も────」

雨は依然、強く降り注ぐ。稲妻を背に、スネイプの顔が青白く浮かび上がった。そこには、何の表情も見てとれなかったが、足元の男はその向こうに見える確実な死に対する恐怖で、目玉を剥き、口元は歪み、人間とは思えないような恐ろしい形相になっていた。

「───セクタムセンプラ!」

スネイプは、全く躊躇することなく、男の心臓に向けた杖を微塵も逸らす事なく、呪文を唱えた。───瞬間、男の顔も身体も刹那のうちに切り裂かれ、そこらじゅうに鮮血が飛び散った。断末魔の叫びを発する間もなく、身体中を膾切りにされて男は倒れた。
スネイプは返り血を浴び、微かに鬱陶し気に眉を顰めたが、やはり表情を変えることはなく、男に近寄ってその死を確かめると、ゆっくりと杖を下ろした。そして、踵を返してその場を去ろうとした、その時だった。

「?!」

スネイプは、背後に人の気配を感じた。先程までは確かに男とスネイプの他には誰も居なかった筈である。
(見られた!)
スネイプの胸の裡を激しい悔恨の念が襲った。背後に立つ人物が、何者であるか全く見当が付かない。間違っても“仲間”である筈はない。とすれば、無関係の市井の者か。けれど、見られてしまったからには、何者であろうと────

スネイプは、ゆっくりと、振り向いた。そこに、立って居たのは、

「───先程の……」

驚きのあまり思わずそう口に出し、それ以降、言葉が続かなかった。
そこに立っていたのは、酒場で見た、あの女だったのである。しかも、あの時被っていたマントのフードを今は外し、その顔と、見事なプラチナブロンドが露になって、激しい雨に打たれている。そしてその顔を見れば、女と呼ぶには未だ過分に幼さの残る、二十歳にも満たないような、少女であった。

スネイプと少女の瞳が、ゆっくりと、音もなく、ぶつかる。少女は、スネイプと同じ、漆黒の瞳だった。無言のまま、お互い微動だにしないまま、ただ雨だけが降り注ぐ。足下に見る見る拡がって、そして流されて行く血だまり。スネイプは、何故か、杖を振り上げる事ができずに立ち尽くしたままだった。まるで、少女の瞳から目に見えぬ矢で射られたかのように。顔を見た事もない、全く見ず知らずの少女の、何が己をそうさせるのか、スネイプは判らなかった。ただ、このままではいけない、何とかしなければ───殺さなければ!……焦燥感に襲われながらも、依然杖を下ろしたままのスネイプを、少女もまた、動く事なく、表情を変える事もなく、じっと見つめていた。

雷鳴が響き、弱まる事を知らぬ雨が強く打ち付ける闇夜の下、二人の時間は、いつまでも、動く事はなかった。


(2006.6.6)






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