狂想曲


頬を刺すような風が吹きつけ、鉛色の空からは今にも冷たい雨が落ちようとしている秋の日の夕刻、小走りに路地を抜けて行く若い女の姿があった。彼女はとても急いでいる様子で、防寒のため首に巻いていたショールがくずれて肩から落ちそうになるのを、直そうともせず片手で押さえながらまばらな通行人の間をすり抜けるように足早に通り過ぎて行った。

────ああ、もう、どうして私がこんなに急がなきゃならないの…!!
は眉間に皺を寄せて、心の中で激しく呟いた。

とある古書店で働く彼女は、半刻ほど前、一通の梟便によって突然呼び出された。しかも急ぎの用だという。今日は店も暇だからもう上がって構わない、という店主の心遣いが、有り難いけれど嬉しくはなかった。いっそ仕事を抜けることが叶わず、呼び出しに応じられないと返信の梟を飛ばすことができたならどんなに良かっただろう。
急ぎの用、といいながらどうせ碌な用事ではないのだ────いや、用事と言える用事などないのだ。を呼び出したその手紙の主の単なる気紛れであることを彼女は知っている。こんな事は、これが初めてではなかったから。
その横暴には心中で舌打ちをし、また、いつもそれに逆らうことのできない自分にこそ一番苛立ちを感じ、複雑な感情で胸をいっぱいにしながら、依然、歩む速度を緩めることはなかった。



バン、と勢いよくドアを開けると、待っていた、という表情で豪奢な椅子にゆったりと掛け、微笑を浮かべている男をは睨み付けて言った。

「今日は、何のご用、ですか……?」

強い風の吹く中を急いでやって来たため、後ろで一つにまとめた髪は崩れかかり、ショールも肩からずり落ち、呼吸を弾ませながらそこに立っているを見遣ると、男は思わず苦笑した。

「何が、可笑しいんですか」

は不愉快さを満面に湛えてなおいっそう、男を睨み付けた。

「ひどい格好だな」

男は椅子から立ち上がってそう言いながら、の方へと歩いて来た。

「貴方が急げと仰ったから、急いで来たのです」

近付いて来る男から逃げたいという気持ちを表すかのように、は一瞬身体をこわばらせて言い返した。

「そんなに警戒しなくとも、取って食ったりしやしない」

男は形の整った唇から再び苦笑を洩らした。
は、ドアを背にして、追い詰められるような形になった。彼女より随分背の高い、そして威圧的な空気を全身から放っているこの男に目の前に立たれると、理由もなく即座に形勢が不利になったようで、悔しかった。しかし、怯んだ姿など見せてなるものかとばかりに精一杯の抵抗を込めた視線をぶつけながら、食って掛かるように言い放った。

「Mr.マルフォイ!用件を仰って下さい。わざわざ仕事を中断してここまで来たんです」

マルフォイ、と呼ばれたその男は、苛立ちを込めたのその言葉に僅かもたじろぐことはなく、面白そうに目の前に立つ反抗的な若い女の姿を見下ろした。

「────用、ね。……特にない、と言ったら?」

挑発するように口の端を上げてマルフォイが言った。
はかっと頭に血がのぼる思いがした。おおよそ、こんな事だろうと予想はしていたが、それでも腹立たしい思いを抑えることができない。いや、予想していたからこそ、のこのこやって来てしまった自分への情けなさに、余計腹が立つのだ。

「……用がないのでしたら、帰らせて頂きます」

感情が爆発しないように声を低く抑え、踵を返してドアノブに手をかけようとした、その時、片方の腕を強く引かれ、向き直らされた。

「っなに、するんですか!」

「冗談だ、怒るな」

マルフォイは微笑いながら軽い調子でそう言ったが、の腕を握る手には力が込められていて、振りほどくことができなかった。

「だったら、早く、用件を仰って下さい」

「……そんなに厭なら、手紙など無視すれば良いだろうに。毎回毎回────」

「無視したら、仕事場にまでやってきて無理矢理連れ出したのはどこのどなたですか?」

「さあ……記憶にないが」

「そうですか。なら構いませんけど、とにかく用がないのでしたら、本当に、帰、」

言い終わらないうちに、の唇は、マルフォイのそれによって塞がれた。は咄嗟に腕を振り上げようとしたが、強く抱き寄せられているため、抵抗できない。けれど、こんなこと、冗談じゃない、どうにかして、逃げ出さなければ……頭の中は言葉にならないその感情でいっぱいだった。

「……っ!」

マルフォイは、思わず、唇を離した。下唇から、鮮やかな血が滲み出た。

「……まさか、噛まれるとは思わなかった」

マルフォイは一瞬驚いたような表情をしたが、すぐにまた元の余裕を湛えた微笑に戻り、目を細めてを見下ろした。

「…っ、ふざけないで、下さい!こんなことの為に、呼んだんですか?!」

は怒りのあまり、目に涙を浮かべてマルフォイを睨み付け、叫ぶように抗議した。

「そうだ、と言ったら、今度はどうするんだ?」

「────っ!」

どこまでも人を馬鹿にしたこの男の言葉に、は声にならない怒りと嫌悪感を思いきりぶつけるかのようにマルフォイを突き飛ばすと、振り返ることもせず、荒々しくドアを開けて走り去った。
外に出ると、先程よりいっそう冷たくなった風が肌を突き刺す。情けなさと怒りで壊れそうになりながら、はもと来た路地をひたすら走った。溢れる涙を拭おうともせず、ただ、唇を必死でこすりながら、もう随分と暗くなった細い道を、死に物狂いで、駆けて行った。

そんなの姿を、部屋の窓から見下ろしながら、マルフォイは愉しそうに笑みを浮かべていた。唇に舌を這わすと、鉄臭い、血の味がする。いっそう満足げに目を細め、の姿が見えなくなってもなおしばらく、その場に立って外を眺めていた。



(2006.11.15)




【back】