今日は....今日こそは――― 何度も自分に言い聞かせながら、地下室へと続く階段を降りて行く。 真冬の、しかも夜の廊下は、凍えそうに冷たい。 しんと静まり返った冷たい闇に、私の足音がことさらに大きく響く。 目を閉じて歩いても辿り着けるくらい、行き先は、私にとって通い慣れた場所だった。 「....先生」 自分にも、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、呟いた。 「.......スネイプ先生」 ゆっくりと、口に出したその人の名は、白い息に溶けて、闇の中へ消えていった。 大きな扉の、その部屋の前で、私は足を止めた。 まるで入室を拒むためにそびえ立っているかのように見える、その扉。 どんな声が返ってくるのか、それとも何にも返ってこないのか..... 脈が、速くなっていくのが自分で分かる。 静かに深呼吸してみても、あまり意味はなかった。 3度目の深呼吸をして、息をゆっくり吐いてから、私は固く握り締めた右手で、 大きな扉をノックした。 「.....こんな時間に、何の用だ」 私の想像は裏切られ、返って来ると思っていた声よりも先に、 扉が開いて部屋の主が現れた。 「...あ、あの....」 咄嗟に頭の中が真っ白になって、思うように言葉が出て来ない。 ここに来るまで、何度もシミュレーションをしたはずなのに。 そんな不器用な自分が、どうしようもなく情けなかった。 「....まあ良い。入れ」 「え?」 溜息を一つ吐いた後、先生の口から出た言葉は意外なもので、 私は思わず訊き返した。 「用があるから来たのであろう?」 追い返されるのではないかと思っていた私は、更に降ってきた 先生の返事に、少し、泣きそうになった。 「――それで、話というのは何だ?」 先生が、視線を真っ直ぐ私に向けて、問いを投げかける。 テーブルを挟んで向かい合って座ると、必要以上のプレッシャーを感じる。 伝えたいことは、たくさんあるのに。 今、確かに、私の胸に、あるはずなのに。 なのに、伝えられない。上手く言葉に出来ない。 悲しくて、涙が零れた。 堪えようとしたけれど、どうしても、無理だった。 「....何が悲しくて、そのように、泣く?」 少し困惑したような先生の声に、私は、申し訳なくて、 自分が情けなくて、ますます悲しくなって、 もう、下を向いて頭を横に振るのが精一杯だった。 先生の、溜息が聞こえた。 ああ、最低だ。困らせる為に、来た訳じゃないのに。 もっと、大事なことを、伝えたくて来たのに――― 「......!」 突然、私の頭の上に、先生の手が置かれた。 その大きな掌は、私の頭を、優しく、撫でてくれた。 黙って、優しく、「大丈夫だ」と、云ってくれた。 ゆっくりと顔を上げると、先生と目が合った。 先生は、不器用に口の端を歪めて、でも、穏やかに微笑ってくれていた。 私は胸が一杯になった。 まだ、何一つ、伝えていないのに。 それなのに、不思議と、もうこれ以上望むものはないようにさえ、思えた。 「......スネイプ先生、」 「.....何だ」 「私.....先生が、」 ―――先生が、大好きです――― 「...先生が、微笑うと、安心します」 「......何だ、それは」 私の口から出た言葉が、あまりにも突拍子もないものだったので、 先生は、眉間に皺を寄せて「判らない」という顔をした。 「先生が微笑ってくれると、何だか、救われる気がするんです」 嘘ではない。 本当に、今も、先生は、優しいから。 「....まあ、何でも良いが....話はもう良いのか?」 先生が、溜息交じりに苦笑しながら私に訊く。 私は、いつの間にか涙は止まって、妙にすっきりした気分になっていた。 「はい、もういいんです。...先生、ありがとうございました」 それだけ言ってお辞儀をすると、足早に部屋を出た。 先生はまだ何か腑に落ちない顔をしていたけれど、声をかけられる前にと、 急いで扉を閉めた。 地下室の廊下を歩きながら、やっぱり寒くて冷たくて凍えそうだったけれど、 気持ちは何となく幸せだった。 「先生、大好き」 呟きは、また、白く消えていったけれど、それで良いと思った。 思いをはっきり伝えたら、先生はきっと困ってしまうから。 何よりも優しい先生の心に、影を差したりしたくないから。 「....大好き」 「....何だというのだ、一体」 彼女が慌ただしく閉めて行った扉を見つめながら、我輩は思わず独りごちた。 思い詰めた顔をして、やって来たかと思えば、 勝手に泣いて、勝手に泣き止んで....。 おまけに訳の分からないことを言って、「もういいんです」と部屋を出て行った。 けれど、その顔は、もう、泣いてはいなかった。 「分からぬ娘だ.....」 けれど、そのどうしようもなく不安定な子どもに翻弄されるのも事実。 お前が微笑うと安心して、どこか救われるような心持ちになるのは、 我輩の方なのかもしれぬな、――― (2004.2)
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